学習通信040330
◎「科学は戦争と無縁ではいられない.」

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 戦争と科学

 生産技術は軍需の前に比較的容易に軍事化され,科学は戦争と無縁ではいられない.科学兵器の開発は,こうした現代における科学と社会のあり方を示している.

 化学兵器は,ドイツ軍による1915年4月22曰のベルギーのイープル西方での塩素ガスの使用に始まる.

これを機に,軍部の統制の下に,約3000種にのぼるガスが研究され,数十種のガス兵器が製造された.窒息性のホスゲンがガスマスクで防御されると,梅毒の治療薬サルバルサンの中間体から,嘔吐性のヒ素系ガス「青十字」(ジフェニルシアンアルシンなど)が開発され,また医薬・染料の原料(エチレンクロルヒドリン)からは,粘膜や皮膚の組織を壊す糜爛性の硫黄系ガス「黄十字」,別名「イペリット」(硫化ジクロルエチル)がつくられた.第1次大戦中の化学戦による死傷者は約100万人に達したという.

 なおこの折りのもうひとつの新しいタイプの戦闘形態である航空戦は,航空機技術の軍需による実用化をもたらした.

 1929年に始まる大恐慌は,科学技術の軍事化を平時にも一般化させた.落下傘の材料となるナイロンの開発,ガス・タービンによるジェット戦闘機,プラスチックの工業化など,新技術・新製品を生み出した.

民間財団の基金や国家予算による科学者の養成,研究機関設置による研究開発は科学を利用しようとする資本の論理であるが,ひとたび市場と資源の確保・争奪が激しくなり,国家が軍備を増強する段階になると,それはリスクなく莫大な利益が保証される軍需生産に向かう.軍事的な研究開発が活発になり,科学は軍事的な枠のなかで蹟的にすすんでいくこととなる.
ファシズムと科学者
 
戦後のアメリカの宇宙開発を指導したフォン・ブラウンが,ドイツ陸軍兵器局の一員となり,宇宙旅行の夢を実現しようとロケット開発に乗り出しだのは1932年のことである.資金面の問題はあったものの,事は重大であった.当時のドイツは新兵器の開発に躍起であり,このロケット開発は,やがてドイツエ業技術を結集したロケット兵器V2号を生み出した.

 またIGファルベンのバイエル研究所の農薬開発グループは, 1938年有機リン系毒物を発見したが,ナチスはこの公表を禁止し,殺人ガス兵器「Gガス」を製造した.これは皮膚から体内に浸透して神経をおかす,強力な殺傷力をもつ神経ガスである.農薬の開発は「アウシュビッツの悲劇」を招いたガス兵器の開発につながっていた.

 もちろんすべての科学者がナチス・ドイツに同調したわけではない.公然と政治的な抵抗に出る者は少なかったが,ナチスのユダヤ人迫害と,一部の迎合的な科学者たちがユダヤ人の手によるとの理由で量子力学や相対論をも否定する態度(「アーリア物理学」)に出たこととを忌避して,亡命の道を選ぶ科学者もあり,またドイツ科学の伝統と自由を擁護し,ナチスと一線を画する態度を表明した科学者もあった.

第1次大戦では毒ガス研究に協力もしたハーバーは,この事態を黙視できずカイザー・ウィルヘルム物理化学研究所長を辞職し,物理学者ハイゼンベルクは憂慮すべき祖国の悲劇を防ぐ方途をさぐり,戦後の科学再建の準備を考えた.フランスでは科学者の徹底抗戦があった.核連鎖反応の研究班を率いていたF.ジョリオ・キュリーは,ナチスの侵攻を前にして研究班の科学者を重水(核反応の減速材)とともにイギリスに渡航させ,自らは抵抗組織である国民戦線に参加,祖国の自由と独立のために闘った。

 イギリス航空省防空科学調査委員会が組織したレーダー開発の場合には,この軍事研究を科学者に了解させた論理は,ドイツ空軍の攻撃をかわして英空軍の夜間飛行を実現し,ファシズムから祖国を防衛することだった.《ナチスはどんなことでもやりかねないという一般的信念は,科学をこのように利用することについての道徳上の抑制を取り払ってしまった》のである.

 核兵器の開発と科学者の社会的責任

 アメリカの原爆製造計画が政策決定者の意のままに首尾よく科学者を動員できたのは,イギリスのレーダー開発と同様の意識が科学者の心をとらえたからである.彼らは一般的な軍事研究に動員されたあとに原爆開発に配属され,事実を知っていったんは戸惑いつつ,反ファシズム戦争という大義名分に加え,原爆開発においてドイツに先を越されてはならないとの論理に動かされて,早期開発につとめたのである.

 とはいえ,事態の進展にともない科学者たちに疑義が生じた.原子炉による連鎖反応の基礎研究が一段落すると,原爆製造は科学者たちの意とは別に陸軍の統制の下に進行しはじめた. たとえばシカゴの冶金研では所員の一部は原爆開発のための新研究所に移され,冶金研は縮小されて「暇を出された」状態と化し,残された所員は軍の統制,産業による独占化に不満をあらわにした.

そして1945年5月の戦局の転換は科学者たちの疑義を決定的にした.ナチスは敗北し,原爆開発を合理化する論理の虚構性が判明し,かわりに対日原爆投下が浮上した.科学者の社会的責任を問う立場から原子力の国際管理問題を論じ,原爆の対日無警告投下をいましめる「フランク報告」がまとめられた.シラードらによる署名運動も起こった.ロートブラットは原爆製造の真の目的は「対ソビエト」との言を聞いて,「計画」から離脱した.

 これに対して大統領側近の政策決定者たちは,これらの「軽率で忠誠心のない」「望ましからぬ科学者」の行動を原爆の完成までは放置し,「科学顧問団」を結成して指導的科学者たちの意思を調整し,科学者たちの動揺をしずめる懐柔策をとり,一方,ロスアラモス研究所の所長オッペンハイマーらは,政策決定者たちの言論に対するやや寛容な態度と,原爆の引き起こす国際問題とにかんがみ,政府によい影響を与えるには「反抗的な行動」よりも静かな接触」が得策とした.7月の原爆投下実験の頃,疑義は再び強まったが,早期戦争終結・国際管理促進の論理のもと,原爆完成へと歩を進めた.

 これらの科学者の行動に対してさまざまな評価が行われる.たとえば,結局は科学者は体制にとり込まれる,あるいは「原罪」の意識がないと.だが,軍部や産業界,政策決定者は研究開発の方向性,効率に口を出しこそすれ,研究そのものについては科学者に任せるほかはない.科学者たちは,その意のままに従っているのではなく,政治的社会的情勢の進展と研究開発を制約する事態の変化に「破滅の予兆」を見出し,研究開発に直接に関与する者としての責任をもつ立場から独自の対応をとるにいたるのである.

 事実,わき目もふらずに携わってきた科学者も2発目の原爆に《一体どうなってしまっているのか.こんなことをほおっておいてよいのか》と疑った.科学者たちの政治的・社会的な行動がはじまった.

 戦後,科学者たちは集団的継続的対応を保証する組織を結成し,原子力の国際管理案が不発に終わるや,原子兵器の破棄と科学の平和利用を直接世界の人びとに訴える(ストックホルム・アピール,ラッセル・アインシュタイン宣言など)行動に踏み出した.また「パグウオッシュ会議」「科学者京都会議]など科学者の平和会議をも結成した.これは科学者の社会的責任への反省の一面だったともいえよう.
(藤村・肱岡・江上・兵藤著「科学のあゆみ」東京数学社 p232-237)

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国防総省諮問機関が報告
地中貫通力高め「使いやすく」
米が新型核兵器開発推進

 【ワシントン=浜谷浩司」米国防縮省の諮問機関である国防科学委員会は二十六日、地中貫通性能を高める一方で爆発力を抑えるなどした「使いやすい核兵器」としての新型核兵器の必要性を強調した報告を公表しました。

 圧倒的な能力「将来の戦略攻撃戦力」と題した報告は、今後三十年間にわたって米国の圧倒的な戦争遂行能力を確保するため、戦略や指揮・統制・情報、ミサイルなどの兵器運搬システム、核・非核兵器のあり方を検討したもの。

 報告は現在の核兵器について、@熱と衝撃の効果が大きすぎるA放射能が強すぎるB大量破壊兵器に使われる電子機器を攻撃する特殊効果が欠けているC地中貫通性能が不十分−と問題点を指摘しています。

 新型核兵器について、@命中精度や地中貫通性能を向上させ放射能を減らすことで、死の灰≠ノよる被害を大幅に軽減A余裕のある性能B製造・管理がたやすいC爆発力を抑える一方で電磁パルスや中性子の流出を強めるなどの特殊効果を持つ=ことが「必要だ」と強調しました。

 そのうえで政策の力点を、現有の核兵器の維持を主眼とした現行の核管理計画から、新型核兵器に「大きく」移すとしています。

 また、新型核兵器の科学的「可能性」やアイデアについて、最先端の研究を推進し、「最良」の科学技術者をこの分野に引き込むよう求めています。

 大型兵器堅持 一方で、世論の抵抗を見込み、こうした政策には「政治的障害」があることを「熟知している」とし、ホワイトハウスが正面に立って、議会を強く説得する必要を指摘しています。

 新型機開発とならんで、弾道ミサイルに搭載する現有の大型核兵器についても、核兵器拡散に対抗し「選択肢を確保する」観点から堅持するとしています。

 戦略面で報告は、大量破壊兵器をもつ強大な国との戦争を回避する一方で、核兵器を入手しようとする「ならず者国家」やテロ組織に対しては、敵を破壊する強力な攻撃能力を強調。米国に敵対する体制の打倒も明記しました。

 また、イラクに大量破壊兵器が存在しなかったことで明らかになった情報の「欠陥」にもふれ、スパイによる情報収集能力の改善に力を入れるよう求めています。
(しんぶん赤旗 040330)

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  一四世紀のはじめに、火薬がアラブ入から西ヨーロッパ人へ伝えられ、そして、──どの小学生も知っているように、──兵の動かしかた全体を変革した。火薬と火器との導入は、しかし、けっしてカずくの行為ではなくて、一つの工架上の進歩、つまり、経済上の進歩であった。

物の生産に向けられようと、物の破壊に向けられようと、工業はやはり工業である。そして、火器の導入は、兵の動かしかたそのものにたいしてだけでなく、政治的な支配および隷属の関係にも、変革的な影響を及ぼした。火薬と火器とを手に入れるのには、工業と貨幣とが必要であった。そして、両者は都市市民がもっていた。

火器は、だから、はじめから、諸都市と諸都市を支柱として勃興してきた君主制とが封建貴族に向けた武器であったわけである。貴族の居城のそれまで近づくことのできなかった石の城壁はヽ市民の大砲に屈しヽ市民の携帯火器はヽ騎士の甲冑をつらぬいた。

甲冑に身をかためた貴族の騎兵隊が崩壊するのと一緒に、貴族の支配も崩壊した。市民階級が発展するにつれて、歩兵と砲兵とが、決定的に重要な兵科にますますなっていった。火砲〔の登場〕に迫られて、用兵術は、一つの新しいまったく工業的な下位部門をつけ加えなければならなかった。工兵隊である。

 火器の発達は、非常にのろのろ行なわれた。火砲はいつまでも鈍重なままで、手銃は、個々の点での発明はたくさんあったにもかかわらず、いつまでも粗末なままであった。歩兵隊全休を武装させるのに適した小銃ができあがるまでには、三〇〇年以上かかった。

やっと一八世紀のはじめに、剣つき火打石銃が最後的に槍を歩兵の武装から駆逐した。当時の歩兵は、王侯の傭兵──きびしく訓練されてはいたが、まったくあてにならず、棍棒でやっとまとめられていた──で構成されていた。

もともとこの傭兵たちというのは、社会の最も堕落した分子と、よく強制徴用されることのある敵の捕虜たちとの、寄せ集めなのであった。そして、こうした兵士が新式小銃を使用できた唯一の戦闘形態は、緋肌戦術であって、これは〔プロイセンの王〕フリードリヒニ世〔在位一七四〇−八六。

「大王」と称された〕のもとで最高の完成をとげたのである。一軍の歩兵全体が、三列の非常に長い中空の方陣に配備されて、戦闘隊形ではただ全体が一つとなって運動するだけであった。

せいぜい二つの翼の一つがいくらか前に出たり後ろにとどまったりすることが許されたにすぎない。このぎごちない集団は、まったく平坦な地形で、しかもただゆっくりした速度(一分間に七五歩)でしか、隊列を保って運動することができなかった。交戦中に戦闘隊形を変えることは不可能であって、勝敗は、歩兵がいったん銃火をまじえたとたんに、短時間のうちに一撃で決せられた。

 このぎごちない横隊に、アメリカ独立戦争〔一七七五〜八三〕では、反乱者の部隊が立ち向かった。なるほど訓練は受けていなかったけれども、それだけうまくその施条銭〔ライフル銃〕を撃つことができたし、自分自身の利益のために戦っていたので傭兵部隊のように脱走することもなく、また、イギリス軍が望むように同様に横隊をつくって平坦な見通しのよい土地で対戦することもせず、すばやく運動できる散兵群に散開して、掩護(えんご)物となる林のなかで対戦した。

横隊は、そこでは無力であって、目に見えないつかまえることのできない敵に敗れてしまった。散開戦闘がふたたび発明されたのである。──これは、兵士装備が変化した結果うまれた一つの新しい戦闘法であった。

 アメリカ革命が始めたことを、軍事の傾城でも、フランス革命が完成した。連合軍のよく訓練された傭兵軍隊に、フランス革命も、同様にろくろく訓練されていない多人数の集団を、全国民から召集した部隊を、さしむけるほかはなかった。

ところで、この集団でやらなければならないのは、パリを守ること、つまり、一定の地域を守備することであった。そして、それにはどうしてもひらけた土地での集団戦で勝利を収めなければならなかった。ただの散兵戦では不十分であった。一つの形態を集団使用のためにも発見しなければならなかった。

そして、それは縦隊のうちに見つかった。縦隊編成では、ほとんど訓練を受けていない部隊でも、かなり隊列を保って、しかもかなり連い行軍速度(一分間に一〇〇歩以上)をもってさえ、動くことができた。

旧式の横隊隊形のこわばった形態を突破し、どんな地形でも、したがって、横隊にとって最も不利な地形でも、戦い、部隊をどんなふうにでも適宜にグループ分けすることができたし、また、散開した散兵の戦闘と結合して、敵の横隊を引きとめ引きつけ疲労させ、こうして、予備として取っておいた集団を使って陣地の決定的に重要な地点で敵のこの横隊を突破することができた。

──この新しい戦闘法──散兵と縦隊とを結合することにもとづき、軍隊をすべての兵科で編成した独立の諸師団または諸軍団に区分することにもとづくもので、ナポレオンが戦術面でも戦略面でも完全に仕上げた、この新しい戦闘法──は、右のようなしだいで、なによりもまず、フランス革命における兵士装備の変化のせいで必要になったのである。この戦闘法には、しかし、またそのうえに、非常に重要な技術上の先行条件も二つあった。

第一には、グリボーヴアルがこしらえた野砲の軽量砲架であって、これによってはじめて、野砲には、いまそれに求められているこれまでよりも速い運動ができるようになったのである。

第二には、フランスで一七七七年に採用された改良であって、それまでは銃身の延長線上にまっすぐに伸びていた銃床尾を、猟銃にならって湾曲させたことであり、これによって、一人一人の兵をねらい撃ちしてもどうしても撃ち損なうということはなくてすむようになったのである。この進歩がなかったとしたら、しかし、旧式の小銃では散開戦闘を行なうことはできなかっかであろうに。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p235-

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◎学習通信040329 と重ねて深めよう。