学習通信040404
◎「全国民を武装させるという革命的制度」……。

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 全国民を武装させるという革命的制度は、まもなく制限されて強制徴兵(資産のある人には、兵役免除金を払って代理を立てることができた)に変えられ、この形態で〔ョーロッパ〕大陸のたいていの大国に採用された。

ただプロイセンだけは、後備軍制度というかたちで国民の防衛力をもっと大規模に汲みとろう、とやってみた。プロイセンはそのうえに、──一八八三〇年から一八六〇年までのあいだに完成された・軍用に使える前装式ライフル銃〔銃口から装弾する〕が短いあいだ或る役割を果たしたあとで、──その歩兵全員に最新の兵器である後装式ライフル銃〔銃身の後ろから装弾する〕を装備した、最初の国家であった。プロイセンが一八六六年に成功したのは、この二つの処置のおかげである。

 ドイツ=フランス戦争〔一八七〇/七一〕ではじめて、ともに後装式ライフル銃をたずさえた二つの軍隊が対戦し、しかも、両軍とも、旧式な火打石銃の時代と本質上おなじ戦闘隊形をもって戦った。違いはただ、プロイセン軍が中隊縦隊を採用して、新しい武装にもっと適合した戦闘隊形を見つけよう、とやってみていたことだけである。

しかし、〔一八七〇年〕八月一八日にサン・プリヴァ付近でプロイセンの近衛兵が中隊縦隊を本気で用いようとやってみたとき、戦闘の主力である五個連隊は、せいぜい二時間のうちにその兵力の三分の一以上(将校一七六名、兵士五一一四名)を失ってしまった。

そして、それからというもの、中隊縦隊も、大隊縦隊また横隊と同じく、戦闘隊形としてはだめだということにきまった。それ以後にどんなものにせよ密集した部隊を敵の銃火にさらそうとやってみることは、すべてやめになった。そして、戦闘は、ドイツ軍の側では、もっぱらあの密度の濃い散兵群というかたちで行なわれた。

縦隊では、それ以前でも──司令部から〈規律違反〉と非難されてはいたが──降りそそぐ弾雨のもとではひとりでに散開してこういう散兵群になるのが、すでにきまりになっていたのである。

同様に、敵の銃火の射程内では、こんどは駆け足が唯一の動きかたとなった。この点でもやはり兵士のほうが将校よりも利口であった。これまで後装式銃の銃火のなかでただ一つためされずみのこの戦闘形態を、兵士は、本能的に見つけ出していて、指揮官の抵抗を排してこれを成功のうちに押し通したのである。

 ドイツ=フランス戦争とともに、それまでのすべての転回点とはまったく別の意義をもつ、一つの転回点がやってきた。第一に、兵器が非常に改良されたために、なにか或る変革的影響を及ぼすような新しい進歩は、もうありえなくなった。

目で見分けられる限り二個大隊に命中させることができる大砲〔カノノ砲〕と、一人一人の兵を目標としてそれと同じことができ、しかも装填するのに照準するよりも短い時間しかかからない小銃とがあれば、それ以上の進歩は、野戦にとっては、すべて多かれ少なかれどうでもよいものである。だから、この面から見れば、発展の時代はほぼ終わったわけである。

第二に、しかし、この戦争のせいで、〔ヨーロッパ〕大陸のすべての大国は、仕方なくプロイセン式の後備軍制度をいっそう強化したかたちで自国に採用しなければならなくなり、これとともに、数年のうちにそれで破滅するほかはない巨額の軍事負担を背負いこむことになった。軍隊は、国家のおもな目的となり、自己目的となった。諸国の人民は、兵士を供給し養うためだけに存在しているのである。

軍国主義は、ヨーロッパを支配し呑み込む。しかし、この軍国主義は、自分自身の没落の萌芽をもみずからのうちにもっている。個々の国家どうしの競争にあおられて、この諸国家は、仕方なく、一方では、年々ますます多額になる金を軍隊・艦隊・火砲などなどに使わなければならず、こうして、財政的崩壊をますます速めずにはいられなくなっている。

他方では、一般兵役義務をますます真剣に実施して、これによって、ついには全人民を武器の使用に習熟させなければならなくなっている。つまり、人民が或る瞬間には軍司令部のお歴々にさからって自分の意志を押し通すことができるようにしているのである。そして、この瞬間は、人民大衆──地方また都市の労働者、および、農民──が一つの意志をもつ、そのとたんにやってくる。

この点までくると、王侯の軍隊は人民の軍隊に転化する。機械は奉仕をやめ、軍国主義は、自分自身の発展の弁証法によって滅亡する。一八四八年のブルジョア民主主義〔フランスの二月革命、ドイツの三月革命など、ヨーロッパの一連のブルジョア民主主義革命の動き〕がまさにブルジョア的であってプロレタリア的でなかったからこそ──なしとげることができなかったこと。

すなわち、労働している大衆にその階級的地位に見あった内容をもつ一つの意志を与えるということ、──このことを社会主義は間違いなく成就するであろう。そして、これは、軍国主義を、またそれとともにすべての常備軍を、内部から爆破する、ということである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p238-240)

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 徴兵制度の異様な早さ

 日本が強大な軍事力を備え、やがてアジア諸国に侵略の駒を進め、破滅的な戦争を始めるにいたったのは、徳川幕府を倒した明治の新政府が封建制度から一挙に近代的資本主義国家へ移行するという、あまりにも大きな飛躍を志向した結果だった。すでにアジアを植民地化しつつあった西欧諸国の勢力と対抗すべく、近代社会を形成するのに必要な過程を省略した変化の急激さこそ、日本の近代国家に非常に大きな歪みを生じさせた原因である。

 明治維新と呼ばれる激しい政治変革は、旧封建時代から山積したきわめて解決の困難な条件を引き継いで行われた。幕末期には、封建制度内部の政治的、経済的、社会的衰退が深刻になり、同時に植民地をひろげつつあった西欧の列強の圧力が身近に追っていた。

幕府はアメリカに迫られて開国し、その後長らく悩まされることになる不平等な条約を結んでいた。一方、生麦事件の報復としてイギリス軍艦は鹿児島を砲撃し、長州もまた別の機会に四カ国連合艦隊に下関を砲撃される。局地的な戦闘とはいえ、薩長いずれも敗北を喫したが、彼らは相手から近代軍事技術の重要さを学んだのだった。

 倒幕は、一般民衆の民主的要求によるものではなく、幕府に対立する封建雄藩であった薩摩、長州、土佐、肥前の各藩の下級武士と少数の公家によって行われ、彼らが専制官僚として新政府を創建した。

歴史家E・H・ノーマンの言葉を借りれば、封建制度から一挙に資本主義へと飛躍するこれらの重大な変革が「民主主義的代議制度を通じて人民大衆の手によってではなく、少数の専制官僚によって達成された」結果が、日本の近代国家だったのである。

 ノーマンは、明治の新政府が、国際的、国内的に難問を抱えて出発し、植民地化されても不思議のないまったくの弱小国であったにもかかわらず、西欧列強が魅力のない日本よりも中国に関心を抱き、そこからうまい汁を吸おうとしている隙に封建勢力を倒し、「国民的中央集権政府を樹立するとともに、西洋の科学と発明の活気ある世界に向って日本を開放することができた」ことを巧みに説きあかしている。

彼の『日本における近代国家の成立』(一九四○)および『日本の兵士と農民』(一九四三)は、歴史家によってはさまざまに異論もあろうが、複雑な政情、社会状況の解決や資本主義の強引な創設とその矛盾を正確に見つめた、きわめて示唆するところの多い卓抜な歴史書としてあらためて評価すべきものである。

 国家の近代化とは、地理的には領土を確定し、社会的には自由な個人の成立があり、制度的には民主的な基盤にもとづいて教育、軍事、産業を創設し、政治的には選挙と議会制度を整備することてある。日本の近代国家ではどうだったか? 国民という言葉は早くから使われていたが、それは国家という概念の稀薄な封建時代にはなかった言葉である。

各藩の境界が取り払われるのは早く、国家は空間として立ち上がった。その空間に住む民衆が国家に帰属したから国民となったにすぎなかった。民主主義はついに形成されず、憲法の制定と議会制度もずっと遅れるが、それらをぬきにした諸制度はほとんど同時期に創設されていく。

日本は「侵略の危険を受けとめるための最新式国防軍の建設、武装兵力の基礎となる工業の創始、工業的近代国家にふさわしい教育制度の形成を同時に成しとげねばならなかった」(ノーマン)のだ。軍隊と工場と学校が、明治維新後、早々に組織され、国家形成の主要な要素になったのは事実たった。いわゆる「富国強兵」が国是となり、それが近代日本の創設のための言説を生みだしていった。

 このうち徴兵制が早くも一八七二〜七三(明治五〜六)年のあいだにできあがる。なによりもまず軍隊国家の道を優先的に選択したのた。ノーマンはこの点に注目する。徴兵制と国民の概念とはほんらい切り離せないものである。どんな国民国家もたいてい、国民皆兵の制度を国家が暴力を独占する過程で採用している。

しかし、ほかの西欧先進国と比較すると、日本の近代軍隊の設立の歴史的条件は異質であった。ノーマンが戦争中に書いた『日本の兵士と農民』は、次のように日本の徴兵制度の時期の早さに注意を喚起し、その後の日本のたどった軍隊国家への道を解明する方法を示唆している。

見逃してはならない事実は、近代目本の徴兵制度の型を規定した一八七二〜七三年〔明治五年詔書、明治六年徴兵令〕の最初の徴兵制と一八八三年〔明治一六年、ただし明治一二年にも〕の改正令とはともに、憲法も何らかの代議制度も確立しない前に布告されていることである。

 西欧では、国家が暴力を独占する、つまり常備軍をもつひとつの条件は、国民に(かりに擬似的であっても)民主的な選挙権があたえられることであった。徴兵とは、西欧諸国では一部特権階級が暴力を専有してきた社会が変わって、国民大衆が社会的に浮上してきたときに起こったことなのである。

例示としてノーマンは右の引用箇所の註記に、フランス革命を挙げても不思議はないのに、故意にさらに古い例にさかのぼり、チャールズー世の治下で、国王が議会の同意なしに常備軍を維持する権利をもつかどうかが、イギリス憲政史上もっとも激しい論争になったことを記して、日本の徴兵制度の、国家の様態に比した異様な早さに注意をうながしている。

 一般の人民に差別なく兵隊になることを義務づける法が徴兵令である。そのためには人民が国民なるものとして存在しなければならない。前章にあげたベネディクト・アンダーソンによる国民国家論を鏡にして日本をみると、真っ先に暴力を合法化した軍事国家として国民国家が誕生することの特異性が浮きあがる。

国民国家が成立するときには「国民は主権的なものとして想像される」と、アンダーソンは言っていた(『想像の共同体』)。ところが、日本では第二次大戦の敗戦前に国民が自らを国家の政治のあり方を最終的に決める権利をもつ主体(これを主権者という)として心に思い描くことは一度もなかったのである。つまり日本は軍事国家として成立したとき、天皇が主権者であって、国民は主権者ではなかった。

 憲法は徴兵令にはるかに遅れて制定され、しかもその改定が天皇にしかでぎない欽定憲法だった。それは天皇によって人民にあたえられたものであり、日本は依然として専制国家だったのである。

他の諸国では、民主的な社会制度のある程度の発達と並行して国民皆兵の制度が生まれている。日本で徴兵令が施行された歴史的な事情はまったく違っていた。一切の民主的な条件もないところで専制的な権力によって決められたのである。

『日本の兵士と農民』のなかで、ノーマンは繰り返し徴兵制が専制的に決定された過程にふれているが、この本の執筆の時期からいって、日本軍がアジア(とくに南京)において犯していた蛮行を知らないはずはなかった。それらの蛮行は自由思想の欠如と無関係ではないとノーマンは考えたのだ。
(多木浩二著「戦争論」岩波新書 p45-50

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 最近の労作である広瀬隆『アメリカの巨大軍需産業』(集英社新書、○一年刊)には、一七九一〜九九年の「アメリカの国家歳出に占める軍事費の割合」の表が掲載されている、それによると、南北戦争の時期は九〇%前後、第一次世界大戦時は六〇%、第二次世界大戦時は八○%前後、朝鮮戦争時は六〇%前後、ベトナム戦争時は四〇〜五〇%である。

 重視しなければならないことは、この数字がソ連崩壊後の九〇年代も一五〜二〇%を占め続けていることである。

 「四半世紀におけるアメリカの軍事費」によると、軍事費の歳出実績(議会予算局データ)は、ソ連崩壊の年・九一年にブッシュ政権のもとで最高の三一九七億ドルを記録している。

ソ連崩壊後、一定の軍縮が実行され、クリントン政権のもとで九六年には二六六〇億ドルまで低下している。その後、また増加傾向に転じ、九九年には二七五五億ドルとなった。

ブッシュ政権となって、再び三〇〇〇億ドルを超えるにいたり、就任後最初の二〇〇二会計年度(○一年一〇月〜O二年九月)の国防予算は、前年比四・八%増の三一〇五億ドルだった。

同時多発テロ事件以後、予算教書で要求された二〇〇三会計年度の国防予算は、過去二〇年間で最大の伸び率一五%となり、総額三七九〇億ドルとなった。

国防情報センターは、軍事予算の総額は三九六〇億ドルに上り、ロシアの六・六倍、二位から二六位までの二五ヵ国の軍事費を上回るという試算を発表している(「しんぶん赤旗」○二年二月一六日付)。一ドル一二○円とすると、三一〇五億ドルは三七兆二〇〇〇億円、三九六〇億ドルは四七兆五〇〇〇億円となる。

 いずれにせよ、アメリカの国家予算における軍事費の比重はきわめて膨大なもので、現在、世界全休の軍事支出のなかで最大の比重を占めている。

○二年六月一三日にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が発表した年次報告によると、「世界の軍事支出は昨年も増加を続け、冷戦の終わりから90年代後半までの削減傾向は完全に逆転した」が、同報告は「米国の軍事費は世界全体の36%を占める突出ぶりで、ブッシュ政権の増強政策によってこのシェアは今後一層膨らむと予測」しているという(「朝日」○二年六月一四日付)。
(上田耕一郎著「ブッシュ帝国主義論」新日本出版社 p60-61)

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刀狩令と海賊停止令

百姓救済をうたう

 秀吉の百姓に対する政策の中で検地とならんで重要なのが、百姓から武器を取りあげた刀狩令である。それほまた大名らに出した惣無事令、海で活動する人々に出した海賊停止令とならんで秀吉の「平和令」の一つとされる。ここでは海賊停止令についても述べることにしよう。

 刀狩令は天正十六年七月八日に出された。聚楽第行幸から三ヵ月余り後のことである。百姓に対して公布したのでなく、大名・領主に出して実行させた。三ヵ条から成るその第一条を掲げよう。

一、諸国百姓(等)、刀・わきさし・弓・鑓・てつはう、そのほか武具の類(たぐい)所持候事、かたく御停止(ごちょうじ)候。その子細は、いらざる道具を相たくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然、一揆を企て、給人に対し非儀の動をなす族(やから)、もちろん御成敗あるべし。しかれば、その所の田畠不作せしめ、知行ついゑになり候間、その国主・給人・代官として、右の武具ことごとく取り集め、進上致すべき事。

 諸国の百姓が刀などの武器を所持することを禁止する。理由は、それらをもっていると、年貢などを出ししぶり、一揆を企て、領主に反抗するからである。もちろんその上うな者は成敗する。しかし、そうすると田畠が不作となり年貢がとれなくなる。だから大名・給人・代官は武器を集めて進上せよ。これは秀吉のホンネである。

刀狩がなぜ必要かを説き、しかもそれはおまえたち大名・領主みんなのためなんだよと教え諭し、実行させるのである。百姓には聞かせられない内容である。

 大名から百姓に説く表向きの理由は第二・第三条に用意された。没収した刀・脇差は無駄にせず、方広寺大仏建立の釘やかすがいに使う、だから百姓は現世はいうまでもなく来世も救われる(第ニ条)。百姓は農具だけもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長久である。(秀吉は)百姓へのあわれみをもってこのように仰せ出された。

まことに国土安全・万民快楽の基である。中国の尭(伝説上の理想的帝王)の時代に天下を鎮めて宝剣利刃を農具に用いたというが、日本ではそのような例はこれまでなかった。各がこのことをよく理解し、百姓は農薬(農耕と養蚕)に精を入れよ(第三条)。

 第一条のホンネとは大違いて、第二条では大仏への結縁によって来世の救済を、第三条では百姓は農業に専念することで現世の幸福を得られるといっている。秀吉はこのように具体的にホンネとタテマエの使い分けを大名・領主に教授した。

百姓らの新しい支配の仕方を教え、彼らを新しい支配者へと変身させるように導いた。そのためには彼らに対しても新しい百姓像を示してやる必要があったし、同時に百姓に対してもそれを示し教え諭す必要があった。武士身分とは異なる、百姓身分にふさわしい職能(農耕)に専念することで長久と救済が約束されると。

 これをうけて前田別家は実際に、大仏殿の釘・金物の御用のためといって刀狩を行った。秀長の支配する大和でも『多聞院日記』によれば、大仏の釘に使うから来世のためになるとともに、刀をもっているとつい喧嘩をして命を失うことになるのを助けるのだから現世のためにもなる、だから万民の利益を考えてのことだと触れたらしい。第一条のようなホンネはもちろん知らされなかったが、多聞院英俊はそれを鋭く見破り、「内証は一揆を停止するためだ」と記している。

 八月にははやくも加賀国の二郡を支配する大名溝口秀勝から奉行の長束正家に武器が送られてきた。刀・脇差など約四干点にのぼる。島津領からは翌年に刀・脇差など三万腰が届けられたが、それが大仏殿の柱一本の進上といっしょであった点が興味深い。実際、刀狩が秀吉の大仏建立の大事業への貢献・忠節としても意識されていたのであろう。フロイスによれば、毛別席元は刀剣を積んだ船を六隻も送ったという。
(池上裕子著「日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府」講談社 p190-193)

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◎国民が武装することは、支配者の側も危機をうみだす。
「人民が或る瞬間には軍司令部のお歴々にさからって自分の意志を押し通すことができるようにしているのである」と。