学習通信040331
◎意志とはなにか……「甘美なものにしている排他的な愛着の観念」

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 これまでわたしは、むずかしいことでは、教師は弟子にどんなふうに教えるべきかということについて実例を示してきた。このばあいにもそうしようと思ったのだが、何回もこころみたあとで、わたしはそれをあきらめる。フランス語にはあまりにも気取りが多くて、ある種の事柄においては、はじめてそれを教えるときの素朴な調子を書物のなかで表現することはとてもできないとわかったからだ。

 フランス語はもっとも清潔な国語だといわれている。わたしははんたいに、もっともみだらな言語だと信じている。言語の清潔さは、下品な言いまわしを注意してさけることではなく、そういう言いまわしをもたないことにある、と思われるからだ。じっさい、それをさけるためには、それを考えなければならないのだ。

それに、フランス語くらい、あらゆる意味で純粋に語ることのむずかしい言語はないのだ。著者はみだらな意味を遠ざけようとしても、いつも敏感にそれを感じとる読者は、あらゆることに眉をひそめ、憤慨する。けがれた耳で聞かれることがどうしてそのけがれに染まらずにいられよう。はんたいに、風儀正しい国民はすべての事物にたいして的確なことばをもっている。そして、それらのことばはいつでも品のいいことばなのだ。それはいつでも品よくもちいられているからだ。

聖書のことばくらい慎しみぶかいことばを思い浮かべることは不可能だ。そこではすべてのことが素朴に述べられているからにほかならない。同じことを慎しみのないことにするには、それをフランス語に翻訳するだけでいい。わたしがエミールに話さなければならないことは、なにもかもかれの耳に品よく清潔に聞こえることだろう。けれども、読んでそう感じるためには、エミールと同じようにけがれのない心をもっていなければなるまい。

 ことばのほんとうの清らかさと、悪い習慣によるいつわりの繊細さとについての考察は、いま問題になっていることがわたしたちを導いていく道徳の話のなかで有益な部分を占めることになるとも考えられよう。品のいいことばづかいを学びながら、かれはまた礼節にかなったことばづかいも学ばなければならないのだが、なぜこの二種類のことばづかいはまったくちがったものなのか、かれはどうしてもそれを知る必要があるからだ。

それはとにかくとして、わたしはこう言おう。まだその時が来ないうちから、人が青年にやたらに言い聞かせるむなしい教訓、その時期になれば青年がばかにするようなむなしい教訓をあたえないで、こちらの言うことを理解する時を待つ、その時を準備する。その時が来たら、自然の法則をありのままに説明してやる。

その法則にそむくことがそむいた者にもたらす肉体的、精神的苦しみによってその制裁規定を教えてやる。あの理解しがたい生殖の神秘について語りながら、自然をつくった考がその行為にあたえている魅力の観念に、それを甘美なものにしている排他的な愛着の観念、それをとりまいている、そしてその目的をはたすことによってその能力を倍加させている貞潔の義務の観念を結びつける。

結婚を、たんにもっとも快い交わりとして描いてみせるだけではなく、あらゆる契約のなかでもっとも破棄しがたいもの、もっとも神聖なものとして描いてみせ、そういう神聖な結合をあらゆる人間にとって尊敬すべきものにしている理由、そしてその清らかさをあえてけがす考は憎しみと呪いを浴びることになる理由をすべて力づよいことばで話して聞かせる。

放蕩の恐ろしさの、その獣じみた愚かしさの、最初のふしだらな行為からあらゆるふしだらな行為へ導いていき、そういうことに身をゆだねる考をやがては破滅へとひっぱっていく目だたない坂道の、心を打ついつわりのない画面を見せてやる。さらにまた、健康、カ、勇気、美徳、愛そのもの、そして人間のほんとうの宝はすべて、純潔への好みにかかっていることをはっきりと教えてやる。

こういうふうにするなら、その純潔を願わしいもの、貴重なものとかれに考えさせ、それをたもつために示される方法にかれの精神を従順にすることになる、とわたしは言おう。純潔を失わないかぎり人はそれを尊重しているのであって、それを失ったあとではじめて軽蔑することになるのだ。

 悪への傾向は矯正することができないものだというのは、それに屈服する習慣をもつまえにもそれは克服することができないものだというのは、正しいことではない。恋に夢中になった幾人もの男は、自分の命とひきかえに、喜んでクレオパトラの一夜を買った、とアウレリウス・ウィクトルは言っているが、情熱に酔いしれた者にはそういう犠牲も不可能でない。しかし、このうえなく狂おしい恋を感じて、とても官能を支配することができない男が、処刑台を見て、十五分後にはそこで責苦のうちに死ぬことになるのを確実に知っているものと考えよう。

その男は、たちまちのうちに誘惑にうちかつことができるようになるばかりでなく、誘惑に抵抗するのにもほとんど骨が折れなくなるにちがいない。誘惑にともなう恐ろしいイメージがすぐにそれを忘れさせるにちがいないのだ。それに、いつも相手にされないので、誘惑もやってくる気がしなくなるだろう。

わたしたちのあらゆる弱さのもとになるのは、ただわたしたちの意志の力がたりないことだ。だから、強く望んでいることをするときには人はいつも強い。「強い意志には困難はない。」ああ、もし、生を愛しているのと同じくらい不徳を憎んでいるなら、わたしたちは、いくらおいしいごちそうでも恐ろしい毒には手を出さないように、どんなに快いことでも罪をおかすのは、容為にやめるにちがいない。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p240-243)

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 恋愛は無意識の衝動

 恋というのは、一般的には、相手が現れてはじめて芽生えるものだと考えられている。「それはそうだ、相手もいないのに恋などできるわけがないだろう!」というみなさんの声がいまにも聞こえてきそうだ。

 しかし、ほんとうは恋人が現れるはるか以前から、自分の心の中には潜在的な「恋する力」というエネルギーが存在している……と(臆面もなくと思われるかもしれないが)私はここで断言したい。この恋する力は、恋人が現れるまでは意識されずに眠っている。そのため、自分では意識できないけれど、しっかりと潜在能力として心の中に存在している。

 プラトンも、恋は人間がもっとも美しいと思う相手を求める根源的な欲望であるといっている。恋愛を心に内在するひとつのエネルギーとして理解していたと考えて間違いない。彼の考えについては、またのちほど、しかるべき場所で述べることにしたい。

 ここではまずユングに登場してもらうことにしよう。フロイトと名声を分け合う心理学者のユングである。フロイトもユングも、人間の心の中には無意識の領域があることを発見したのだが、しかし、同じに無意識という言葉を使っても、フロイトとユングでは意味合いがかなり違う。

 フロイトは一人ひとりの、個人の意識を対象にして、人間の行動には意識されうる動機だけではなく、無意識的な動機が隠されていると考えた。その好例が性欲であると彼が考えたことはつとに有名である。

 性欲と恋は大いに関係がある。恋のエネルギーの一種である性欲は、無意識的な潜在エネルギーとして、人間は生まれながらにもっている。フロイトが考えた無意識は、人に欲望を起こさせる原動力である。

 たしかに、人間はいちいち考えて行動しているわけではなく、ほとんどの場合、衝動的に行動が生じ、あとから自分の行動を反省する(意味づける)ことが多いだろう。

 恥ずかしながら私も、若いころは喧嘩っぱやく、いろいろな人に迷惑をかけたり、お世話になった。気がついたときにはもう相手と取っ組み合いをしており、そうなるともう成り行き上なるようにしかならず、時が経ってから、あんなことしなきやよかったと後悔したものである。喧嘩にかぎらず、考える前に行動してしまって、あとで後悔するというようなことは、だれもが口々経験することだろう。

 そのような衝動の宿る場所としての無意識をフロイトは発見した。この発見は画期的なことではあるが、ただしフロイトの性欲説だけでは、なぜあの相手ではなくこの相手でないと恋が成立しないのかを説明することは難しい。性欲を満たすだけなら、極端にいってしまえば、相手はだれでもいいだろうということにもなる。ところが、恋は異性なら(同性ということもあるのだろうが)だれでもいいというものではない。

 もちろん、フロイトの心理学は、世間一般でいわれるような単純な性欲説ではない。のちほどフロイトの真価を示したいと思うが、ここでは世の中に流通している通俗的なフロイト理解の範疇に留めておく。

 いずれにせよ、いったん恋に陥ったら、相手のことしか考えられなくなる。以前、「二人のために、世界はあるの」という歌詞の歌が流行したことがあったが(若い人にはチンプンカンプンかも)、あの歌は恋する者の心理をうまく表現したものだと感心したものである。当時の若い私にとっては、自分の心境を見事にいい当ててくれているとヤケに感じたのだった。
(梅香彰著「「恋する力」を哲学する」PHP新書 p18-20)

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私たちの心・意識のなりたち──知・情・意と人格の問題

 意識の三つの構成要素──知・情・意
 私たちの意識には三つの要素、あるいは、側面があることは第1章ですでにふれておいた。知、情、および意がそれである。ここで、少しおさらいをすることにしよう。知とは知識、知性、理性、認識などのこと、情とは感情、情念のこと、意とは意志、意欲のことである。

この三つの要素は相互に緊密につながっていて、分離することは不可能である。それでも、相対的に切りはなして論じることは可能で、このことを基礎として認識論は成立している。しかし、絶対的な切り離しは不可能で、この三要素の相互関係の問題は哲学にとって避けてとおることはできない。

さて、またこの三要素にわけることにも異論はある。一番有力な異論は、意志をもっとも上位において、それを知と情との統一と見る見方である。この考え方は、将来、定説となる可能性を十分はらんでいるが、ここでは、さしあたり知・情・意としておきたい。

 感情と知識
 私たちは「感情的」というとどういうことを考えるであろうか。いつも子供を叱っている母親、すぐ顔をふくらす子供、他人に年中文句を言っている男──だいたいこのような人びとを思い出す。しかし、そういう人がほんとうに感情が豊かかというと首をかしげたくなる。じつは、すぐ「感情」を外に出す人は、感情が貧困な人である。

すなわち、「感情」の原因となるものから触発されたものを、直接外に出すからである。ある事柄について知れば知るほど、そのものについての怒りも、喜びも、悲しみも深くなるのではなかろうか。逆に、それほど知らないで怒っても、喜んでも、あるいは悲しんでも、その怒り、喜び、悲しみは一過性のものに過ぎず、永続しない、その場かぎりの貧弱なものになる。

 すなわち、高くて豊かな認識、知識には、深くて豊かな感情が対応し、低くて貧しい認識、知識には、低くて貧しい感情が対応するのである。この点についてもう少し検対してみよう。

 落語における笑い
 笑い、可笑しみというものは、すぐれて人間的なものである。たとえば、私たちは落語を聞いて笑うことができる。しかし、その笑いにも高いものと低いものがある。古典落語に「目黒のさんま」がある。目黒とは現在の東京都目黒区のあたり、今ではすっかり都会になって空気が汚れているが、江戸時代にはまだ農村であった。

そこに狩りに来ていた将軍が空腹を覚えて、一軒の農家に立ちよった。ちょうどそこでは農夫がさんまを焼いていた。それを無理にもらって賞味した将軍はさんまの美味が屋敷に帰っても忘れられず、家来たちにさんまを焼くように命じた。

ところが、主人にもしものことがあってはと案じた家来たちの手によって、身の脂はせいろ蒸しにされて抜かれ、おまけに骨をきれいに取り去ってだんご状にされたさんまが、卓上に出てきた。そこで思わずもらした将軍の言葉が「さんまは目黒にかぎる」で、これがこの落語の下げにもなっている。

 この落語は武士社会の矛盾の本質を自然発生的についたもので、だからこの矛盾を身にしみて理解している江戸の庶民がもっともよく笑うことができたと思われる。現在の私たちがこの落語でほんとうに笑うことができるのは、これを現在の社会的矛盾と照らし合わせ、その同一性を理解した人ではなかろうか。

 意志と知識
 意志が強い人がいる。たとえば、古代ギリシアの詩人ホメロスの詩に出てくるトロイ戦争の話を聞いて発掘を志し、ついに遺跡を掘りあてたシュリーマン、五十歳をすぎてから日本中を測量してまわり、とうとう最初の日本地図を完成させた伊能忠敬、会津の寒村に生まれ、貧困や身体障害をのりこえ、世界的な医学者になった野口英世がそうである。

しかし、つぎのような人は、はたして意志の強い人なのだろうか。たとえば、外部からあらたにエネルギーの注入なしに動く「永久運動機関」の「発明家」、古い蔵に残された地図を頼りに埋蔵金の発掘に一生を捧げる人。おそらく、これらの人を、人びとは意志の強い人とは呼ばないであろう。でも、それはなぜだろうか。

 私たちが実践や行動をおこなう場合、自然あるいは社会の法則性や必然性を無視して、あるいは超越しておこなっては、好結果はうまれない。法則にしたがって合理的に行動するのでなければ実りある結果をうることはできない。もちろん、かならずしも成功した人が自覚的に法則にしたがって行動していたとはいえない。

が、すくなくとも法則に結果としてしたがっていたということは必要である。なお、そういう人は法則をしっかりと認識しないまでも直観的に正しい道を選択していることが多い。

 感情と知識の場合と同様に、意志と知識の場合も次のようにいうことができる。高くて豊かな認識には強くて豊かな意志が対応し、低くて貧しい認識には低くて貧しい意志が対応する、と。

 知・情・意の関係
 知・情・意の関係については、すでに述べたが、ここで補足する意味で、高田求氏の『人間の未来への哲学』での言葉を紹介しておきたい。

「感情をただちに行動にあらわす人、感情にたいするコントロールのきかない人ほど感情がはげしくゆたかである、という『俗説』とは反対に、理性の力が強い人ほど、感情もゆたかに、深くありうるのである」。

 意志との関係では、「理性の強いものほど感情もゆたかだと先に述べたが、これは、意志の強いものほどと、といいかえてもよい」と、述べて、乾孝・高木正孝氏の『心理学』のつぎの言葉で結論に代えている。「意志は、目的=手段の統一的把握、目的への自らの態度、すなわち、感情の高まりときりはなせない統一のうちにはたらくものであって、孤立しえないものである。

したがって、いわばとくに理性的な≠「となみである。だからまた意志の弱い人≠ニいわれるのは、意志的側面にのみ欠陥があるわけではない。百万べん意志することを。意志≠オても、意志が強くなりはしない」。
 結論として、高田氏のこれらの言葉から出てくるのは、知・情・意はバランスよく発達してこそ、人格も高いものになるということである。このことを、高田氏は、『新人生論ノート』において次のように形象的に表現している。

 「たとえば、情操浅薄な意志薄弱な、そんな『知の人』──学者なんてありうるだろうか。たまにそんなのがありえたとしても、それをまともな学者といえるだろうか。
 『情の人』についても同様だ。知性貧困、意志薄弱な、そんな芸術家なんてありうるだろうか。すくなくとも、まともな芸術家として存在しうるだろうか。
 『意の人』についても同様だ。知性貧困、情操低劣な、そんな政治家なんて──これは政党によってはざらにいそうにも思えるが、そんなのはじつは『意の人』でさえなく、『政治屋』ではありえても、『政治家』というには値しない存在であるだろう」。

 人格・未来・法則・生きがい・希望
 さて、知・情・意のバランスのとれた、それも低いレベルではなく、高いレベルにおいてバランスのとれた人間存在を人格的存在という。また、高田求氏の見解を聞くことにしよう。高田氏は『人間の未来への哲学』のなかで次のように書いている。

 「人格的存在とは、明日の約束ができる存在、昨日の言動について責任をとれる存在、現在の言動に統一性のある存在である」。

 人格を語るとき、そこには現在、過去、未来という三つの契機がある、と高田氏は主張する。そして、一見、現在が全体の中心であるように思われる。ところが、高田氏は未来こそ中心であり、過去や現在をつなぐ環であるというのである。

 「未来の認識が現在および過去の認識の支点ともなる……。現在に埋没しているあいだは、現在を現在として認識することもできない。また、過去も現在のなかに吸収されたままで、現在にたいする過去として意識されることがない。未来が意識のなかに入りこむことによってはじめて、現在についての自覚もあらわれ、現在についての自覚のもとではじめて、過去についての認識も生きたものとなるのではなかろうか。

 反対に、未来を失うことは、人間にとっては、その現在を失うことにひとしい。そして、過去が現在にとってかわる。人格は崩壊し、人は『生ける屍』となる」。

 人間の未来への展望は、私たちの現在の「生きがい」に転化し、私たちに生きる希望をあたえる。パンドラの箱に残された「希望」は、明るい未来への確信と不可分に結びついている。ところが、未来とは、たんに、時間的に先のことを指す言葉であろうか。

もしそうだとすれば、コンドルやハイエナにも、ゼラニウムやデンドロビウムにも、さらに極端にいえば、ステンレスやダイヤモンドにも未来はあることになる。しかし、未来は、人間にとってのみ存在する。たとえ、肺ガンで一年後の死を宣告された人間や明日をも知れぬ高齢者にとってもである。真の未来への展望は、人類の高度の社会への発展にたいする確信と結びついている。

そして、この確信は、社会の発展法則の存在とその認識可能性を前提として、したがって、人間の理性・知性への信頼の基礎のうえに築かれている。すなわち、未来は、けっして個人的なものではなく、人間と人間との連帯のうちにある。理性・知性が、いわばこのような連帯をつくりだすといってよい。

 理性・知性は、媒介し、古いものを新しいものに接続させる。既知のものを未知のものへと結合する能力である。労働は、人間と人間とを、労働手段によって媒介することによって、まさに人間をつくりだし、理性・知性を、したがって、人間的な感情・意志を形成した。

知・情・意という意識の三要素は、ただ平板に立ちならぶ三人の人物のようなものではない。三つの要素のうちで、理性・知性こそが、主導的な存在である。そのとき、人間は、まさに人格的存在となるのである。
(仲本章夫著「哲学入門」創風社 p221-227)

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◎私たちの追求する生き方にも触れて、異性に対する恋愛観を深めよう。