学習通信040406
◎人間としての力の回復=c…

■━━━━━

認知的贅沢
注意の集中という贅沢

 では、次に、ヒトのもう一つの特徴である、高度な思考能力について考えてみよう。ヒトの脳が体重に比べて相対的に非常に大きく、しかも、新皮質と呼ばれる、高度な認知や思考にかかわる脳の部分が非常に大きいことはよく知られている。そのおかげで、ヒトは、自然現象について考察し、社会関係に思いめぐらし、さまざまな発明や発見をし、環境を改変し、政治的イデオロギーを持ち、哲学や自然科学を構築し、現在のような存在となった。

 このようなことができるためには、さまざまな現象について深く観察し、推論し、論を深め、試行錯誤でいろいろな技術を試すことが必要である。これらは、すべて、かなりの注意の集中を要することがらである。

 ここで私が問題にしたいのは、ヒトにおいてこのような高度な認知的能力が進化した、その適応的価値についてではない。このような思考能力があることは、本当に生存上有利だからそうなったのだろうか? もしそうだとしたら、なぜ、他の類人猿は、同じような高度な認知機能を進化させなかったのだろうか? 

類人猿でなくても、他の分類群のどこかに、少なくとも一種ぐらいは、同じような高度な認知能力を進化させた動物がいてもおかしくはないのではなかろうか? しかし、ヒトの認知能力に匹敵するものは、他の動物のどこにも見られない。

つまり、他の動物たちはすべて、私たちのような認知能力を持たなくても十分にうまく生存し、繁殖し続けてきたのである。それでは、ヒトの認知能力のようなものは、生存上の有利さとは関係なく出現したのだろうか?

 これはおもしろく、かつ重要な問題であり、これまでにいくつもの仮説が出されている。しかし、ここでは、そのこと自体については論じない。ここで論じたいのは、このような能力を発揮するために必要な背景についてである。先にあげたような高度な思考を展開するためには、ヒトは、一つの事柄について、かなり長い間にわたって注意を集中させねばならない。

確かに、「注意力がない」、「注意が散漫である」などという表現は、注意の集中をよしとして、注意が長続きしないことをよくないとする考えを表している。しかし、動物一般を見てみると、ある一つの事柄に注意をずっと集中するなどということは、認知的な贅沢なのである。

 なぜなら、まず、多くの動物は、捕食者をはじめとするさまざまな危険に取り巻かれているので、つねにそれらの危険に対して注意を払っていなければならない。ダチョウでも、ヒツジでも、スズメでも、採食中を見ると、絶えず頭をあげて周囲を見回す行動をとっていることがわかる。何かひとつのことに注意を集中すれば、当然のことながら、トレード・オフが働いて、他の事柄に対する注意の量は減らざるを得ない。

 また、社会生活を送っている動物は、同じ集団に属している他の個体が何をしているのかについても、つねに注意を払っていなければならない。社会生活をする動物の個体どうしの間には、たいていの場合、社会的な順位関係があるので、順位の高い個体も低い個体も、自分の相対的な社会的地位に応じて、他者が何をしているかにつねに気を配って、自分の行動を決めていかねばならない。

 つまり、普通の動物にとって、ずっと何かに集中しているということは不可能なのだ。そんなことは、認知的贅沢である。この状況が続く限り、たとえ、何かについてじっくり考えて推論したり、発明をしたりする方が、しないよりも生存価値が高かったとしても、実際問題として、それはできないだろう。

──略──

社会的平等

 もうひとつの重要な条件は、先にも述べたとおり、社会的順位に伴うストレスからの解放である。それは、人間どうしが他者の恐怖から解放されることである。霊長類のほとんどは、恒常的な群れを作って暮らす社会的な動物である。

社会生活は、単独生活に比べて多くの利益をもたらすが、同種の他個体との関係がかなりのストレスをもたらすのも事実だ。社会的順位が形成されるということは、出会うたびにいちいち闘争に訴えることなく個体間関係が整理されることを意味するが、一方、互いの上下関係を絶えず確認しあう儀式を生み、そのために多くの時間と注意が費やされることとなる。

 ヒトと近縁なチンパンジーを見てみよう。彼らはかなり体重も大きく、自らが他のサル類を捕まえて食べる捕食者であるため、捕食の恐怖からもかなり解放されてはいる。しかし、彼らが毛づくろいをしたり、ハンマーを使って木の実を割って食べたりしているところを見るにつけ思うのは、彼らがいかに、つねに他者との関係に気を使わねばならないかということである。近くで争いが起きたことを示す悲鳴が上がるたびに、彼らは作業を途中で中断し、あたりを見回す。

そして、それが自分に直接関係のある個体であれば、作業を捨てて現場に駆けつけ、相手をなだめたり、けんかの加勢をしたりといった社会交渉を行なう。自分よりも順位が上の個体が近づいてくれば「挨拶」をしに駆けつけねばならない。自分よりも順位が下の個体がいれば、将来の利益を考えて、威嚇するか、無視するか、仲良くするかを決めねばならない。

誰が自分よりも順位が上、または下であり、誰と誰のけんかは自分の社会関係に影響を与えるのか与えないのか、今自分がやっていることを続けていてよいのか、いけないのか、チンパンジーは、社会関係の調整を考えるのに本当に忙しい。

 社会的な順位の低い個体が、順位が上の個体からの威嚇や攻撃によってかなりのストレスを受け、それがひいては、彼らの健康や繁殖成功度にまでマイナスの影響を及ぼしていることを示す研究はいくつもある。しかし、社会性霊長類における順位制がもたらす認知コストそれ自体は、低順位個体に限られたものではないだろう。

順位が上の個体も、自分の順位を維持していくためには、絶えず他者との関係を調整し、他者どうしの関係にも気を配っていなければならないからである。そのことが、格段のストレスとなって繁殖成功に影響が出ることはなくても、注意を一箇所に集中するというような認知的贅沢は、高順位個体であってもできないと思われるのである。

 さて、人間はどうだろうか? 現在の都会生活が、そのような緊密な社会的交渉から解放された、ある意味で顔のない気楽さを備えた社会であることは確かだが、それは、ごく最近の発明に違いない。しかし、これまでに研究されたすべての採集狩猟生活の社会において、他の霊長類社会に見られるような厳格な社会的順位を持っているようなヒトの社会は存在しない。

ヒトは、社会生活をする他の霊長類一般に比べて、ずっと平等である。つまり、人間どうしの間に社会的順位がないわけではもちろんなく、それなりに人間も「挨拶」などの社会的交渉に忙しいのではあるが、チンパンジーその他の霊長類に比べると、少なくとも、採集狩猟生活という、ヒトの基本的な生業形態においては、ヒトは、それほど社会的順位関係に汲々としでいることはない。それは、どこかでヒトがある種の「平等性」を獲得したからであろう。

 それは、正確には「平等性」という表現ではよくないのかもしれない。しかし、他の霊長類に比べると、行動的に格段にゆとりを持っている。誰がどこで何をしているかということに合わせて、つねにこちらの行動を調整するという必要は、ずっと少なくなっていると思うのである。

 これらの問題を検討してきた理由は、認知能力というもののコストについて、もっと注意が払われてしかるべきだと私が考えているからである。高い認知能力のためには、高い集中力、注意の集中が必要である。注意を一点に集中させて何かを深く考えることは、問題解決のために有利であるだろう。

その結果として、より深い考察ができるのならば、それは、なんらかの利点をもたらすに違いない。しかし、ほとんどの動物において、そのようにひとつの課題に認知資源を振り向けることは、他のコストを考えると不可能であり、認知的贅沢なのである。それは、ひとつには、捕食者をはじめとする外界からの脅威に対して、つねに準備しておかねばならないからであり、もうひとつは、同種の他個体との社会的関係の調整のために、つねに多くの注意とエネルギーを使わねばならないからである。

 ヒトは、進化の途上のどこかで、この両方の課題から大幅に解放されたと思われる。私が考えている重要な要因は、火の使用と管理、そして、社会関係調整のコストの軽減である。このことを簡単に「平等」と表現しては誤解を招くかもしれない。また、初期人類の社会の「平等」がどれほどのものであったかを示す具体的なデータは存在しない。

しかし、現世の採集狩猟生活者たちの暮らしを観察し、そして、私たち自身の暮らしをふりかえって見る限り、他の霊長類とは比べ物にならないほどの「平等性」は確かに存在する。ヒトが高度な認知能力を発達させることにどのような適応的利益があったにせよ、それは、同時にコストも伴う。そのコストを大幅に軽減する事態を作り出したものとして、火の使用と社会的平等性は、非常に重要であったと考えている。
(長谷川眞理子著「ヒト、この不思議な生き物はどこからきたのか」ウエッジ選書 p38-48)

■━━━━━

 人間の自然状態をよく判断するためには、人間をその起原から考察し、いわば種の最初の萌芽のなかに検討することがいかに重要であるとしても、私は人間の連続的な発展を通してその身体的構造をたどりはしないであろう。

すなわち、人間がついに今のようなものになるには、最初にいったいどういうものであったかを動物の組織のなかに探求するために私は立ちどまりはしないだろう。アリストテレスが考えるように、人間の長く伸びた爪が、最初は動物のような鉤形(かぎがた)に曲った爪でなかったかとか、人間が熊のように毛むくじやらでなかったかとか、また、四つ足で歩いていたので、視線が地面に向けられ、数歩先に局限されてその観念の特性と限界とを同時に示していなかったかというようなことを私は検討しないだろう。

私はそういうことがらについては漠然としたほとんど想像上の臆測しかできないだろう。比較解剖学はまだほとんど進歩していないし、博物学者の観察はまだきわめて不確実なので、そのような土台の上に堅固な推理の基礎を打ち立てることはできない。

そこで、私は、この点についてわれわれのもっている超自然的な知識には頼らないで、また、人間が次第にその四肢を新しい慣習にあてはめ、新しい食物をたべるようになるにつれて、人間の内面と外面との両方の構造のうちに突発したはずの諸変化は考慮に入れないで、人間はどの時代でも、今日私の目に映ずるのと同じ構造であって、二本の足で歩き、われわれがやると同じようにその手を使い、自然全体にその視線を向け、広大な空の拡がりを眼で測っていたものと仮定しておこう。

 このように構成された存在から、彼が授かったかも知れないすべての超自然的な才能と、長い間の進歩によってはじめて獲得できたすべての人為的の能力とをはぎとってみる、つまり人間を自然の手から出てきたままの状態で考察してみると、私は、そこに、ある動物よりは弱く、他の動物に比べれば敏捷でないが、結局、どれよりもいちばん有利な構造を与えられた一個の動物を思い浮べるのである。

私は彼が一本の柏の木の下で腹をみたし、小川を見つけるとすぐ喉の渇きをいやし、食事を提供してくれたその同じ木の根元に寝床を見つけるのを思い浮べる。こうして彼の欲望は満たされたのである。土地は、その自然のままの豊饒(ほうじょう)さに放置され、いまだかつて斧を入れたことのない大森林に蔽われていて、一歩ごとにあらゆる種類の動物に食物倉と隠れ場所とを提供する。

人間は、それらの動物のあいだに分散して、彼らの生きる巧智を観察し模倣し、かくして禽獣の本能の域にまでのぼる。しかも、動物はどの種も自分固有の本能しかもっていないのに、人間は恐らく自分に特有の本能はなにももたないで、すべての本能を自分のものにし、他の動物がそれぞれ分かちあっているさまざまな食物の大部分を同じように自分の食物にし、その結果、他のどの動物よりも容易に自分の生活の資を見いだすという有利な点をももっている。

 幼少の頃から気候の不順と季節のきびしさに慣れ、疲労に堪えるように鍛えられ、そしてはだかで、武器ももたずに他の野獣に対して自分の生命や獲物を守ったり、彼らから走って逃げたりしなければならないので、人間は頑丈なほとんど不死身の体格を作りあげる。

子供たちは、その父親たちのすぐれた体格をもつて生れ、それを産み出したと同じ訓練によって強くし、こうして人類に可能なかぎりのたくましさを獲得する。自然は彼らに対して、まさにスパルタの法律が市民の子供たちに対してしたとちょうど同じようにふるまう。すなわち、自然はりっぱな体格の人たちを強くたくましいものにし、そうでない人をすべて亡ばしてしまうのだ。

この点では、自然はわれわれの社会とは異っていて、われわれの社会では、国家は、子供たちを父親の重荷となるようにするので、生れ出る前に彼らを無差別に殺してしまうのである。

 未開人の身体は彼が知っているただ一つの道具であるから、彼はそれを今日では練習の不足のためにわれわれの身体ではできないようなさまざまな用途に使う。

そして未開人が必要にせまられて獲得する力と敏捷さとをわれわれから奪いとるのは、じつにわれわれの生活の知恵なのである。

もし彼が斧をもっていたなら、いま、彼の手首はあれほど強い枝を折るだろうか? もし石投げ器をもっていたなら、手であれほど力一杯に石を投げるだろうか? もし梯子をもっていたなら、あれほど身軽に木に登るだろうか。もし馬をもっていたなら、走るときあれほど速いだろうか。

これらの機械をすべて身のまわりにあつめるだけの余裕を文明人に与えてみるがよい。彼が容易に未開人を圧倒するだろうことは簸いない。

しかし諸君が、もっと力の釣り合わない勝負を見たければ、双方を裸かにして丸腰にして立ち向かわせてみるがよい。そうすれば諸君は、自分のすべての力をたえず駆使することができ、常にどんな出来事にも準備ができており、いわば常に自分の全体を身につけて行動する、ということがいかに有利であるかをすぐにも認めるであろう。
(ルソー著「人間不平等起原論」岩波文庫 p41-44)

■━━━━━

 労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。

人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている潜勢諸力を発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御に服させる。

われわれはここでは、労働の最初の動物的、本能的な諸形態を問題としない。労働者が自分自身の労働力の売り手として商品市場に現われるような状態にとっては、人間の労働がその最初の本能的形態をまだ脱していなかった状態は、太古的背景に遠ざけられている。われわれが想定するのは人間にのみ属している形態の労働である。

クモは織布者の作業に似た作業を行なうし、ミツバチはその蝋(ろう)の小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし、もっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室を鹿で建築する以前に自分の頭のなかでそれを建築しているということである。

労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的──彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的──を実現する。

そして、この従属は決して一時的な行為ではない。労働の全期間にわたって、労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が必要とされる。

しかも、この意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、それゆえ労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。

 労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。

 人間にたいして本源的に食糧、既成の生活諸手段を与える土地(経済学的には水もまたそのなかに含まれる)は、人間の関与なしに、人間の労働の一般的対象として存在する。

労働が大地との直接的連関から引き離すにすぎないいっさいの物は、天然に存在する労働諸対象である。

たとえば、生活要素である水から引き離されて捕えられる魚、原生林で伐採される木材、鉱脈から割り採られる鉱石がそうである。

これとは反対に、労働対象がそれ自身すでにそれ以前の労働によっていわば濾過されているならば、われわれはそれを原料と名づける。

たとえば、これから洗鉱されるすでに割り採られた鉱石がそうである。原料はすべて労働対象であるが、どの労働対象も原料であるとは限らない。労働対象は、それがすでに労働によって媒介された変化をこうむっているときにのみ原料である。

 労働手段とは、労働者が自分と労働対象とのあいだにもち込んで、この対象にたいする彼の能動活動の導体として彼のために役立つ、一つの物または諸物の複合体である。

彼は、それらの諸物を彼の目的に応じて、他の諸物に働きかける力の手段として作用させるために、それらの物の機械的・物理的・化学的諸属性を利用する。

労働者がただちに手に入れる対象は──既成の生活諸手段、たとえば果実の採取においては、彼自身の肉体的諸器官のみが労働手段として役立つが、このような場合は別として──労働対象ではなく、労働手段である。

こうして、自然的なものそれ自身が、彼の能動活動の器官、すなわち聖書(※)の言葉にもかかわらず、彼が自分自身の肉体的諸器官につけ加えて彼の自然の姿を引き伸ばす一器官になる。

※〔「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の身長を一エレでも伸ばすことができようか」、新約聖書、マタイ、六・二七、ルカ、一二・二五。聖書教会訳口語聖書では「自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」となっているが、ここではマルクスが使用したルター訳聖書から直訳した〕

土地は、彼の本源的な食糧倉庫であるのと同様に、彼の労働諸手段の本源的な武器庫である。それはたとえば、彼に投げたり、こすったり、重しにしたり、切ったりなどするための石を供給する。

土地そのものが一つの労働手段であるとはいえ、それが農業において労働手段として役立つためには、さらに全一連の他の労働手段と、すでに比較的高度に発展をとげた労働力とを前提する。

およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでに加工された労働諸手段を必要とする。最古の人間の洞穴のなかに、われわれは、石の道具や石の武器を見いだす。

人類史のはじめにおいては、加工された石、木、骨、貝殻とならんで、馴らされた、したがってそれ自身すでに労働によって変化させられ飼育された動物が、労働諸手段として主要な役割を演じる。

労働諸手段の使用と創造は、萌芽的にはすでにある種の動物にそなわっているとはいえ、独自的人間的労働過程を特徴づけるものであり、それゆえフランクリンは、人間を a tool-making animalすなわち道具をつくる動物と定義している。

滅亡した動物種属の身体組織を認識するのに遺骨の構造がもつのと同じ重要性を、労働諸手段の遺物は滅亡した経済的社会構成体を判断する場合にもっている。

なにがつくられるかではなく、どのようにして、どのような労働手段をもってつくられるかが、経済的諸時代を区別する。

労働諸手段は、人間労働力の発達の測定器であるばかりでなく、労働がそこにおいて行なわれる社会的諸関係の指標でもある。

労働諸手段そのもののなかでは、その総体を生産の筋骨系統と名づけることのできる機械的労働諸手段のほうが、労働対象の容器としてのみ役立ち、その総体がまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことができるような労働諸手段、たとえば管、桶、籠、壷などよりも、ある社会的生産時代のはるかに決定的な徴標を示す。

容器としての労働手段は、化学工業においてはじめて重要な役割を演じる。
(マルクス著「資本論A」新日本出版社 p304-307)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎私たち自身と子ども達の様子をみると、本来の人間が壊されているところがあります。

支え合うということ。働くということ。社会……のりこえ≠ェ必要なことです。