学習通信040421
◎「およそ商品の価値は、……かれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい」と。

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人が富んだり貧しかったりするのは、人間生活の必需品、便益品および娯楽品をどの程度享受できるかによる。だが、分業がひとたび徹底的に行き渡るようになったあとは、一人の人間が自分の労働で充足できるのは、このうちのごく小さい部分にすぎない。かれは、その圧倒的大部分を他の人々の労働に仰がなければならない。

つまりかれは、自分が支配できる労働の量、または他人から購買できる労働の量におうじて、富んだり貧しかったりするにちがいない。したがって、およそ商品の価値は、それを所有していても自分では使用または消費しようとせず他の商品と交換しようと思っている人にとっては、その商品でかれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい。それゆえ、労働はすべての商品の交換価値の真の尺度である。

 あらゆる物の真の価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための労苦と骨折りである。

あらゆる物が、それを獲得した人にとって、またそれを売りさばいたり他のなにかと交換したりしようと思う人にとって、真にどれほどの価値があるかといえば、それによってかれ自身がはぶくことのできる労苦と骨折りであり、換言すれば、それによって他の人々に課することができる労苦と骨折りである。

貨幣または財貨で買われる物は、われわれが自分の肉体の労苦によって獲得するものとまったく同じように、労働によって購買されるのである。その貨幣、またはそれらの財貨は、事実、この労苦をわれわれからはぶいてくれる。それらはある一定量の労働の価値をふくんでおり、その一定量の労働の価値をわれわれは、その場合、それと等しい労働量の価値をふくんでいるとみなされるものと交換するのである。

労働こそは、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった。世界のすべての富が最初に購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。そしてその富の価値は、この富を所有し、それをある新しい生産物と交換しようと思う人たちにとっては、そうした人たちがそれで購買または支配できる労働の量に正確に等しいのである。

 ホッブス氏がいっているように、「富は力である」。だが、巨大な財産を獲得したり相続したりする人が、かならずしも市民または軍人としての政治的権力を獲得したり相続したりするとはかぎらない。おそらくかれの財産はこの両者を獲得する手段をかれに与えるだろうが、しかし、その財産をただ所有しているだけでは、このどちらをもかれにもたらすとはかぎらない。

この所有がただちに、しかも直接にかれにもたらす力は、購買力である。すなわち、そのときその市場にあるすべての労働、またはすべての労働の生産物にたいする一定の支配力である。かれの財産の大きさは、この力の大きさに正確に比例する。

すなわちその財産でかれが購買または支配しうる他の人々の労働の量、または同じことであるが、他の人々の労働生産物の量、に正確に比例する。あらゆる物の交換価値はその所有者にもたらされるこうした力の大きさにつねに正確に等しいにちがいない。
(スミス著「国富論 T」中公文庫 p52-54)

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 資本の蓄積と土地の占有にさきだつ初期未開の社会状態のもとにおいては、種々の物の獲得に必要な労働量の比率が、これらの物を相互に交換するためのルールを可能とする唯一の事情であったと思われる。たとえば狩猟民族のあいだで、一匹の海狸(ビーバー)を仕留めるのに、一頭の鹿を仕留める労働の二倍がふつう費やされているとすると、海狸一匹はとうぜん、鹿二頭と交換されるべきである。

すなわち、鹿二頭に値すべきものである。ふつう二日分または二時間分の労働の生産物が、一日分または一時間分の労働の生産物の二倍に値するというのは、当然である。

 もしある種の労働が他の労働よりもきびしい場合には、この特別の労苦にたいして、いくらかの斟酌(しんしゃく)がとうぜんなされるであろう。そして、一方の一時間分の労働生産物は、他方の二時間分の労働生産物と交換されることもしばしばあるだろう。

 あるいはまた、ある種の労働がなみなみならぬ技能と創意を必要とするなら、人々はそのような才能を高く評価して、そうした労働の生産物にたいして、それに用いられた時間に相当する価値以上のものをとうぜん与えるであろう。

そのような才能は、長期にわたる勤勉の結果でなけれぱ獲得できないものであって、この才能の産物がもつ高い価値は、それを獲得するのに費やされるにちがいない時間と労働とにたいする妥当な報償にほかならない場合が多い。

社会の進歩した状態においては、普通以上の辛さや、すぐれた熟練にたいするこの種の斟酌が、労働の賃銀についてなされるのが通例であって、おそらくごく初期未開の時代にも、これと同種のなにかが行なわれていたにちがいないのである。

 こうした事態にあっては、労働の全生産物は労働者に属する。そしてある商品の獲得または生産にふつう用いられる労働の量は、その商品がふつう購買し、支配し、またはこれと交換されるべき労働の量を左右できる唯一の事情である。

 資本が特定の人々の手に蓄積されるようになるやいなや、かれらのうちのある者は、とうぜんそれを用いて、勤勉な人々を仕事に就かせるであろう。そしてかれらは、その人々に原料と生活資料を供給して、その製品を販売することにより、いいかえると、その人々の労働が原料の価値に付加するものによって、利潤を得ようとする。

完成品を、貨幣なり労働なり他の財貨なりと交換する場合には、こうした冒険に自分の資本を思いきって投じるこの企業家にたいして、その利潤として、原料の価格と職人の賃銀とを支払うのに足りる以上になにかが与えられなければならない。それゆえ、職人たちが原料に付加する価値は、この場合、二つの部分に分れるのであって、その一つは、かれらの賃銀を支払い、他の一つは、かれらの雇主が前払した原料と賃銀との全資本にたいする雇主の利潤を支払う。

雇主が職人たちの製品の販売によって自分の資本を回収するに足りる以上のものを期待するのでなければ、かれらを雇用するのになんの関心ももちえないであろう。またかれの利潤が、かれの資本の大きさに比例するのでなければ、かれは小さい資本よりもむしろ大きい資本を使用することになんの関心ももちえないであろう。

 資本の利潤とは、ある特定の種類の労働、すなわち監督し指揮する労働の賃銀にたいする別名にすぎない、と考える人があるかもしれない。けれども利潤は、賃銀とはぜんぜんちがったものであり、まったく異なった原理によって規定されるものであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛さや創意とは、少しも比例するものではない。

利潤は、用いられる資本の価値によってまったく規制され、この資本の大きさに比例して、大きくもなれば小さくもなるのである。

たとえぱ、製造業に用いられる資本の普通の年の利潤が一〇パーセントであるような場所に二つの異なる製造業があって、そのおのおのに二〇人の職人がそれぞれ年順一五ポンドの賃銀率で雇用されている、つまり各製造所で年に三〇〇ポンドを費やして職人が雇用されている、と仮定しよう。

そして、一方の製造所で年々加工される粗悪な原料がわずか七〇〇ポンドしかかからないのに、他方の製造工場では良質の原料が七〇〇〇ポンドもかかる、と仮定しよう。この場合、年々用いられる資本は、前者ではわずか一〇〇〇ポンドにのぼるだけであるのに、後者で年年用いられる資本は七三〇〇ポンドにのぼるであろう。

それゆえ、一〇パーセントの利潤とすれぱ、前者の企業家は約一〇〇ポンドの年利潤しか期待しないのに、後者の企業家は約七三〇ポンドの年利潤を期待するだろう。だが、かれらの利潤はこんなに大きくちがっていても、監督し指揮するというかれらの労働は、まったく同一か、またはほとんど同一といってよいのである。多くの大作業場では、この種の労働のほとんど全部が主任事務員のだれかの手にゆだねられている。

この主任事務員の賃銀は、監督し指揮するというこの労働の価値を適切にあらわしている。この賃銀を定めるのには、かれの労働と熟練にたいしてばかりでなく、かれに寄せられている信頼にたいしても、なにほどかの考慮がふつう払われているのであるが、しかしかれがその経営を監督する資本にたいしては、かれの賃銀はけっして一定の比例をたもつものではない。

この資本の所有者は、このようにしてほとんどすべての労働をまぬがれているにしても、なお自分の利潤は自分の資本にたいして規則的な比例をたもつはずだということを期待しているのである。それゆえ、諸商品の価格において、資本の利潤は、労働の賃銀とはぜんぜん異なる構成部分をなし、まったく異なる原理によって決定されているのである。

 こうした事態のもとでは、労働の全生産物はつねに労働者に属するとはかぎらない。かれは、多くの場合、かれを雇用する資本の所有者とそれを分けあわなければならない。ある商品の獲得または生産にふつう用いられる労働の量は、その商品がふつう購買し、支配し、またはこれと交換されるはずの労働の量を規制できる唯一の事情ではなくなる。その労働の賃銀を前払し、その原料を提供した資本の利潤のために、ある追加量がとうぜんに与えられなければならないことは明白である。
(スミス著「国富論 T」中公文庫 p80-84)

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 人間社会が動物的未開という段階を越えてたどってきた全発展は、家族の労働がこの家族の生計の維持に必要であるよりも多く生産物をつくりだしたその日から、労働の一部分をもうただの生活手段の生産にではなく生産手段の生産に当てることができるようになったその日から、始まる。

〈労働生産物が労働の維持費を越えて或る剰余を生じ、この剰余をもとに社会的生産の元本および予備元本が形成され増加していく〉、ということは、すべていっそうの社会的・政治的・知的発展が行なわれるための基礎であったし、いまでもそうである。

これまでの歴史では、この元本は、〔そのつど〕或る特権階級の所有になっていたのであって、この所有とともに、政治的支配と精神的指導ともこの階級のものになっていたのである。

さしせまっている社会的変革は、──この社会的生産の元本および予備元本、すなわち、原料・生産用具・生活手段の総量、それの処分権をあの特権階級から取り上げ、この元本および予備元本を共有財産として社会全体に引き渡す、ということによって──はじめてそれを現実に一つの社会的な元本にするであろう。

 つぎのニつのうちのどちらかである。

一つ目の場合には、〈商品の価値は、この商品の生産に必要な労働の維持費に、つまり、こんにちの社会では労賃に、規定される〉、とされる。

このときには、どの労働者も、自分の賃金というかたちで自分の労働生産物の価値を受け取ることになる。となると、資本家たちの階級が貨労働者たちの階級を搾取することは、一つの不可能事である。

いま、或る労働者の生計費が或る与えられた社会で三マルクという金額で表現されるものとしよう。そうすると、この労働者の一日の生産物は、前記の俗流経済学の理論によれば、三マルクの価値をもっていることになる。

さて、この労働者を雇っている資本家が、この生産物に一マルクの利潤・貢税賦課をつけ加えて、これを四マルクで売る、と仮定しよう。これと同じことを他の資本家たちもする。そうなると、しかし、その労働者は、日の生計をもう三マルクではまかなうことができなくなり、そのためにはやはり四マルクを必要とすることになる。

ほかの事情はすべて変わらないままだと前提しているのだから、労賃が生活手段で表現されるということは前どおりでなければならず、貨幣で表現される労賃は、したがって、上がらなければならないことになる。それも、一日あたリ三マルクから四マルクに、である。

資本家たちは、利潤というかたちで労働者階級から取り上げるものを、賃金というかたちで労働者階級に返さなければならないのである。こうして、話は正確にもとの振り出しにもどったわけである。

すなわち、もし労賃が価値を規定するのであれば、資本家が労働者を搾取することは不可能である。しかしまた、生産物の剰余の形成も不可能である。

と言うのも、労働者が──われわれの前提によれば──ちょうど自分でつくりだすだけの価値をそっくり消費するのだからである。そして、資本家たちは価値をつくりださないのだから、彼らがなんで生活していこうと思っているのか、見当さえつかない。

ところが、それにもかかわらず、消費を超える生産のこのような剰余が、このような生産・予備元本が、存在しており、それも資本家たちの手中に存在しているのは、〈労働者は、自己給養のためにただ商品の価値を消費するだけで、商品そのものは、その先の使用のために資本家に譲り渡したのだ〉、とでも言うほかには説明のしようがない。

 しようがないか、それとも、二つ目の場合にはこうなる。こうした生産・予備元本が実際に資本家階級の手中にあるのなら、それが実際に利潤を蓄積することでできあがったのなら(ここでは、地代は、さしあたって度外視する)、それは、どうしても、労働者階級が資本家階級に引き渡した労働生産物のうち、資本家階級が労働者階級に支払った労賃総額を超えた剰余、これが蓄積されたものでなければならない。

そうだとすると、しかし、価値は、労賃できまるのではなく、労働量できまることになる。その場合、労働者階級は、労賃というかたちで資本家階級から支払いを受けるよりも大きな価値量を、労働生産物というかたちで資本家階級に引き渡すわけである。

そして、このときには、資本利潤は、他人の労働生産物を支払いなしに取得する他のすべての形態と同様に、マルクスが発見したこの剰余価値のただの構成部分であることが明らかになるのである。

 ついでに言おう。リカードウがその主著の冒頭に述べた大発見――「一商品の価値は、その生産に必要な労働量しだいできまるのであって、この労働にたいして支払われる報酬の多いか少ないかには左右されない」──この画期的な発見については、デューリング氏は、『経済学の課程』全巻のどこでも触れていない。

『批判的歴史』のなかでは、この発見は、つぎのような託宣めいた空文句でかたづけられている、──「賃金が大小さまざまな割合で生活必需品の支給指図書になることができる(!)、その割合の大小に応じて、価値関係の形成も……さまざまであるに違いない、ということを」(リカードウは)「考慮していない!」。この空文句に接して、読者は、なんとでも好きなことを考えてよいが、まったくなにも考えないのがいちばん安全である。

 さて、読者は、デューリング氏がわれわれに提供する五種類の価値のうち、どれでもいちばん気に入ったものを自分で選び出していただきたい。自然から生じる生産価値でも、あるいは、人間の邪悪さによってつくりだされ・自分のうちに含まれていない力の支出を尺度として測られるという点で抜きん出ている・分配価値でも、あるいは第三に、労働時間で測られる価値でも、または第四に、再生産費で測られる価値でも、最後に、労賃で測られる価値でも、よりどり見どりである。

選択の範囲は広く、混乱は完全である。そのあとにまだわれわれに残っているのは、デューリング氏とともにつぎのように叫ぶことだけである、──「価値学説は、経済学の諸体系の真価を見きわめるための試金石である!」
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p24-27)

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「さしせまっている社会的変革は、──この社会的生産の元本および予備元本、すなわち、原料・生産用具・生活手段の総量、それの処分権をあの特権階級から取り上げ、この元本および予備元本を共有財産として社会全体に引き渡す、ということによって──はじめてそれを現実に一つの社会的な元本にするであろう。」……と。