学習通信040422
◎熟練労働とはなにか……。

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 このような「現代の労働」の登場とともに、ヨーロツパにおける賃金制度も発展していきます。これまでの同一労働同一賃金の原則のもとでは、同一「職業」の者には、同一「標準賃金」が支払われていましたが、労働過程の変化によってこれまでの「職業」や「熟練」が解体されたときに、どのように基準を再構成していくかという問題が生まれてきました。この時期、大量生産が可能な大きな設備をもった大企業が登場し、それは、大企業ならば賃金が高いのはあたりまえ、という物質的な基盤がつくられたことを意味します。

 しかし、このことをさらに放置するならば、企業の良好さという企業属性によって同一賃金の原則は破られることになります。そのときに、職種(トレイド)から職務(ジョブ)への分解に対応させて、「職務」を、企業を超えた平等の基準にしたのです。熟練職種の基準を、職種別熟練度別の基準に変えて、企業横断的な賃金決定を守ったことになります。同一労働同一賃金の原則を、同一の熟練等級の職務ならば、同一の賃金という原則に発展させたのです。

 これによって、熟練の等級をつけなければならなくなりました。職種のなかで熟練度にもとづく刻みを確定すること、これを「労働の格付け」といいますが、本書の後段の図26にある「協約賃金」の「労働の社会的格付け」のレベルがその例です。熟練度によって「最高資格熟練工」、「熟練工」、「半熟練工」、「不熟練工」などの刻みをつけて、それと賃金が対応するようになっています。これを職種別熟練度別賃金といいます。
(木下武男著「日本人の賃金」平凡社新書 p63-64)

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 ギムナージウムの第三学年の生徒がやりそうな、しかも同時に社会的危険性のある社会主義的異端を含んでいる、ひどい経済学上の間違いを一つ、デューリング氏はマルクスの学説のなかに発見した。

マルクスの価値論は、「<労働がすべての価値の原因であり、労働時間がそれの尺度である〉という、ありふれた……学説にすぎない。その場合、いわゆる熟練労働が異なった価値をもっていることをどう考えたらよいのか、といった種類の観念は、まったくはっきりしないままである。

なるほど、われわれの理論によっても、経済上の物の自然的な総原価を、したがってその絶対的価値を、測ることができるのは、ただ支出された労働時間だけではあるけれども、そのさい、各人の労働時間は、はじめから、完全に等しいものと見なさなければならないであろう。

そして、熟練した仕事の場合には、個々人の個別的な労働時間に、他の人びとの個別的な労働時間が……たとえば使用された道具というかたちであずかっている場合に、注意を払いさえすればよいであろう。

だから、マルクス氏がもうろうと思い描いているように<だれか或る人の労働時間は、そのなかに平均的労働時間がいっそう多くいわば圧縮されて含まれているので、それ自体として、もう一人の別の人の労働時間よりも価値がある〉、というようなことではなくて、労働時間はすべて例外なくまた原理的に──したがって、まずもって平均をとるなどということをするまでもなく

──完全に等しい価値をもっているわけであって、或る人の仕事を見る場合には、完成されたどの生産物の場合とも同じように、見かけ上その人自身の労働時間だけが支出されているように見えるもののなかに、他の人びとの労働時間がどれほど隠されているか、ということだけを注意しさえすればよいのである。

他の人びとの労働時間なしには特別な性質と作業能率とを手に入れることができなかったものが、手で使う生産道具であるか、手であるか、いや頭そのものであるかは、理論の厳密な妥当性にとってはまったく問題にならない。

マルクス氏は、しかし、価値についてのその表明において、背後につきまとっている熟練労働時間という幽霊から解放されていない。

氏がこの方向に徹底できなかったのは、有識階級の伝承されてきた考えかたに妨げられたためであって、この考えかたからすれば、〈荷車押しの労働時間と建築技師の労働時間とは、それ自体として、経済的に完全に等しい価値をもっている、と認める〉、などということは、途方もないことと思えるに違いないのである」。

 デューリング氏のこの「かなり猛烈な怒り」を招いたマルクスの著書の一節は、非常に短い。

マルクスは、商品の価値がなにに規定されるのかを研究して、こう答えている、──〈商品に含まれている人間労働に〉、と。

そして、続けて言う、──この人間労働は、「平均的に、普通の人間ならだれでも、特別な発達をとげることなしに自分の肉体のうちにもっている、単純な労働力、それの支出である。

……もっと複雑な労働は、単純な労働がただ累乗された・あるいはむしろ数倍されたものと見なされるだけであって、そのために、小さめの分量の複雑労働が大きめの分量の単純労働に等しいことになる。

この還元が絶えず行なわれていることは、経験の示すところである。

或る商品がどれほど複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、だから、それ自身ただ一定分量の単純労働を表わすにすぎないわけである。

さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されているさまざまな比率は、生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定され、だから、生産者たちにとっては慣習によって与えられるかのように見えるわけである」〔『資本論』la、七五/七六ぺージ、@、同ぺージ〕。

 ここでマルクスがさしあたって問題としているのは、〈商品、すなわち、私的生産者たちで構成されている一社会の内部でこの私的生産者たちが私的な勘定で生産し互いに交換しあう物、それの価値をどう規定するか〉、ということだけである。

だから、ここでは、けっして「絶対的価値」──こういうものがどこに出没するにせよ──が問題となっているのではなくて、或る一定の社会形態のなかで通用している価値が問題となっているわけである。

こういう特定の歴史的な意味では、この価値は、個々の商品に体現されている人間労働でつくりだされ測られることがわかり、そして、この人間労働は、さらに、単純労働力の支出であることがわかる。

ところでしかし、すべての労働が単純な人間労働力のただの支出であるわけではない。大なり小なりの労苦と時間と貨幣支出とともに身につけた技量もしくは知識の使用を含んでいる労働の種類は、非常に多い。

こういう種類の複合労働は、等しい時間のうちに、単純労働すなわちただの単純労働力の支出と同一の商品価値を生み出すのか? 明らかにそうではない。

複合労働の一時間の生産物は、単純労働の一時間の生産物と比べて、一段と高い価値をもった・二倍または三倍の価値をもった商品である。複合労働の牛皮物の価値は、こういう比較を通じて、単純労働の一定分量で表現される。

しかし、複合労働の単純労働へのこの還元は、生産者たちの背後で、一つの社会的過程によって、いま価値論を展開するさいにはただ確認できるだけでまだ説明することはできない一つの出来事によって、行なわれるのである。

 こんにちの資本主義社会で日々われわれの眼前で生じているこの単純な事実を、マルクスはここで確認しているのである。

この事実はまったく争う余地がないので、デューリング氏でさえ、その『〔経済学の〕課程』でもその『経済学の〔批判的〕歴史』でも、あえてこれに異論を唱えてはいない。

そして、マルクスの叙述はきわめて簡単でわかりやすいので、デューリング氏を除けば、「その揚合、まったくはっきりしないままでいる」人間などは、間違いなく一人もいない。

このように自分がまったくはっきりしないままでいるおかげで、氏は、商品価値──マルクスはさしあたってはただこれだけを研究している──を、はっきりしない度合いをもっと徹底的に強める「自然的原価」と見誤り、それどころか、われわれの知る限りこれまで経済学ではどこでも通用したことがない「絶対的価値」と見誤るのである。

デューリング氏がしかし〈自然的原価〉と言っているものがなんであるにせよ、また、氏の五種の価値のうちのどれが〈絶対的価値〉を表わす名誉を担うにせよ、つぎのことだけは確かである。

それは、マルクスが取り上げているのは、すべてこうした事柄ではなくて、もっばら商品価値だけである、ということ、また、『資本論』で価値について論じた節全体を通じて、マルクスが、この商品価値の理論を他の社会諸形態にも適用できると考えているのかどうか、もしくはどの程度まで適用できると考えているのか、それをほんの少しでも暗示する箇所は見いだされもしない、ということである。

 「だから」、とデューリング氏は続けて言う、──「だから、マルクス氏がもうろうと思い描いているように〈だれか或る人の労働時間は、そのなかに平均的労働時間がいっそう多くいわば圧縮されて含まれているので、それ自体として、もう一人の別の人の労働時間よりも価値がある〉、というようなことではなくて、労働時間はすべて例外なくまた原理的に──したがって、まずもって平均をとるなどということをするまでもなく──完全に等しい価値をもっているわけであ」る、と。

──運命がデューリング氏を工場主にせず、おかげで、氏の商品の価値をこの新しい規則に従って見つもった結果、氏が間違いなく破産に落ち込む、ということのないようにしてくれたことは、氏にとって幸運というものである。

本当に運がよかった! 〔ところで、〕ここでわれわれは、はたしてまだ工場主たちの世界にいるのか? けっしてそうではない。デューリング氏は、〈自然的原価〉と〈絶対的価値〉とを使って、われわれに跳躍をさせたのである。

つまり、搾取者たちの現在の邪悪な世界から、氏自身の未来の経済コミューンヘの、平等と正義との純粋な〈天の霊気〔エーテル〕>への、本当の命がけの跳躍をさせたのである。だから、まだ早すぎはするが、もうここでこの新しい世界を少しばかりのぞいておかなければならない。

 なるほどデューリング氏の理論によれば、経済コミューンにおいても、経済的な物の価値は、ただ使われた労働時間だけでこれを測ることができるのではあるが、しかし、そのさい、各人の労働時間ははじめから完全に等しいものと見なさなければならないであろうし、労働時間はすべて例外なくまた原理的に完全に等しい価値をもっていて、しかもまずもって平均をとるなどということをするまでもなくそうなのだ、という。

ところで、この急進的な平等社会主義とマルクスのもうろう観念とを比べてみよ。後者は、〈だれか或る人の労働時間は、そのなかに平均的労働時間がいっそう多く圧縮されて含まれているので、それ自体として、もう一人の別の人の労働時間よりも価値がある〉、という観念である。

これは、〈荷車押しの労働時間と建築技師の労働時間とは経済的に完全に等しい価値をもっている、と認める〉、などということが途方もないことと思えるに違いない、有識階級の伝承的な考えかたのために、マルクスがはまり込んでそこから抜けだせなくなってしまっている、そういう観念なのである!

 あいにく、マルクスは、『資本論』の右に引用した箇所に、こういう小さな注を付けている、−「読者が注意しなければならないのは、〈ここでは、労働者がたとえば一労働日〔一日の労働時間〕について受け取る賃金または価値のことを言っているのではなく、一労働日がそこで対象化されている商品価値のことを言っている〉、ということである」〔la、七六ページ、@、同ページ〕。

つまり、マルクスは、ここで自分を論難するデューリングをまえもって予想していたように見えるのであって、〈自分の前記の命題は、こんにちの社会でたとえば複合労働に支払われることになっている賃金にさえ適用してはならない〉、と自分から用心して釘をさしているのである。

デューリング氏が、それにもかかわらずそういう適用をしただけでまだ満足しないで、〈あの命題は、マルクスが社会主義的に組織された社会における生活手段の分配を調節する基準にしようとしている原則だ〉と言いふらしているのは、悪徳新聞のほかには類例を見ない恥しらずな言いがかりである。

 しかし、この等価説をもう少し詳しく吟味してみよう。〈すべての労働時間は、完全に等価である、荷車押しのそれも建築技師のそれも〉、という。

だから、労働時間には、したがって労働そのものに、一つの価値があるわけである。労働はしかしすべての価値のつくりだし手である。ただ労働だけが、手もとの天然の産物に経済学的な意味での価値を与えるのである。

価値そのものは、社会的に必要な人間労働が或る物に対象化されて表現されたものにほかならない。労働には、だから、価値をもつことができないわけである。

労働の価値について論じこれを規定しようと思うなら、当然に、価値の価値について論じたり、或る重い物体の目方についてではなくて重さそのものの目方を規定したりしてもよいことになってしまおう。

デューリング氏は、オウエン、サン-シモン、フーリエといった人たちを〈社会的錬金術師〉という称号でかたづけている。その氏が労働時間の価値つまり労働の価値について変てこな考えにふけっていることによって、氏は、自分が本物の錬金術師にはるかに及ばないことを証明している。

そこで、〈だれか或る人の労働時間のほうがそれ自体としてもう一人の別の人の労働時間よりも価値がある〉とか、〈労働時間つまり労働が或る価値をもっている〉とか、と主張したという罪を、マルクスに──〈労働時間には、価値をもつことができない〉ということを、また、なぜそうであるのかを、はじめて展開した当のマルクスに──なすりつけている、デューリング氏の厚かましさを、どうかご判断願いたい!

 人間の労働力をその商品としての地位から解放しようと思っている社会主義にとって、〈労働には価値がなく価値をもつことができない〉という洞察は、非常に重要である。この洞察が得られるとともに、生活の資の将来の配分を一種のもっと高度な労賃として調節しようとする企て──これは、自然生的な労働者社会主義からデューリング氏のところまで遺伝してきたものである──はすべて崩れ落ちてしまう。

この洞察から、その先の洞察が生まれてくる。それは、〈分配は、純経済的な顧慮に支配される限り、生産の利益で調節されることになろう〉、という洞察であり、〈生産は、社会のすべての成員が自分の能力をできる限り全面的に発達させ維持し行使することをゆるすような分配の仕方によって、最もよく促進される〉、という洞察である。

いつかは職業としての荷車押しも建築技師ももういないときがこよう、ということ、半時間、建築技師として指図していた男が、建築技師としての活動がふたたび要求されるまで、しばらくは荷車を押しもする、ということは、デューリング氏が受け継いだ有識階級の考えかたからすれば、確かに、途方もないことと思えるに違いない。荷車押しという職業を永久化するとは、なんとけっこうな社会主義か!

 労働時間の等価性ということで、〈どの労働者も等しい時間に──まずもって平均をとるなどということをするまでもなく──等しい価値を生産する〉ということを言おうとするのであれば、それは明らかに誤りである。

労働者が二人いれば、たとえ同じ事業部門に属していても、〔等しい〕労働時間の価値生産物は、労働の強度と熟練度とに応じて、いつでも異なったものとなるであろう。

この不都合な状態──と言っても、ただデューリング式の連中にとってだけ不都合な状態なのであるが──を取り除くことは、どんな経済コミューンにも、少なくともわれわれの天体の上では、できない。

となると、ありとあらゆる労働の等価性〔という主張〕全体のうち、あとに残るものはなにか? 〈労働による価値の規定と労賃による価値の規定とを区別することがデューリング氏にはできない〉ということのほかには経済学的基礎のない、生粋のだぼら文句だけである、

──〈等しい労働時間にたいする労賃は等しいものとする〉という、新経済コミューンの命令基本法、だけである! そんなことなら、フフンスの昔の労働者共産主義者たちとヴァイトリングとが賃金の平等を主張するために挙げた論拠のほうが、確かに、ずっとすぐれていた。


 さて、複合労働に〔単純労働によりも〕高い労賃が支払われるのはなぜか、という重要な問題全体は、どう解決されるのか? 私的生産者の社会では、私人またはその家族が熟練労働者の養成費を負担する。

だから、熟練労働力の〔単純労働力よりも〕高い価格も、さしあたり、私人のものとなるわけである。

すなわち、腕のよい奴隷は〔そうでない奴隷よりも〕高価で売られ、腕のよい賃金労働者には〔そうでない賃金労働者によりも〕高い賃金が支払われるのである。社会主義的に組織された社会では、社会がこの費用を負担する。

だからまた、その果実も、すなわち、複合労働でつくりだされたいっそう大きな価値も、社会のものになるわけである。労働者自身は、超過請求権をもっていない。ついでながら、このことから出てくる教訓は、〈こんにちはやっている「労働の全収益」にたいする労働者の請求権にも、ときにはやはり難点があるものだ〉、ということである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p28-35)

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◎「「労働の全収益」にたいする労働者の請求権にも、ときにはやはり難点があるものだ〉、ということで」……と。