学習通信040403
◎「人間らしい人間関係」とは……。

■━━━━━

 それから、最後にもう一つ。
 君が生きてゆく上に必要な、いろいろな物をさぐって見ると、みんな、そのために数知れないほどたくさんの人が働いていたことがわかる。それでいながら、その人たちは、君から見ると、全く見ず知らずの人ばかりだ。この事を、君はへんだなあと感じたね。

 広い世間のことだから、誰も彼も知合いになるなどということは、もちろん、出来ることじゃあない。しかし、君の食べるもの、君の着るもの、君の住む家、──すべて君にとってなくてならないものを作り出すために、実際に骨を折ってくれた人々と、そのおかけで生きている君とが、どこまでも赤の他人だとしたら、たしかに君の感じたとおり、へんなことにちがいない。

 へんなことにはちがいないが、今の世の中では、残念ながらそれが事実なんだ。人間は、人間同志、地球を包んでしまうような網目をつくりあげたとはいえ、そのつながりは、まだまだ本当に人間らしい関係になっているとはいえない。だから、これほど人類が進歩しながら、人間同志の争いが、いまだに絶えないんだ。

裁判所では、お金のために訴訟の起こされない日は一日もないし、国と国との間でも、利害が衝突すれば、戦争をしても争うことになる。君が発見した「人間分子の関係」は、この言葉のあらわしているように、まだ物質の分子と分子との関係のようなもので、人間らしい人間関係にはなっていない。

 だが、コペル君、人間は、いうまでもなく、人間らしくなくっちゃあいけない。人間が人間らしくない関係の中にいるなんて、残念なことなんだ。たとえ「赤の他人」の間にだって、ちゃんと人間らしい関係を打ちたててゆくのが本当だ。

──もちろん、こういったからといって、何も、いますぐ君にどうしろ、こうしろというわけではない。ただ、君が大人になってゆくと共に、こういうことも、まじめに心がけてもらいたいものだと思っていうんだ。これは、人類が今まで進歩して来て、まだ解決の出来ないでいる問題の一つなんだから。

 では、本当に人間らしい関係とは、どういう関係だろう。
 ──君のお母さんは、君のために何かしても、その報酬を欲しがりはしないね。君のためにつくしているということが、そのままお母さんの喜びだ。君にしても、仲のいい友だちに何かしてあげられれば、それだけで、もう十分うれしいじゃないか。人間が人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。そして、それが本当に人間らしい人間関係だと、−コペル君、君はそう思わないかしら。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p96-98)

■━━━━━

 少女としてのフロレンスの明け暮れは、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに相違ない。

小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見てたいそうかわいそうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように会合して手伝わせながら、その傷の手当をし、副木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生まれながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。

が、この挿話がもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬をかわいそうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に副木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大特色であったと思う。

そしてまた、その小さい少女の彼女が、牧師を終わりまで手つだわせねばねかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴、一つの天稟であった。

──略──

 彼女は自分のうちに、まさに燃え立って炎となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。

 何か全心のうちこめることがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人が、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果たしてそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。

 若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い頸筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は、彼女がとくに上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、まず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。

フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。

──略──
 同じころ、さらにもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみはまったく新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺をきたしたらしく見える。

当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通している一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持がまざまざとのこされている。

「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……。」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。

そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活をきずく好機会を永久に逸し去ること」はとてもできないとわかっている。

フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会も与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。

──略── ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、まったく無限の役にたった。スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光が、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い姶めた。

六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちは、お話にならぬ贅沢だ! と目をみはった。

彼女の努力でも精力でもどうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。病兵の食べる「肉を骨から離す」ことである。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。

病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄付金があってからできたことであった。これらの緊迫した仕事はどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。

看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽いものであった」のだと。しかしながら、その軽いものも何と度はずれな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。

そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減された兵士たちの心からなる喜びの限に彼女が天使に見えたのは自然だった。

──略──

 このようにしてその天稟の中に極端な行動の力と確信の力とをもったナイチンゲールが、その気質で少女時代からの宗教心と上流婦人らしい社会の見方の一面とをないまぜ三巻にわたる労働者のための宗教解説の本を書いたというのも、興味のあることだ。

さきにのべたような当時の社会の巨大な息づきは、ヴィクトリア時代の淑女の活動的な精力を、社会改善へ向けさせたのであったが、その社会の「悪の起源」を究明する段になると、ナイチンゲールは、スープをのむには匙がいると考えて、それを手に入れたと同様の解釈をしている。彼女によれば、神は全知全能であるから、唯一つであるその神と同じものをいくつも創れない、ために神は常に完全でないものをこの世に造らなければならないというのが論旨であった。

この本をナイチンゲールから寄贈されたジョン・スチュアート・ミルが、この本を手にした労働者と同様に、彼女の理屈はよく納得されないといった時、四十歳に達していたフロレンスはさも意外な面持であった。

 社会における「悪の起源」は、神が完全であるからではない。社会全般の生活の安定のために働くべき生産の手段──工場や機械などが、それを所有している少数の人々の利益のためだけに運転されて、労働者は一生ただ日々を生きてゆくための賃銀しか支払われていない、という近代資本主義の生産、経済の方法こそ、社会悪の起源である。

イギリスでもロバート・オーエンがこの点に注目し、フリードリッヒ・エンゲルスはフロレンスがスクータリーに着いた一八五四年の十年前に、イギリス労働階級の状態について詳細、正確、なまなましい記録を著わしているのである。

 しかもこの奇妙な本の中で、フロレンス・ナイチンゲールは時々宗教の議論も労働者の問題も忘れて、当時の上流婦人の地位や家庭生活の虚偽、結婚の欺瞞と因習の無意味さとを痛罵している。

彼女のはげしい筆端が深い憤りに震えながら、裕福な家庭の末婚婦人がおかれているおそるべき運命を描き出すとき、読者は、その百ページのうちに、突然一種名状しがたい強烈な婦人としての実感がみなぎりわたっていることにおどろかされるのである。そこに深刻に女としてのナイチンゲールの生の呼吸がきこえるのである。

 現実的なものと神秘的なものとの間で揺れ動いたこの偉大な女性の混乱も、老年にいたってはバラ色の霞の中にとけこんで、八十七歳で「勲功章」を授けられた時の彼女は「古い神話の復活」にも心を労されず終日にこにこした柔和な一老婦人であった。鋼鉄がついに柔げられて、その九十年の生涯を終わったのは一九一○年であった。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本出版社 p99-115)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「深刻に女としてのナイチンゲールの生の呼吸がきこえる」と。

ナイチンゲールは、19世の人。21世紀に私たちは生きています。
「何か全心のうちこめることがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人が、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果たしてそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか」……。