学習通信040416
◎結婚……一夫一婦婚の将来とは
■━━━━━
非婚化・少子化は社会システムのきしみ
結婚に普遍的な根拠はあるのか
先に結婚行動をメリットとコストから記述したが、もちろん、結婚とはそんなものではないという反論があろう。
「結婚とは、永遠の愛を誓う神聖なもの。永遠の愛ということは現実には無理かもしれない。でも、だからこそ人はそれほどの覚悟をする特殊な儀式である結婚に深い愛を見て、感動する。お互いの意志の強さに感動する」というような。
結婚にそうした意味なり価値を付与する人がいるのは現実であるが、それがあらゆる結婚の普遍的本質といえる根拠となりうるのだろうか。
社会にとって結婚のもつ意味を客観的に見てみると、結婚は多くの人を社会秩序のもとにコントロールするための手段であるといえる。性関係を婚姻内に限定し、家族の相互扶養、子育て・介護などを家族の責任として、人々をマジメに働かせ、かつ社会保障的機能(人の生産にかかわることなので再生産機能とも呼ばれる)を負担させているのである。
それは一つの社会的な統治形態であり、一つの分業・配置であるが、根本的に考えてみれば、結婚制度を通じることだけが唯一の「性や再生産(社会保障)の配置」のあり方ではない。事実、いまの日本のような近代結婚制度は、近代以前にはなかったし、現時点でも、国によって社会保障のあり方はかなり違う。
だが、これまでの結婚論は、はじめに結婚の「本質」ありきというものだった。
たとえば、望月嵩は、結婚や家族には本質的な特質や構造があるとして、結婚を次のように規定している(「結婚をどうとらえるか」日本家族社会学会編『家族社会学研究』VOL14、二〇〇三年)。
@性的秩序を維持するための、社会的に承認された異性間の性関係である(それ以外の性関係は正当でない、性は私的なものではない、愛のない快楽の性はダメ)
A子育てをするために安易に解消してはならない義務的・継続的関係である(離婚への否定的見解)
B夫・妻役割、性別分業を遂行し、扶養の義務や貞操の義務などがある関係である
C容易に相手を替えることができる手段的関係ではなく、相手を「ほかをもっては替えがたいもの」として選び合った全人格的関係であり、簡単に相手を替えることが許されない関係である
この誰もが当然と思っている結婚の本質に普遍的根拠は本当にあるのだろうか。
たとえば、性関係やカップル関係は国家や世間から社会的に承認されなくてはいけないことであろうか。考えてみれば、誰とセックスするか、愛し合っているかを別に国や会社や近所の人に届ける必要はないことかもしれない。必要な範囲で、身近な人が自然と「あの二人、仲がいいね」と知ればいいだけのことかもしれない。実際、北欧社会はそれに近い感じになっているが、それで社会が崩壊したわけではない。
同じように、根本的に考えてみるべき課題は無数にある。
性関係は異性間だけが正当・普通なのか。生殖のための性は、セックス全体のほんの一部なのに、性を結婚と結びつける根拠に生殖・異性間をもってくることに説得力があるのか。性は全人格的な関係と結びついていないといけないのか。
容易に別れてはだめ、相手を替えるのもだめといっても、気持ちが離れたり、抑圧的状況にあったりすれば別れるのが当然ではないのか。子育ては夫婦だけでするものなのか。子どもを虐待するような親のとき、子育てを親任せにしていいのか。継続性や役割義務など関係の強制は、それ自体がマイナスの影響をもつのではないのか。介護もまず家族が無償でしなくてはいけないといえるのか。
そういうことを一つ一つ真剣に考えていくと、結婚や家族とはこういうものだと決して言い切れるものではないことがわかる。考えてみれば、近代化が終焉した段階で、近代主義的価値観の普遍性の無根拠性が露呈するのは当然である。「普遍・普通・当然・自然・真理」がないのだから、「普遍的結婚」「普通の結婚」がないのは当然なのではないだろうか。
結婚をどう定義するかについては、学問のみならず、メディアや社会でもまだまだポストモダン水準での認識が広がっておらず、近代主義的決めつけがのさばっているというのが現状なのだ。変化を受け止めずに、ある価値観から否定するだけでは、新しい時代の解決策は見えてこないだろうと思うがいかがだろうか。
この変化はいっそう進行する
結婚や家族や恋愛というものが神聖化され、合理的に分析されずにきたことを、私は「家族単位の前提化」と呼んで、そこに光を当てて幻想をはがしてみた。
社会環境が変わるなかで、結婚に対する考え方も多様になり、従来の「性分業に基づく夫婦という一つのタイプのみが正しい」=「したがってそれを標準とする」という構図が崩れるのは当然である。結婚や家族とは特定の「カタいもの」ではなく、時代や文化や個人差やライフステージとともに変化しうる「ヤワらかく空虚なもの」である。
第一章で見たように未婚・非婚が増えつづけており、この傾向は当面続くと思われる。なぜなら「モテない=結婚できない人」と「結婚の必要がない人」が増える非婚化傾向が反転する要素が、いまのところあまりないからである。男女平等意識と、女性の社会進出が進み、結婚の必要がない人(自由重視の人)は増えるだろうし、経済状況の悪化が進むことで年功賃金制度からはじき出される男性はまだ増えるだろうから、「一家を養い家族を守る」という幻想をもったままの結婚においてはその経済的基盤が減っていく。
結婚が生活の「前提・手段」から、徐々に余裕の活動に移行しつつあり、恋愛・結婚の期待水準が高くなっている。そのなかで「モテる人」と「モテない人」の格差が出てくるのは必然だ。モテない人(結婚したくてもできない人)はモテないなり(結婚できないなり)の生き方を見つけていくしかなくなっていくだろう。
また、まだ「結婚したいのにできない」というのが主流だが、しかしそれは表層の表現でしかなく、その言葉をそのまま受け取るのは間違いではないだろうか。
「結婚したい」とは、そういう表現=カタチしか知らないからであって、「結婚」という言葉の裏には、「幸せになりたい」や「つまらない日常に変化がほしい」という願望がある。この幸せは、必ずしも現実の結婚という形式自体にあるわけではないので、今後は結婚という形式にではなく、個々人の幸福追求行動が多様なカタチで増えていくことが予想され、その結果、実際には結婚の減少、離婚の増加という行動となっていくだろう。
そうした流れのなかで、これから徐々に進んでいくのは結婚自体の「神聖化・道徳的強制力」の低下であり、結婚と結婚以外の境目の曖昧化であり、非婚・晩婚・離婚・(夫婦として暮らすが婚姻届は出さない)事実婚・同棲といった多様な生き方の増加であろうと考えられる。個人は多様な生き方のバリエーションのなかから自分にふさわしいものを選ぶようになるであろう。
現在、進行している、性役割に基づく専業主婦型世帯の減少、女性の就労・社会進出、DVや児童虐待、介護疲れ問題などから、簡単に結婚しまた簡単に離婚するというような風潮がいっそう広まり、独身のまま働いて、ときどき恋人がいるというようなスタイルも増えていくだろうと考えられる。
家族の関係性も、家族が「生産の単位」から「消費・楽しみ・生活の単位」になり、さらに夫婦だけでなく親子も含めて、個室で好きなテレビを各人が見る、食事もバラバラというように、その生活の単位が個人化しつつあることで、個人の集合体としての様相を強く帯びてくるであろう。
少子化も、子育て自体の大変さ、経済的負担の大きさ、取り巻く環境の劣悪さなどが知られるにつれ、さらに進展していくであろう。
変化する現実を受け止めるしかない
そうした変化を「いい、悪い」と自分のある種のバイアスがかかった価値観から評価しても意味がない。多様化が進むことは、環境の変化と市場原理の進展と自由を尊重した暮らし方を各人が追求し選んだことなどが絡み含った結果であって、それを「人間関係が悪くなった、バラバラになった、会話がなくなった、愛がなくなった」という悪い意味での「家庭崩壊」と決めつけるのは誤りである。
大きな社会の変化には価値観の急速な変化がともなうのは必然である。これまでの常識が通用しなくなり、将来のビジョンが不明瞭なとき、不安を感じるのは当然だが、いま私たちは変化する現実と不安を受け入れるのか、それとも「昔はよかった」と嘆き思考停止するのかが問われているのだともいえる。
そして、現実をまっすぐに認識し、変化と不安を受け入れ、以前の「理想的な結婚」に対して、多様な立場から新たな「理想の結婚」や「理想の関係」が模索、あるいは提起されていると見るのが前向きな態度なのではないだろうか。つまり、私たちがなすべきことは、現実(の変化)を受け止め、どのような問題があるかを考え、それに対処(受け入れて社会と意識を変えていく)していくことであろう。
非婚者の増加、少子化の進展という現象は、結婚したくても結婚できない、子どもを産みたくても産めない、結婚や出産を躊躇せざるをえない社会環境があるというだけでなく、積極的な社会変化の一面を表しているともいえる。
それは、社会が旧来の家族単位システムでは合わなくなってきており、そうでない方向に社会を変えるべきだという信号を出しているという側面である。多数派の意識としては、家族単位のままの人が依然として多いが、取り巻く社会環境が変わってきたので矛盾が大きくなってきたということだ。非婚化や少子化というシグナルを、結婚や出産を躊躇せざるをえない社会環境を変えようという前向きのメッセージと受け取るべきなのだ。
つまり、結婚していない人が増えること自体が問題なのではない。結婚している人たちと結婚していない人の両方が共通に抱えている問題を正しく受け止めないことこそが問題なのである。
それは、ここまでで記述してきたように、「性役割を組み込んだ結婚をするのが当然(=単位)」というあり方自体に、女性の不満や非婚化や少子化、離婚、長時間労働、社会保障の行き詰まりなどをもたらす要素が入っているということ、つまり、家族単位制度が制度疲労を起こしているという問題である。従来の家族・結婚・職場のあり方自体が問題となっているのだ。
とすれば、これまでと異なって、「結婚という標準」が崩れていき、多様な生き方が不利益なく選べるように、相手の自由や人権を侵害せず、適切な距離をとり、適切にコミュニケーションする能力をもてるように意識と制度が変革されることが大事なのだといえる。
少子化にしても、各人の自己決定尊重(出産は選択肢の一つで、子どもをもたない選択肢がはっきりと目に見えるようになってきたこと)に加え、妻任せにしない男性の増加、人口減少による大量消費の低下、生産性の上昇による一人あたりの豊かな生活水準、家・土地など財産を継承する割合上昇による豊かさの享受、余暇におけるゆとりの拡大、交通渋滞緩和、受験戦争の緩和などの積極面があることにも目を向ければいい。
ただし、あまりにも急激な人口減少の過程に引き起こされる諸問題(二三ページ参照)ゆえに、ある程度の少子化傾向の緩和が望ましい。それに対しては、北欧のような子育てと仕事の両立を支援する諸制度を導入することによって−本質的には、のちに示す社会民主主義的なシングル単位化改革を進めることによって−少子化傾向に歯止めがかけられ、対応可能である。
実際に子どもを育てた親は「子どもを産んでよかった」という者が多いのたから、仕事と育児両立のマイナス要因さえ減らせば、少子化は改善される。より積極的には、「親となるための教育」を充実させることもよいだろう。
多様な生き方に合ったシステムが必要
結局、未婚・非婚の人が社会に増えても、それにともなって制度・政策と意識が変わればよいのだ。社会的対応とすれば、従来の特定の家族のみを標準とすることをやめて、個人がどの生き方を選んでも公平に扱われるような仕組み作りと、その選択をすることで発生しかねない負の部分への対処がいるようになるだろう(現状は、独身者・離婚者・共働き子育て夫婦・単親家庭などがあまりにも不利なので、そこへの不漓が高まっていくだろうから)。
「みんなが結婚し、仲がよくて理解し合えるのが当然」というところを基準(ゼロ、出発点)にすると、あとは不満をもったり、理想的家族じゃないと嘆くだけのマイナスしか生まれない。必要なのは、そういう「理想の家庭が当然」の発想をやめ、多様性をリアルにとらえて、それを組み込んだシステムにすることであろう。
非婚の増加が提起するもの
家族をめぐる状況で、何かしら問題があるとすれば、真の問題は、コミュニケーション能力、人権・自己決定の尊重などが大事になってきたにもかかわらず、それらが適切な水準で遂行されていないという点にある。
以前はコミュニケーション能力も自己決定もたいして大切ではなかった。役割を前提に動いたり、命令したり、それに従ったりしていればよかった。やるべきことが決まっていて、誰もそれを疑っていなかった。
だが、成熟社会になって、さまざまな価値の根拠が揺らぎ、以前よりも丁寧にコミュニケーションをとらないと、家族内で摩擦が起こるようになってきた。自己決定を大切にしないことで不満が生じるとか、人権が尊重されていないと感じられるようなことが増えてきた。ところがその一方で、そうした能力をいまだ多くの人は訓練されておらず、意識も明確に転換できていないために、摩擦ばかりが大きくなってきているのである。
つまり、結婚というカタチの内側にいるか外側にいるかに関係なく、親しい人とのあいだのコミュニケーションの質を、いかに新しい欲求水準に適合したところまで高められるかが課題なのである。
現在はまだ相手の自己決定や自由を充分に尊重できない干渉的・依存的な関係や役割の強制が多く見られる。家族や恋愛を共同体主義=単位的に美化する意識が惰性的に残っているからである。時代が求める望ましい人間関係の質に、いまだ実態が追いついていないがゆえに、それが離婚、家庭内の不仲、家庭崩壊、家庭内別居、虐待、暴力、DV、親子の対話不能などとなって現れている。
これは、人権問題をとらえる水準が高くなってきたから、以前なら問題とならないことが問題となってきたともいえるものである。その意味では、時代はようやく家庭内外の人権を繊細な水準でとらえはじめる時点にまで到達したということであろう。
従来の「世間並みの幸せ」というカタチにこだわり、家族単位思考をもつかぎり、不幸や抑圧は続くだろう。だから、何らかの意味で、「世間的価値観=世間体=結婚しなくてはならない、子どもをもたなくてはならない」という呪縛から外れて、内的に自己肯定できるようになればいい。戸籍や結婚概念などのカタチにとらわれることなく、適切な関係を作る能力を一人一人がもつことこそが求められているといえるのではないだろうか。
具体的には、一人でもいいじゃないか、モテなくてもいいじゃないか、男・女という役割も関係なく自由に生きようと思える人が増え、自分のことは自分でおこない、相手に自分と同じ考えや性役割を押しつけず、相手を支配、所有、抑圧しない人(多様性の作法を身につけた人)が増えることが求められているのだ。
その結果、まともなコミュニケーションや関係、抑圧のない新たな情緒的関係ができるのであって、そうした結婚や恋愛の内実を変える努力をせずに、内実は古いまま温存して、カタチとしての結婚や出産を奨励しても問題は何ら解決しないといえる。いや、むしろ問題を増やすだけだろう。
だが、現実の動きとしては、結婚そのものの中身、人間関係能力自体の向上を見直さないまま、結婚というカタチを奨励しようとする保守的発想の対策がとられている。その一つが、少子化対策として結婚保進策──具体的には独身男女を集めパーティーなどを開く「出会い事業」──を自治体が進めていることである。
(伊田広行著「シングル化する日本」洋泉社 p100-112)
■━━━━━
不倫は実際、負け大の大量発生、晩婚化、ひいては少子化の大きな原因の一つとなっていると私は考えます。現代社会において不倫はごく日常的な出来事ですが、軽い気持ちで行なった不倫が、独身女の婚期を遅らせる……だけならまだしも、その婚期を奪うということもままある。たとえ不倫を継続しなくとも、不倫によって年上の男性の経済力や包容カ等の味を一度しめてしまった女性の目に、同年代の男性がつまらなく見えてしまうことも、ままあります。
女性側だけの問題ではありません。不倫によって男性側の家庭には不幸の影が射し、幸せそうではない主婦が世間に溢れる。それを見た世の若人達は、
「結婚って良いものではなさそうだなあ」
と思ってしまい、ますます晩婚化・少子化は進む。
不倫の大量発生には、社会構造の問題が絡んでいます。東京の既婚サラリーマンで考えてみれば、彼等は都心から遠く離れた郊外に住み、長時間労働をしています。そのため、家族と過ごす時間は非常に少なく、仕事上で関わる女性と過ごす時間の方がよっぽど長い。共に過ごす時間が長ければ長いほど、つまり経験を共有すればするほど情愛が湧くのは人として自明であり、都会の不倫というのは社会の仕組みによって構造的に生み出されているものとも言えるわけです。
都市の不倫問題を解決するにはどうしたらいいのか。不倫の横行は国家の存亡に関わる問題のような気もしますが、個人の不倫問題に国は無論、介人してきません。首都移転とか、地方分権といったことを進めることによって、不倫は減少するのか。それとも、都市機能を分散させることによって、不倫とは無縁だった地方まで、不倫汚染されてしまうのか。何となく後者のような気もしますが、姦通罪でも復活させない限り、不倫撲滅は無理な相談なのかもしれません。
(酒井順子著「負け犬の遠吠え」講談社 19-20)
■━━━━━
このようにして、新興市民階級、とくに既存の制度がもっともひどくゆるがされたプロテスタント諸国のこの階級は、婚姻についても契約締結の自由をますます認めるようになり、上記のやり方でこれを実行するにいたった。婚姻はあいかわらず階級婚であったが、階級の内部では、当事者たちにある程度の選択の自由が許された。
そして紙の上では、道徳論と詩的描写においては、相互の異性愛と夫婦の真に自由な合意とにもとづかない婚姻はすべて不道徳であるということが、不動なものとして確定された。要するに、恋愛婚が人権として宣言されていた。しかもドロワ・ド・ロム droit de 1'homme〔男権、人権〕としてだけでなく、例外的にはドロワ・ド・ラ・ファム droit de la femme〔女権〕としても。
だが、この人権は、一つの点で他のすべてのいわゆる諸人権とちがっていた。後者の諸人権は、実際上は支配階級すなわちブルジョアジーだけにかぎられつづけ、被抑圧階級すなわちプロレタリアートにたいしてはこの諸人権は直接間接に侵害されていたのにたいし、前者の人権の場合には、歴史の皮肉がまたしても実証される。
支配階級は周知の経済的影響に支配されつづけ、それゆえ真に自由に締結された婚姻を見せるのは例外的な場合にしかないが、他方、被支配階級にあっては、すでに見たようにこうした婚姻が通例なのである。
したがって、婚姻締結の完全な自由は、資本主義的生産とこれによってつくりだされた所有関係とが廃止されて、いまなお配偶者の選択にきわめて強い影響を及ぼしている副次的な経済的顧慮がすべて取り除かれたときに、はじめてあまねく実行されうるのである。そのときには、相互の愛情以外にはもはやどんな動機も残らない。
ところで、異性愛はその本性上、排他的であるから──この排他性を徹底的に実現しているのは、今日では、女子の場合だけであるが──、異性愛のうえに築かれる婚姻は、その本性上、個別婚である。すでに見たように〔本訳書、七三ページ〕、バッハオーフェンが集団婚から個別婚への進歩を主として女子の所業とみなしたのは、正しかった。対偶婚から一夫一婦婚への前進だけが馬子のせいであり、しかもこの前進は、歴史的に見て、本質的に女子の地位を悪化させ、男子の不貞を容易にするものであった。
女子が男子のこうした慣習的な不貞にあまんじたことの原因である経済的顧慮−彼女自身の生活と、それにもまして子どもたちの将来についての心配──が、いまやさらになくなれば、これによって到達される女子の平等な地位は、これまでのすべての経験に徴すれば、女子を多夫的にするよりも、男子を真に一夫一婦的にするよう、限りなく強いはたらきをするであろう。
だが、一夫一婦婚からまったく決定的になくなるだろうものは、一夫一婦婚が所有関係から発生したものだということがそれに刻印した一切の性格である。そしてその性格は、第一に男子の優位であり、第二に婚姻の解消不可能である。結婚生活における男子の優位は、男子の経済的優位の単なる結果であり、後者がなくなればおのずとなくなる。
婚姻の解消不可能は、一部は、一夫一婦婚を成立させた経済事情の結果であり、一部は、この経済事情と一夫一婦婚との連関がまだ正しく理解されず、宗教的に誇張されていた時代からの伝統である。それはすでに今日、何千回となく破られている。愛にもとづく婚姻だけが道徳的であるならば、愛がつづいている婚姻だけがまた道徳的である。
だが、個人的異性愛の熱の持続期間は、個人によって、とくに男子の場合は、きわめてまちまちであり、愛情がはっきりなくなるか、あるいは新しい情熱的な恋愛によって駆逐される場合には、離婚が双方にとっても社会にとっても善事となる。ただ、離婚訴訟という無益なぬかるみを人々がわたらずにすむようにすべきであろう。
ところで、きたるべき資本主義的生産の一婦のあとの両性関係の秩序についてわれわれが今日推測できる事柄は、主として消極的な性質のものであって、おおむね、なくなる事柄に限られる。だが、なにがつけ加わるだろうか? それは、新しい一世代が成長してきたときに決定されるであろう。
すなわち、その生活中に金銭ないしその他の社会的な権力手段で女子の肌身提供を買いとる状況に一度もであったことのない男子たちと、真の愛以外のなんらかの顧慮から男子に身をまかせたり、あるいは経済的結果をおそれて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も出あったことのない女子たちとの一世代が、それである。
こうした人々が実際に現われる場合には、彼らは、彼らがなすべきだと今日の人間が思っていることなどは、まったく意に介さないであろう。彼らは、彼ら自身の行動と、それに適応した各人の行動にかんする世論とを、みずからつくるであろう。──それでおしまいである。
ともあれ、モーガンに戻ろう。われわれはかなり彼から離れてしまった。文明時代のあいだに発展した社会諸制度の歴史的研究は、彼の著書の範囲をこえる。だから、この時代のあいだの一夫一婦婚の運命については、彼はごく簡単にしか論じていない。彼もまた、一夫一婦婚家族の発展的形成を一つの進歩、両性の完全な同権への一接近と見ている。──しかし彼はこの目標がすでに達成されているとは思っていないが。
だが、彼はこう言う。
「家族が四つの形態を次々に経過して、いまや第五形態にあるという事実が承認されるとき、この形態が将来にわたって永続的でありうるかどうかという疑問が〔ただちに〕おこる。あたえることのできる唯一の答えは、それは、これまでとまったく同じに、社会が進歩するにつれて進歩し、社会が変化するにつれて変化するにちがいないということである。
それは社会制度の創造物であり、その文化程度を反映するであろう。一夫一婦婚家族は文明時代の開始以来、〔いちじるしく〕改善されてきたし、近代ではそれがとくに顕著であるから、少なくともそれは、両性の平等が達成されるまでは、さらにいっそう改善されうるものと推測できる。〔……〕遠い将来において一夫一婦婚家族が社会の要請にこたえることができなくなるとしても、その後にくるものの性質について予言することは不可能である」。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p110-113)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「社会が進歩するにつれて進歩し、社会が変化するにつれて変化するにちがいない」と。
言うまでもないが、伊田、酒井はエンゲルスと同じ事をいっているのではない。……念のために。