学習通信040407

◎「強力はしかし歴史上もう一つ別の役割すなわち革命的な役割を演じる」……。

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「科学する心は技術進歩をはぐくみます」

 古代の人は、まず物財を重視した。だから、写実する。すると次には、なぜそうなるのかという原因を探る。そこから「科学する心」が生まれ、やがて技術になります。

 次々と技術が発展し、物の生産力がさらに高まる。こういう「善循環」が起こって経済は長期的に発展するようになりました。するとますます土地改良が進みますから、国家は帝国になり、大帝国が誕生します。古代ローマ帝国、中国の秦漢帝国、インドのマガダ王朝からグプタ王朝に至る諸大国がそうです。そして、壮大な宮殿が築かれます。

 ギリシャ神話の時代にはあまり物財が豊富ではないのですが、ある段階から、天国へ行くと黄金の宮殿があるとか壮大な建物が建っているという話に変わってくる。物財にたいへん関心を持つようになるんですね。そして、科学が発展し技術が進歩する。その技術で奴隷を使って大量生産を行う、規格大量生産時代になります。

 奴隷がやっているか機械がやっているかが違うだけで、近代の規格大量生産と類似した社会が生まれるわけです。これでギリシャ・ローマ時代あるいは戦国時代から秦漢時代の、非常に物財の豊かな時代が生まれました。

「日本には始代がありません」

 日本は東洋の文明の発展から随分遅れていました。日本には始代がありません。あったとしても、ごく短い期間だったようです。

 日本の農業は米作からはじまった、と見られています。米作は平らな田に水を均等に入れないとできません。日本のような地形では、まず地ならしが必要だったでしょう。つまり、農業のはじまりと土地改造はほぼ同時期だったようです。

 縄文時代から弥生時代に変わるときに、いきなり米作からはじまるような形で、米作以前の農耕の跡は日本にはほとんどありません。また、農業革命からはじまるために比較的早い段階で「古代」 へ入ったと、考えられます。

 日本の古代史は、仁徳天皇の時代からはじまります。世界の先進地域が古代に入るのは、それよりも千年以上は早かった。そして、紀元前後に頂点を迎えました。例えばローマでは、帝国化してカエサルからアウグストウス皇帝へ引き継がれる頃から約二百年が、一番華やかな時代です。コロセウムなどの壮大な建造物が生まれたのは、その間です。中国では漢の武帝時代、紀元前一世紀ぐらいから二百年が盛んです。ほぼ同じ時期に古代は東西で頂点を迎えたわけです。

「人口増大は環境問題を引き起こしました」

 古代文明が発展すると、人口が急増しました。世界の人口は、紀元前後には二億五千万人を突破するまでに膨れ上がった。古代とは人口が急増し、生産力が猛烈に増大した時代だったわけです。

 では、この時代が次にどうなったか。──実は環境問題によって挫折するのです。

 人口が増え、生産がどんどん増えますと、まず問題になったのがエネルギーです。古代人が利用できたエネルギーは、ほとんど材木だけです。従って、生産量が増えると猛烈な勢いで森林が伐採されました。これはおそらく人為だけでなく、気候の変化も伴っていたでしょう。最古の農業がはじまった一万年ほど前から地球は温暖化し、徐々に森林は減っていったようです。これに人工的な伐採が加わったため、紀元前後には文明の先進地域では、ことごとく森林が減少しました。

 フェニキア人が地中海から太西洋まで乗りだした船の材料になったといわれるレバノン杉は、今では巨木が十数本しか残っていないそうです。

──略──

「エネルギーの枯渇によって人口は減少に向かいました」

 紀元前二世紀から紀元後二世紀の四百年の間に文明先進地域の乾燥が進み、森林が減少しました。その主たる原因は、木を伐った後に羊を放牧したことのようです。

 馬や牛は顎が弱いから木の葉を食べても根っこまでは食べませんが、羊と山羊は根っこまで食べるので土地の再生が難しくなる。人口が増えてどんどん焼畑農業をし、材木を伐って燃料にして、そのあとに羊を放すと乾燥が大いに進む。これは現在、熱帯雨林で起こっていることと同じですが、紀元前後にはすさまじい勢いでそれが進みました。

 その結果、エネルギー不足が深刻になります。そうするとこれ以上は生産量が増えないという意識が生じます。物財の多いことに幸せを感じる人々が、生産量が増えないと感じたときに取る行動は、いつの時代も同じです。一人当たりの物財を増やすには、家族の数を減らせばいい、と考えるのです。

 農業や手工業のような「立業」(立ってする仕事)が流行っている時代ならば、家族が多ければそれだけ生産量が増えますが、公務員(政治行政)とか銀行員(金融商取引)あるいは宗教的な仕事をする「座業」になりますと、収入が家長ひとりにかかります。だから、家族は少ない方が物財の面では豊かになるんですね。

 家族を少なくするのは簡単で、産児制限をすればいいわけです。だから、古代の末期には産児制限が広がります。すると、必ず性道徳が頑廃します。
 人間は、なぜ一夫一妻制を守っているかというと、他人の親父になりたくないからです。産児制限できれば他人の親父になる心配がないから、浮気し放題。

 ローマも帝政時代になると、浮気(結婚によらざる性交)がたいへん流行ります。最近そのことを書いた本も出ていますが、ローマ時代の有名人は結婚・離婚を何度も繰り返す。それでいてやたらと子無しが多い。

──略──

「奴隷から農奴へ、そして流民になりました」

 ローマでも黄河流域でも、人口が減ると、人手不足を補うために周辺の発展途上地域からの移民が、はじめは奴隷として、次には傭兵として、やって来ます。そして、人口が少ないために、その子孫が定住するようになります。

 奴隷を規定する尺度は三つあります。第一に居住の自由がない。どこに住んでもいいなら奴隷ではない。第二に、結婚・出産の自由がない。第三に、蓄財の自由がないことです。

 奴隷と農奴はどう違うかというと、この三つの定義で分けるのです。どこにでも住めるのは自由人です。住むのは制限されていて、結婚・出産、蓄財が許されているのは農奴。蓄財できれば、自分でお金を貯めて身分を買い戻せますから奴隷でなくなるわけです。

 古代末期には、この三つの基準が急速に崩れて、奴隷が自由民になります。そして子供を産み、移動しだす。奴隷から農奴に、やがて流民になるわけです。

 そうすると先進地域の人口構成が変わります。発展途上地域の民族が多数になり、軍事や加工業の中核を担います。こうした人口構造の変化が、やがて大規模な軍事力を持つ部族集団の移動を誘発します。これが西洋史でいうゲルマン民族の大移動、東洋史では五胡一六国の乱です。西洋史では蛮族、東洋史では胡族といわれる北方の発展途上国人が文明地域を占領した。その結果、世界の状況はまったく違ってきます。
(堺屋太一著「東大講義 文明を解く」講談社 p48-54)

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 しかし、この階級形成と並んで、なおもう一つの階級形成が進行した。農耕家族の内部での自然生的分業のおかげで、生活が或る程度豊かになると、一人またはそれ以上の他人の労働力を取り入れることができるようになった。

古くからの土地の共同所有がすでに解体していたか、あるいは、そこまでいってはいなくても、少なくとも、古くからの共同耕作がそれぞれの家族による割り当て地の個別的耕作に席をゆずるかしていた、そういう国ぐにでは、とくにそうであった。

生産はかなり発展していて、いまでは人間の労働力が、自分の生命をただ維持するだけのために必要であるよりも多く生産できるようになっていた。労働力をもっと多く養う手段が存在していたし、こうした労働力を働かせるための手段も同様に存在していた。

労働力は或る価値を得たのである。しかし、自分の共同体とこの共同体が属している連合体とは、自由に使える余った労働力を供給してはくれなかった。これにたいして、戦争がこれを供給した。そして、戦争は、いくつもの共同体〔初版では「社会」〕群が同時に並んで存在するようになったそのときから、いつでもあった。

それまでは、戦争の捕虜をどうしたらよいかわからなかった。だから、あっさり打ち殺していた。もっと以前には、食べてしまっていたのである。しかし、「経済的状況」がいま到達した段階では、捕虜は或る価値をもつようになった。そこで、これを生かしておいてその労働を利用するようになったわけである。

こうして、強力は、経済的状況を支配するどころか、逆に、経済的状況に強制的に奉仕させられることになった。奴隷制が発明されたのである。奴隷制は、まもなく、古い共同体を越えて発展していくすべての民族のもとで支配的な生産形態になったが、結局はまたこの諸民族の没落のおもな原因の一つにもなった。

奴隷制のおかげではじめて、農業と工業とのあいだのかなり大規模な分業が可能になり、そして、これによって、古代世界の花であるギリシア文化が可能になった。奴隷制がなければ、ギリシア国家はなく、ギリシアの芸術と科学とはなかった。奴隷制がなければ、ローマ帝国はなかった。ギリシア文化とローマ帝国という基礎がなければ、しかし、近代ヨーロッパもないのである。

われわれの経済的・政治的・知的発展の全体は、一つの状態──そこでは、奴隷制がなくてはならないものでもあれば、あまねく承認されてもいた──をその前提としているのだ、ということを、われわれはけっして忘れないようにしよう。この意味では、古代の奴隷制がなければ現代の社会主義はない、と言ってよい。

 奴隷制とこれに類するものとを一般的なきまり文句でののしり、そのような恥じなければならない事柄に道徳的な怒りを浴びせかける、ということは、非常にお手軽にやれる。

残念ながら、そうしたところで、だれでも知っていること以上には、つまり、こうした古代の制度が、われわれのこんにちの状態とこうした状態に規定されたわれわれの感情とにはもう合わなくなっている、ということ以上には、なにも言っていないのである。

それを耳にしたところで、しかし、こうした制度が、どのようにして成立したのか、なぜ存続したのか、どんな役割を歴史のなかで演じてきたのか、ということについて一語でも聞き知ったことにはならない。そこで、この点に立ち入ってみると、われわれは、どれほど矛盾に満ちどれほど異端的に響こうと、奴隷制の導入は当時の事情のもとでは一大進歩であった、と言わなければならないのである。

さて、<人類は、動物から出発したのであり、だから、野蛮状態から抜け出すために野蛮なほとんど動物的な手段を必要とした>、ということは、なんと言っても事実である。古い共同体は、存続したところでは、インドからロシアにいたるまで、数千年このかた、最も粗野な国家形態であるオリエント的専制政治の基礎になっている。

ただ共同体が分解したところでだけ、諸民族は、自分自身の枠を抜け出してさらに前進した。そして、彼らのそのつぎの経済的進歩は、奴隷労働を使って生産を増大し強化することであった。

人間の労働がまだひどく非生産的で、そのために、必要な生活手段を越えてはごくわずかな剰余しか供給しなかったあいだは、生産力を増大させ交易を拡張し国家と法とを発展させ芸術と科学とを創始することは、明らかに、ただ分業を強化することによってだけ可能であって、そして、この分業は、〔一方で〕単純な手労働に従事する大衆と、〔他方で〕労働の指揮と商業と国務とにたずさわり、のちには芸術と科学とに従事する、少数の特権者という、この両者のあいだの大きな分業を基礎とするほかはなかったのである。

この分業の最も簡単な最も自然生的な形態が、まさに奴隷制であった。古代世界とくにギリシア世界の歴史的諸前提のもとでは、階級対立にもとづいた一社会への前進は、ただ奴隷制という形態でしか生じえなかったのである。奴隷にとってさえ、これは一つの進歩であった。奴隷大衆を補充する戦争捕虜は、以前には殺されたり、もっと以前には焼き肉にされたりさえしたのに、いまでは、少なくとも命だけはとりとめたのである。

 この機会に、つけ加えて言っておこう。搾取する階級と搾取される階級との、支配する階級と抑圧される階級との、これまでのすべての歴史的対立は、人間の労働の生産性が比較的に未発達であったという、この同じ事情によって説明できるのである。

実際に労働している住民が自分たちの必要労働にあまりにも忙殺さ馴れすぎていて、社会の共同事務──労働の指揮・国務・法律事務・芸術・科学などなど──にたずさわる自由な時間が彼らに少しも残されていないあいだは、いつでも、実際の労働から解放されてこうした業務に従事する一つの特別な階級が存在しなければならなかった。

この階級はしかも、いつもきまって、自分自身の利益のために、労働大衆にますます大きくなる労働負担を負わせるのであった。

大工業のおかげで達成された生産諸方の途方もない増大によってはじめて、<例外なく社会のすべての成員に労働を配分し、そうすることによって一人一人の労働時間をいちじるしく短縮して、その結果、社会の全般的な業務──理論的なまた実践的な──に参加する自由な時間がすべての人びとに十分に残されるようにする>、ということができるようになる。

だから、いまはじめて、支配し搾取するどの階級も余計なものに、それどころか社会発展の障碍物に、なったわけである。そして、いまはじめて、こうした階級は、──たとえどれほど「直接的な強力」をもっていようと──容赦なく取り除かれもするであろう。

 だから、デューリング氏が<ギリシア文化は奴隷制に基礎を置いていた>という理由でそれを非難軽蔑するのであれば、氏は、それと同じ論法で、当然に、<ギリシア人には蒸気機関と電信機とがなかった>という理由で、彼らを非難してもよいわけである。

また、<われわれの現代の賃金隷属制は、奴隷制のいくらか転形され緩和された遺産にすぎず、それ自体をもとに(すなわち、現代社会の経済諸法則をもとに)説明することはできない>、と主張するのであれば、それは、<賃労働も奴隷制も、隷属と階級支配との形態である>という、どんな子どもでも知っていることを言っているにすぎないか、それとも誤りであるか、そのどちらかである。

と言うのも、それと同じ論法で、当然に、<賃労働は、人食い──これが、いまではどこででも確認されている、打ち破った敵を利用する原初的な形態である──の緩和された形態である、としか説明できない>、と言ってよいことになろうから。

 以上によって明らかになるのは、強力〔権力〕が、歴史上、経済的発展にたいしてどういう役割を演じるのか、ということである。

第一に、すべて政治的権力は、はじめは或る経済的な社会的機能にもとづくものである。そして、はじめの共同体が分解して社会の諸成員が私的生産者に転化され、したがって、共同の社会的機能の執行者たちからますます疎外されていくにつれて、それは強まっていく。

第二に、政治的権力は、社会にたいして自立し召使いから主人に転化したあとでは、つぎの二とおりのうちどちらかの方向に作用することができる。一つには、合法則的な経済的発展の精神において、またその方向に、作用する。

この場合には、両者のあいだに抗争がなく、経済的発展は加速される。あるいはまた、経済的発展にさからって作用し、そして、このときには、わずかな例外を除けば、通例は経済的発展に屈服してしまう。

──このわずかな例外というのは、一国の住民をもっと野蛮な征服者が根だやしにするか駆逐するかしてしまい、また、自分ではどう扱ってよいのかわからない生産諸力を荒廃させるか滅びるにまかせるかしてしまった、そのような個々の征服のケースである。

たとえば、キリスト教徒が、ムーア人統治下のスペインで、ムーア人の高度に発展した農耕・園芸の基礎になっていた潅漑施設の大部分をそのように扱ったのであった。

一住民よりも野蛮な一民族による征服は、すべて、言うまでもなく、経済的発展をかき乱し、多数の生産力を破壊する。

しかし、征服が長期にわたるときの圧倒的多数のケースでは、住民よりも野蛮な征服者は、この征服から生まれてくるもっと高度な「経済的状況」に適応しなければならなくなる。

征服者は、征服された住民に同化されてしまい、たいていはそれどころか住民の言語をさえ採用しなければならなくなるのである。

しかし、征服のケースを別にすれば、一国の内部の国家権力がその国の経済的発展と対立するようになると──これは、これまでほとんどすべての政治的権力について或る段階で起こったことである──、その闘争は、毎回、政治的権力の転覆で終わりを告げた。

例外なしにまた容赦なく、経済的発展は、道を切りひらいて進んだ。その最近の最も目ざましい実例は、すでに前のほうで挙げておいた。フランス大革命がそれである。

もし一定の国の経済的状況とそれとともにまたその経済構造とが、デューリング氏の学説に従えばまったく政治的権力しだいできまる、といったようなことでもあるのなら、つぎのような疑問にどう答えたらよいのか、まったく見当がつかなくなってしまう。

すなわち、いったいなぜ、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世〔プロイセン王、在位一八四〇−六一〕には、自分の「栄光ある軍隊」をもってしても、中世的なツンフトとそのほかのロマン主義的な気まぐれとを、自国の鉄道と蒸気機関とちょうど発展しかけている大工業とに接ぎ木することが、どうしてもできなかったのか?

 あるいはまた、彼よりもなんと言つてももっとずっと強力なロシア皇帝〔アレクサンドル二世。在位一八五五ー八一〕が、自分の負債を支払うことができないばかりか、西ヨーロッパの「経済的状況」から絶えず金をせびりとらなければ自分の「強力〔権力〕」を維持することさえできないのは、なぜなのか?

 デューリング氏にとっては、暴力は絶対の悪である。最初の暴力行為は、氏にとっては堕罪である。氏の叙述全体は、<これによって、これまでの歴史全体が原罪に感染するということが生じたのだ>ということについての、<この悪魔の力すなわち強力のせいで、すべての自然法則および社会法則が不名誉な偽造をこうむったのだ>ということについての、嘆きの説教である。

強力はしかし歴史上もう一つ別の役割すなわち革命的な役割を演じる、ということ、強力は、マルクスのことばを借りれば〔『資本論』、Ib、一二八一ページ、C、一二八六ページ、参照〕、新しい社会をはらんでいるすべての古い社会の助産婦である、ということ、強力は、社会的運動が貫徹されて、それが硬直し生命を失った政治的諸形態を打ち砕く、そのための道具である、ということ、──これについては、デューリング氏はひとことも語らない。

氏は、搾取経済を転覆するためには、ひょっとすると強力が必要になるかもしれない、という可能性を、ため息をつきながらうめきながらやっと認めるだけである、──残念だ! なぜと言って、強力の使用によって、例外なく、強力を使用した人が堕落させられるからだ、と。

それも、勝利に終わったすべての革命の結果、大きな道徳的また精神的な高揚があった、という事実を前にして、こういうことを言うのだ! しかも、人民に暴力的な衝突が押しつけられる可能性があり、そして、そうした衝突が起こったとしたら、少なくとも、三十年戦争の屈辱がもとで国民の意識にしみこんだ下僕根性を抹殺するという利益はもたらされることになるであろうこのドイツで、こういうことを言うのだ!

 そして、そのうえさらに、気の抜けたひからびて無力なこの説教師的な考えかたを、おこがましくも、歴史上で最も革命的な党に押しつけようというのか?
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p253-259)

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◎いうまでもありません。一連の関連する学習通信≠重ねて深めて下さい。

「征服者は、征服された住民に同化されてしまい、たいていはそれどころか住民の言語をさえ採用しなければならなくなるのである。」……イラクの実情は……と。