学習通信040409
◎恋愛……。
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自分は次いで恋愛に就て一寸かいておきたい。恋愛はよき子供をつくる為にある。その他の働きもするが、それはむしろ副作用である。自然がいかによき子を人間に生ましたがっているか、又それを立派に育てたがっているかは、恋愛の強さでわかる。失恋の悲しみは、子供を失った母親の悲しみに匹敵する。
恋愛はよき子をつくり得る二人のものを結びつける為にある。しかしここにも病的な分子が入りやすい。健全な、正しい恋愛するものよりも、空想的な、又真によき相手を得ない内に、恋愛に餓えることで不十分な相手、或は不相当な相手を恋することもあり得る。
恋愛至上主義という言葉があるが、よき人間を生むことは実に大事なことだから、恋愛は相当価値の高いものだが、しかし恋愛の為の恋愛は食慾の為の食慾の如きもので意味をなさない。食慾は腹をはらす為にあるのだ。恋愛の目的は二人の異性が協力してよき子供をつくり育てる為にあるのだ。
恋愛だけを享楽しようと思うものは、腹がはるのを恐れる美食家のようなものである。
恋愛と性慾のちがいは、性慾には相手を尊重する必要はないのだ。相手の運命を気にしない。子供のことなぞ考えない。だから獣的なものと言われる。恋愛は相手を崇拝する、相手の運命を気にする。理想的だと思う相手にのみ起る。性慾は相手を軽蔑しても起り得るが、恋愛は最上の異性と思うものに対して起るのだ。だからつまり自分がつくり得る最上の子をつくり得る相手にのみ起し得る感情だ。
しかし人間は最高のもののみ恋することが出来るとしても、それは理想的な場合で、そんな人間は滅多にいないし、第一自分が最上の人間ではないのだから、その恋も段々現実的になって来て、ある程度で妥協してしまうのが普通である。しかし正しき恋愛は、自分が接し得る異性の最高のものに感じる感情で、つまり自分がその人によって最高の子をつくり得るものに感ずる感情である。
その結果、ややもすると自分に不相応な相手を恋する喜劇を演じやすいのだ。相手は何とも思わないのに、自分だけ好きになるというようなことが。しかしそれは勿論、自分に資格がない相手はあきらめるより仕方がない。
人間は理想的に自分を生かすわけにはゆかない場合が実に多いのだから、恋愛だけ理想的に生かすというわけにはゆかない。それ相応のところで満足しなければならない。しかし出来るだけいい相手を選ぶことは大事なことにまちがいはない。
恋愛の正しくない姿をここに一々かく気はない。真の恋愛はどんなものかを見て、自然の意志を知る一つの方法としたい。
人間はどういう相手を恋するか。先ず第一にまちがいのないのは美しい人を恋するということだ。どういう人を美しく思うか、それは他のところにゆずりたい。しかし我等の目をつくったものは先天的に我等に美醜を区別させる。そして美を感じさせる。甲の見た美が必ずしも乙の見た美と同一というわけにはゆかない。しかし大体一致している。そして美しいものにたいして愛着をもつのは自然の意志だ。美を感じる能力を人間に与えたものは自然だからである。しかしその自然が目を持っていないのも、不思議の一つである。
しかし人間が美を愛するのは事実である。見ることを好むものを美と言うと言ってもいいかも知れない。ともかく我等は美人を見ればうっとりとするのである。
自分はこれは自然が美しい人間で地上を満したがつている意志のあらわれのように思う。尤も我等の熱愛する人物は必ずしも美男ではない。むしろ醜いと言える人物に我等の尊敬する人も少なくない。しかし美しい人間を愛する事実は否定出来ない。そして美しい人間を愛させる自然は地上に美しき人間を少しでも多く生ましたがっているととるべきだ。
だから美人が金の為にとか、何か他の不純な動機で醜い男と結婚する時は、何となく不調和を感じる。
尤もその男が何か他の方で図抜けた人間なら又別である。
しかしいくら美しくともその人の性質が下等だったら、その心が顔にも出てくるので、下等な人間でない限り、何処か好きになれないものが出てくるだろう。それに反して心の美しいものは、何処かに美があらわれてくるものだ。しかしそれも程度である。
しかし美だけが我等の恋をきめるものではない。つきあうに従っていい性質が出てくることも必要だ。又お互に尊敬出来る点のあることも必要になる。真の恋愛は心の一致が必要である。体質もお互に調和することも必要であろう。両方で愛しあうことの必要は言うまでもない。
もう一つの恋愛の特色は、両方で、自分を立派な人間にしようと努力することだ。
相手に好かれたい、相手に尊敬されたいとなれば、勢い自分を立派な人間にしないわけにはゆかない。其処で発憤する気になる。
心が又鍛えられる。責任を感じることで、実力を養うようになる。
恋愛は人間が独立する資格が出来る時分に、感じるものだが、同時にその時、一番人間の精神のかたまる時だから、抜け目のない自然は恋愛させると同時に、人間を鍛えることを忘れない。喜びや、快楽を与えるかわりに、それだけ責任の持てる人間に仕上げるように心をつかっている。
恋愛結婚は結果としてよくない場合があるが、それはお互に軽薄な恋愛に酔ったからの場合が多いようだ。真の恋愛はお互が愛しあうことで、赤の他人が喜んで夫婦になり、お互に尊敬出来る、又愛することの出来る人と子供をつくる為である。性慾だけでは、よき子をつくるのには不適当だと自然は思っているのだ。
だから正しい恋愛は尊敬されるべきだ。しかし恋愛している当人は、自然の目的が何処にあるかを考える余裕はない。ただ恋しく思うに過ぎない。そしてその思う程度が強烈なので盲目的にその力に支配されるにすぎない。自然は親に子供を愛させ、子供の病気を心配させ、子供の死を何よりも恐れさすのも、子供を地上に長生きさせるためだが、しかし親はそんなことを考える閑なく、子供の病気を心配する。
恋愛でも、目的を知らして自然は我等を導くのではない。盲目的に導かれてゆくうち、自然の思う通りの結果に到達するように出来ていて、その通り到達出来ると満足するように出来ている。しかし客観すれば目的ははっきりしているのだ。
だから恋愛結婚をしたとしても、その目的のよき子を生むことが出来なかった夫婦は、見合結婚でもよき子を生み、立派に育てることが出来た夫婦には及ばないのだ。自然はそういう夫婦の方を祝福する。
恋愛の快楽だけに夢中になって、よき子を生んだり、育てたりする方を考えない夫婦は自然の意志、生命の意志に叶わないものである。尤も子供のない夫婦は夫婦になった目的の大半を失ったものだから、夫婦別れしても仕方がないと、僕は言おうとは思わない。子がない夫婦でも、夫婦の務めはいくらでもある。
両親を失ったよき子をもらって育てるのも一つの方法であろう。夫婦が子供を育てるのにつくす労力や金や時間を、他の有益な仕事に向けることもたしかに一つの方法であろう。
しかし恋愛の目的が、よき子を生み、立派に子を育てるのにあることは、その二人が結婚することで恋愛に卒業することが出来、更に人間としての新しい楽しい務めが生まれるのでわかる。
だから恋愛が結婚したあと長つづきしないということは、当然すぎることで、いいことなのである。人間はいつも恋愛病にかかっている必要はないのだ。恋愛は一時的であるが故に強烈であり、又貴いのである。
しかし一生に一度きり恋愛出来ないものかどうか。それは人々と、その境遇によってちがう。僕は結婚する前に、本当の恋愛を知り、そして結婚し、そしていつまでも仲よく、立派な子供をつくるものが、その点では一番仕合せなものと思っている。夫婦の落ちついた愛情、子供への愛の美しさに就ては、ここではふれない。
自然が恋愛を人生に与えた意味をよく知り、それを生かして地上に立派な子を送るということは人間の立派な務めである。病的な恋愛や、詐欺的恋愛は恐れなければならない。それは第三者が注意すべきであるが、その注意は遅すぎないことが必要である。
肉慾の多さは恋愛の強さを意味しない。性慾の奴隷は自分の人格をいくらでもさげることを恥じないが、真の恋愛はその人の人格を高める力をもっているが、低める力はもっていないのだ。だから下劣な態度をとることを恥じないものは、本当に恋をしている人間ではないのだ。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 p67-74)
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青年を賢明に導いて、官能の落とし穴からまもってやりたいと思っている人々は、恋愛を嫌悪すべきものと考えさせ、恋は老人のすることだとでも思っているのか、若いころにそういうことを考えるのは罪悪だと言いたいらしい。心情が否定するそういういつわりの教えはすべて、だれもなっとくさせはしない。
もっと確実な本能に導かれている青年は、そういう陰鬱な絡率に同意するように見せかけながら、心のなかではそれを笑って、そのむなしさを証明する機会をひたすら待っている。そういうことはすべて自然に反することだ。
それとは反対の道を進みながら、わたしはもっと確実に同じ目標に到達するだろう。かれがやさしい感情に飢えているのをみとめたとき、わたしはそれに媚びることを恐れはしない。わたしはそれを人生の最高の幸福として描いてみせるだろう。
じっさいそのとおりなのだから。それを描いてみせるとき、わたしはかれがそれに身をゆだねることを望んでいる。心の結びつきは官能の喜びにどんな魅力を添えるかを感じさせることによって、わたしはみだらな行ないに嫌悪を感じさせるだろう。そして、かれを恋のとりこにしながら、賢明な人間にしてやるだろう。
青年のあらわれはじめた欲望のうちに理性の教えにたいする邪魔ものだけをみるためには、どんなに狭い量見をもっていなければならないことだろう。はんたいにわたしは、理性の教えにたいして青年を従順にするいつわりのない手段をそこにみている。
情念を支配するには情念をもってするよりほかに道はない。情念の力によってこそ情念の圧制と闘わなければならないのだし、いつも自然そのものから自然を規制する適当な道具をひきださなければならないのだ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p248)
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中世都市の同職組合市民の場合も、それと異なるところはない。彼を保護する諸特権、ただし書きずくめの同職組合規約、彼を、あるいは他の同職組合から、あるいは彼自身の同職組合の組合員から、あるいは彼の職人と徒弟から、法規のうえでわけへだてる人為的な分界線そのものが、彼が適当な妻をさがすことのできる範囲をすでにすっかり狭めていた。
そして、相手のなかでだれがいちばん適当であるか、この複雑な制度のもとでこのことを決定したものは、絶対に彼の個人的な好きこのみではなくて、家族の利益であった。
だから、婚姻締結は、このように圧倒的大多数の場合、中世の終わりにいたるまで、それがはじめからそうであったもの、つまり当事者たちによっては決定されない事柄であった。
はじめは、人間には生まれながらにすでに結婚の相手が決まっていた──異性の一集団全員と結婚することに。集団婚の後期の諸形態にも、ただ集団がたえず狭まっていっただけで、おそらくこれと似た関係が存在していたのであろう。
対偶婚では、母がその子たちの婚姻をとり決めるのが通例である。ここでもまた、若夫婦に氏族と部族とのなかでいっそう強力な地位をあたえてくれるような、新しい血縁紐帯にたいする考慮が決定的である。そして、私的所有が共同所有に優越するにいたり、相続にたいする関心が生まれるにいたって、父権と一夫一婦婚が支配的になったとき、婚姻締結はますます経済的な考慮に依存するようになった。
売買婚の形式は消滅するが、その実質はますますつよく実行され、その結果、女子ばかりでなく男子も価格をもつようになる──彼の個人的な性質に応じてではなく、彼の財産に応じて。
当事者たちのお互いの愛情が他のなにものにもまして婚姻締結の根拠になるというようなことは、支配階級の慣行でははじめから例のないこととされつづけた。そんなことは、せいぜいロマンスのなかか、でなければ──ものの数ではない被抑圧階級のあいだに見られるだけであった。
資本主義的生産が、地理上の諸発見の時代以後、世界貿易とマニュファクチュア〔工場制手工業〕とによって世界制覇にのりだしたとき、この生産の目の前にあった状態は、右のようなものであった。婚姻締結のこの方式は資本主義的生産にすこぶる適合していると人々は思ったであろうし、実際またそうであった。
だが、それにもかかわらず──世界史の皮肉ははかりしれぬものである──この方式に決定的なひび割れをつくらざるをえなかったのは、当の資本主義的生産だったのである。それは、すべてのものを商品に転化することによって、古来のあらゆる伝統的な諸関係を解体し、伝来の慣習や歴史的権利を売買に、「自由」契約におきかえた。
それは、イギリスの法学者メインが、以前の諸時代にたいする現代の全進歩はわれわれがフロム・ステイタス・トゥ・コントラクト〔身分から契約ヘ〕、すなわち世襲的に受けつぐ状態から自由意思で契約する状態ヘと到達したことにあると述べたとき、一大発見をしたと思ったくらいのものであるが、このことは、それが正しいかぎりでは、もちろんすでに『共産党宣言』〔第1章〕に述べられていたことである。
だが、契約の締結には、自分の人格と行為と財産とを自由に処理することができ、互いに同権者として相対する人々が必要である。この「自由」で「平等」な人々をつくりだすことが、まさに資本主義的生産の主要な仕事の一つであった。
このことは初めはまだ半意識的な、そのうえ宗教的に仮装された方法でしか行なわれなかったにしても、それでもルターとカルヴァンの宗教改革以来、人間は完全な意思の自由をもって行なったときにだけ自分の行為に十二分に責任があるのであり、また不道徳な行為をしいる一切の強制にたいしては抵抗するのが道徳的義務である、という命題が確立した。
だが、このことと、婚姻締結の従来の慣行とはどのように符合したであろうか? 婚姻は、ブルジョアの見解によれば、一個の契約、一個の法律行為であり、しかも、二人の人間の心身を生涯にわたって処理するのであるから、一切の法律行為のうちで最も重要なものであった。なるほど形式的には当時もそれは自由意思で締結された。当事者たちの承諾なしにはそれはむすばれなかった。
だが、この承諾がどのようにして成立したか、また本当の婚姻締結者がだれであるかは、人々にはわかりすぎるほどわかっていた。しかし、他のすべての契約には決定の真の自由が必要とされたのに、どうしてこれにはそれが必要でなかったのか? いっしょにされるべき若い二人にも、自分たち自身を、自分たちの肉体と肉体の諸器官を自由に処理する権利はなかったのか?
異性愛が騎士道を通じて流行するようになったのではなかったのか、そして騎士の姦通愛と反対に、夫婦愛が異性愛の正しいブルジョア的形態ではなかったのか? それに、愛しあうのが夫婦の義務であるのなら、愛人どうしが結婚して他のだれとも結婚しないのが、同じく愛人たちの義務ではなかったのか? 愛人たちのこの権利は、両親や血族やその他の因襲的な結婚ブローカーと婚姻とりもち人の権利よりも上にあるものではなかったのか?
自由な個人的吟味の権利が教会と宗教とのなかへ遠慮なく侵入したのに、若い世代の肉体、魂、資産、幸不幸を意のままにしようとする古い世代の耐えがたい要求の前に、なぜこの権利が立ちどまらなければならなかったのか?
社会の古いすべてのきずながゆるみ、伝来のすべての観念がゆらいだ一時期に、これらの疑問が提起されずにはいなかった。世界は一挙に一〇倍近く大きくなった。西ヨーロッパ人の眼前には、一半球の四分円一つのかわりに、いまや全地球があり、彼らは他の七つの四分円をもわがものにしようと急いだ。
そして、古い狭い故国の障壁と同じく、中世の規則どおりの思考様式の千年来の障壁もたおれた。人間の肉眼にも心眼にも、無限に広がる地平線がひらけた。インドの富、メキシコとポトシ〔南米ボリビア〕の金銀鉱に心ひかれた青年にとって、品行方正だという評判のよさがなにほどの価値があり、代々うけつがれた名誉ある同職組合特権がなにほどの価値があったろう。
それは市民階級の武者修行時代であった。この時代にもロマンスと恋の陶酔はあったが、しかしそれはブルジョア的な足場にたち、かつ究極のところブルジョア的な目的をもつものであった。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p107-110)
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一月一九日に「イラク国会」が開会し、小泉首相の施政方針演説がありましたが、まずは冒頭の孟子の引用に驚きました。日本国憲法前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と書かれています。
これはふつうの日本人の身体にしみついている感覚だと思うのですが、その私たちに向かって、「天の将(まさ)に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしむ」というのですから、耳を疑いました。
先日からイラクへの自衛隊派遣の必要を訴える際に憲法前文の三、四段を引用し始めた首相ですが、同じ前文の一段は読んでおられないのだろうか。政治家ですから、どんな引用も援用もご自由ですが、「天の大任」とはあまりにひどい。
なるほど、こういう発想や政治観がこれまでのいろいろな行動や発言につながっているのだろうという気がしました。首相の国政運営の丸投げや、国会での答弁とも言えない答弁がいったいどこから来るのか、これまで私は個人の資質という以外の納得できる理由を見出せないでいたのですが、妙に腑に落ちたというところです。
(高村薫「「あれかこれか」ではなく第三の道を」世界0403 p39)
◎イラク邦人拘束≠ナこの首相がなにを言うか注目 「天の大任」は米国覇権主義へ……。
首相の発言要旨
九日午前の小泉純一郎首相の日本人人質事件をめぐる記者団との主なやり取りは次の通り。
──日本人三人がイラクで拘束された。
どういうことだったのかという事実確認と、事実であれば三人を無事救出する、これに全力を挙げる。今の時点では、これが一番大事だと思う。
──首相の責任は。
まず無事救出、事実確認ね。私自身の問題ではない。国全体のイラクに対する安定、復興支援にどう取り組むかということにかかわる問題だから。テロリストのこういう卑劣な脅しにのってはいけないと思う。テロリストがどういう意図でやったのか、まだ分からない。
──救出に向けた今後の取り組みは。
各方面、いろいろ連携を緊密にして情報交換をし、事実を確認して、しかるべき国には協力を求めたい。日本でできることば最大限やる。
──自衛隊を撤退させる考えは。
ありません。
──三日間の期限内に人質を救出できない場合は。
早く救出されるように全力を挙げる。
──万が一のことがあっても自衛隊を撤退させないのか。
万が一がないように努力しなければいけないと思う。犠牲がないように努力する。
(日経新聞 040409 夕刊)
◎人を愛するということはどんなことなのか。学習通信040408 とこれまでの学習通信≠重ねて深めよう。