学習通信040408
◎「恋愛はいずれもっとはっきりとしたビジネスに……」

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自分を高く売れなければ意味がない

 去年は時間の経つのが速く感じられた。歳をとるにしたがって時間の経過が速く感じられるようになるというが、昨年は特にそうだつた。理由ははっきりしている。息子が大学に行って、家を出たからだ。家族が一人家からいなくなって、共同体が縮小し、基本的な関係性もそのサイズが縮小した。

 それが良いことか悪いことかわからない。だが時間経過の感覚が他者に関係しているのは確かだと思う。一人で部屋に閉じこもって外部との接触を持たない人は、ひょっとしたら時間の経過がわからないのではないだろうか。

 他者は面倒だ。いつもいい関係でいられるとは限らない。空腹だったり、寝不足のときなど、あるいは人生がうまくいっていないときなど、理由もなく苛立って言い争いをしたり、喧嘩が起きることもある。ペットだって、餌を与えなければ機嫌が悪くなるし、病気になると医者へ連れていかなくてはいけない。

 その代わり、おいしい食事やワインを飲むときは一人よりも誰か親しい人間がいたほうが楽しい。いい音楽を聴いたり、面白い映画を見るときも同様だ。

 家族が一人増える。あるいは家族そのものが生まれる。つまり結婚する。または同棲する。定期的に会い、同じ家か、同じ部屋か、同じベッドで一緒に過ごす時間が人生のベースになる。つまり、一緒に生きていく、というニュアンスだが、そういったもっとも親しい他者との関係の中で、わたしたちは時間の経過の感覚を持つ。

 そういったもっとも親しい人間が、病気になったり、入学したり、転職したり、あるいはその人と一緒に旅行に行ったりする。あれは三年前の四月だった、あの年の春は桜の開花が遅かった、あの夏は暑かった、あの海はきれいだった、そうやってある時間の感覚、時間の経過の感覚がその人に刻まれる。

 家族、恋人、会社の同僚、学校やサークルの仲間、同級生、近所の人、時間を共有する他者はそれほど多くはない。この人にだけは嫌われたくない、この人の信頼だけは失いたくない、と思うような他者は少ない。この人がいなくなれば、生きていくのが本当に辛くなってしまう、という他者はさらに少ないだろう。

 時間の経過は、そのような親しい人との関係性の中で確認されることか多い。もちろん多のファクターが時間を刻むこともある。一人暮らしで、仕事もないという、ほとんど他者との接触のない人はたとえばNHKの大河ドラマなどが始まつて終わることで一年を実感するのかも知れない。

 当たり前のことだが、テレビがない時代には、NHKの大河ドラマで一年を計ることはなかった。マスメディアからの情報を一方的に受け取ることで時間の経過を実感することが圧倒的に増えた。五年前は『タイタニック』と『もののけ姫』の年だったという記憶を持っている人も多いだろう。

 テレビなどのマスメディアからの情報は、一方的に流れてきて、受け取るほうはその内容に関与できない。気に入らなかったら、チャンネルを変えるか、テレビを消すしかない。

 テレビと違って、テレビゲームは情報に参加できる。コントローラーを使ってある程度情報のやりとりができる。だが、当たり前のことだが、テレビゲームの基本的な内容に関与することはできない。つまりテレビゲームでは前もって決められた選択肢以外の反応は望めない。

 だが、五年前のことを『ドラクエ8』を三週間でクリアした年だという風にインプットしている人も多いだろう。

市場にモラルは求められない

 恋愛も、時間とその経過をわたしたちに刻む。恋愛の相手と知り合い出会った頃のこと、その季節、その頃ヒットしていた歌、その頃起こった大事件、世界的なニュースなどをよく憶えているものだ。一緒に行ったレストラン、映画、旅行なども強く記憶に刻まれる。

 大切な人と共有した時間がわたしたちの主要な記憶を作る。だから、出会いや別れは人生の重要なファクタ一になる。

 現在進行している社会の市場化は、資本主義市場の原則がわたしたちの生活のありとあらゆる領域に進出し、浸透してくることを意味している。出会いが人生の重要なファクターであり、価値があるから、それは結婚紹介所やテレクラや伝言ダイヤルやインターネットの出会いの広場というようなビジネスを生む。

市場社会は規範を解体していく。需要と供給があれば、そこに市場が生まれる。グッチのカバンが欲しい女子高生と若い肉体に憧れる中年の男たちがいれば、援助交際という市場が生まれる。東南アジアや中南米では臓器を売買する市場が現れようとしている。

 そういった市場社会にモラルや規範を求めるのは無理がある。効率と利益を求めるのが市場社会である以上、ストックオプションで数億の金を稼ぐ人が許されて、女子高生が中高年の男とカラオケを一緒に歌って三万円を稼ぐのは許されないというのは非常にわかりにくいし、そういった規範について説明できる人はほとんどいない。

 資本主義が高度に発達した市場社会では、何かを売らないと生きていけないということが日々アナウンスされている。会社に行つてもただ窓際に座っているだけというサラリーマンは自分の時間を売っているのだ。売るものを何も持っていない人間は、自分の体や内臓やプライバシーを売らなければいけない場合がある。

 名前や技術や容姿に付加価値のない芸人やタレントは、裸になったり血を流したりバンジージャンプに挑戦したりしなければ自分を売り込むことができない。

恋愛がビジネスになる日

 誰もが何かを売って生きているわけだが、そのことはまだタブーに近く、はっきりとアナウンスされることがない。また市場社会は全面的な悪かというとそうでもない。愛情や誠意という、大事ではあるが曖昧なものに比べて、お金はわかりやすく、また交換も貯蔵も簡単だからだ。

 市場が社会の隅々まで浸透していなかった頃は、失業しても、田舎に帰れば大家族が養ってくれたり、親戚が就職の面倒を見てくれたりした。痴呆になっても、誰かが面倒を見てくれたりした。

今よりもはるかに貧しく、平均寿命も短く、健康保険がない時代、現在のような形のホームレスはいなかった。だが、その大家族制の陰では「お嫁さん」が犠牲的な労働を強いられていたし、次男や三男、それに分家の人々などは一種の差別的な制度の犠牲になっていた。

 市場社会は残酷だ。訓練と学習による知識や技術のない者、容姿が美しくない者、資産のない者は、市場に対し売るものも持たないから、貧弱なサービスしか受けられない。

 恋愛はいずれもっとはっきりとしたビジネスになるだろう。自分を高く売ることのできる男と女が出会う場所がビジネスとして成立するだろう。それは会員制のクラブかも知れないし、インターネット上の有料制の出会いのサイトかも知れないし、スノッブなバーやレストランかも知れない。

 だが繰り返しになるが、市場社会には悪い面ばかりがあるわけではない。これまで愛情や誠意やボランティアといった口当たりのいい言葉でごまかされてきた行為が経済的に評価されるような仕組みが生まれる可能性もある。

 地球環境を守るというボランティア活動が、たとえば環境税といったものが導入されることによって付加価値を生むようになるだろう。インターネットが本格的に普及すれば、人格や才能や人気の度合いを計量化することもできるようになるかも知れない。インターネット上にはっきりとした共同体が生まれれば、人気や評価の度合いを数字で表すことは簡単だ。

 だが、いずれにしろ個人的な格差が露わになる。大多数の人は没落するだろうが、そういう人々、つまり恋愛ができず、恋愛を市場で手に入れる経済力もない人々のためのセイフティネットが準備されていないし、準備されようともしていないし、必要性さえ問われていない。

 わたしは没落層のことを心配しているわけではない。市場社会の本質を知らせるアナウンスがないことがフェアではないと言っているだけだ。
(村上龍著「恋愛の格差」青春出版社 p31-37)

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 ここに一つの新しい要因が作用しはじめる。一夫一婦婚が形成された当時は、たかだか萌芽として存在していた要因、つまり個人的異性愛がそれである。

 中世以前には、個人的異性愛など論外である。容姿の美しさ、親密な交際、趣味の一致などが、異性のあいだに性交の欲求をよび起こしたこと、このもっとも親密な関係をだれとむすぶかについて、男子も女子も全然無関心だったわけではなかったこと、それは言うまでもない。

だが、そこから現代の異性愛までは、まだはてしない隔たりがある。古代全体を通じて、婚姻は親が当事者にかわってむすび、当事者はおとなしくそれにしたがう。古代に見られるちょっとばかりの夫婦愛は、主観的な愛情ではとうていなく、客観的な義務であり、婚姻の基礎ではなく、その相関物である。

近代的な意味での恋愛関係は、古代ではただ公式の社会の外部にしか現われない。テオクリトスやモスコスがその者たちの愛の喜びと悩みを歌でたたえている牧人たち、ロンゴスがたたえている『ダフニスとクロエ』は、まぎれもなく奴隷で、国家とも、自由市民の生活分野ともかかわりをもたない。

だが奴隷のあいだ以外では、情事はただ没落しゆく古代世界の分解の産物としてだけみいだされ、そしてその相手は、これまた公式の社会の外部にある女たち、つまりヘタイラたちであり、したがって外国人ないしは解放奴隷であって、こういう女たちはアテナイではその没落の前夜から、ローマでは帝政時代に、見られる。自由市民の男女のあいだでじっさいに情事があったとすれば、それはただ姦通によるものでしかなかった。

そして古代の古典的な恋愛詩人、老アナクレオンにとっては、現代の意味での異性愛などまったくどうでもよかったのであって、愛人の性別さえ彼にはどうでもよかったほどである。

 現代の異性愛は、古代人の単なる性欲、つまりエロスとは本質的にちがう。

第一に、それは、愛されるほうにもそれにこたえる愛のあることを前提とする。そのかぎりで女は男と平等であるが、ところが古代のエロスにあっては、つねに決して女の気持ちは聞かれない。

第二に、異性愛には、相手といっしょになれずに別れることは最大ではないまでも大きな不幸であると双方に思わせるほどの強烈さと持続性とがある。互いにいっしょになりうるためには、彼らはのるかそるかの行動にでて命をかけさえするが、こうしたことは、古代ではたかだか姦通の場合に見られただけである。

そして最後に、性交を判断するための新しい道徳的尺度が生まれ、その性交が婚姻内でのものだったか婚姻外でのものだったかということだけでなく、それが相互の愛情から起こったものだったかどうかも、問題にされる。

わかりきったことだが、この新しい尺度は、封建的、ないしブルジョア的な慣行では、その他のすべての道徳上の尺度よりも重視されているわけではない──それは無視されもしている。だが、それは他の尺度よりも軽視されているわけでもない。

それは、他の尺度と同様に承認される──理論のうえで、紙のうえで。そして、さしあたり、この尺度としては、これ以上のことを求めることはできない。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p104-106)

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◎「性交を判断するための新しい道徳的尺度が生まれ」……の道徳的尺度とはなんだろうか。

「その性交が婚姻内でのものだったか婚姻外でのものだったか」と。あなたなの道徳≠ェ試される。