学習通信040410

◎「世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期がある」……

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 学問の研究にふさわしい時期があるのと同様に、世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期がある。あまりに若い時にそういうしきたりを学ぶ者は、一生のあいだそれに従っていても、選択することもなく、反省することもなく、自信はもっていても、自分がしていることを十分に知ることもない。

しかし、それを学び、さらにその理由を知る者は、もっと豊かな見識をもって、それゆえにまた、もっと適切な、優美なやりかたでそれに従うことになる。まったくなにも知らない十二歳の子どもをわたしにあたえてみるがいい。十五歳のとき、わたしはその子を、あなたがたがごく幼いときから教えてきた子どもと同じくらいもの知りにして返してさしあげるつもりだ。

ちがうところは、あなたがたの生徒の知識は記憶のうちにあるだけだが、わたしの生徒の知識は判断力のうちにあることだろう。同じように、二十歳の青年を世間に出してやるがいい。よく導かれるなら、かれは一年後には、子どものときから世間で育てられていた者よりもいっそう好ましい、いっそう的確に礼儀正しい青年になるだろう。

前者は世間のしきたりになっている、年齢、身分、性に応じてのあらゆる礼儀作法の理由を感じとる能力があるので、それを原則に還元し、思いがけないことにであったばあいにそれを拡張することができるのだが、後者は習慣を規則にしているだけなので、習慣にはずれたことにであうとすぐに当惑してしまうからだ。

 フランスの若いお嬢さまがたはみんな、結婚することになるまで修道院で教育されている。結婚してから、彼女たちにとってまったく新しい作法を覚えこむのに骨が折れるというようなことが見られるだろうか。パリの女性が、ぎごちない、当惑した様子をしているといって、また、子どものときから社交界に連れていかれなかったためにそのしきたりを知らないといつて非難されるようなことがあるのだろうか。

そういう偏見は社交界の人たち自身から生まれるのだ。かれらはそのつまらない知識よりも重要なことはなにも知らないので、その知識を得るためにはできるだけはやくはじめるほうがいいと、まちがって考えているのだ。

 たしかに、あまりおそくまで待っていてもいけない。青年時代を通じて花やかな社交界から遠くはなれていた者は、その後一生のあいだ、そういうところへ出ると当惑したぎごちない様子をみせ、いつもその場にふさわしくない話をし、重くるしい不器用な態度を示し、たえず社交界に顔を出すようになっても、もうそれを改めることができず、それをなくそうと努力すればさらにおかしなことになるだけだ。

あらゆる種類の教育には心得ておかなければならない適当な時期があり、さけなければならない危険がある。とくにいま述べていることには、危険が寄り集まっている。しかしわたしは、危険からまもってやる用心をしないでわたしの生徒を危険にさらすようなこともしない。

 わたしの方法がある一つのことによってすべての目的を達することになるなら、一つの不都合をさけることによってほかの不都合をふせぐことになるなら、それはすぐれた方法であり、わたしは正しい道にあると考えられる。

ここでわたしの方法が示唆する対策のうちにそういうことがみられるとわたしは信じている。わたしの弟子にたいして厳しく素っ気なくしようとすれば、わたしはかれの信頼を失い、やがてかれはわたしにかくれてなにかすることになる。かれの気に入るように、なんでもすぐにうけいれたり、目をつぶっていたりしようとするなら、わたしに保護されていることがかれにとってなんの役にたつ。

わたしはかれのふしだらな生活を許して、かれの良心の重荷を軽くし、わたしの良心を苦しめることになるだけだ。ただ世間のことを教えるつもりでかれを世間に出してやるとすれば、かれはわたしが教えたいと思っていることよりも多くのことを知るだろう。いつまでも世間から遠ざけておくとすれば、かれはわたしからなにを学んだことになるか。たぶん、あらゆることを。

ただし、人間にとって、市民にとって、もっとも必要な技術、仲間と一緒に生活する技術を除いてだ。そういう配慮をしてもあまりにも遠い先の効用を考えていたのでは、かれにとってはなんの効用もないのと同然だ。かれは現在のことしか考えていないのだ。かれに楽しいことをさせてやるだけで満足しているなら、わたしはかれにどんなよいことをしてやることになるのか。かれはだらけてしまってなにも教えられないことになる。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p249-251)

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 1章から4章まで、日本の一五歳の子どもたちが何を考え、何と闘いながら日々を生きているかをスウェーデン、アメリカ、中国の一五歳と比較しながら考察を加えてきた。いま一度、各章をふりかえってみよう。

 第1章「親子関係」では、日本のティーンエージャーが親からあまり愛されていないし、監督もされていないと感じていることを明らかにした。われわれ大人が「今の子は過保護だ」と思っているのに対して、自分が過保護だと感じているティーンは、わずか六%弱にすぎない。反対に、親が自分に無関心であると感じている子は六割にものぼることが判明した。

 また、母と娘の関係はかなり良好であるものの、母と息子、父と娘・息子の関係は疎遠な関係にあると子どもたち自身が感じている。加えて男の子の場合、両親だけでなく、多くは友だちとも親密な関係になく、孤独の中で悶々と学校生活、家庭生活を送っている。

 ティーンの中には、もっと愛してほしい、もっと親に近づいてきてほしいと願っていても、それを口に出さずにただ待っているだけの子がいる。口をあまり利かないからといって、親の助けを必要としていないわけではない。だが親の側は、そうしたあまり口を利かない子、あるいは感情を屈折して発露する子にどう対処してよいか分からず、考えあぐねているうちに親子の距離が開いてゆくという、悪循環が起こっているのかもしれない。

 第2章「子どもたちの描く自画像・将来像」では、日本のティーンエージャーが四ヵ国でもっとも自信がなく、将来は仕事より家庭に希望を託したいと考えているという、内向きな姿が浮き彫りになつた。注意すべきことは、彼ら自身が(自立は大切だが、自分は自立していない)(もっと自信を持たなければいけないのに、どこかで自分を押し出せない>などと、感じている点である。

本来自分はどうあるべきかという理想像と現在の自分の実像との間のギャップで彼らが悩んでいることを理解すべきであろう。

 自信や自立心は自然に生まれてくるものではない。周りの大人が子どもたちを訓練してこそ自信や自立心が生まれるものである。スウェーデンやアメリカの多くの家庭や学校では、子どもがはきはきするように、また自分に誇りを持つように、そして何よりも自立するように、大人は知恵を絞る。

日本は、その点をスウェーデンやアメリカに見習えるのではないか。ことにスウェーデンの場合、つい半世紀前までは「謙譲の美徳」「個人個人は目立たないほうがよい」という文化が社会に浸透していた国であり、精神文化面で、日本とどこか重なる部分を持つ国である。子どもに自信を与える「先人」としてスウェーデンから多くを学べるのではないか。
(河地和子著「自信力はどう育つか」朝日新聞社 p262-263)

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市民道徳についての提唱は?

〈問い〉 日本共産党は、学校でとりあげるべき市民道徳についての提唱をおこなっているそうですが、どんな内容ですか。(埼玉・一読者)

 〈答え〉 日本共産党は、「いじめ」問題や性的退廃の深刻化、青少年による犯罪の多発など社会の病理現象が広がるなかで、国民の不安をくみあげ、ともに克服する運動をすすめるとともに、人間をおとしめ、粗末にする風潮とたたかい、健全な市民道徳を形成する先頭にたつことを党の大会で決めています(一九九七年)。

大会では、日本共産党が、民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳を身につけるための教育を重視し、提唱してきたことをあげ、そのことの意義を強調しました。

 そのおもな内容は、以下のようなものです。

人間の生命、たがいの人格と権利を尊重し、みんなのことを考える。

真実と正義を愛する心と、いっさいの暴力、うそやごまかしを許さない勇気をもつ。

社会の生産をささえる勤労の重要な意義を身につけ、勤労する人を尊敬する。

みんなの協力を大事にしながら、自分の責任は自分ではたす自立心を養う。

親、きょうだいや友人、隣人へのあたたかい愛情を育てる。

民主的市民(生活)に不可欠な公衆道徳を身につける。

男女同権と両性の正しいモラルの基礎を理解する。

次代をになう主権者としての自覚をたかめる。

侵略戦争や暴力の賛美でなく、真の平和を愛好する。

他国を敵視したり、他民族をべっ視するのではなく、真の愛国心と諸民族友好の精神をつちかう。

 これらは、いずれも憲法と教育基本法から導き出される内容です。森首相の教育勅語賛美発言が問題になっていますが、勅語の道徳は、天皇のために命を捨てよという忠君道徳を基本にした身分序列の臣民社会の道徳であり、いま一番必要な命の大切さを説く項目はもちろん、人権や平等の大切さもありません。党が提唱する市民道徳の最初が生命尊重であることと好対照をなしています。(豊)
(しんぶん赤旗 2000.5.28)

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◎市民道徳……おとなが問題です。