学習通信040419
◎商品の価値はどうしてきまるのだろうか

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「価値は所詮主観的であり、社会的条件で決定されます」

 第三の論点は、価値は所詮主観的であり、社会的条件で決定される、という点です。従って、人知の産物なのです。

 「価値とは何か」は、近代経済学の長期にわたる問題です。労働価値説、効用価値説、いろいろな説が出ました。しかし私は、価値は客観的に測れないものではないか、究極的に人知に支配されるものであり、市場で決定するそれである、と考えています。

 二十世紀の客観的価値論は今、再検討されねばなりません。近代にはニュートン力学における質量不変の法則と、近代文明論における文明普遍論に並んで、価値客観論が存在したのです。はじめの二つは、既に否定されました。価値客観論も批判されるべきでしょう。
(堺屋太一著「東大講義録」講談社 p266)

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 さらに、分配価値が他人の給付を反対給付なしに取得する手段になっているもう一つのおもな形態がある。所有賃料、すなわち、地代と資本利得とである。われわれは、さしあたってはこれを記録するだけにしておく。これは、〈評判の「分配価値」についてわれわれが聞き知ることはこれでおしまいだ〉、と言えるようにするためである。──おしまい? いや、すっかりおしまいというわけでもない。まあ聞いてみよう──

 「生産価値と分配価値との認識のうちに二重の観点が現われているにもかかわらず、やはりその根底には、或る共通なものが、〈すべての価値を構成し、だからそれを測る尺度ともなる〉そういう対象として、いつまでも存在している。

このじかの自然的な尺度は、力の支出であり、その最も単純な単位は、語の最も生の意味における人間力である。後者は、生存時間に還元され、そして、この生存時間の自己給養はまた、或る量の食物上および生活上の諸困難の克服を表わしているのである。

分配価値や取得価値が純粋にただそれだけとして存在しているのは、生産されたのではない物を意のままにできる権力が、または──もっと普通のことばで言えば──こうした物そのものが、本当の生産価値をもっている給付や物と交換されるところでだけである。

この等質的なもの──これは、どの価値表現にも、だからまた、分配を通じて反対給付なしに取得された価値成分にも、表示され代表されている──とは、……どの商品にも……体現されている人間力の支出である」。

 さて、われわれは、これについてなんと言ったらよいのか? もしすべての商品価値が商品に体現されている人間力の支出で測られるのなら、──分配価値・価格付加分・貢租賦課は、どうなってしまったのか? なるほどデューリング氏はわれわれに、〈生産されたのではない物、したがって本来の価値をもつことができない物も、分配価値をもらい、生産され価値をもっている物と交換されることができる〉、と言ってはいる。

しかし、同時に、〈すべての価値は、したがってまた純粋なただそれだけとしての分配価値も、それに体現されている力の支出で構成されている〉、と言っている。その場合、生産されたのではない物にいったいどのようにして力の支出を体現させようというのかは、残念ながら、聞かせてもらえない。

とにかく、いろいろな価値がこのようにごたごたとあるにもかかわらず、結局のところ、つぎのことだけは明らかであるように思われる。それは、〈分配価値とか、社会的地位の力でもぎとった──商品にたいする──価格付加分とか、剣の力による貢租賦課とかは、またしても、なんの意味もないものだ〉、ということである。

では、商品価値は、ひとえに、そのなかに体現されている人間力の支出に、平たく言えば労働に、規定されるのか? デューリング氏は、つまり、地代と二、三の独占価格とを別にすれば、あの評判が悪いリカードウ=マルクスの価値論がとうの昔にずっと明確に明瞭に述べたのと同じことを、ただもっとだらしない混乱した仕方で言っているにすぎないのか?

 氏はそのことを言っている。しかし、それにすぐに続けてその反対のことを言っている。マルクスは、リカードウの研究から出発して、つぎのように言う、──〈商品価値は、商品に体現されている社会的に必要な一般的人間労働に規定され、そして、この労働はまた、それの時間的継続によって測られるのである。労働は、すべての価値の尺度であるが、それ自体には価値はない〉、と。

デューリング氏は、〈労働が価値の尺度である〉と、同じことをそのしまりのない仕方で主張したあとで、こう続ける、──労働は「生存時間に還元され、そして、この生存時間の自己給養はまた、或る量の食物および生活上の諸困難の克服を表わしているのである」、と。

ここではただ労働時間だけが問題であるのに、氏は、まったくの独創性ほしさに駆られて、労働時間とこれまでかつて価値をつくったこともなければ測ったこともない生存時間とを混同している。が、これはほうっておくことにしよう。

また、氏がこの生存時間の「自己給養」を使って持ち込ませようとしているにせの「公正社会」の見かけも、ほうっておくことにしよう。世界がこれまで続いてきた限り、またこれからも続いていく限り、だれでも、自分の給養手段を自分で消費するという意味では自分で自分を給養しないわけにはいかないのである。

〈デューリング氏は自分の考えを経済学的にまた正確に表現した〉、と仮定すれば、右の文は、まったくなにも意味しないか、そうでなければ、つぎのような意味であるか、そのどちらかである、──〈一商品の価値は、それに体現されている労働時間に規定され、そしてこの労働時間の価値は、労働者をこの時間だけ維持するのに必要な生活手段に規定される〉、と。そして、これは、こんにちの社会について見れば、〈一商品の価値は、それに含まれている労賃に規定される〉、という意味である。

 これによって、われわれはついに、デューリング氏が本当に言おうと思っていることにたどりついた。一つの商品の価値は、俗流経済学の言いかたによれば、生産費に規定されるという。これにたいして、ケアリは、<生産費がではなくて再生産費が価値を規定する〉、という真理を強調した」(『〔国民経済学および社会主義の〕批判的歴史』、四〇一ページ)。

この生産費または再生産費とはどういうものかということは、あとで述べる。ここではただ、〈それは労賃と資本利潤とで構成されている〉、とだけ言っておこう。労賃は、商品に体現されている「力の支出」つまり生産価値を表わす。

利潤は、資本家が自分の独占で・自分の手にした剣でもぎとった貢租または価値付加分を、つまり、分配価値を、表わす。こうして、デューリング価値論の矛盾に満ちた混乱は、ついに残らず解消して、この上なく美しい調和のとれた明快さとなる。

 商品価値が労賃に規定されるということは、アダム・スミスではまだ、始終、価値が労働時間に規定されるということと入リまじって出てくるが、リカードウ以来、科学的経済学からは追放されており、こんにちでは、わずかに俗流経済学のなかでよく出没することがあるだけである。

現存の資本主義的社会体制の最も月並みなおべっか使いどもこそ、〈価値は労賃に規定される〉と説いているのであって、そのさい同時に、〈資本家の利潤も、やはり二種の高級な労賃であり、節約にたいする(資本家が自分の資本をおもしろおかしく使いはたしてしまわなかったことにたいする)報酬であり、リスク特別手当であり、事業経営報酬である〉、などなど、うそを言いふらしているのである。

デューリング氏がこの途中と違っているのは、〈利潤は強奪である〉と言っている点でだけである。言いかえれば、デューリング氏は、自分の社会主義を最悪の種類の俗流経済学の学説を使ってじかに基礎づけているのである。氏の社会主義の値打ちは、正確に俗流経済学の値打ちに等しい。この両者は、興(おこ)るのも亡びるのも一緒である。

 なぜと言って、つぎのことは明らかではないか。すなわち、一人の労働者がどれだけの仕事をするかということと、彼にどれだけの費用がかかるかということとは、一つの機械がどれだけの仕事をするかということと、その機械にどれだけの費用がかかるかということと同様に、別々の事柄なのである。

一人の労働者が一二時間の一労働日のうちにつくりだす価値と、彼がこの労働日とそれの一部である休息時間とに消費する生活手段の価値とは、まったくかかわりがない。この生活手段には、労働生産性の発展程度に応じて、三時間の労働時間が体現されていることもあろうし、四時間のこともあろうし、七時間のこともあろう。

〈この生活手段の生産に七時間労働が必要であった〉、と仮定してみよう。そうすると、デューリング氏が採用した俗流経済学の価値論が言っているところでは、〈一二労働時間の生産物は、七労働時間の生産物の価値をもっており、一二労働時間は七労働時間に等しく、すなわち、12=7>、ということになる。

もっとはっきり言えば、こうである、──どんな社会的諸関係のもとででもよい、或る農村労働者が一年間に或る穀物量を、いくらでもよい、たとえば二〇ヘクトリットルとしておこうか、それだけの小麦を、生産する、とする。そして、この期間に一五ヘクトリットルの量の小麦で表わされる価値額を消費する、とする。

そうすると、二〇ヘクトリットルの小麦が一五ヘクトリットルの小麦と同じ価値をもつことになる。それも、同じ市場で、ほかの事情は完全に同じままであるとして、そうなるのである。言いかえれば、〈二〇は一五に等しい〉というわけである。そして、こんなものが〈経済学〉と自称するのである!
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p20-24)

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◎東京大学経済学部卒業で森内閣のときには経済企画庁長官を努めた堺屋太一……ひどいことを言っている。

労働学校で総合コース、経済学コース、古典コースを学んだ人は、よ〜く考えなくてもスラスラとその非科学性≠ェわかるでしょ。それだけではだめで仲間にきちんとはなさなければなりません。それが今日の先進的な青年の姿です。