学習通信040405
◎支配とは……。
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首長の政治力と戦争
環濠集落の研究は、「平和な弥生農村」像から「戦いの城塞集落」像へと、弥生時代のイメージを劇的に変化させた。歴史的事実として、弥生時代には戦いがいたるところで起こった。その背後に、第一に水稲農耕を核とする農耕社会の成立、そして経済的な生産力の向上と政治権力の衝突があった。
技術的に完成されたかたちで伝来した水稲農耕には、朝鮮半島南部から渡来した人びとがいた。吉野ヶ里遺跡の人骨も、背の高い、長い顔立ちで縄文人とは異なっている。男性はタレントで言えば藤田まこと、女性は由紀さおりに似ているらしい(七田忠昭『吉野ヶ里遺跡』による)。渡来後、それらの人びとがしだいに混血していつたようだ。どの程度の人びとが渡来してきたのか、数量的分析は難しい。
一時は新移住者による稲作の伝播を重視する説もあつたが、最近では在地の縄文人が主体的に受容した、とする考え方も出てきている(金関恕「考古学の新しいパラダイム」)。問題は、在来の縄文人とどのような関係を持ったかだろう。水田の開発にあたって、対立も生じたことだろう。
次は、水田稲作に伴う利害の衝突である。共同体の首長の政治力の問題から考えてみよう。潅漑施設の整った水田を維持するためには、集落内部の共同体成員の管理が重要となる。河川から水を引く利水問題では集落どうしのおたがいの利害が衝突して、紛争の種となりやすい。共同体の人口が増えれば、新たにムラをつくり、水田を開発することが課題となる。そのためには共同体間の利害調整が、恒常的に必要となる。
また、祭祀・呪術などのさいの首長の宗教的役割も軽視できない。こうして、共同体の首長の指導力や政治力が、いちだんと重要になってくる。政治的調整に失敗すれば、たちまち住人の実生活にひびいてくるからだ。
さらに農耕に必要となった鉄製の農・工具の入手をめぐる問題が発生した。この時期の鉄資源は朝鮮半島南部からもたらされていた。鉄資源の入手にあたっては、当初は北部九州地域の首長連合が輸入の主体になっていただろう。資源の配分をめぐって、集団内と集団間の利害対立が吹き出したはずである。
そこに、水稲農耕により、蓄積可能な余剰生産物が生じてきた。これまでの貯蔵品とは比較にならない量の多さである。こうした米の管理も首長の役目であるが、こんどは余剰生産物をめぐる争いがはじまる。
また、飢饉になれば、集落どうしの貯蔵のばらつきが政治問題化する。こうした問題は、首長の平和的な政治的調整だけで解決するものではない。政治的調整が失敗すれば、軍事行動が勃発する。環濠集落の環濠は、それをあらかじめ防御するために設置されていたのである。
(吉村武彦著「日本社会の誕生」岩波ジュニア新書 p80-82
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結論を述べよう、──森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。
そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。偶然なにかの発見をしたとしても、彼は自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。
私がこのような原始状態の仮定についてこれほど長々と述べてきたのは、古い誤謬と根ぶかい偏見とを打ちこわさなければならず、それには根元まで掘り下げて、不平等なるものがたとえ自然的なものであっても、わが著作家たちの主張するような現実性と影響力とをこの状態のなかでもつにはいかにほど遠いかということを、真の自然状態の画面のなかで示さなければならないと考えたからである。
実際、人々を区別する差異のうちで、いくつかのものは、自然的な差異として通っているが、それらが単に習慣と、社会のなかで人々が採用するさまざまな生活様式との産物であることは見やすいことである。
だから、強壮な体質か虚弱な体質か、それによって力が強いか弱いかは、根本的な体格よりかむしろその育て方がきびしいか柔弱であるか、ということに基づくことが多い。精神の力についても同様であって、教育は教養のある精神とそうでない精神との間の差をつけるだけでなく、前者の間にも教養に比例して見出される差をひろげる。なぜなら、巨人と小人が同じ道を歩くとすれば、彼ら二人とも一歩歩くごとに、巨人のほうが新しい利点を得ることになるだろうから。
ところで、いま社会状態のさまざまな階級を支配している、教育と生活様式のおどろくべき多様性を、みんなが同じ食物を食べ、同じように生活し、正確に同じことをしている動物や未開人の生活の単純さと一様性とに比較するならば、人と人の差異が、自然の状態においては社会の状態よりもいかに少ないものであるか、また自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう。
しかし、たとえ自然がその賜の分配にあたって、人々の言うほどのえこひいきをしてみせたとしても、そのもっともひいきされた人々が、ほとんどいかなる種類の相互関係をも許さないような事物の状態において、いったいどういう利益を、他の者には迷惑をかけて、それから引き出すことができるだろうか。
恋愛のまったくないところで美が何の役にたつだろうか。まったく話をしない人々に機知が、また取引をしない人たちに策略が、何の役に立つか。私はたえず、強者は弱者を圧迫するものだとくりかえし言われるのを聞く。しかしこの圧迫という語の意味を説明してもらいたいものだ。ある者が暴力をもって支配すれば、他の者はひたすらそのわがままに屈服して嘆き苦しむだろう。
これこそまさに私がわれわれの社会で観察することなのである。しかし、それがどうして未開人についていわれうるだろうか、私にはわからない。彼らには服従と支配とはどういうことかを理解させるにも非常に骨が折れるだろう。一人の人間が他の人間のちぎった果物や、その殺した獲物や、その隠れ場となっていた洞窟を横取りするようなことはできるだろう。
けれどもその彼がその人間をどうやつて服従させることができようか。そして何も所有しない人々の間にいかなる従属関係の鉄鎖がありうるだろうか。もし私が一つの樹から追われるなら、それをすててほかの樹へ行きさえすればよい。もし私が或る場所で苦しめられるなら、ほかの場所へ移るのをだれが妨げるだろうか。
また、私よりもかなり力が強く、その上かなり堕落しかなり怠け者であり、兇暴でもある者がいて、自分は何もしないでいながら私に無理やりにその生活の資を供給させる、としてみよう。すると、彼は片時も私から目を放さないように、睡眠中も注意おさおさ怠りなく私を縛りつけておくように、固く決心しなければならない。
そうでなければ、私が逃げたり彼を殺したりするかもしれないのだ。つまり彼は、自分が避けたいと思う苦痛よりも、また彼が私自身に与える苦痛よりも、はるかに大なる苦痛を進んでうける覚悟をしなければならないわけである。そんなにまでしても、彼の警戒が一瞬間ゆるんだり、不意の物音で彼が頭をそむけたりすれば、たちまち私は森の中へ二十歩もかけだす。私の鎖はちぎれ、彼は生涯に二度と私を見ることはない。
このような細目を無用に長々と述べなくとも、従属のきずなというものは、人々の相互依存と彼らを結びつける相互の欲望とからでなければ形成されないのだから、ある人を服従させることは、あらかじめその人間を他の人間がいなくてはやっていけないような事情の下におかないかぎり不可能である、ということは、だれでも知っているにちがいない。
このような状況は自然状態には存在しないから、そこではだれでも束縛から自由であり、強者の法律は無用になっている。
以上、自然状態においては不平等はほとんど感じられないことと、不平等の影響もそこでは無に近いことを証明したのだから、これからなすべきことは、その不平等の起原と進歩とを人間精神の連続的な発展のなかで示すことである。
また、改善能力や社会的な徳やそのほか自然人が潜在的に授かった諸能力が、それ自身ではけっして発展できなかったこと、そのためには〔諸能力の発展のためには〕いくつかの外的な原因
──それはけっして起らないこともありえたが、それがなければ人間は永久にその原始的な構成のままに止まったろうと思われる
──が偶然にこれに協力する必要があったことなどを示したのであるから、次には、人間の種をそこなうことによって理性を完成し、人間を社交的にすることによって邪悪な存在にし、ついにはるか遠方の起点から人間と世界とを現在われわれの見るような地点にまで連れてくることのできたさまざまな偶然を考察し、結びつけなければならない。
(ルソー著「人間不平等起源論」岩波文庫 p80-83)
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もしデューリング氏が、<人間による人間の支配が一般に人間による自然の支配の先行条件である>と主張することによって、<われわれの現在の経済的状態全体と、農耕また工業がこんにち到達している発展段階とは、階級対立のなかで・支配と隷属とのなかで展開していく社会史の結果である>、と言おうと思っているにすぎないのなら、氏は、『共産党宣言』以来とうに陳腐になった事柄をなにか言っているわけである。
肝心なことはまさに、諸階級と支配諸関係との発生を説明することなのであって、もしデューリング氏がこれについていつもただ「強力」という一語しかもちあわせていないのなら、われわれは、はじめにいたところからまったく進んでいないことになる。
<いつの時代でも、支配され搾取される人の数のほうが支配し搾取する人の数よりもずっと多く、したがって、本当の力は前者の側にある>、という簡単な事実だけでも、氏の強力論全体の愚劣さを明らかにするのに十分である。だから、問題は、あいかわらず、支配=隷属関係を説明することにあるわけである。
この関係は、二重の道すじで発生した。
人間は、もともと動物界──狭義の──から出てきたものであるから、歴史に足を踏み入れるときには、まだなかば動物であり、野生のままで、自然の諸力にたいしてまだ無力で、自分自身の諸力をまだ知っていない。だから、動物と同じように貧しく、また、生産性の点で動物と大差がないわけである。
生活状況の或る種の平等がいきわたっており、また、家族の長についても、やはり社会的地位の一種の平等が行なわれている──少なくとも、社会階級は存在していない。そして、この状態は、のちの文化民族の農耕を営む自然生的な共同体のなかでもまだ続くのである。
このような共同体のどれにも、はじめから或る種の共同の利益が存在していて、これの保全は、たとえ会員の監督のもとでにせよ、個々人に委託されないわけにはいかない。それは、争訟の判決、個々人の越権行為の抑止、用水の監視──とくに暑い国ぐににおいて──、最後に、太古の原始状態にあっては、宗教上の機能、以上である。
このような職務は、どの時代の最も原生的な共同体にも見いだされる。たとえば、ドイツの最古のマルク共同体に見いだされ、インドではこんにちもまだ見いだされる。こうした職務は、言うまでもなく、或る種の全権を与えられており、国家権力のはじまりである。
しだいに生産力が増大していく。人口が密になっていくにつれて、個々の共同体のあいだに、共同の利益がつくりだされたり相反する利害がつくりだされたりする。こうした共同体が合流して一つのグループとなってもっと大きい全体をつくるようになると、またしても一つの新しい分業が生まれて、共同の利益を保全し相反する利害を撃退するための機関がっくりだされることになる。
こうした機関──もうグループ全体の共同の利益の代表者だということから、それぞれの共同体にたいして或る特殊な・場合によっては対立的でさえある地位を占めるようになる──は、まもなく、一部は職務の世襲化──これは、万事が自然生的に起こる世界では、ほとんど自明の成り行きである──のせいで、一部は他のグループとの衝突がふえるにつれてますますなくてはならないものになっていくせいで、さらにいっそう自立したものになっていく。
社会的機能が社会にたいして果たすこの自立化が、どのようにして時とともに強まって社会を支配する力になることができたのか、はじめは召使いであった者がどのようにして──好都合な機会があるところでは──しだいに主人に転化していったのか、この主人がどのようにして、その時々の事情に応じて、オリエントの専制君主またはサトラップ〔古代ペルシアの地方総督〕として、〔古代〕ギリシアの部族首長として、ケルト人の族長などなどとして、登場したのか、この転化にさいしてこの主人は結局のところどこまで強力をも用いたのか、最後に、個々の支配者たちがどのように結合して一つの支配階級になったのか、どいう点には、ここでは立ち入る必要はない。
ここではただ、政治的支配の基礎にはどこでも社会的な職務活動があった、ということを確認することだけが肝心なのである。
そして、この政治的支配も、自分のこの社会的な職務活動を果たした場合にだけ長く続いた。
どれほど多数の専制支配がペルシアとインドとで興亡したにしても、すべて、自分がなによりもまず河川流域の潅漑の総請負人であることをまったく正確に知っていた。
この国ぐにでは、灌漑がなければ農耕はできないのである。インドでこのことに気づかなかった最初の人は、開明されたイギリス人たちである。彼らは、灌漑水路と水門とを崩れるままにし、やっといまになって、規則的にくりかえす飢饉のおかげで、つぎのことを発見しているのである。
それは、<インドにおける自分たちの支配を少なくとも先行者たちの支配と同じ程度に正当なものとすることもできたであろうただ一つの活動を、自分たちはなおざりにしてきた>、ということである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p250-253)
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◎学習通信040329・040330・040404 と重ねて深めよう。これらみっつの感想では、ほとんどが暴力と経済ということに「常識」のように目がいって所有∞支配≠ノはとどいていませんでした。
あらためて私たちのあてはめ主義=c…などの強さを痛感します。