学習通信040326
◎「楽しさは充実した仕事生活を求める個人に必要……」
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本音で対談 多思彩々
視点
高失業率、就職難の時代に「仕事を楽しもう」とはのん気な呼び掛けに聞こえるかもしれない。しかし、楽しさは充実した仕事生活を求める個人に必要なだけでなく、企業や社会における働き方の指標≠ノなってもいいくらいの概念に思える。
仕事が楽しいと感じられる状態になるのはけっこう大変だ。
やらされる意識でする仕事は楽しくないから、まず能動的に取り組まねばならない。精神面や能力の余裕もいる。追いつめられてする仕事、できそうもない仕事を楽しむことも無理。ある程度心身を鍛え、技能を高める努力が必要になる。
そして良好な人関関係。上司や同僚、仕事でかかわる人との会話やつき合い、ささやかでも一緒に味わう達成感は楽しさの源泉の一つだろう。
仕事が楽しいと感じる人が多い組織、社会は生き生きとしているはずだ。その観点では、楽しさは組織の活力や健全性を測る目安にもなる。
対談で見えてきたのは、長い仕事生活を乗り切っていく知恵の大切さだった。正解がなく、目標や関心も変わることが多い。だから常に調整や修正が必要になる。楽しさはその燃料になるし、正解を求めすぎない程よい「いい加減さ」も持っていた方がよさそうだ。
大阪府立労働センターに昨年十二月開設された若者向けの仕事探し相談室を訪れた人の八割は「やりたいことが分からない」と訴えるという。「仕事や働き方に関する情報はあふれているのに、選び取る力が弱っている」。運営責任者の藤田智子さんはこう指摘する。
入り□で立ちすくまず面白がる精神で働くことの楽しさを見つけたい。関西の風土はその力をはぐくんでいるはずだ。(編集委員堀田昇吾)
(日経新聞 040325 夕刊)
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インタビュー
増える「リストラうつ病」
−―社会経済生産性本部メンタルヘルス研究所所長・小川晋さんに聞く
うつ病になったり自殺するのは、確かにその人の性格などと関係しているといえますが、最近の自殺者数の上昇をみると、それでは証明できません。その人の置かれている社会的経済的状況がそうさせているということがとりわけはっきりとしてきました。
若年層への影響が
中でも職場のストレスがうつ病や自殺の原因になっている場合が最も急上昇しています。ダウンサイジング(人員削減)の影響もあってか、中高年層の自殺が一九九九年から二〇〇〇年にかけて四七%も増えました。中高年へのプレッシャーの強さを反映しています。
臨床的な立場からいえば、とりわけ増えているのが「リストラうつ病」といわれるもので、三つのタイプがあります。一つは、自分もリストラの対象になるのではないか、という不安を抱える人たちです。二つは、実際に職場を追い出されて精神的に追いつめられている人たちです。そして最も多いのが、いわゆる「リストラ燃え尽き型」といわれる人たちです。
たとえば五人で仕事をしていたのが、リストラで三人に減らされる。しかし、実際には仕事量は減っているわけではないので、仕事がこなせない。「一人増やしてくれ」と申し出たいが、「そのくらいの仕事量がこなせないのか」といわれるのが怖くて何もいえない。「自分は能力がないのか」と思うようになり、落ち込んでしまう。
仕事熱心な人ほどそう思いがちです。自己否定し、生きていてもしようがないと、うつ病になったり、自殺する。これがリストラ燃え尽き型といわれるものです。
メンタルヘルス研究所のその後の調査でわかったことは、若年層へのリストラの影響です。
若年層にとって中高年の存在が重荷になっているから、中高年をリストラで追い出せば今以上にやる気を出すだろうと思われていました。
しかし、調査の結果、逆に精神健康度を低下させ、新しいことにチャレンジする気力を失わせています。若年層にはきまじめ人間といったうつ病になりやすいタイプの人の比率がむしろ減っているのに、仰うつ度は減っていません。これをどう打開して「やる気」をもたせるか、今後問題にしていくべき重要な報告結果が出ています。
個人だけでなく組織の健康も
ストレスは生物にとって必要ですが、度を超えると病みます。人間の集団であることを忘れ、あたかも家畜や機械を扱うようなやり方の「成果主義」の強調やダウンサイジングをおこなえば、結局、特定の個人だけでなく、組織自体の健康も成り立たなくなります。それでは生産性や組織効率も長い目で見ると達成されません。
仕事は苦しくとも、そこに未来が見えないといけません。希望は一握りのエリート層だけでなく、従業員全員が抱けるものでなければならない。その意味でメンタルヘルスのとりくみは人間回復運動といえます。
(おだ すすむ・筑波大学名誉教授、帝塚山学院大学教授。社会精神病理学、犯罪学)
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労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。
彼は、自然素材を自分白身の生活のために使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。
人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる。
彼は、自分自身の自然のうちに眠っている潜勢諸力を発展させ、その諸刃の働きを自分自身の統御に服させる。
われわれはここでは、労働の公利の動物的、本能的な諸形態を問題としない。
労働者が自分白身の労働力の売り手として商品市場に現われるような状態にとっては、人間の労働がその最初の本能的形態をまだ脱していなかった状態は、太古的背景に遠ざけられている。われわれが想定するのは人間にのみ属している形態の労働である。
クモは織布者の作業に似た作業を行なうし、ミツバチはその蝋の小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし、もっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室を蝋で建築する以前に自分の頭のなかでそれを建築しているということである。
労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。
同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的──彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的──を実現する。そして、この従属は決して一時的な行為ではない。
労働の全期間にわたって、労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が必要とされる。
しかも、この意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、それゆえ労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。
(マルクス著「資本論A」新日本新書 p304-305)
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ところで、現実におけるあらゆる労働かこのような諸条件をそなえた人間における「正常な生産活動」としておこなわれうるわけではないことは、今日の資本主義のもとで、大多数の労働者が従事している日々の労働をみても明らかであろう。
それは多かれ少なかれ、それ自身が喜びとなりうる物質的条件を欠いた一種の苦役となり、自己の生活を維持するために好むと好まざるとにかかわりなくわこなわざるをえない、たんなる生産手段にすぎないものとなっている。
そこでは、人々は「労役の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働のなかでは自己の外にあると感ずる。労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。……そのために労働はある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段にすぎない」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫九一ー九二ページ)。
したがって、人々は人間の本質的な生産活動としての労働を自分の生命発現としての「生命の過程」そのものとみることはできない。むしろその労働は彼の自由と幸福と安らぎの犠牲でしかなく、真の生活は「彼にとっては、この活動が終ったときに、食卓で、飯食店の腰掛けで、寝床で、はじまる」。
周知のように、マルクスは、私的所有のもとにおいて、富と生産手段の非所有者が、なんらかの事情に強制されてこれらのものの排他的所有者のためにおこなう労働を「疎外された労働」というが、この疎外された労働こそが、働くものにとって喜びとなる条件を欠いた、たんなる生活上のやむをえざる一手段へと転化された一面的な労働であり、それゆえにこそ、そこでは自由と幸福は労働そのもののうちにはなくて、なんらかのたんなる精神的な活動をもふくめた労働外のものとしての「非労働」のなかにあるかのように現象せざるをえないのである。
(鰺坂真ほか著「人間とはなにか」青木書店 p173-174)
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では、労働の外化は、実質的にはどこにあるのか。
第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃(たいはい)化する、ということにある。
だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働のなかでは自己の外にあると感ずる。
労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。
だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である。
そのため労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段であるにすぎない。
労働の疎遠性は、物資上またはその他の強制がなにも存在しなくなるやいなや、労働がペストのように忌みきらわれるということに、はっきりと現われてくる。
外的な労働、人間がそのなかで自己を外化する労働は、自己犠牲の、出口を苦しめる労働である。最後に、労働者にとっての労働の外在性は、労働が彼自身のものではなくて他人のものであること、それが彼に属していないこと、彼が労働において自己自身にではなく他人に従属するということに現われる。
宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、すなわち疎遠な、神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、労働者の活動は、彼の自己活動ではないのである。
労働者の活動は他人に属しており、それは労働者自身の喪失なのである。
(マルクス著「経済学・哲学草稿」岩波文庫 p91-92)
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◎労働とはなにか。喜びであり楽しさでなければならないが…….
京都学習新聞≠mO.238 今月の学習 職場のメンタルヘルス を学んでください。