学習通信040418
◎働くこと

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新しき村に就ての対話(抜粋)

第一の対話

A。先生。
先生。Aか。暫くだね。
A。先生は相変らず御元気で結構ですね。
先生。ああ、まあ元気にしているよ。

A。この頃は何か書いていらっしゃいますか。
先生。別に何もかいていない。この頃は色々のことが解らなくなっている。以前はあることに疑問を挟めばそれでよかった。解決は他人に任せて安心していられた。或はとても解決の得られないことを、疑問なら疑問なりに饒舌(しゃべ)れば、それで他人に反省をうながすことが出来るので、それで安心していた。

それで満足しないまでも、それで自分の義務を幾分か果した事になった。しかしこの頃は、それに自分であるところまで答えを与えたくなった。それで自分はぼんやり色々のことを考えている。が、それがもっと形の出来るまで、何にも書きたくない。それで黙っている。

A。どんな事をぼんやり考えていらっしやるのですか。

先生。いろいろの事だ。しかし一言で云ば、この世がどうなれば一番合理的であるか、そして世の中がそうなるにはどうしたらいいかと云う事を考えている。しかし自分は実際家ではない。唯考えているだけだ。先ず僕は一つの家を建てる設計家だ。大工ではない。自分はある理想的な家の計画だけを生きている間に、はっきり作って置きたく思っている。

A。お出来になる積りですか。
先生。少し夢のような話だが、出来ないものとは思えない。

A。その夢のような話を聞かして戴く訳には往きませんか。
先生。聞いてくれればしてもいい。然し余りに虫のいい空想と思うだろう。ともかく其処の石に腰かけよう。そして俺が沈黙している内に本当に進歩したか、退歩したか聞いて貰おう。僕はこう云う事を考えている。と云って僕の云うことは甚だ平凡な事だからその心算でいてほしい。僕はこの世の中に食う為に働く人が一人でもいれば、それはこの世の中のまだ完全でない証拠と思っている。額に汗して汝の糧をつくるべしと言う時代は既に過ぎ去っているべき筈なのだと思っている。

A。先生は相変らず楽天家ですね。
先生。僕は現世について云っているのではない。現世は汝の糧の為には汝の一生を売るべしと言い兼ねない。現在そう云う境遇の人は幾らでもいる。しかしそれは社会の制度がまだ成長し切っていないからだ。自分は労働を呪いはしない。しかし食うためにいやいやしなければならない労働は呪いたい。

労働は人間が人間らしく生きるのに必要なものとしてなら讃美する。その労働は男は男らしく、女は女らしくする労働で、人間を人間らしくする労働でなければならない。労働という名は新しい時代に於ては、中世における武士と云う名と同じく誇りある名でなければならない人々は強いられずに、名誉の為に、人類の為に労働をすると云う時代が来なければならない。労働は享楽ではない、しかし人間としての誇りある務めだ。労働の価値は高まる。そして人々は喜びと人間の誇りをもって労働する。そう云う時代が来ることを自分は望んでいる。

A。先生は相変らず空想家ですね。
先生。相変らず空想家だ。しかしそう云う時代が来ることは君も認めるだろう。僕は社会主義を恐れるものは、今の労働者から労働を奪い、その代りに食を与えるにあると思う。我々は農夫と労働者の御蔭で生きている。そして我々の分まで労苦している。そしてその為に我々は労働の方には無資格になっている。我々の労働者に対する恐怖は、我々が彼等のように労働することが出来ないと云う点にある。

彼等の貧しきを利用して彼等に不当のことをしている点にある。国家の為に社会主義や共産主義が害があるかどうかは別にする。又人類の進歩に向ってそれ等のものが害があるかないかは別にする。しかしとにかく我々が労働者になれないと云うことは 我々の弱味である。僕はその点労働者には頭が上らない。彼等は僕達の出来ないことをしている。子供の時からの教育が達う。

人類に必要欠くべからざる労働に対して、自分達は何等の負担を持たないでいいように教育されている。それは人類に対してもすまないことであり、又気のひけることである。自分は分業と云うことは認める。一個人がどの労働も出来なけれぱならないと云うことはない。しかし何か人類が生きる為に必要な労働の分け前を幾分か分担していないことは弱味だ。

それは今の社会の弱味でこの弱味をなくして真の意味の万民平等に人々を教育するのが、今後の為政者の又教育家の務である。労働は尠(すくな)くも一家族の問題ではない、一町村の問題だ。社会の問題だ。食うと云う事に於ては各人共通だ。だから食う為に各人共に働くのが至当でもあり、好都合でもある。

そして各人協力して労力の負担を少なくして結果を多くする為に頭も身体も資本もつかうべきである。こんなことは自分が云うまでもない事だが、合理的の社会をつくる第一条件として必要だから述べる。しかしこう云う制度が実行される為には、各人が賢くなり、そして共同の精神が発達する必要がある。

教育の方針から段々そう云う風にかえて往かなければならない。そして制裁が行きわたると同時に出来るだけ思い遣(や)りが行きわたらなければならない。そして動きのとれない法律でではなく、不文律で皆勇んでするのでなければならない。そして健康を尊重し出来るだけ各自の才能を生かし、出来るだけ喜びを以て労働するように骨折らなければならない。

A。先生からそう云うお話は一度伺ったように思います。
先生。もう何度も云ったかも知れない。しかし自分はそう云う社会が出来るまでは社会上の不穏な空気は失われない。そしてもしこう云う議論に反対する人があれば、それは平等と云うことを本当には知らない人だ。僕の考えが社会主義に似ているかいないかそれは知らない。僕はこの主義のことはまるで知らない。

しかしともかく自分の云った事は当り前すぎる程、当り前のことで、もし人間の幸福、進歩、健全を望むなら、以上自分の云ったことは承知しなければならない。細い色々の面倒はあるが、一日でも早くこの事を実行することは戦争をする事よりも有益な事である。

A。しかし先生、自分達の労働することを考えると考えものですよ。
先生。君はまだいいさ、身体がいいから。しかし僕なんか、下手に労働を強いられたら寿命が縮まるし、自分の本職をする根気がなくなるだろう。しかし、それだけにある強迫観念を受けて、なお今の労働の分配の不公平を思う。そして労働するのに不適当な人間をつくる今の教育の過失を知る。今、労働と云う言葉から受ける感じと、今後の世界で労働と云う言葉のもつ内容とは、随分違うに違いない。

われわれは健全に人間らしい生活をする為に労働が必要であると云う人があっても、自分はそれを認めるわけにはゆかない。自分は労働者を尊敬したい気さえしている、そして労働者は過度に労働をしているにかかわらず、わりに愉快に暮していると云うことを認めるにしろ、今の労働者の労働を正しい、そして健全なものとは思えない。

A。先生、そんなことは判り切っています。
先生。それは解り切っている。しかし自分の云おうと思うことをはっきりする為には、もう少しこの点をはっきりさしておきたい。自分の云いたいことは労働問題のことではない。人間が労働しない時間にはどう生きなければならないかと云う問題だ。

自分は人間としての本性の要求に従って、我々が最も人間らしい生活をするには、どうしたらいいかを考えたい。僕はすべての人が労働しなければならないと云うのは、すべての人が労働をする以上の生活をしなければならないと思うからだ。人はパンのみで生きることは出来ないと云うことを知る自分は、パンのみでやっと生きる人がこの世にいることを認めて済ましているわけにはゆかない。

労働にもいろいろある。われわれが生きる為に必要欠くべからざる労働と、そう必要のない労働とある。この必要欠くべからざる労働を一部の人に分担させて他の人々が呑気にしているのは、今の世では已むを得ないことにしろ、正しいことではない。自分は便宜上日本と云う言葉を借りて饒舌るとする。

日本人はすべて日本人であって、同胞である。我々は今日の日本に必要な労働を日本人全体で引き受けるとする。そして体格や土地の関係や、その人の趣味によって労働の範囲をきめ、そしてなるべく器械を応用し、なるべく労働を健康にそして楽にするように骨折り、利欲や生活難の伴ない労働をするようにしたら、今のある人々が苦しめられている労働とはまるで違う程、労働は苦しくなくなっていい筈と思っている。このことは、判り切ったことである。

そして既に誰もが心の底では感じていることである。自分はこんなことを今更云うのも恥ずかしい気がする。それで今仮りにこの問題を卒業したことにする。今や人々は人間の義務として一定の労働を進んですることになる。それは尠くも兵士になることの如く、名誉なことになる。工場は共有のものとなり、人々は其処で食う心配なく働く。

男は男らしく、女は女らしく。そして最もよく働くものには最も早き自由が来る。一生の間に一人の人の働く義務量は定められて、その他は自由気儘に自分のしたいことが出来る。其処に始めて自由があり、競争があってもいい。しかしともかく国民全体が健康を損ねないだけの衣食住は得られる。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 202-209)

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 おしまいに一つ、君に問題を出しておくから、考えて見たまえ。
 君は、あの「網目の法則」で、人間同志がどんなに結びついているかを、よく知っている。苦しい境遇の中で働いている人々と、割合に楽な境遇にいる僕だちとは、日常まるでかかわりなく暮らしてはいるけれど、実は、切っても切れない網目で、お互いにつなぎあわされて生きている。

だから、僕たちがあの人々のことを全く心にかけず、ただ自分たちの幸福ばかりを念頭において生きてゆくとしたら、それは間違ったことだね。しかし、僕たちがあの人々のことを考えなければいけないといっても、もしも、あの人々をただ不幸な人々、憐れな人々、同情してやらなければならない人々という風にばかり見ていったら、それはたいへんな誤りだ。コペル君、そこには、見落としてはならない肝心なことが、もう一つあるのだよ。

 なるほど、貧しい境遇に育ち、小学校を終えただけで、あとはただからだを働かせて生きて来たという人たちには、大人になっても、君だけの知識をもっていない人が多い。幾何とか、代数とか、物理とか、中学以上でなければ教えられない事柄については、ごく簡単な知識さえもっていないのが普通だ。

ものの好みも、下品な場合が少なくない。こういう点からだけ見てゆけぱ、君は、自分の方があの人々より上等な人間だと考えるのも無理はない。しかし、見方を変えて見ると、あの人々こそ、この世の中全体を、がっしりとその肩にかついでいる人たちなんだ。君なんかとは比べものにならない立派な人たちなんだ。

──考えて見たまえ。世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして、人間の労働の産物でないものはないじゃあないか。いや、学芸だの、芸術だのという高尚な仕事だって、そのために必要なものは、やはり、すべてあの人々が順に汗を出して作り出したものだ。あの人々のあの労働なしには、文明もなければ、世の中の進歩もありはしないのだ。

 ところで、君自身はどうだろう。君自身は何をつくり出しているだろう。世の中からいろいろなものを受取ってはいるが、逆に世の中に何を与えているかしら。改めて考えるまでもなく、君は使う一方で、まだなんにも作り出してはいない。毎日三度の食事、お菓子、勉強に使う鉛筆、インキ、ペン、紙類、──まだ中学生の君だけれど、毎日、ずいぶんたくさんのものを消費して生きている。

着物や、靴や、机などの道具、往んでいる家なども、やがては使えなくなるのだから、やはり少しずつなし崩しに消費しているわけだ。して見れば、君の生活というものは、消費専門家の生活といっていいね。

 無論、誰だって食べたり着たりしずに生きちゃあいられないんだから、まるきり消費しないで生産ばかりしているなんて人はない。また、元来ものを生産するというのは、結局それを有用に消費するためなんだから、消費するのが悪いなどということはない。

しかし、自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちが立派な人間が、どっちが大切な人間が、──こう尋ねて見たら、それは問題にならないじゃあないか。

生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばがりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ。

 だから、君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。この点から見てゆくと、大きな顔をして自動車の中にそりかえり、すばらしい邸に住んでいる人々の中に、案外にも、まるで値打のない人間の多いことがわかるに違いない。また、普通世間から見くだされている人々の中に、どうして、頭をさげなければならない人の多いことにも、気がついて来るに違いない。

 そしてコペル君、この点こそ、──君たちと浦川君との、一番大きな相違なのだよ。

 浦川君はまだ年がいかないけれど、この世の中で、ものを生み出す人の側に、もう立派にはいっているじゃあないか。浦川君の洋服に油揚のにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない。

 こういうと、君は、現在消費ばがりしていて何も生産しないことを、非難されているような気がするがも知れないが、僕は決してそんなつもりではない。君たちはまだ中学生で、世の中に立つ前の準備中の人なのだから、今のところ、それでちっとも構やしないんだ。

──ただ、君たちは目下消費専門家なんだがら、その分際だけは守らなくてはいけない。君たちとしては、浦川君が、たとえ境遇上やむを得ないがらとはいえ、立派にうちの稼業に一役受けもち、いやな顔をしないで働いていることに対して、つつましい尊敬をもつのが本当なんだ。仮にもそれを馬鹿にするなどということは君たちの分際では、身のほどを知らない、大間違いだ。
 さて、これだけの事をおなかの中にちゃんとおさめて、その上で君に考えてもらいたいことがある−

 君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、たしかに消費ばがりしていて、なに一つ生産していない。しかし、自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう。

 コペル君。
 僕は、わざとこの問題の答をいわないでおくから、君は、自分で一つその答を見つけて見たまえ。別に急ぐ必要はない。この質問を忘れずにいて、いつか、その答を見つければいいんだ。決して、ひとに聞いてはいけないよ。

また、ひとから聞いたって、君がなるほどと思えるかどうか、わかりはしないんだ。自分自身で見つけること、それが肝心だ。ひょっとすると、あしたにも君はその答を見つけるかも知れない。あるいは、次第によっては、大人になっても、まだわからないままでいるかも知れない。

 しかし、お互いに人間であるからには、誰でも、一生のうちに必ずこの答を見つけなくてはならないと、僕は考えている。

 とにかく、この質問を心に刻みつけておいて、ときどき思い出しては、よく考えて見たまえ。きっと、君は、そうしてよかったと思う日があるだろう。

 いいかい、では、忘れちゃあいけないぜ。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p137-142)

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◎「なに一つ生産していない。しかし、自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ」と。