学習通信040415
◎「世界は私の感覚だけからなりたつ」と。
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人間は「体外情報型」(学習型)の生きもの
人間は生物学的には「ヒト」という生きものです。その「ヒト」が人間らしい人間になるには、いろいろな人間としての文化を学習し、人間としての力を身につける必要があります。ただ体が大きくなったというだけでは一人前の人間になったということはできません。人間は現在では、とても複雑で高度な文化をもつようになっています。
したがって、子どもはいろいろな集団の中で生活することによって、言葉や人との関わり方、ものの見方や考え方、行動のしかた、道具の使い方など、たくさんの文化を学び、身につけていかなくてはなりません。
ヒト以外の多くの生きものは、とくに学習をしなくても、体内にもっている遺伝子からの信号で十分に一人前になり、子どもを産み、次の世代を育て、種族を維持発展させていくことができます。例えばセミの幼虫は、だれに教えられることもなく、自分で木の幹を伝って地下に入り、何年か土の中で生活し、成長して、ある夏の夜、地上に出て来て自分で殻を脱ぎ、成虫のセミとなります。そして交尾をして次の世代を産みます。
とくに学習はしなくても、体内の遺伝子からの信号(体内情報)に従って行動していけばいいのです。このような生きものを生物学では「体内情報型」の生きものと言っています。それに対して、ヒトや類人猿は体内の遺伝子からの情報だけでは不十分で、体外から学習をしなくては一人前になれない生きものです。このような生き物を「体外情報型」と言っています。
ヒトや類人猿は、群れ(集団)のなかで他の仲間から学んではじめて一人前になることができます。子どもを生んで育てることも、外から学ばないとうまくできません。チンパンジーは群れで生活する中で、他のチンパンジーが子育てをしているのを見て、子育ての方法を知るのです。遺伝子(体内情報)だけでは子育ての情報は不十分なのです。
だからチンパンジーの子どもを、産まれてすぐに群れから離して人間の手で育てますと、そのチンパンジーは、大きくなって子どもを産んでも、子育ての方法がわからず、産まれた子どもを前にして興奮して手を上げたり下げたりしていたそうです。子どものために何かしなくては、という衝動はあっても、どうしていいかわからないのです。そこが体内情報型の生きものと違うところです。
子どもを育てることだけではありません。食べる物など森の中での生活の知恵・知識も、チンパンジーは群れのなかで、仲間のすることを見ることによって身につけて(学習して)いきます。
人間の場合も子どもをどのようにして育てるかということは、体内の遺伝子情報(本能)だけでは足りません。母乳などは、いちいち意識しないでも体内の情報できちんとつくられますが、親がどんなものを子どもに用意すればいいかなど、子どもの産み方や育て方は、昔から、おばあちゃんや家族や親しい人に教えられ、助けられ、社会に伝えられている子育ての文化に学んで、出産をし、子育てをしてきました。
親や家族は「体外」から情報を得て(学習をして)子どもを産み育ててきたのです。現代では、子どもを生み育てる多くの部分を病院、保育園、学校など社会の仕組みの中に作っています。どれも体内の遺伝子からの信号だけでは不十分なので、人間が集団的につくり出し、文化として伝え発展させてきているものです。
「体外情報型」というのは言い換えれば「学習型」ということであり、人間にとっては学習は不可欠なものだということです。そこで学習の中味が重要な問題になってきます。
子どもは、思春期になると「性」や「男女関係」について、大きな関心を持ち、情報を求めるようになります。しかし、人間は、生物として避けては通れない「性」や「男女の関係」などについても、体内からの衝動はあっても、体内の情報だけでは不十分で、どうしたらいいかよくわからないのです。
しかも、人間は「性」や「男女の関係」についても「一人一人の尊重」とか「男女平等」などの高度の文化を作り上げていますから、それに基づく考え方や生活のしかた、行動のしかた、必要な正しい情報をきちんと伝え、教えることがとてもだいじなことになります。それは学校や家庭、社会がしなければならない重要なことの一つです。
子どもたちは、今、それらのことについて必要な情報が十分与えられないでいます。そうなると、友だちや雑誌、テレビ、宣伝などから情報を取り込むことになります。それがポルノのように人間蔑視や刺激・興味本位のゆがんだ間違った情報であっても、子どもはどんどん学習し身につけてしまいます。
「性」の問題に限らず、その社会や家庭、学校などがどのような子育ての文化をもっているかによって、子どもの育ち方は随分違ってくることになります。現在の日本の「子育ての文化」はかなり混乱しています。子どもにはまだ消化できない反人間的な映像や情報が野放しにされていて、子どもたちはその大波に溺れそうになっています。
また一方で、多くのおとなたちが子どもの「思い」、子どもの「主体性」を軽視・無視して一方的に「きまり」や「勉強」を押しつけることが多く、「子どもの権利条約」に示されているような人間としてだいじなことを伝え、身につけるようにすることがなおざりにされているように思われます。
(棚橋啓一著「子どもの人間的発達」新樹社 p19-23)
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「われわれは尖端Sをもつ物体を見る。われわれがSに触れ、われわれの肉体にそれを接触させると、われわれは剌覚を受ける。われわれは、剌覚を感じることなしに、Sを見ることはできる。しかし、われわれが剌覚を感じるときには、われわれは皮膚にSが接しているのを見いだすだろう。このように、目に見える尖端が持続的な中核物であって、剌覚は事情に応じてあったりなかったりする偶然的なものとして、その中核物に結びつくのである。
類似の出来事がくりかえされると、人はついに、物体のすべての性質を、持続的な中核物から発して、肉体を仲立ちにして自我にもたらされる『作用』だとみなすように習慣づけられる。そして、この『作用』をわれわれは『感覚』とよぶのである……」(二〇ぺ〜ジ)。
右に引用した言葉を言いかえると、人々は、唯物論の観点にたつように、つまり感覚を、物体・物・自然がわれわれの感覚器官に作用する結果だと考えるように、「習慣づけられる」というのである。哲学的観念論者にとって有害なこの「習慣」(全人類と全自然科学とが自分のものにしているこの習慣!)は、マッハにはひどく気に入らず、そこでかれは、それをうち砕きはじめる、──
「……しかしそれによって、これらの中核物はすべての感覚的な内容をうしない、たんなる思考上の記号になる……」。
言い古された話だ、尊敬すべき教授先生よ! これは、物質とはたんなる〔裸の、と同語〕抽象的な記号だと言ったバークリの、文字通りのくりかえしである。ところが、実際には、エルンスト・マッハが裸で歩きまわっているのだ。
なぜかと言って、客観的で、われわれから独立に存在する実在が「感覚的内容」をなすのを、かれが認めないならば、かれのところにはただ「たんなる〔裸の〕抽象的な」自我、かならず大文字の傍点つきで書かれた自我、「自分は世界に存在するただ一つのピアノだ、と思ったような気の狂ったピアノ」が、残るだけだからである。
もしも外界がわれわれの感覚の「感性的内容」でないならば、空虚な「哲学的」言いまわしをしているこの裸の自我のほかには、なにも存在しないことになる。ばかげた無益な仕事だ’‐・
「……そうなれば、世界はわれわれの感覚だけからなっている、と言うのは正しい。しかしこの場合には、われわれはまさに、感覚だけを知っているのであり、そして感覚がはじめて生じきたることになるあの中核物、ならびにこれらの中核物の相互作用という仮定は、まったく無駄で余計なものになる。ただ、中途半端な実在論ないしは中途半端な批判主義にだけ、このような見解が受けいれられるのである」。
われわれは、マッハの〔『感覚の分析』の第一章〕「反形而上学的序説」の第六部全部を書きぬいた。これは、バークリからの全面的剽窃である。ここには、「われわれはただ自分の感覚を感覚するだけである」ということをのぞけば、ただの一つの考察も、ただの一つの思想のひらめきもない。ここからでてくる唯一の結論は、すなわち、「世界は私の感覚だけからなりたつ」ということである。
マッハが「私の」という言葉のかわりに用いた「われわれの」という言葉は、かれが不当に用いているものである。すでにこの言葉一つで、マッハは、かれが他の者を非難しているのと同じ「中途半端さ」をさらけだしている。
なぜなら、もしも外界の「仮定」が、すなわち、針〔前出の尖端Sをもつ物体〕は私から独立に存在し、私の肉体と針の先端とのあいだに相互作用がなりたつという仮定が「用のないもの」であるならば、もしもすべてこうした仮定が実際に「用がなく、余計なもの」であるならば、なによりもまず他の人々が存在するという「仮定」は、用のない、余計なものだからである。
ただ私だけが存在するのであって、すべてその他の人々は、外界全体と同様に、用のない「中核物」の部類にはいってしまうのである。「われわれの」感覚ということは、この観点からは言えないことで、マッハがそう言っているとすれば、それはかれのおどろくべき中途半端さを意味するだけである。このことは、かれの哲学が、その著者自身すら信じていない、用のない空虚な言葉だということを、証明するだけである。
マッハに見られる中途半端さと混乱との、とくに明瞭な例がここにある。すなわち同じ『感覚の分析』の第一一章第六節に、われわれはつぎの文章を読む、「私が感覚しているときに、私自身なりまたは他の人なりが、さまざまな物理的および化学的手段をもちいて、私の脳を観察することができると考えてみると、有機体〔生物〕のどういう過程に一定の種類の感覚が結びついているかを確かめることが可能であろう……」(一九七ページ)。
たいへん結構なことだ! つまり、われわれの感覚は、一般的には有機体内に、特殊的にはわれわれの脳内に生ずる一定の過程に結びついていると言うのであろうか? その通り、マッハはまったく明確にこの「仮定」をしているのだ、──自然科学の観点からはこの仮定をしないとしたら、おかしなことになるだろう。しかし、失礼ながらあえて言えば──
これはまさに、わが哲学者が余計で用のないものだと宣言したところの、あの「中核物やこれら中核物の相互作用」という「仮定」そのものではないか! 物体は感覚の複合であるとわれわれは語られるのだが、マッハはわれわれにこう断言する、──これ以上にすすんで、感覚は、物体がわれわれの感覚器官に作用した結果だと考えるのは形而上学であり、用のない余計な仮定だ、等々と。
まさに、バークリそっくりである。だが、脳は物体である。だから脳は、やはり、感覚の複合以上のものではないはずである。そこで、感覚の複合の助けをかりて、私(私〔自我〕もまた、感覚の複合以外のものではない)は、感覚の複合を感覚するのだ、ということになる。
なんという、すばらしい哲学だろう! まずはじめに感覚を「世界の真の要素」だと宣言し、このうえに「独創的な」バークリ主義をうちたてる、──しかし、それからあとで、感覚は有機体内の一定の過程と結びついているという反対の見解を、こっそり引きいれているのである。
これらの「過程」は、「有機体」と外界とのあいだの物質代謝と結びついてはいないだろうか? もしもある有機体の感覚がこの外界についての客観的に正しい表象をその有機体にあたえないとすれば、この物質代謝はおこなわれうるのだろうか?
マッハは、このような都合の悪い問題はださないで、バークリ主義の断片を、自然発生的には唯物論的認識論の観点にたっている自然科学の見解と結び合わせる。
……「(無機の)『物質』もまた感覚するかどうかということが、ときには問題にされる」とマッハは、同じ節で書いている。これは、有機的物質が感覚するということには、すこしも問題はないということなのか? すなわち、感覚は第一次的ななにかではなくて物質の性質の一つであるということなのか? マッハは、バークリ主義のあらゆる不合理を跳びこえるのだ!
……かれは言っている、「普通の、広くおこなわれている物理学的考え、すなわち、物質は直接的に疑いもなくあたえられている実在的なものであって、無機物も有機物もこれからすべてつくられているという考えから出発するならば、その問題は当然である……」。
普通の、広くおこなわれている物理学的考えは、物質を直接的な実在だとみなし、そのさい、この実在の一つの変種(有機的物質)だけが明白にあらわれた性質、感覚する性質をもっているという、マッハの真に貴重な承認をよくおぼえておこう。
……マッハはつづけて言っている、「こうした場合には、感覚は、物質からできているこの構造物のうちになにか突然に生ずるか、それとも、その土台となるもののうちにあらかじめ存在しているか、そのどちらかでなければならない。
われわれの立場では、この問題はその根底において誤っている。物質は、われわれにとっては、最初にあたえられているものではないのである。最初にあたえられているものは、むしろ要素なのである(要素は、よく知られた一定の関係では、感覚とよばれるものである〔本訳書、六〇ページ参照〕)……」と。
このように、感覚は、有機的物質における一定の過程とだけしか「結びついて」いないにもかかわらず、第一次的にあたえられたものなのである! しかも、マッハは、このようなばかげたことを語りながら、唯物論(「普通の、広くおこなわれている物理学的考え」)に、感覚がどこから「生ずる」かという問題が解決されないという落度をなすりつけようとしている。
これは、信仰主義者とそのおべっかつかいが唯物論を「反駁」するときの見本である。問題を解くための十分な資料が集まっていないというのに、なにか他の哲学上の観点が問題を「解決」するとでも言うのだろうか? マッハ自身が、その同じ節で言っているではないか? 「この課題(「有機界において感覚はどれほど広くゆきわたっているか」を決定すること)が、ただ一つの特殊な場合にさえ解決されていないあいだは、これについて解くことは不可能である」と。
そこで、唯物論と「マッハ主義」とのあいだの相違は、この問題にあっては、つぎのようになる。唯物論は、自然科学と完全に一致して、物質が第一次的にあたえられているものとし、意識・思考・感覚を副次的なものと考える。なぜなら、はっきりとあらわれている形では、感覚は物質の最高の諸形態(有機的物質)とだけ結びついているものであり、「物質という構造物の土台のうちには」感覚に似た能力の存在を推定することができるだけだからである。
これが、たとえば、有名なドイツの自然科学者エルンスト・ヘッケルやイギリスの生物学者ロイド・モーガンその他の人々の仮定であり、われわれがまえに引用したディドロの推測については言うまでもない。
マッハ主義は、これに対立する観念論的観点にたっており、たちまちたわごとになってしまう。なぜなら、第一に、感覚は一定の仕方で組織された物質における一定の過程に結びついているにすぎないにもかかわらず、感覚を第一次的なものとしており、第二に、物体は感覚の複合であるという基本前提は、あたえられた大文字の私〔自我〕のほかに、他の生物、一般的には他の「複合」が存在しているという仮定によって破られているからである。
多くの素朴な人々が(われわれがあとで見るように)なにか新しいものとか、なにかの発見だとかと受けとっている「要素」という言葉は、実際には、なんら意味のない用語で問題を混乱させるだけであり、なんらかの解決、またはなんらかの前進がなされたようなウソの外見をつくりだすものである。この外見はウソである。
なぜなら、まったく感覚しないとされている物質が、同じ原子(または電子)からなりたっていて、しかも同時にはっきりあらわれた感覚するという能力をそなえている物質と、どのようにして結びつくかということについては、さらに研究をかさねて深められなければならないことだからである。
唯物論は、まだ解決されていない問題をはっきりと提起し、そうすることで、その問題の解決への刺激をあたえ、さらにすすんだ実験的研究への刺激をあたえる。
マッハ主義、すなわち混乱した観念論の一変種は、問題をごちやごちやにしてしまい、「要素」というような空虚な、言葉のうえでの言いまわしで問題を正しい道からそらせるのである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p44-50)
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◎「感覚がどこから「生ずる」かという問題」……ていねいに読んでください。子どもの成長と「感覚」ということは切り離せないのではないでしょうか。