学習通信040412
◎豊かさ……富とはなに。
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表面だけの豊かさ──余裕と思いやりの喪失
日本の豊かさが、じつは根のない表面的な豊かさにすぎず、板子一枚下には地獄が口を開けており、砂上の楼閣のようなもろさに支えられたぜいたくが崩れ去る予感を、多くの日本人が、心中ひそかにかんじているのではないかと思われてならない。
たとえば、もし寝たきり老人になったら……、もし収入が減って住宅ローンが払えなくなったら……、もし幼い子を抱えて夫と離死別したら……、などと。
いざとなっても、誰からも助けてもらえない不安と、ひとなみから排除されてしまう不安とで、強迫神経症のように、はてしない飢餓感に追われる日本人は、もっともっととカネを貯めつづけているのではないかと、私には思われてならない。
企業が投資のために投資をするのは、限りない自己増殖をつづけることが目的である資本にとっては、当然の行為とも言えよう。
しかし、人間の生活にとってのカネとモノは、本来、生活に必要なだけあればよいのである。人生にとってカネは手段であり目的ではない。家族や愛する者との健康で楽しい生活。趣味、生きがいのある仕事。人生の充実感、無目的な友情、自然とともにある安らぎ。それらが充たされれば、限りなく財テクやマネーゲームに目を血走らせる必要はないはずなのだ。資本の求める目的と、生活の求める目的は違っていて当りまえである。
それなのに、企業の投資熱に感染したかのように、株の売り買いや、リゾート地やワンルーム・マンションヘの投資、あげくのはては教育も投資、つきあいも投資、お中元やか歳暮や冠婚葬祭も投資、と計算するのが社会の風潮になってしまっているのはなぜか。子どもたちまで、損することには手を出さず、弱者をかばうこともしない。
豊かさが必然的にもたらすはずの落ちついた安堵の情感や人生を味わうゆとりは、どこへいってしまったのだろう。本能的に自然に湧き出るはずの他者への思いやりや共感などは、金持ち日本の社会から日に日に姿を消していくように思えてならない。
一九八八年元旦の朝日新聞に、堀田善衛氏がスペインから次のような文章を寄せていた。
しかし、金がもうかることと、人の生涯においての仕合わせの感とは、いったい本当に、そんなにも密接な関係のあるものなのであろうか。……いずれが仕合わせのある社会構成であるかは、これもいわくいい難い問題である。
いずれが、余裕のある、思いやりのある人間を作り出すかによって、社会的安定の度合いというものが判断され、それによって、その社会に生きることの仕合わせというものが測定されるものであろうと思われる。
堀田氏は、日本よりはるかにGNPの低いスペインの方が社会的に豊かだと言うのである。
日本が現在のようになってしまった原因を、どの時代にもある人間の貪欲や利己心という心の問題だと考える人もいるにちがいない。しかし、そう考えるには、日本の社会には、いま、あまりに大きな問題がありすぎるように思われる。マスコミをにぎわす政治家や官僚の汚職は、ひとつの象徴であるにすぎない。
たしかに、どんな社会にも、貪欲な人とそうでない人がいる。しかしある種の社会では、より多くの人がゆとりを失い、バランスのとれた判断を失うこともまた事実である。
たとえば戦争のときの、人びとの心理や判断は、しばしば、平常の社会では考えられないほど異常であった。最近では、アメリカのレーガンの時代を、人種差別、少数者の排除、不寛容、暴力の助長時代だと特徴づける人が多い。
いま私たちを駆り立てている金銭至上主義、効率万能主義の時代精神は、いったい何から由来するのだろうか。立ちどまることを許さないほどに加速化した日常生活を、豊かさとかんちがいしているのではないだろうか。
──略──
豊かさへの道を踏みまちがえた日本
もともと経済活動は、人間を飢えや病苦や長時間労働から解放するためのものであった。経済が発展すればするほど、ゆとりある福祉社会が実現されるはずのものであった。
それなのに、日本は金持ちになればなるほど、逆である。人びとはさらに追い立てられ(先進国で最も長い労働時間)、子どもは偏差値で選別され(世界中の子どもを取材している絵本作家ビヤネール多美子さんは「日本の子どもほど自己決定権を奪われたかわいそうな子はいない」と言う)、自然はなおも破壊されていく。
効率を競う社会の制度は、個人の行動と、連鎖的に反応しあっているから、やがては生活も教育も福祉も、経済価値を求める効率社会の歯車に巻きこまれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るために利己的にならざるを得ないから、万人は万人の敵となり、自分を守る力はカネだけになる。
そんな社会では、人間の能力は、経済価値をふやすか否か、で判定され、同じように社会のために働いている人であっても、経済価値に貢献しない人は認められることが少ない。
ある財界人は、「日本は企業の優劣を、利潤の大小によって序列づけしてしまい、たとえ良心的、個性的、創造的というような独特な社風を持つ企業があっても、利益が大きくなければ、評価されない」と嘆いていた。
そんな日本で、福祉のために献身的に働く人を高く評価するわけがない。その仕事が、どんなに社会的に必要なものであっても、経済価値に無縁な老人や身体障害者や精神障害者のために働く人への社会的評価は、きわめて低い。
福祉事務所で、保護を必要とする人たちのために親身になって働く職員よりも、生活保護を申請する困窮者を水ぎわ作戦として追いはらう職員の方が有能と評価される。それはつまり、経済価値にとってマイナスである社会保障に対して、財政支出を抑制するのが能吏だ、という考えに立っているからである。
中曾根内閣の行革・民活路線は、そのような価値観にお墨つきを与え、その流れを社会的に促進することを宣言したものであった。それは一言でいえば、「自然環境の保護とか、福祉社会とかは、経済価値を減らし、怠け者をつくり出し、日本を先進国病にする。経済の活力を維持するためには、カネは、カネを生むことにのみ使われるべきで、国民の一人ひとりは、自分の生活に自分で責任を持たなければならない」というものだったのである。
豊かさに憧れた日本は、豊かさへの進を踏みまちがえたのだ。富は人間を幸せにせず、かえって国民の生活を抑圧している。たとえば、ありあまるカネは地価を天文学的に暴騰させて、つつましい勤労者たちから住居を奪った。
子どもたちは効率社会の大人たちに管理されて主体性を失い、受験技術費は家計を圧迫している。
富は分配されず、福祉の保護を願い出る者は辱しめられる。「老人のためにカネを使うのは枯木に水をやるようなもの」と言った政治家もいる。
民主政治はカネの力の前に身売りされつつある。
酸性雨やフロンガスはもちろんのこと、産業廃棄物や使いすてのゴミで、自然は汚染され、人びとは技の恐怖の前に立ちすくみながら、エネルギーの乱費におし流されている。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p7-16)
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いまからざっと一〇〇年前のこと、ライプツィヒで一冊の本が出版された。そして、今世紀〔一九世紀〕のはじめまでに三十数版を重ね、都市でも農村でも、官庁と説教師とすべての種類の博愛家だちとの手で広められ配布され、例外なしにどこでも国民学枚の読本に指定されたのである。この本の名は、ロホーの『子どもの友』〔一七七六年〕と言った。
それの目的は、農民と職人との子どもたちに、その生涯の天職と社会また国家の目上の人たちにたいする義務とを教え、なおまた、〈この世での自分の運命に満足するのが、つまり、黒パンとジャガイモと、夫役、低い労賃、父親によるむち打ち、その他そういったたぐいの楽しみで満足するのが、身のためだ〉、ということをわからせることであった。
しかも、こうしたことをすべて当時流行の啓蒙思想を使ってやってのけたのである。
この目的のために、この本では、都市と農村との青年たちに、〈人間が自分の生計と楽しみとを労働によって手に入れなければならないというのは、自然のなんという賢明な仕組みであろうか〉、また、〈農民と職人とは、そのおかげで──金持ちの美食家が胃弱と胆汁鬱滞と便泌とに悩み、よりぬきのご馳走をいやいややっとの思いで呑み込んでいるのとは違って──自分の食事をつらい労働で味つけすることを許されている、そういう自分をどれほど仕合わせと感じなければならないか〉、といった訓戒が授けられた。
老ロホーが当時のザクセン選帝侯国の農民の若者向けに適切だと考えたのと同じ陳腐な事柄を、デューリング氏はわれわれに、『〔国民=社会経済学の〕課程』の一四ページ以下で、最新の経済学の「絶対的に基底的なもの」だと言って提供するのである。
「人間の必要=欲求そのものには、自然的な合法則性があり、それの増進には限界が設けられている。その限界は、ただ自然の法則に反することによってだけ、一時的に踏み越えることができるが、やがては、この行ないの結果として、むかつき・生活の倦怠・もうろく・社会的不具が、最後には、救いをもたらす死滅が、生じるのである。
……まったくの楽しみごとだけでできていてそれ以上の真剣な目的をもっていない営みは、まもなく、人を鈍感にさせ、あるいは同じことであるが、すべての感覚能力を消耗させる結果に終わる。なにか或る形をした本当の労働が、だから、健全な諸形姿の社会的な自然法則である。
……欲動と必要=欲求とは、もしそれに釣り合いをとる錘がついていなかったとしたら、歴史的に高められた生命の発展をもたらさないどころか、子どもじみた生活をもたらすことさえほとんどあるまい。欲動と必要=欲求とがなんの苦もなくすっかり充足されたりしたら、それはまもなく枯渇してしまい、そのあとには、それがふたたび回復するまで続くうんざりするような中休みというかたちで、空虚な生活を残すことになろう。
……だから、どの点から見ても、〈欲動と欲情とが作動するかどうかは、経済上の抑止の克服しだいできまる〉ということが、外的自然の仕組みと人間の内的性状との有益な根本法則であるわけだ」、など、など。ご覧のとおり、尊敬に値するロホーの月並みきわまる月並みな言い回しが、デューリング氏のところで出版百年記念を祝っている。おまけにそれは、唯一の真に批判的で科学的な「公正社会制度」の「いっそう深い基礎づけ」としてなのである。
こうして基礎が据えられたので、デューリング氏には、その先の建築を進めることができる。数学的方法を用いて、氏はまずわれわれに、昔のエウクレイデス〔ユークリッド〕の先例に従って、一連の定義を与える。これは、自分の定義を、それを使って証明しようと思っていることがすでに部分的にそれに含まれているという具合いにつくるのだから、それだけらくにやれる。
こうしてわれわれがまず最初に聞き知るのは、〈これまでの経済学の主導的概念は《富》と名づけられており、そして、《富》は、実際に世界史上でこんにちまでそう解されて自分の帝国を拡げてきたという意味では、「人間と物とを支配する経済的権力」だ〉、ということである。
これは、二重に正しくない。第一に、古代の部族=村落共同体の富は、けっして人間にたいする支配ではなかった。そして、第二に、階級対立のなかで運動している社会でも、富は、人間にたいする支配を含んでいる限りでは、おもに、いやほとんどもっぱら、物にたいする支配のおかげでの、また、それを手段としての、人間にたいする支配なのである。
奴隷の捕獲と奴隷の搾取とが別々の営業部門となった非常に初期の時代から、奴隷労働の搾取者は、奴隷を買わなければならなかった。人間にたいする支配を、物にたいする支配を通じてはじめて、つまり、奴隷の購買代金と扶養手段また労働手段とにたいする支配を通じてはじめて、手に入れなければならなかったのである。
中世全体を通じて、大土地所有は、封建貴族が小作農と夫役農夫とを手に入れるための手段となる先行条件であった。そして、こんにちでは、六歳の子どもでさえ、富が人間を支配するのは、もっぱら富が意のままにする物を使ってである、ということを知っている。
なぜ、しかし、デューリング氏は、富のこの誤った定義をつくりあげなければならないのか、なぜこれまでのすべての階級社会に存在してきた実際の連関を引き裂かなければならないのか? 富を経済の領域から道徳の領域へむりやり引きずりこむためである。
〈物にたいする支配はけっこうであるが、人間にたいする支配は悪から出たものである〔『新約聖書』、「マタイによる福音書」、五の三七〕>、と言いながら。そして、デューリング氏は、人間にたいする支配を物にたいする支配をもとに説明することを自分自身に禁止したのであるから、もう一度大胆な手を打って、お気に入りの強力をもとにそれを手っ取りばやく説明することができる。
〈人間を支配するものとしての富は、「強奪」である〉、と。こうしてわれわれは、またしても、大昔のプルードンの公式「財産とは盗みである」〔『財産とはなにか?』(一八四○年)のことは〕の改悪版にたどりついたのである。
さて、こうして、われわれは、富を首尾よく生産と分配という二つの本質的に重要な観点のもとへ置いたことになる。すなわち、〈物にたいする支配としての富──生産的富は、よい側面であり、人間にたいする支配としての富──これまでの分配的富は、悪い側面である、こいつはどけろ!〉と。
こんにちの諸関係にあてはめると、こういうことになる、──資本主義的な生産の仕方は、けっこうなものであって、これからもあってさしつかえないが、資本主義的な分配の仕方は、ろくでもないものであって、廃止されなければならない、と。
生産と分配との連関すら理解したことなしに経済学についてものを書くと、こういうばかげた結果になるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p11-14)
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◎「資本主義的な分配の仕方は、ろくでもないもの」……というデューリングをあなたは批判できますか。