学習通信040414
◎「自分がそう思っているから、そうなっている」……。

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 君はいま中学生だ。
 どうだろう、生きているということは素晴らしいと思っているだろうか。それとも、つまらないと思っているだろうか。あるいは、どちらなんだかよくわからない、なんとなく、これからどうなるのかなと思っている、多くはそんなところだろうか。

 生きているということは素晴らしいと思っている人にとって、生きているということは素晴らしい。なぜって、その人が、生きているということは素晴らしいと思っているのだから。

 生きているということはつまらないと思っている人にとって、生きているということはつまらない。なぜって、その人が、生きているということはつまらないと思っているのだから。

 どうだろう、こんなふうに言われて、君は何か意外なことを聞いたように感じるだろうか。それとも、すごく当たり前なことを聞いたように感じるだろうか。

 ひょっとしたら、誰かは気がついたかもしれない。生きていることが素晴らしいかつまらないかということは、つまり、その人がそう思っているということなんだろうか。その人が素晴らしいとかつまらないとか思っているから、生きていることは素晴らしかったりつまらなかったりしているんだろうか。つまり、自分がそう思っているから、そうなっているってことなんだろうか。

 そうだ、その通りなんだ。生きていることが素晴らしかったりつまらなかったりするのは、自分がそれを素晴らしいと思ったり、つまらないと思ったりしているからなんだ。だって、自分がそう思うのでなければ、いったい他の誰が、自分の代わりにそう思うことができるのだろうか。

 やっばりすごく変なことを言われた感じがするかな。でも、よくわからないけれども、なんだかもうわかっていることのような感じもするよね。何とも言えず不思議な感じがしているんじゃないかな。

 いったい何が不思議なんだろう。その不思議な感じを、自分の中へ、ずうっと追いかけて行ってみてごらん。不思議な感じの出てくるところを、きっと見つけられるはずだから。

 誰か見つけたかな。そう、不思議な感じの出てくるところは、「自分が、思う」というこのことだ。自分が思う、自分がそう思う、何かについて自分がそう思っているという、このことだ。この「自分が思う」ということは、いったいどういうことなんだろう。そう気がついてみると、ものすごく不思議なことではないだろうか。

君は、これまで十数年間生きてきたわけだけれども、ふと気がついたら、君はいつもずうっとこの「自分が、思う」をやっていたわけだ。いつでもどこでもどんな時でも、「自分が、思う」たったわけだ。これって、当たり前で、何かすごいことなんじゃないだろうか。

 あるいは、誰かはこう反論するかもしれない。いいえ、私は自分が思うばかりじゃなくて、両親や先生や友人のことも、ちゃんと一緒に思ってましたよって。

 うん、それはまったくその通りだ。誰も他人と一緒に生きている限りは、自分ばかりを思っているわけにはゆかないからね。でも、どうだろう、君が、そうやって他人のことを思うのにも、やっぱり君が思っているんじゃないだろうか。君が彼らのことを思う以外に、彼らのことを思うことは、やっばりできないんじゃないだろうか。

両親や先生や友だちが、君の代わりに彼らのことを思うことはできないのじゃないのかな。むろん、彼らは彼らで自分のことを思うことはできるだろう。でも、彼らは彼らで自分のことを思うことができると思っているのは、やっぱりどこまでも君なんだよね。

 うーん、いよいよ不思議なことになってきたね。自分が思う以外に思うことはできないって、これ、どういうことになっているんだろう。自分のことばっかり思ってないで、他人のことも思いなさいって、よく叱られるよね。でも他人のことを思うのだって、自分が思うしかないじゃないかって、そういう時は反論すればいいよ。よけい叱られるかもしれないけどね。

 さて、話を元に戻そう。生きているということが素晴らしいかつまらないかということは、やっばり、その人つまり自分がそう思っているってことなんだ。自分が思う以外に、他の誰も自分の代わりに思うことはできないんだから、これは確かにそういうことなんだ。

でも、だとすると、素晴らしいということは、ただ自分がそう思っているにすぎないってことなんだろうか。つまらないということは、ただ自分がそう思っているにすぎないってことなんだろうか。本当はつまらないことじゃないのに、ただ自分でそう思っているにすぎないってことなんだろうか。

 きっと、こう反論する人はいるはずだね。ただ自分でそう思ってるだけじゃないよ、僕は本当に生きていることがつまらないんだ。だって、親はうるさいし、友だちは意地悪だし、生きていて楽しいことなんかちっともないよ、本当につまらないことばかりだよって。

 ああ、確かにそれはつまらないなあ。せっかく生きてるんだから、楽しいことばっかりだったら、どんなにいいかなあ。でも、どうだろう、つまらないことをつまらないと思っているのは、やっばりどこまでも君だよね。君につまらないことをする親や友だちも、君の代わりにそう思うことはできないよね。

だとすると、いいかい、これを逆から言うと、彼らではない君は、自分で思うことができるということだ。「自分で思う」ことができるということだ。それなら君は、つまらないことをつまらないと思わないこともできるはずじゃないだろうか。

 もちろん、実際にそれができるようになるのはとても大変なことだ。でも、思っているのはいつでも自分だって、一番肝心なことを忘れずにいるなら、いつかきっとできるようになるはずだ。そうなった時は、きっとこう思うだろう。生きていることはつまらないって、ただ自分でそう思ってたにすぎないなって。

 先へ進もう。生きていることは素晴らしいかつまらないか、いずれにせよ自分が思っていることなんだってことが、どうやらわかってきたようだ。さあ、だとすると、自分が思っているだけではなくて、本当のところは、どうなのだろう。

生きていることは素晴らしいとかつまらないとか、それぞれの人がただ自分で思っているだけなのなら、ただ自分で思っているだけではない本当のところは、どうなんだろう。生きているということは、本当は、素晴らしいことなのか、つまらないことなのか、どっちが本当のことなのか。

 どうしても、それを知りたくなるよね。さて、どっちなんだろう。
 なんだか妙なことばかり言われるよね。でも、ここまで読んできている君は、じつは、その「ただ思う」ということから一歩を踏み出して、「考える」ということを始めているんだ。「自分が思う」ということはいったいどういうことなのか、「考える」ということを始めているんだ。

これは、すごく大きな一歩なんだよ。なぜって、君はこれまでの十数年間、自分が思うなんてことは当たり前のことだと思って生きてきた。そして、ただ何となく自分がそう思うからそうなのだとも思ってきた。そして、それが本当のことなのかどうかも、あまり気にしたこともなかったね。

 でも、そういう時期は、そろそろ終わりなんだ。君は、「自分が思う」という当たり前に思っていたことが、どういうことなのか、よくわかっていなかったってことに気がついたんだからね。毎日毎日自分でちゃんと思っているのに、でもそれがどういうことなのか自分でわからないことだなんて、なんて不思議なことだろう。

不思議なことは、不思議なんだから、どうしたって知りたくなるよね。だから、人は、考えるんだ。わからなくて不思議なことを、それが本当のことなのかどうかを知ろうとして、「考える」ということを始めるんだ。これは、それまでの、ただなんとなく「思う」ということとは全然違うことなんだ。

 だからって、これは決して難しいことじゃない。こう言ってみようか。君たちの歳にもなれば、いろいろ思うからこそ、あれこれ悩みもするはずだよね。学校や家族や友人関係、私はどうするべきなんだろう、これからどう生きればいいんだろう、きっと悩みはいっぱいのはずだ。でも、今はそのことはちょっと忘れて、そもそもこの「悩む」っていうのは、どういうことなんだろう。

 悩むっていうのは、どうすれぱいいのかわからないってことです、と君は言うね。そうだろう、君はわからないから悩んでいるんだ。でも、どうなんだろう、もし本当にそれがわからないことなのだったら、君は、悩むのではなくて、考えるべきなんじゃないだろうか。あれこれ思い悩むのではなくて、しっかりと考えるべきなんじゃないだろうか。

 考えるというのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。それがどういうことなのか考えてわかっていなけりや、それをどうすればいいのかわからなくて悩むのは当然じゃないか。

 試しに訊いてみようか。生きていることはつまらないって悩んでいる君、じゃあ、生きているとはどういうことなのか、わかっているのかな。生きていることはつまらないって君の言う、その「生きている」とはどういうことなのか、本当にわかっているのかな。

 生きているってことは……生きているってことです。ほら、君はそれ以上まだわからないね。だからこそ、これから、考えるんだ。悩むのではなくて、考えるんだ。さあ、生きているということは、本当は、素晴らしいことなんだろうか、つまらないことなんだろうか。「生きている」って、そもそもどういうことなんだろうか。
(池田晶子著「14歳からの哲学」トランスビュー p4-10)

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 バークリの主観的観念論

 主観的観念論の古典的な代表者はイギリスの哲学者ジョージ・バークリ(一六八五〜一七五三年)である。彼は、アイルランド生まれの聖職者で、一時バーミューダ諸島で伝道に携わり、イギリス教会でビショップ(監督)の地位についた。

彼は、当時イギリスにおいて次第に支配を固めつつあった資本家階級のイデオロギーであるイギリス経験論哲学の代表者の一人である。バークリの主著に『人知原理論』『三つの対話』『視覚新論』などがある。イギリス経験論はフランシス・ベーコン、ジョン・ロック、デイヴィド・ヒュームとともに、このバークリを代表者としてもつ。

 バークリの見解について紹介しよう。たとえば、私たちがサクランボウを手にとると仮定する。サクランボウを見ると赤い色をしている。触れると一定の柔らかさ、湿り気が感じられる。さらに、口に合むと一種の渋い味がする。このとき、私たちはじっさいに客観的にサクランボウが存在して、それが私たちの感覚器官に働きかけるから、そういう感覚が生じると考える。

しかし、バークリの見解はこれとは違う。ここでは柔らかさ・湿り気・赤い色・渋い味などの感覚・観念だけが確実に存在するのであって、その感覚・観念の背後に私たちの意識から独立して客観的に存在するものがあると考えるのは誤りである、というのである。

私たちがサクランボウという物体を考えているのは、じつは柔らかさ・湿り気・赤い色・渋い味などという「観念の集まり」あるいは「感覚の束」のことであって、「サクランボウ」というのはこれらの集まりや束に付けられた名前あるいは記号にすぎない。これがバークリの主張である。

 この考えをバークリは簡単に「存在するということは知覚されていることなのだ」という有名な言葉にまとめた。知覚されないものなど存在しないのだ、知覚の外には「もの」など存在しないのだ。私たち『が、見たり聞いたり触れたり嗅いだり味わったりしているこの世界はじつは私たちの感覚や観念の世界なのだ。これがバークリの思想である。

 ちなみに、『三つの対話』では、次のようにまで言っている。たとえば、私たちがある建物を右の方角から見て、次に左の方角から眺めるとする。当然違ったふうに見える。そのことから、バークリは、その建物は見えることは確かであるが、本当は客観的には存在しないのであると結論するのである。
(仲本章夫著「哲学入門」創風社 p32-33)感覚と感覚の複合

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 マッハやアヴェナリウスの認識論の基本的前提は、かれらによって、かれらの初期の哲学的著作のなかに率直、簡単、明瞭にのべられている。これらの著作家があとになっておこなった訂正や削除を検討するのは、もっと先の叙述にゆずって、いまわれわれは、これらの初期の著作に向かうことにしよう。

 マッハは一八七二年にこう書いた、「科学の任務は、つぎのことにだけある。すなわち、(一)いろいろの表象のあいだの関連の法則をしらべること(心理学)、(二)いろいろの感覚のあいだの関連の法則を見いだすこと(物理学)、(三)感覚と表象とのあいだの関連の法則をあきらかにすること(精神物理学)」。これは、まったくはっきりしている。

 物理学の対象は、感覚のあいだの関連なのであって、われわれの感覚がその像になっているところの物または物体のあいだの関連ではない。一八八三年にマッハは、かれの著作『力学』のうちで、これと同じ考えをくりかえしている。

「感覚は『物の記号』でさえない。むしろ『物』は、相対的な安定性をもっている感覚の複合を言いあらわす思考上の記号である。物(物体)ではなく、色・音・圧力・空間・時間(われわれが、通常、感覚とよんでいるもの)が、世界の真の要素である」。

 一二年間の「思索」の成果である「要素」というこの言葉については、われわれはあとで語ることにしよう。いま、われわれが指摘しておかなければならないことは、マツハはここではっきりと、物または物体が感覚の複合であることを認めており、かれはまったく明瞭に、自分の哲学的観点を、これと反対の理論、つまり感覚は物の「記号」である(より正確には、物の像または模写である、と言うべきであろう)という理論に、対置しているということである。

このあとのほうの理論は、哲学的唯物論である。たとえば、唯物論者のフリードリヒ・エンゲルスーマルクスのよく知られている協働者でマルクス主義の創始者──は、その著作のうちでたえず、そして例外なしに、物とその思考上の模像または模写(Gedanken-Abbilder)とについて語っているが、その場合、こういう思考上の模像が、ほかならぬ感覚から生ずることは自明である。

「マルクス主義の哲学」のこの基本的見解は、この哲学について語る者にはだれにでも、とりわけこの哲学の名において著述にたずさわる者にはだれにでも、わかっているはずだと思われるであろう。ところが、マッハ主義者たちがもちこんだ異常な混乱のために、この一般に知られていることをくりかえさなければならない。

〔エンゲルスの〕『反デューリング論』の第一章をひらくと、「……物と思考上のその模写……」とあるのが読める。

あるいはその哲学篇の最初の章には、こうある、「しかし、思考はこれらの原則をどこから得てくるのか?」(ここで問題になっているのは、あらゆる知識の基本原則である)

「それ自身のうちからか?そうではない。……存在の諸形態は、思考が自分自身のうちから汲みとり導出することのできるものではけっしてなく、まさしく、もっぱら外界から汲みとり導出するほかはないのである。……もろもろの原理は研究の出発点ではなくて」(唯物論者であろうと願いながら、首尾一貫して唯物論をつらぬくことのできないデューリングにあっては、出発点となっているが)

「研究の最後の成果である。もろもろの原理が自然と人間の歴史とに適用されるのではなくて、これらから原理が抽象されるのである。自然と人間界とがもろもろの原理にのっとるのではなく、もろもろの原理は、これらが自然と歴史とに一致するかぎりでだけ、正しいのである。これが、この問題についての唯一の唯物論的な見解であって、これと反対のデューリング氏の見解は観念論的であり、問題をまったくさかだちさせ、現実の世界を思想から……組み立てるものである」


そしてくりかえして言うが、この「唯一の唯物論的な見解」をエンゲルスは、いたるところで、例外なしにつらぬいており、唯物論から観念論へのほんのわずかな逸脱のゆえにも、容赦するところなくデューリングを追及している。

『反デューリング論』や『フォイエルパッハ論』をすこしでも注意して通読する人ならだれでも、エンゲルスが、物と、人間の頭脳、われわれの意識・思考などにおけるその模像とについて語っている何十という例に出合うであろう。エンゲルスは、感覚または表象が物の「記号」であるとは言っていない。

なぜなら、首尾一貫した唯物論は、われわれがそれに該当する個所でくわしく示すように、この場合、「記号」の代わりに「像」とか画像とか、あるいは模写とかを用いなければならないからである。だが、いまわれわれが問題にしているのは、けっして唯物論のあれこれの定式ではなくて、唯物論と観念論との対立、哲学における二つの基本的な路線の区別である。

物から感覚や思考にすすむのか? それとも、思考や感覚から物へすすむのか? 第一の、すなわち唯物論の路線をエンゲルスは固守している。第二の、すなわち観念論の路線をマッハは固守している。

どんな言いのがれも、どんな詭弁も(われわれはこういうものに、さらに何度となく出合うであろうが)、感覚の複合として物を見るE・マッハの学説は、主観的観念論であり、バークリ主義のたんなる焼き直しだという、この明白で、論争の余地のない事実を取りのぞきはしない。

マッハの言うように、物体が「感覚の複合」であるなら、あるいはバークリの言ったように、「感覚の組み合わせ」であるならば、このことからは必然的に、全世界は私の表象にすぎない、ということになる。こういう前提からすると、自分自身のほかの他の人々の存在に達することはできない。これは正真正銘の唯我論である。

マッハやアヴェナリウスやペツオルトやその他の仲間が、唯我論をどんなに拒否しようとも、かれらは実際には、おどろくべき論理的不条理をおかさずには、唯我論からのがれることはできない。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p41-44)

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◎私たちの周りにはこうした″lえ方をした人が沢山いる。労働学校などに誘っても、「ぼくはそう思わない」といって平行論議におちいって抜け出ることができないでいることがしばしばだ。

そこでよ〜く考えよ=B何が本質問題であるのかを私たちがとらえなければ、仲間に有効に働きかけることはできない。

池田晶子の哲学……結構読まれているのだ。