学習通信040328
◎オウムから……C「親子のぶつかりあいをとおして親子が出合い直し……」

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オウム真理教の身体

 これについては、まずは犯罪史としてのみならず、戦後思想史上の大事件と考えられるオウム真理教事件を題材にとってみましょう。

 オウム真理教は、言うまでもなくあらゆる意味で大きな問題でした。が、私はそれをどう考えるべきか、なかなか整理がつかなかった。私が教えていた東大生も、ずいぶん引っかかった。どうして、あんな見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていくのかがわからなかったのです。

 しかし、竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全解読』(勉誠出版)を読んでようやく納得出来た。竹岡氏は考古学を専攻している方で、この本ではその考古学の手法でオウム真理教を分析して見せます。

 考古学の手法というのは、ここでは、教団の出版物やオウムについての本、新聞、雑誌の記事だけをもとに対象を分析していく、というやり方です。考古学は、後世に残された物証だけをもとに再構成するという学問ですから、オウム真理教について分析をする場合には、そういう手法になる。

 彼は、信者や元信者らの修行や「イニシエーション」についての体験談を丹念に読み込みました。その結果、「彼ら(信者)の確信は、麻原が教義として述べている神秘体験を彼らがそのままに追体験できることから来ている」と述べています。つまり、麻原は、ヨガの修行だけをある程度きちんとやって来た、だからこそ修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」も出来たし、ある種の「神秘体験」を追体験させることが出来たのだ、と結論付けています。自らの身体と向かい合ったことのない若者にとって、麻原の「予言」は驚異だったことでしょう。

 これを読んで、「何であんな男にあれだけ多くの人がついていったのか」という疑問がようやく解けた気がしました。

軍隊と身体

 ここでのキーワードは「身体」だったのです。かねてから、「身体問題」が戦後、日本が抱えていた共通の弱さというか、文化にとっての問題点だ、と私は考えていましたが、それが証明された、という感があります。戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でした。が、それが終戦で綺麗に消えてしまいました。以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままなのです。

 日本の場合、三代、四代遡れば殆ど皆、百姓です。つまり都市の人間ではない。そういう人たちが、近代になって突然、あちこちで自然が都市化したのに伴っていきなり都会人になってしまった。

 ここでいう「都市」とは、前章でも述べた脳化社会のことです。すなわち、人間が脳の中で図面を引いて作った世界が具現化している社会のことを指します。およそ都市というのは、まず人間が頭で考えたものを実際にそこに作る、という作業から出来ています。

 日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまっている。恐らくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古くから都市化をしていったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思います。

 それでも、日本においても、ある時期までは軍隊という形で強制的に、都市生活をしている男性においても身体を規定していった。軍隊というのは、どういう組織かといえば、とにかく考えずに身体の運動を統一させる組織です。戦場で下手にものを考えていたらその間に殺されるのですから、反射的に動くことを徹底的に訓練で叩き込む。上官が右、というのに、いちいち「ハテ本当に右を向いてよいものか」などと考えていては話になりません。

身体との付き合い方

 誤解の無きように申し添えれば、私は決して「徴兵制を復活せよ」といったことを主張したいわけではない。軍隊がいいとか悪いとかいうことではなく、それが存在していた時に、そこに所属していた者たちは、身体について考える必要が無かった、ということです。

 考える前の段階で、訓練によって身体を強制的に動かされる。いわば、身体依存の生活を送らざるをえなくなります。そこでは否応無く身体を意識することになります。

 では、軍隊が消失した現在において、身体とどう付き合っていくのか。その問題への答えを、ある種の若者たちに提示したのがオウム真理数、麻原彰晃だつたのではないか、それこそがオウム問題の重要な点だったのではないか、と思うのです。身体の取り扱いがわからなかった若者に、麻原がヨガから自己流で作ったノウハウをもとに数え≠説く。それまで悩んでいた身体について、何かの答えを得たと思うものはついていった、ということでしょう。

 オウムに限らず、身体を用いた修行というものはどこか危険を孕んでいます。古来より、仏数の荒行等の修行が人里離れて行われる、というのは、昔の人間の知恵だったのかもしれません。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p88-92)

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学生はどう考えたか

ここで、学生の書いたレポートを紹介したい。
まず、自分と違う人だとする意見である。

 信者の人たちはとっても楽だと思う。(信者にとっては解脱するためにいっしょうけんめい修行しているのだろうから、おこられるかもしれないけど)最終解脱という人生の目標があって、それを達成するため死ぬまで修行していればいいんだから、生きがいをみつけることもないし、自己形成に四苦八苦することもないんじゃないか。他人とうまくかかわれない、自分という存在が大きすぎる人たちが、オウムというエデンの園をつくって、ある距離をたもちながらも、共同体意識をもてる空間で生活していたんじゃないかとも感じた。

「信者の人たちは楽だ」としている点が興味深い。また、自分たちで集まって現実から逃避しているとする点も手厳しい。
 次に、同情的な意見を紹介する。

 オウムに入る人はマジメな人が多いので、一度これがよいと思い込むとあとは一直線にそれにつき進んでしまう。きっとその方がうーんと楽なんだろうなあ……と私は思う。ただ私だったらそんなことはないと言い切れる。(たぶんオウム信者以外は誰でもそう思うと思うが……)今の若い人たちは、見た目は自分の好き勝手にやっているように見えるが、結局は、社会の中のレールの上をちょっとふざけながら歩いているだけのような気がする。人生は、そのレールからできるだけ離れたところを行く方が、絶対におもしろいと私は思う。たぶんオウムの人たちも、そうだったのではないだろうか。

ただ、そのための心が育っていないから、そうは思ってもその手段がなかった。そしてオウムという別のレールに移ったのではないだろうかと思う。別に彼らが悪いという訳ではなくて、社会全体の構造の一方の極なのではないだろうか……と思う。少なくとも今のこの社会が良くないと思ったところは、彼らがえらいっ、とは思わないが、普通の社会で何も考えずレールの上をただ歩いているだけの人よりは、人間らしいのかもしれないと思う。彼らの精神がもう少し強ければ、もっと違う方向に変わっていったのではないだろうか。

 「オウムに入る人はマジメな人が多い」というような指摘は少なくない。まじめな人は、一つのことを思いこみ、まわりが見えなくなる、と思われているようだ。この人も「信者は楽だ」としている。また、「今の若い人たちは、……社会の中のレールの上をちょっとふざけながら歩いているだけ」という指摘は興味深い。

オウム真理教の信者は、自立しようとしたが、オウム真理教という別のレールに乗ってしまったとする。たいていの若者は、レールからはずれないから、オウム真理教に行くことさえない。この若者は、レールからはずれて自分の足で自分の道を歩きたいと思っているが、それがむずかしい現実をさめた目で見ている。

 最後に、自分の課題として受けとめているひとを紹介したい。

 私は化学科の人です。最近オウムのせいで自然科学の分野が誤解されているようで怖い。確かに化学の力で人を殺すことはできる。しかし、科学をやろう! と思っている人の中には、こういう人もいることを分かってほしい。私は自然が大好きだ。木や植物が生きているのを見るのが好きだ。私は今年の夏、屋久島へ行ってきた。植物が必死に生きる様子がまざまざと見えた。

生きているということはすばらしい。自然は人の社会よりもずっとすばらしいものだ。私はそういう自然について、もっと知りたいし、尊敬しているし、感動したいから、自然科学をしようと思って来ている。オウムの人(幹部)は頭はいいが、どれだけ自然を愛することを知っているのか。疑問である。自然に対する敬う心があれば絶対にそんなことはできない。しかし、将来私が人を殺すようなことをしでかさないという保障はありません。私自身時々は山に行って忘れないようにしようと思う。

 自然に感動しているこのひとは、オウム真理教とは対極にいると思っていない。だから、自分も時々は山に行って忘れないようにしようと考えている。自然を愛するということは、宗教心の一つの姿であるのかもしれないと考えてみると、自分なりの宗教をもっているともいえる。自然という対象を媒介としながら自分をみつめていることが、自己を相対化する視点を与えているように思われる。これは、オウム真理教の若者が「脱執着」を願いながらも、それにこだわることで終始してしまい、出口を見つけることができなかったこととは対照的である。

オウム真理教と若者の育ち

 まじめに自分のことを考えること自体は間違っていない。それなのに、超能力やオカルトに引かれることで、自分さがしの落とし穴に陥ってしまうのは、なぜだろうか。

 宗教心理学者の山本博氏が日本青年館で霊に関心を持つ若者に講演した記録『呪術・オカルト・隠された神秘』(名著刊行会、一九八九年)を読んだ。山本氏は、人類を救うのは神様であり、霊的な成長が必要であるという立場である。彼によれば、オカルトと真の神秘主義の違いの根本は、オカルトは自己愛が基本になるのに対して、真の神秘主義は愛が基本になるとのことである。

つまり自分にとらわれない、自分から自由になることが目指すべき方向なのに、オカルトは自分が一番可愛いから他人を蹴落としても自分のために何かするという、間違った立場に立っているという。私は神秘主義の思想の立場をとる者ではないが、彼の指摘は、愛という普遍的な問題が、自己愛という自己を対象とする愛情の問題にすりかわってしまっていることの指摘だととらえた。ここでの自己愛とは、単に自分を愛する気持ちではなく、他人よりも自分が優れている特別な存在だと考えて自己を肥大化させる閉じられたものをいう。

 昔、子どもと一緒に、漫画『幽遊自書』(冨樫義博作、『週刊少年ジャンプ』一九八九年から連載)を読んだことがある。主人公の不良の中学二年の男子が最初に死んでしまい、霊界に行くところから始まる。邪悪な魔界との戦いが物語の中心である。SFファンタジーものの漫画である。このマンガでは、絶体絶命の土壇場、あるいは、激しく怒ったとき、自分の知らない程のエネルギーが出るこれは、相手を破壊するだけでなく、自分も破壊し、最終的には、世界そのものも破壊しつくしてしまいそうになる。

こうした作品を受け取っている現代の子ども・若者の心のなかには、その作品イメージに共鳴するような、ブラックホールのような激しい怒りが内在しているのではないか、これは「人工的なもの」の侵入に対する傷つきや無力感が抑圧されたためにできたのではないか、ハルマゲドンはその未分化で激しい怒りの投影ではないかと思ったりもする。

 ここで、「人工的なもの」というのは、たとえば、小さい頃から「よい子」として育てられ、社会によってもちこまれた規範の部分だけが肥大化してしまった状態を指す。「みんなお友達なので仲よく付き合わないといけない」とか「怒るのはよくない」などといったことで、他者に対する怒りとかいった気持ちは否定的なものとして抑圧されてしまってきた。

大人は他方で「あの子とは付き合ってはいけない」とか「少しでも偏差値の高い学校に入らないといけない」とか言う。これらは相互に矛盾するが、「よい子」にとってはすべて社会からの要求としては等価なものとして入っていく。矛盾する部分あるいは否定されている自然の部分は、「悪い子」の部分として、未分化なまま蓄積されていき、怒りのエネルギーとなったのではないだろうか。

 このことを受けて、オウム真理教が若者に受け入れられた背景にある心理的な問題を仮説として述べておくと、次のようになるのではなかろうか。つまり、オウム真理教は、一方で自分くずしの試みでありながら、それが落とし穴にはまった例として、他方で、「よい子」のもつ「怒りのエネルギー」が攻撃性となって外に出てきた例として考えられるのではなかろうか。

 オウム真理教に入信した若者の救済に尽力している滝本太郎弁護士は、「オウム真理教に入信した若者の共通点をあえていえば、第二反抗期がなく、よい子であった」と言う。そして、親と一緒に信者の若者に対する説得活動をしていて、親が若者に対して正面から向きあえる時、若者が親元に帰ってくると言う。

このことからすると、親子のぶつかりあいをとおして親子が出合い直し、互いの愛情を確かめることで、ようやく自己を肥大化させた自己愛ではなく、普遍的な愛に至るような開かれた自己愛をもつことができるのではなかろうか。
(白井利明著「大人へのなりかた」新日本出版社 p133-141)

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◎時代を科学的にとらえることが求められている。オウムについての4つの連作を深めよう。