学習通信040327
◎少子化……「民族的エネルギーの劇的な衰退である」
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負け犬と少子化
実は私、平成十四年のはじめから、厚生労働省の「少子化社会を考える懇談会」というもののメンバーをやっておりました。なぜ私のような者にお声がかかったのかというと、おそらくは以前に『少子』という本を書いたせいだと思うのですが。
この懇談会はその名の通り、止まらない日本の少子化を改善していくためにはどうしたらいいのかを考える場。厚生労働省が作成した懇談会のメンバー表を見ると、人口学、家族社会学、経済学、児童福祉……と、様々な分野から、専門家の方々が参加しておられます。
では私はどのような分野の人間としてカテゴライズされているのだろうか、とその表を見てみると、「子育て中・子産み・独身」という表記のところに、私の名が。そしてそのカテゴリーに属している人々は、私以外は子育て系のNPOを主催なさっている方や、お産の改善運動をなさっている方だったりという、つまりは子持ちの人。
するってえと……″
と、私は思いました。私は「独身」代表ということなのか。その他のメンバーである学者さん達のお話を聞いても、皆さん結婚し、子供を持っている方ばかり。つまりその懇談会の中で、完璧な負け犬は私一人だったのです。
私はこの人選を見て、まず理解しました。日本の少子化は晩婚化と深く結びついている問題であるわけですが、
「晩婚化や少子化は、女のせいで起こっている問題である」
つまりは、
「結婚や出産は女の仕事。女が結婚しなかったり子供を産もうとしないから、子が減るんだよっ!」
という意識が世の中には存在する、ということを。だからこそ、この懇談会のメンバーには、オスの負け犬が含まれていないのだ……。
懇談会は、いつも粛々と進行しました。皆さんが、それぞれのお立場から専門的な意見を述べていらっしゃるのに比して、私は発言らしい発言を、ほとんどできなかった。それというのも、
「えーと、出産って痛いんで、産みたくないんですよね」
とか、
「戦争とかテロとか、その手の非常事態になれば、日本も子供が増えると思うんですけど」
といったバカみたいな意見を言える雰囲気ではなかったのともう一つ、それは途中で気付いてしまったことなのですが、私自身がどうやら、「どうにかして少子化を改善したい!」とは、切実に思ってはいなかった、からなのです。
もちろん少子化か何となく良くないことだというのはわかりますし、子供は可愛いし、産むという人には頑張れと言いたい。が、改善する方法を考えずにはいられないほど、私はその状態を憂えてはいない。むしろ心の中では、どんどん進め〜〃という、恐いもの見たさ半分の気分があったりもする。
そんなわけで、ちょっとした「生きててすいません」気分を覚えながらも、珍しいものを見てみたいというスケベ心もあって参加していた、懇談会。その会から、平成十四年の九月に「少子化対策プラスワン」──少子化対策の一層の充実に関する提案」というものが出され、厚生労働大臣から総理大臣へと報告されたわけですが、この内容を見てみると、私共負け大というのは、今の日本の少子化対策からとり残されている存在だということが、おわかりいただけるでしょう。
この提案における四本の柱は、
・男性を含めた働き方の見直し
・地域における子育て支援
・社会保障における次世代支援
・子供の社会性の向上や自立の促進
ということになっています。
つまり、男性も会社から早く帰れるようにしたり、地域で子育てを手助けしたりすることで、今現在、子育てをしている人を助け、女性が仕事と子育てを両立しやすいようにする。
さらには社会保障制度をもって、子供とその家庭に対する配慮を行い、子産み・子育てという作業に「損な感じ」が漂わないようにする。
また、将来親となる世代、つまり今の子供達をうまく教育することによって、彼らが大人になった時に、素直に子産み・子育てができるようにする。
……とまあこういうことなのですが、負け犬としてこれを読んだ時に気付くのは、「現在、大量発生している負け犬をどうするかという対策は、何もない」ということです。
子育て支援や社会保障云々ということは、今現在結婚しているけれど子供がいない人や、一人は産んだが二人目はどうしよう、と思っている人にとっては魅力的な対策でしょう。そして将来のことを考えるならば、子供という存在や家族というものに対する拒否反応を起こさないように、子供のうちから教育するのも、大切だと思う。が、今現在この時点で負け犬である、という立場の人には、その対策は直接的に響いてこないのです。
子育て支援や社会保障を充実させ、楽しそうに子育てをする人が増えれば、負け犬もそんな人達を見て、ああ、子育ても悪いものではないのだな〃と思うようになる、という効果はあるとは思います。が、そこまでいくにはだいぶ長い時間がかかる。効果が出るのを待っていては、現時点で既に負け犬という人はもう、おばあさんになってしまいます。
懇談会の最中には、大量発生している負け犬を、国としてもどうにかした方がいいのではないかという意見も出ました。おそらくはシンガポールにおける、国が主催して行なうお見合いパーティーのようなものを日本でも……ということがそこではイメージされていたと思うのですが、しかしその意見は「少子化対策プラスワン」においては反映されていなかった。
というわけで、日本全国の負け犬の皆さん。皆さんがいくら「結婚したいけれど相手がいない、どうしたらいいのだ」、と息巻いてみても、国はあなたを手伝ってはくれないし、面倒も見てはくれません。皆さんは自分の力で、自分のことをどうにかするしかないのです。
私という負け犬が懇談会の末席を汚していながら、その上うな結果になったことは、負け犬の皆さんには誠に申し訳なかったとは思います。が、負け犬本人が、
「えーっと、私達負け犬のために、国が主催してお見合いパーティーをやっていただくとよいのではないかと……」
などと発言するのもすさまじく、さらにはそんなことをやってほしいとも思ってはいなかったりする。
では何か他に、国ができるような負け犬対策が存在するのかと考えてみると……、私には、どうも思い浮かばないのです。だってそれは、法律や規制でどうにかできる問題ではないような気がするから。
結婚もせず子も産まず、という負け犬がなぜ現代、大量発生しているか。まず、統計的に見て理解できることは、高学歴の女子と低学歴の男子が余っている、ということです。それはいきおい、高収入の女子と低収入の男子が余っているということにもなります。
実際に自分の周囲を見てみても、高学歴で高収入、なおかつ見た目も悪くないというメス負け犬がぞろぞろといるのに対して、高学歴高収入で見た目も悪くないというオス負け犬は、ほとんどいない。
なぜこのような現象が起こるのかというと、伝統的に日本の男性は、自分より色々な意味で「低」な女性を好むからだとされております。これを専門用語では低方婚と言うらしいのですが、学歴、収入、身長といった条件が、たとえほんの少しであっても自分より「低」である女性と一緒にいる方が、男性は安心する。逆もまた真ということで、自分よりも様々な面において「高」な男性を、女性は好む。
すると結果的に、全般的に「高」な女性と、全般的に「低」な男性は、相手がいなくて余る、ということになります。
その結果として増えてきたのが、「高」な女性が窮余の策として踏み切る低方婚、です。自分より「高」な独身男性などこの世にはもういないということに気付いた時には年齢も「高」となっていた「高」女性が、ほとんど中年の男性が若い娘を可愛がるのと同じメンタリティーをもって、自分よりうんと年下でキャリアも無い男性と、結婚する。このような例も、世間には実に多いのです。
しかし、全ての女性が低方婚に向いているわけではありません。女性が低方婚をするには、「低」男性を包み込むことができるだけの、経済力と度量が必須。そうでない場合は、「低」男性と付き合うくらいなら既婚「高」男性と付き合った方がまだマシと不倫に走るか、配偶者と離婚、もしくは死別したー巡目£j性を発見するか、もしくはブツブツ文句を言いながら、ただ漫然と余りゆくしかないのです。
さらに言えば、女性が余りゆく理由は、いまだに男性が低方婚を望むから≠セけではありません。かねてより私は、自分の知らないどこかに、結婚をしていない男子ばかりがゴソッと余っている秘境が存在しているのではないかという疑いを持っていたのですが、その解か得られたような気がした瞬間があったのです。
それはある日曜の夜、私か実家で夕食を食べてから、自分の家に帰ってきた時のことでした。一人で道を歩いていると、前方から一人の男性が歩いてきたのです。彼は、歳の頃は私と同じくらい。見るからにおたくとわかる風貌で、秋葉原のイベントの帰りなのでしょう、手に下げた紙袋には、丸めたポスターが入っています。
そして彼とすれ違ったその瞬間、私はハタと理解したのです。
「今、日本で余っているのはつまり、日曜の夜の道を一人で歩く私みたいな女と、このおたく君みたいな男なのだ!」
ということを。
おたく君というのは、ゲームやアニメ上の女子や、チビッコ女子に対して「萌え」を感じる生きものであって、現実の女子を具体的にどうこうしたいと思う人達ではありません。
そんなバーチャルな世界だけで異性との交わりを済ませるおたく君。対して、こちらにいるのは、現実的欲望を有り余るほどに持っている、三十女。
「高」な女子と「低」な男子は、女子側が低方婚に違和感さえ感じなければ、まだカップリングも可能です。しかし、「高」な女子とおたく男子の組合せは、どうにもこうにもやりようがない。アニメの美少女に「萌え〜」としているおたく君は、まかりまちがっても三十女とデートなどしたくないだろうし、三十女としてもおたく君と一緒にイタリア料理屋に行って、生のポルチーニと乾燥ポルチーニの味わいの違いについて話す気には絶対になれない。
女子の側は、
「あなたは理想が高すぎる」
などと周囲の人々から言われながらも、実はヤル気はまんまん、なわけです。対して男子は、既にナマの女性と相対する気分など失ってしまっている。それなのに、
「女が結婚もしないし子供も産まないからいけないのだ!」
と言われてもなあ……。
結婚や出産に対する意欲をいくら女子が燃やそうとも、相手がいなくてはそれは今のところ、できないのです。それでも日本国として子供を増やさねばならないのだとしたら、生身の男性がそこにいなくとも出産が可能になるシステムを、そろそろ確立した方がいいような気がしているのですが。
追記
その後、日本の少子化対策には変化の兆しが見えている。従来の子育て支援の他に、不妊治療の助成、さらには「出会い推進」計画に対する補助金を出す等の条令案があるという報道が、平成十五年には一部新聞でなされた。
仕事と子育てが両立しやすい環境を作ることによって子供を産みやすい社会へ、ということを目指した今までの日本の少子化対策。しかし一向に回復する気配の無い少子化に業を煮やした政治家や役人が、「もっと思い切ったテコ入れをやらなきや駄目だろうこれは!」と、順良に結婚・妊娠をけしかけようとしているものと思われる。
こういった国の態度に「国が介入するようなことではない」と批判的な人も、もちろん多い。が、私は「無駄のような気もするが、やらないよりはいいだろう」と思う者。エエ格好しぃの負け犬達をいかに官製お見合いパーティーに参加させるかは、大きな問題ではあるが……。
というわけで、負け犬の皆さん。にっちもさっちもいかなくなった時は、国が助けてくれる可能性も、将来的には無きにしもあらず。「アタシは自分の力でみつけてみせる」などと意地を張らず、「アタシを結婚させられるものならやってみろ」と、日本国の深ーいお慈悲に、身を任せてみるのも、また一興ではなかろうか……っと。
(酒井順子著「負け犬の遠吠え」講談社 p53-62)
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なぜ女性は子どもを産まなくなったのか
だれか一人が専業主婦(夫)にならないと
金融機関で働く総合職女性(既婚、子どもはいない)から、手紙をいただいた。文面を要約すれば、次のようになる。
(銀行員の)奥さんを家に縛りつけておくことが、男性行員の頻繁な転勤や長時間労働を助長し、それに合わせて働かなければならない私は、子どもなんか産めません。深夜まで一緒に会議をしている同僚の男性の顔を見るにつけ、『こうしている間にも彼の奥さんが子どもに食事をさせ、おしめを替え、寝かしつけているから、彼も人の親でいられるんだ』と思えてしまい、妬ましい気もします」「女性でも、先輩や友人で、仕事や育児を両立している人は、例外なく夫婦どちらかの母親に多大な負担を強いています。
つまり専業主婦役が、母親から祖母に代わっているだけなのです。身内のなかに、誰か一人が専業主婦(夫)にならないと仕事と育児が両立できない社会なんて、本当に変だと思いませんか」
「会社の福利厚生も、扶養家族のいる世帯主ばかり優遇するようにできています。女性は時間外労働に制限があり、勢いサービス残業も多くなるので、同資格、同基本給で妻子持ちの男性行員と手取りを比較すると、月一五万円以上違うこともあってやり切れない思いです。
さらにそんな同僚の妻の分も、税金や社会保険料を私が余分に負担させられ、また本来なら基本給に上乗せされるべき人件費の一部が、同僚の住宅手当や扶養家族手当に充てられている現実を思うと、同僚の妻はライバルの私的秘書ですから、構造的に敵に塩を送らされているような被害者意識にも駆られるのです」
今の日本の企業システムが、「専業主婦つき」でないと仕事と家庭の両立など不可能だという現実に、彼女の怒りの矛先は向けられている。共働きで専業主婦の内助が期待できない場合は、夫か妻、いずれかの母親を専業主婦に仕立てなければやっていけないのだという。前節では、あまりにも家事に参加しない男性像を描いたが、参加したくても物理的に参加できないサラリーマン社会の現実があることも見すえなければならない。
知り合いの部長はこう言った。
「男性の家事参加なんて無理ですよ。私など毎朝七時前には家を出て、帰宅はといえば深夜零時近く。会社のビルの周囲には、電車がなくなった社員目当てのタクシーがとぐろを巻いている。そんな生活のなかでは、夫と妻が役割を分業しない限り、とてもやってはいけない。鹿嶋さんが記事で主張なさっていることはわかるんですが、現実はね……」
だが、その現実に安易に流されている限り、共働きの増加が予想されるなかで、妻たちは仕事を辞めるか、働き続けるのであれば、子どもをもたないといった選択をするだろう。少子化に歯止めがかからなくなることは否定しようがない。
女性がなぜ子どもを産まなくなったかについては、いくつかの説かおる。第一のそれが、女性の高学歴化説だ。短大、大学に進学する女性が増え、卒業すれば就職というのが、現代女性の典型的なライフパターンになっている。高学歴化か進めば、その分結婚は後回しになり、子どもの数も少なくなるという理屈だ。
高学歴化の次に浮かび上がってくるのが、女性の就業率の高まりである。卒業後は結婚というコースをたどる人はあまりいない。とにかく一度は就職をという女性が多くなった。仕事にエネルギーを注げば、結婚は二の次になってくる。初婚年齢が年々上昇しているのはそんな事情が背景にあるからで、以上のようなことから、少子化の第二の理由として女性の職場進出説が上げられる。
第三は、晩婚化説だ。これは第一、第二の理由から当然導き出される答えである。『一九九九年度・厚生白書』(副題は「少子化を考える」)も、一九七〇年代半ばから出生率が下がり続けている原因に晩婚化の進行を上げ、それと比例するかたちで既婚女性の就業率が上昇に転じていることを指摘、両者の関係を認めている。
第四の理由には、男性が家庭人として自立していない点を上げておきたい。前にも指摘したように家事・育児にそっぼを向く。お荷物≠ニは結婚などしないほうがよほど快適な生活が送れるのである。
仮に結婚しても、家事をしない夫との生活では、働いている女性は子育てにまで手が回らない。
また今後は収入の伸びがあまり期待できないだけに、ダブルインカム(夫婦共働き)のカップルは増え続けるに違いない。そして職場進出した女性たちは、職場がいかに学歴社会かを身をもって実感する。自分や夫が企業中心社会で果たせなかった夢を子どもに託そうとし、やがてわが子のお受験≠ノ血眼になる。そんな背景から、少子化を考えるにあたっての最後の理由として、子どもの教育を上げておく。
教育費がかかるので、高等教育を施したいと思えば、少なく産むというのは当然の選択である。子の意味で現代の子どもたちは、お金がかかる存在、すなわち消費財的存在になったと言えるだろう。
そして少子化とは、これら五つの理由のほか、環境の悪化や価値観、人生観の多様化などが複雑に絡み合うことによって生じた問題なのだと思う。ひとつだけを取り出して、少子化の正体見たりといった議論はできないのは、当然である。
たとえば『一九九六年度人口動態社会経済面調査』(厚生省)は、結婚していたときに考えていた理想の子どもの教より、実際に予定している子どもの数が少ない理由を聞いている。トップに上がったのは「養育費・教育費などの負担が大きい」で、仕事を持たない「無業女性」の七割、仕事を持つ「有業女性」の六割強の支持を集めた。
こうした結果を受け、児童手当の増額など子育ての経済的負担の充実に関心が集まっているが、私は仕事と子育てを両立するための支援策を充実することが先だと思う。同調査では、「養育費・教育費」ほどの支持率ではないものの、有業女性の二割近くが「自分の仕事に支障をきたす」ので予定する子ども数が少ないと答えている。働く女性の増加を考えれば、両立支援は緊急の課題だ。
(鹿嶋敬著「男女摩擦」岩波書店 p193-196)
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必然的結果としての少子化
とりわけ、若い世代の勤労者の暮らしには重圧が加わる。厚生省の「出生動向基本調査」(一九九七年)によれば、次のような理由によって、かれらは子供を産むのをためらわざるをえないという。
o子育てに金がかかる
o教育に金がかかる
o家が狭い
o子供をつくると仕事にさしつかえる
「子育てに金がかかる」。──たとえば児童手当のGDPに対する割合は(一九八六年の数字で)、スウエーデン四・六五%、フランス三・一〇%、イギリスー・二九%、西ドイツ〇・七一%に対し、日本のそれは○・○五%。限りなくゼロに近い(厚生省児童家庭局監修『児童手当』一九九四年七月号所載の都村敦子論文。および、大阪経済法科大学『経済研究年報』第一六号、一九九七年所載の福島利夫「社会保障の構造と『国民負担率』」)。
また、子供を保育所に入れたくても、保育予算の削減で保育所の建設はストップし、保育労働者は減らされるので、保育所入所待ちが一九九四年の二・六万人から九七年には五・〇万人と、倍近くに増えている。
「教育に金がかかる」。──財政構造改革によって福祉予算とともに教育関係予算も削減される。全国で最悪の例は前述した、乱脈な公共投資の激増によって財政破綻におちいった大阪府の、公立高校入学金五五〇〇円を五万五〇〇〇円への一挙一〇倍値上げである。
「家が狭い」。──もう一部屋多いアパートヘ移るには、月に二ー三万円、家賃が増える。現状では無理である。
「子供をつくると仕事にさしつかえる」。産休をとることをはばかる職場の状況がある。また、労働基準法の女子労働保護規定の廃止が実施されると、女子職員も時間外労働、休日出勤、あるいは深夜労働さえもまぬかれないかもしれない。
これらの必然的帰結として、女性が一生のあいだに産む子供の数(合計特殊出生率)は劇的に減少する。一九七〇年に二・一三人だったこの数字が一九九七年にはついに一・三九人にまで減った(「ひのえうま」で出生率が入為的に抑制された一九六六年でさえ一・五八人であった)。この「少子化」のゆきつくところ、日本の人口数はすさまじい勢いで減少せざるをえない。
一九九八年現在、一億二六四二万人である日本の人口総数は、今後九年間はわずかながら微増を続けるが、二〇〇七年の一億二七七八万人をピークとして、減少に向かい、二〇五一年には一億人の大台を割りこみ、二一世紀の末、西暦二一○○年にはなんと六七三六万人、つまりおおよそ半分近くにまで収縮してしまう。ピークからの人口減少率は四六・二%、実数にして五九〇六万人も減少する見通しである。フランス(五八一五万人)やイギリス(五八二六万人)の総人口数を若干上回るくらいの人口が日本から消え失せる勘定である。民族的エネルギーの劇的な衰退である。
社会保障の切り下げ、税制の大衆課税方式への変換、中小企業の圧迫、労働者の暮らしと権利をそこなう労働法制の反動化。──これらはたんに勤労者の消費を押し下げ、景気回復への妨げとなるにとどまらず、そのゆきつくところ、日本の人口を半分に減殺してしまうという恐ろしい結果を引き起こすのである。
(林直道著「日本経済をどうみるか」青木書店 p183-185)
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◎……「なぜこのような現象が起こるのかというと、伝統的に日本の男性は、自分より色々な意味で「低」な女性を好むからだとされております。これを専門用語では低方婚と言うらしいのですが、学歴、収入、身長といった条件が、たとえほんの少しであっても自分より「低」である女性と一緒にいる方が、男性は安心する。逆もまた真ということで、自分よりも様々な面において「高」な男性を、女性は好む。」……と。
◎……「そのゆきつくところ、日本の人口を半分に減殺してしまうという恐ろしい結果を引き起こすのである。」……と。