学習通信040413
◎人によって商品の価値と価格が変動するのだろうか……。
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マーケットで決まるものの値段
少し前に大ヒットとなったゲームソフト「ドラゴンクエスト」。でも最初のころ、誰もこれがものすごく売れるものとは思っていなかったといいます。ところが予想に反して、売り出したとたんに全国の小中学生がソフトショップに殺到し、すぐに売り切れとなりました。そのソフトメーカーは需要の見込みちがいをしてしまって、最初はあんまりつくらなかったのです。供給の量をまちがったということです。このとき、需要は供給をはるかに上回っていたわけです。
ここでメーカーは、必死になって商品の追加生産をしたので、「ドラゴンクエスト」への需要は、少し待たされたものの、まもなく充たされることになりました。その結果、大ヒット商品になったというわけです。
逆のことを想像してみてください。絶対売れるはずだと考えて本屋さんにいっぱい並べたマンガの本があるとします。その作者は前にヒットを飛ばしたマンガ家ですから、出版社は売れるだろうとたくさんの量を供給したのです。しかしそのマンガ本は、どういうわけかまったく売れません。それどころか本屋さんからは返品の山。その出版社の倉庫には入りきれないほどの量でした。出版社はつぶれてしまいました。需要を読みちがえて、それを上回る供給をした例です。
このように、マーケットの調整は厳しい側面をもっていることがわかります。需要を読みちがえると倒産すらありうる、だから、供給側は一生懸命、売れると思われる商品を探し、どれだけ売れるかを予測しなければならないのです。
私たちは日々の経済生活のなかで、頭をしぼって何を選び、何をあきらめるかという「選択」をしているということを前の章で説明しましたが、その選択をする際に最も重要な手がかりを与えてくれるのがものの値段、つまり価格だということは誰でも経験で知っていることです。値段が高すぎると感じる人はその商品を買いませんし、安いと感じる人は喜んで買うでしょう。
同じ値段に対して、ある人は高いと感じ、別の人は安いと感じる。それはなぜでしょうか。
ふたつの理由があります。ひとつは、人によって好みが異なるためです。ある人はワインが好きなので、少々高くても買って飲みたいと思っていますが、別の人はお酒を飲まないのでいくら安<ても見向きもしないといったケースです。
もうひとつは、お金持ちの人と、貧乏な人とでは、値段に対する考え方が異なりますね。お金持ちの人でも値段に厳しい人はいますが、全体的に見ると、お金に余裕のある人は、お小遣いに毎日困っている人に比べると、少々高い買い物でもしますね。このように、「好み」と「予算」が異なるたくさんの人たちがマーケットに出かけ、買い物をしているわけです。
他方、売る側も価格を見て生産の決定をしているはずです。生産にかかる費用に比べて高く売れるなら、会社は儲かりますからたくさんその商品を供給しようとするでしょう。遂に、値段が安すぎて、利益が出そうもなければ、生産を縮小したり、生産をやめたりするはずです。
このように、マーケットメカニズムで最も大切な役割を果たしているのが「価格」です。ときに、マーケットメカニズムのことを「価格メカニズム」とよぶのはそのためです。なぜ価格が大事かというと、ものを売る側は、マーケットで売れる価格をいつも観測しながら、生産する数量を決めていて、ものを買うほうも、値段を見ながら何をどれだけ買おうかと考えながら、買い物をしているからです。
(中谷巌著「痛快 経済学」集英社文庫 p36-38)
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日下の見解36
人間はそもそも欲張りだからぜいたく品はすぐに必需品になってしまう。
このように、国が異なるとお金に対する考え方や価値観がまったく変わってしまう。しかし日本的な考え方がすべてではないし、またどれが正しいという問題ではない。それでは「価値」の正体は、そもそも何なのだろうか。
経済学では効用価値説と労働価値説の、二つの考え方がある。
効用価値説では、効用がモノやサービスの値段を決めると考えている。効用を感じている人が、効用があると思うだけお金を払う。これはオークションを想像してもらえれば、わかりやすい。モノやサービスに対して、買い手がそれだけの価値があると認めれば、それが値段になる。マグワイヤのホームランボールに三億円の値段がついたのも、効用があるからだ。三億円で買っておけば、次の人に三億円以上で転売できるだろうという思惑もある。
こうした効用は主観的なものだから、モノやサービスに対してつける値段は、一人ひとり違うことになる。たとえばリンゴー個を、一〇〇円以上出してでも欲しいと思う人もいれば、一〇〇円は高過ぎると感じる人もいる。それが大勢集まって取引していると、リンゴの値段はだいたい一〇〇円という平均的な値に決まってくる。いろいろな商品が流通していて、市場の参加者がたくさんいて、取引期間が数日にわたっていれば相場が立ち、「マーケット」が形成される。
このマーケットのなかで、リンゴー個は一〇〇円、ミカンは五〇円で取引されていたとする。リンゴとミカンの値段はどうして違うのだろうか。効用価値説はそれを好みの問題だと考える。栄養価で価値を比較しているわけではなく、たんにリンゴ好きな人がたくさんいると説明する。「価値=好み(効用)」なのだ。
しかし売る側からしてみれば、商品の値段が好みで決められてはかなわない。モノでもサービスでも、商品を供給するにはかならず手間やコストがかかる。生産者はその手間とコストを考えて、値段を決めたいと考えるだろう。その値段を下回るようでは、生産者も骨折り損のくたびれ儲けになるから、生産をやめてしまう。つまり商品を生産したのに必要とした労働が値段を決めると考えるのが労働価値説である。
労働価値説でも、値段は平均的な値に決まってくる。たとえばコメとリンゴを比べたとき、コメは必需品だからどんなに高くても買わずにはいられない。このとき生産者が「コメをつくるのは大変なんだ。そんな安い値段では売らないぞ」といえば、いくらでも値上がりしそうだけど、値上がりすれば生産が増える。「そんなに儲かるならオレもコメをつくる」という人が増えるからだ。結果、コメの値段は異常に高くはならない。「値段=かかったコスト(労働)」である。
効用価値説と労働価値説のどちらが正しいかは、二〇〇年も前から議論されている。どちらもそれなりに説得力があって、なるほどと納得できるけれど、経済学者は「価値とは○○である」と言いたいから、なかなか結論が出ない(出せない)。けれどそんな法則は時代とともに移り変わっていくし、無理に法則化してもあまり意味がないのかもしれない。
そこで私が考えた答えは、実用品や必需品は労働価値説、ぜいたく品は効用価値説で値段が決まるというものだ。
ぜいたく品は「なんでも鑑定団」のように、欲しいという人がいれば青天井に値段が高くなる。まさに人々が感ずる効用によって値段が決まる仕組みがよくわかる。一方、実用品や必需品の値段はかなり客観的に決まるから、地域によって値段の格差が小さくなる。場合によっては本やCDのように、全国同じ値段で売りなさいという制度があるものまである。
昨日のぜいたくは今日の当然になり、今日のぜいたくも明日は必需品になる。経済はそうして発展してきた。ビジネスにはいま何に価値があるか、将来は何の価値が高くなるかを見抜く能力を求められる。
(日下公人著「お金の本」竹村出版 p175-178)
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富のつぎには、価値が定義される。すなわち、つぎのとおり、──「価値とは、経済上の事物と給付とが交易のなかでもっている通用力である」、と。この通用力は、「価格またはその他なんにせよこれと等価の名前、たとえば、賃金」に相当する。
言いかえれば、〈価値とは価格である〉。あるいはむしろ、デューリング氏を不当に取り扱わないように、氏の定義の背理をできるだけ氏自身のことばで再現すれば、〈価値とは諸価格である〉。と言うのも、一九ページでこう言っているからである、──「価値とこれを貨幣で表現する諸価格と」と。
だから、〈同一の価値が非常にさまざまな価格をもっており、したがってまた、それと同じ数のさまざまな価値をもってもいる〉ということを、自分で確認しているわけである。もしヘーゲルがとうの昔に死んでいなかったとしたら、後は自分で首を吊ったことであろうに。
自分のもっている諸価格と同じ数のさまざまな価値であるという、こういう価値は、さすがの彼にも、いくら神学=論理学をふり回してもつくりあげることはできなかったろうから。
〈価格と価値とのあいだには、前者が貨幣で表現されており後者はそうではないということのほかには、区別がない〉という言明をもって、経済学の一つの新しいこれまでのよりも深い基礎づけを始める、ということは、これまたまさしくデューリンダ氏ほどの確信の持ち主であってこそはじめてやれることである。
しかし、これではまだ、価値とはなにか、ということはあいかわらずわからないし、まして、価値はなにを基準に規定されるのか、ということは、なおさらわからない。そこで、デューリング氏は、その先の説明を取り出さなければならない。
「ごく一般的に言って、価値とこれを貨幣で表現している諸価格との基礎に置かれている比較と評価との基本法則は、はじめて第二の要素を価値概念のなかへ持ち込むことになる分配を度外視すれば、なにはさておき、ただの生産の範囲にある。
自然の状態がさまざまであるために、物を調達することに向けられた努力がぶつかる障碍(しょうがい)は大小さまざまであり、こうした障碍を克服するために余儀なくされる経済力の支出も大小さまざまになるのであるが、こうした障碍の大小はまた、……価値の大小をも規定する」。
そして、この価値は、「自然と状態とが調達にさからって行なう抵抗」を基準に評価されるのである。「……われわれが自身の力をそれ」(物)「に投入した程度が、価値一般と価値の或る特定の大きさとをじかに決定する原因である」。
すべてこうした言い分になにか意味がある限りでは、それは、〈或る労働生産物の価値は、それの製出に必要な労働時間に規定される〉、ということであって、これはわれわれが──デューリング氏なしにでも──とうに知っていたことである。
事実をあっさり伝えようとはしないで、氏は、事実を託宣ふうにねじまげずにはいられない。だれかが自分の力をなにか或る物に投入する(大げさな言いかたをそのまま使えば)その程度が、価値と価値の大きさとをじかに決定する原因である、というのは、まったくの誤りである。
第一に、どんな物にその力が投入されるのかが問題であり、第二には、どのようにそれが投入されるのかが問題である。
もしこのだれかが他人にとって使用価値のない一つの物をつくるなら、たとえ自分の全力を費やそうと、価値の一原子さえつくりはしない。また、彼が、機械でつくれば二〇分の一の安さで生産される物を、がんばって手でつくっても、彼が投入した力の二〇分の一九は、価値一般をも、特定の大きさの価値をも、つくりだしはしないのである。
さらに、積極的な生産物をつくりだす生産的労働をただ消極的なだけの〈抵抗の克服〉に変えるのは、事柄をまったくねじまげるというものである。
そんなことをした目には、われわれは、一枚のシャツを手に入れるのに、おおよそつぎのように行動しなければならないことになってしまおう。
すなわち、はじめに、播(ま)かれ生育することにたいする綿の種子の抵抗を克服し、つぎに、摘みとられ荷づくりされ輸送されることにたいする熟した綿花の抵抗を克服し、そのつぎには、荷を解かれ梳(す)かれ紡がれることにたいする綿花の抵抗を克服し、さらには、織られることにたいする糸の抵抗を克服し、漂白され縫われることにたいする織物の抵抗を克服し、最後に、着られることにたいするできあがったシャツの抵抗を克服する、というように、である。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p15-17)
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◎「事柄をまったくねじまげるというものである。」と。あなたの見解は……。