学習通信040417
◎「うるさいおしゃべりは、あとで話すつもりだが、才能をうぬぼれ」……
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先輩・上司
先輩をなんだと思っているんだ、と若者に対して怒りをあらわにしている大人がいる。その人たちを失望させるようたが、はっきり言って、若者は先輩や上司をなんとも思っていない。
というか、ただ年齢や地位が上だからというだけで先輩や上司に一目置く、敬意を払うことはないのだ。あくまで、その人自身がどういう人かが、問題。
だから、遂に相手が後輩や部下であっても、その人に自分にない特技や魅力があれば、「すごいね」と素直に言えるのも、今の若者の特徴だ。
ただ、自分や相手の年齢や肩書きで上下の関係が決まる、という考えに慣れている年代の人にとっては、これはとてもやりにくい。まず、相手がどんな人間か、中身を知ったり伝えたりするまでには、かなりの時間がかかる。「係長」「部長」などの肩書きだけで、敬語になったり命令口調になったり、というのが決まる方が、ずっと話が旱い。
また、学校や職場の指示や命令には、いちいち理にかなった理由があるわげではない。たとえば先生が「気をつけ!」と言えば生徒は全員「気をつけ」の姿勢をとるから朝礼も円滑に進むが、ここで「どうして今、気をつけをしなければならないのですか」「なぜ先生だからって生徒に命令できるのですか」と言い始めては、とても朝礼などできないたろう。
そこで、「どうして?」と疑問に感じる若者に説明をするのは面倒、と思った大人は、ときどき「言うことをきかなければ○○しないぞ」と現実的な理由で脅しめいたことを口にする。また、それまでは「教授だからというそれだけで、僕たちに命令する権利はない」などと威勢のよいことを言っていた学生も、「単位をやらないぞ」といったわかりやすいことばにはとても弱い。
かくして、あまり興味がない講義の場合は、「教授を敬っているから××する」のではなくて、「単位をもらえないと困るので××する」といった構図がでぎ上がってしまう。もちろん、心の中では「なんだ、あんな教授」と敬意のかけらも持てないまま。これでは、若者がせっかく「肩書きではなく中身で相手を評価」と思っていても、あまりそれがよい方向には生かされていないことになる。
若者も「先輩だからといってどうして偉いの?」と思うなら、いくら相手が「そんなこと言ってると○○してやらないぞ」「言うこときけば○○してやるぞ」と権力を振りかざして来ても、「それならそれでかまいません」「けっこうです」と踏みとどまるべきだ。現実的な罰や報酬を突きつけられるとすぐに妥協してしまうのは、今の若者の弱点と言える。
それから、「相手を中身で評価」というときの。中身≠ノも問題がある。よく聞いていると、「有名人と知り合いだから偉い」といった、非常に表面的な理由で相手に高い評価を与えていることもあるようだ。「そういう中身≠ェあるなら、たしかに尊敬に値するね」と、だれもが納得するような中身≠大人の中に見つけられるように、もっと自分たちの目を磨く必要がある。
もちろん、大人の側にも問題はある。これまでのように「私はこの企業の重役なんだけど」と言っても若者が「ヘー、それで?」といった反応を返した場合、腹を立てたり不安になったりして、必要以上に権力を見せびらかすのはとてもみっともない。彼らは、先輩や上司を尊敬したくない、と言っているわけではない。「尊敬に値すべき人を尊敬したい」という、ごくまっとうなことを思っているだけなのだ。
「今の若者は上司を尊敬してくれないから」と相手のせいにするのではなく、自分がなぜ彼らに尊敬されていない(ように思える)かを考えてみるべきだ。そして、「一目置ける人に出会いたい」という気持ちは人一倍強い若者たちに、自分の肩書きをではなくて、人間的な魅力を見せられるようにすればよい。「え、そんなことも知ってるんですか?」「すごい、先輩ってこんなこともできるんですね」と、自分にない知識や特技に対しては、今の若者は素直に驚きと尊敬の目を向けてくれるはず。
そして、「人間的にかっこいいから」と若者に敬意を払われることから得られる内面的な満足は、ただ「部長だから」とまわりが媚びへつらってくれることの安心よりずっと大きいことが、すぐにわかるだろう。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p196-199)
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かれはあまりしゃべらない。他人に相手になってもらおうなどとはほとんど考えていないからだ。同じ理由で、かれは必要なことしか言わない。必要がなかったとしたら、なにがかれにしゃべらせるのか。エミールはあまりにも多くのことを教えられているからおしゃべりにはけっしてなれない。
うるさいおしゃべりは、あとで話すつもりだが、才能をうぬぼれること、それとも、つまらないことに価値をあたえて、愚かにも、他人も自分と同じようにそれを重要視していると考えること、このどちらかから必然的に生まれてくる。ものごとを十分よく知っていて、すべてのものにそのほんとうの価値をあたえることができる人は、けっしてよけいなことは言わない。
相手がかれにたいして示す関心とかれの話にたいしてもてる興味を評価することも心得ているからだ。一般的にいって、わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知ってる人はわずかなことしか語らない。
無知な人間は自分が知ってることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す、これはわかりきったことだ。ところが、教養のある人は容為にかれの持ち物を公開しない。かれには語るべきことがありすぎるし、自分に言えることのほかにもまだ多くのことが言えることがわかっている。だからかれは口をつぐんでいる。
エミールは、他人のやりかたにぶつかっていくようなことはしないで、なるべく他人と調子をあわせるようにしている。しきたりをよく知ってるように見せかけるためではなく、洗練された人間らしい様子を見せるためでもなく、はんたいに、他人とちがった人間と思われることを恐れているからだ、人目に立つことをさけるためだ。そして、人がかれにかまわないでいるときほど、かれが気楽になれるときはないのだ。
世間に出ても、かれは世間の流儀をまったく知らない。だからといって小心にも臆病にもならない。人目をさけることがあっても、それは困ることがあるからではない。よく見るためには、人から見えないところにいる必要があるのだ。
かれは人が自分のことをどう考えているかと思って不安を感じることはほとんどないし、笑いものにされはしないかと心配することはぜんぜんないのだ。だからいつも冷静に落ち着いていて、きまり悪さにどぎまぎするようなことはない。
人が見ていようといまいと、自分のすることをできるだけうまくやり、他人をよく観察することにうちこんでいて、臆見の奴隷には見られない余裕のある態度で他人のやりかたを理解する。かれは世間のしきたりをあまり重く見ていないので、いっそうはやくそれをおぼえるのだ、ともいえよう。
とはいえ、かれの落ち着いた態度について思いちがいをしてはいけない。それをあなたがたの愛想のいい青年の態度にくらべようとしてはいけない。かれはしっかりしているが、傲慢ではない。かれの態度は自由だが、尊大ではない。横柄な様子は奴隷だけに見られるもので、不羈(ふき)独立の人には気どったところはぜんぜんないものだ。
心に誇りをもっている人間がそれを態度にあらわすのをわたしはかつて見たことがない。そういう気どりは、そんなことでしか威厳を示せない、いやしいくだらない人間にはるかにふさわしいことだ。ある書物のなかで読んだことだが、一人の外国人があるとき有名なマルセルの教室にやってくると、マルセルはその人に、どこの国の人かとたずねた。
「わたしはイギリス人です」とその外国人は答えた。「あなたが、イギリス人!」とダンスの先生は言った。「あなたがあの、市民が国政に参与して、主権の一部をなしている島国の方だとは! いや、そんなことはない。あなたの下をうつむいた顔、臆病なまなざし、しっかりしない歩きかた、それを見ると、わたしには、あるドイツ選帝侯の、なにか肩書をもった奴隷としか思われませんよ。」
この判断はある人の性格と様子との正しい関連についてのすぐれた知識を示しているものかどうかわたしは知らない。わたしはダンスの先生である名誉をもたないが、わたしなら、まったく反対のことを考えたにちがいない。わたしはこう言ったことだろう。「あのイギリス人は宮廷人ではない。宮廷人がうつむいていたり、しっかりしない歩きかたをしたりするということをわたしはかつて聞いたことがない。
ダンスの先生のところで臆病になる人は、下院ではたぶん臆病でなくなる人なんだろう。」たしかに、そのマルセル氏は、かれの同国人〔フランス人〕をみんな?ローマ人と感ちがいすることになるのだ。
愛する者は愛されたいと思う。エミールは人々を愛している。だからかれは人々の気に入られたいと思っている。女性たちにはなおさら気に入られたいと思っている。かれの年齢、かれの品行、かれの意図、すべてが一致してかれのそういう願いを育てようとしている。わたしは、かれの品行、と言った。それは大いに関係のあることなのだ。
品行の正しい人こそほんとうに女性を尊敬している人なのだ。他の人々のように、女性にちやほやする社会の、人をばかにした、なにかわけのわからぬことばづかいは知らないが、そういう人には、もっと真実のこもった、もっとやさしい、そして心からのいんぎんさがある。わたしは若い女性のそばにいて、品行の正しい、自然を支配している一人の男性を、十万人の放蕩者のなかからみつけだすにちがいない。
めざめたばかりの肉体をもちながらも、それに抵抗する豊かな理性をそなえているエミールはどんなふうに見えることだろう、それを考えていただきたい。女性たちのそばにいるために、かれは、ときには小心になり、当惑させられることもあるだろうと思う。しかし、たしかに、その当惑は女性たちを不愉快にはしないだろうし、およそ浮気女とは縁の遠い女性たちでさえ、それを楽しみ、いっそうかれを当惑させる技術を知っているばあいも、あんがい、しょっちゅうあることだろう。
それにまた、かれのいんぎんな態度は相手の境遇によってかなり形を変えることになるだろう。かれは、既婚の女性にたいしてはいっそうつつましく、うやうやしくふるまい、これから結婚する女性にたいしては、いっそういきいきと、そしてやさしくふるまうだろう。かれは、自分がもとめている対象を見失うことなく、それを思い出させるようなひとには、いつもいちばん大きな関心を示している。
自然の秩序にもとづいている尊敬、さらにまた社会の正しい秩序にもとづいている尊敬のすべてに欠けることがないように、かれ以上に心がけている考はいないだろう。けれども、自然の秩序は社会の秩序よりもいつも重くみられるだろう。だからかれは、自分より年長の個人にたいして自分と同じ年齢の高官にたいするよりもいっそう敬意をはらうだろう。
そこで、たいていのばあい、その場にいる人々のなかでもっとも若い人の一人であるかれは、かならず、もっともつつましくしている人の一人だろう。謙遜な人間と思われたいという虚栄心からではなく、自然の感情、そして道理にもとづいた感情からそうするのだ。そこにいる人々をおもしろがらせるために、賢い人たちよりも大きな声でしゃべり、年寄りの話をさえぎる、きざな青年の生意気な処世術を、かれは知らないだろう。
ある年とった貴族は、ルイ十四世から、かれの時代と今の時代とどちらがいいと思うかとたずねられて、「陛下、わたくしは若いころには老人を尊敬してまいりましたが、年をとってからは子どもたちを尊敬していかなければなりません」と答えたが、エミールとしては、そういう答えを正しいとはみとめないだろう。
やさしく感じやすい魂をもってはいるが、なにごとも世間の相場で評価しないかれは、他人の気に入られたいとは思っていても、他人から尊敬されたいなどとはほとんど考えないだろう。だからかれは、鄭重である以上に人なつこい人間になるだろう。わざとらしいところもなく、飾りたてることもしないだろう。
そして、賞讃を浴びせかけられたときよりもやさしいことを言われたときにいっそう心を動かされることだろう。同じ理由から、かれは態度や身のこなしをいいかげんにすることもあるまい。多少は服装に気をくばることさえあるかもしれない。趣味のいい人間であることを示すためにではなく、自分の姿を快く感じさせるためだ。かれは金の額縁にたよるようなことはしまいし、富の目じるしがかれの身なりをきたならしくするようなことはけっしてあるまい。
こういうことはすべて、わたしが教訓をならべたてることを必要としない、それはかれの幼いころの教育の結果にすぎない、ということは明らかだ。わたしたちは世間のしきたりをひじょうに神秘めいたもののように思わせられている。そういうしきたりをおぼえる年ごろになっても、自然にはおぼえられないとでも言うのだろうか。
また、その基本的な法則をもとめなければならないのは誠実な心のうちにではないとでも言うのだろうか。ほんとうの礼儀とは人々に好意を示すことにある。好意は、それをもっていれば、わけなく示される。好意をもたない者のためにこそ、好意の見せかけを技術にまとめてやらなければならないのだ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p269-274)
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◎若者法則……エミール……どんなことをとらえましたか?
「中身≠大人の中に見つけられるように、もっと自分たちの目を磨く必要がある」……と。
事務所でも、隙あらば話のかみこもうと……注意しても注意しても直らない……。それも本質的な話ではなく、枝葉の雑学……? エミールを深く学んでほしいものです。そういう姿はなんにもないのではなく、若ものに影響を与えているのです。