学習通信040423
◎資本とはなにか

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資本と資本家

 生産をするには、三つの要素の存在が必要です。そして、三要素が結合されることが必要です。どんな要素か。第一は労働。人間が頭を働かし体を動かすこと。第二は労働の対象。原材料です。その究極の出所は自然ですね。第三は、原材料に働きかけるために人間が使う道具や機械やそのシステム。労働手段と呼びます。労働対象と労働手段は、人間労働の外側にあるものという意味では共通しているので、一括すれば生産手段と言えます。

 原始時代を別として、生産手段は長い歴史を一貫して少数者が排他的に所有しています。排他的所有を私的所有とも呼びます。生産手段を所有していない人が食べていくには、所有者からその所有する手段(自然など)を使わせてもらうお許しをいただく必要があります。許可条件は、所有者のために労働するということです。人間が生産手段の所有者と非所有者とに分断されている。その区分を階級と言います。非所有者の階級は、所有者の階級のために働かされ、働かざるをえないというのが、階級社会に作用する原則です。

 資本とは、その物的内容から言えば生産手段です。しかし生産手段が資本になるためには、人間関係についての条件がつけ加えられなければなりません。どんな条件か。

生産手段を所有することが即そのまま労働力を手に入れることを保証しているという関係(奴隷制や農奴制)がなくなって、労働力は、商品として買わなければならないという人間関係です。言いかえれば、労働力所有が生産手段所有にたいして自立しているという関係です。こういう関係が成立してくるのは、個々人の意思の自由を認め広げなければ、生産がうまくいかなくなったからです。だから人権を認める近代になって資本主義が成立する。

 生産手段は所有しているが労働力はその外部にあるとなると、労働力を買って生産手段と結合しなければなりません。そういう立場にいる生産手段が資本です。そういう生産手段の所有単位(まとまり)が資本です。そしてその所有者が資本家です。

 資本主義の初期には、個人資本家が中心でした。つまり生産手段の単位、経済活動の単位としての企業は、一人のオーナーのものでした。しかしやがて、株式会社が中心になります。多数の人が生産手段(になるおカネ)を出して、統一的な単位をつくるのです。

株式会社の資本家は、その出資者です。それが多数いるのだから、その間には力の強弱が生じます。力を決めるのは出資比率。それが小さい人は「私など何も決定権なし。資本家だなんてメッソウな」とケンソンしますが、彼らは無機能資本家です。重大なのは、今日では会社などの組織が他の会社の株主となる法人株主の増大です。組織が資本家なのです。
(岸本重陳著「経済のしくみ100話」岩波ジュニア新書 p122-123)

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「資本についてマルクス氏は、まず第一に、〈資本とは生産された生産手段である〉という、普通に通用している経済学的概念をいだいていない。そうではなくて、或るもっと特殊な・弁証法的=歴史的な観念を調達しよう、とやってみており、そこから概念と歴史との変態遊戯にはいりこんでいく。資本は貨幣から生み出されるのだそうである。

〈資本は、一つの歴史的局面をなすもので、この局面は、一六世紀とともに、すなわち、この時代にあたると前提された一つの世界市場の始まりとともに、始まる〉、というのである。

さて、概念のそのようなとらえかたでは、明らかに、国民経済学的分析の鋭さが失われてしまう。なかば歴史的でなかば論理的であると称してはいるが事実は歴史的幻想と論理的幻想との雑種にすぎない、このような乱雑な構想では、知力の判別能力が、すべての正直な概念使用もろともだめになってしまう」。

──〔デューリング氏は〕こんな調子でまるまる一ページもぺらぺらしゃベリまくっている。……「資本概念のマルクス式特徴づけをもってしては、厳密な国民経済学説のなかで混乱がもたらされるだけである。……深遠な論理的真理だと称される浅薄……基底のもろさ」うんぬん。

 つまり、マルクスによれば、資本は、一六世紀のはじめに貨幣から生み出されたのだそうである。これはちょうど、以前にはとりわけ家畜も貨幣の機能の代理をしたのだから、という理由で、〈金属貨幣はたっぷり三000年前に家畜から生み出された〉と言おうと思うようなものである。

ただデューリング氏だけに、こんなに祖雑で的はずれな表現の仕方ができるのである。マルクスでは、商品流通の過程がその内部で動いている経済的諸形態、これを分析するさいに、最後の形態として貨幣が生じてくるのである。

「商品流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。歴史的には、資本は、どこでも最初は貨幣というかたちで、貨幣財産すなわち商人資本および高利資本として、土地所有にたいして登場してくる。……同じ歴史は、毎日われわれの目の前でくりひろげられている。新しい資本は、どれも、まずもって、あいかわらず貨幣として──一定の諸過程を経て資本に転化していくはずの貨幣として──舞台に、すなわち、商品市場や労働市場や貨幣市場に、登場してくる」〔la、二五〇ぺージ、A、同ページ〕。

だから、マルクスは、ここでもう一度、一つの事実を確認しているわけなのである。この事実を否認することはできないので、デューリング氏は、それをねじまげて、〈資本は貨幣から生み出されるのだそうである〉、と言うのである!
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p36-37)

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 つまり、資本についてマルクスは、「<資本とは生産された生産手段である〉という、普通に通用している経済学的概念」をいだいていない。むしろ、こう言っている、──〈或る価値額は、それが剰余価値を形成することによって自己を増殖するときに、はじめて資本に転化する〉、と。

そして、デューリング氏はなんと言っているか? 「資本とは、生産を続けるための、および、全般的労働力の果実にたいする取り分を形成するための、経済的権力手段の一つの元本である」。

この表現がまたしてもどれほど託宣めいてだらしなかろうと、これだけのことは確かである、──経済的権力手段の元本は、たとえ生産を永遠に続かせようとも、デューリング氏自身のことばによれば「全般的労働力の果実にたいする取り分」を、すなわち、剰余価値または少なくとも剰余生産物を、形成しない限り、資本にはならないのである。

だから、デューリング氏は、〈資本について普通に通用している経済学的概念をいだいていない〉と言ってマルクスを非難しているその罪を、自分自身で犯しているばかりでなく、そのうえマルクスから、大げさなきまり文句では「隠しおおせない」へたな剽窃(ひょうせつ)をしているわけである。

 〔『……批判的歴史』の〕二六二ページでは、このことが引き続き詳論される、──「社会的な意味の資本」(社会的ではない意味の資本は、デューリング氏にいずれ発見してもらおう)「は、つまり、ただの生産手段とは特異的に違ったものである。と言うのも、後者がただ技術的性格だけをもっていてどんな状況のもとでも必要であるのに、前者が、取得し取り分を形成する社会的な力できわだっているからである。なるほど社会的資本は、大部分、社会的に機能するものとしての技術的生産手段にほかならないが、この機能こそ……消滅しなければならないものでもあるのである」。

まさにマルクスこそ、或る価値額がただこれだけを使って資本になる、その「社会的機能」を最初に力説した人であったことを考えるなら、確かに、「資本概念のマルクス式特徴づけをもってしてはただ混乱が引き起こされるだけだということは、この問題の注意ぶかい考察者なら、だれでもまもなく認める」に違いない。

──しかし、この混乱は、デューリング氏が言うように厳密な国民経済学のなかで起こるのではなくて、この例で明らかなように、一にも二にもデューリング氏自身の頭のなかでだけ起こるのである。氏は、『〔国民=社会経済学の〕課程』のなかでは上記の資本概念をせっせと取り込んでおきながら、『批判的歴史』のなかでは、すでにそのことを忘れているのである。

 とにかく、デューリング氏は、自分の資本の定義を──「洗いきよめた」かたちでにせよ──マルクスから借りてくるだけでは満足しない。マルクスのあとを追って「概念と歴史との変態遊戯」にはいりこまずにはすまないのである。それも、〈そんなことをしても「乱雑な構想」・「浅薄さ」・「基底のもろさ」などなどのほかにはなにも出てこない〉と自分自身よく知っていながら、そうするのである。

他人の労働の果実を取得する能力を資本に与え、そして、もっぱらそのおかげで資本がただの生産手段と区別されるものとなる、資本のこの「社会的機能」は、どこから生じるのか? それは、デューリング氏に言わせると、「生産手段の本性とそれの技術上の不可欠性と」にもとづくものでは「ない」という。だから、それは、歴史的に発生したわけである。そして、デューリング氏は、二五二ページで、ただわれわれがすでに一〇回も聞かされたことをくりかえすだけである。

つまり、二人の男のおなじみの冒険を使ってこの〈社会的機能〉の発生を説明するのであって、歴史のはじめにその一方の者が、他方の者に強圧を加えることによって、自分の生産手段を資本に転化させた、というわけである。しかし、デューリング氏は、或る価値額がそのおかげではじめて資本になるこの社会的機能に或る歴史的な始まりがあったことにするだけでは満足しないで、〈この社会的機能には、或る歴史的な終わりもある〉、と予言する。

この機能「こそ、消滅しなければならないものでもあるのである」。歴史的に発生し歴史的にふたたび消滅する現象は、普通に通用している言語で言えば、「一つの歴史的局面」と名づけるのがつねである。だから、資本は、マルクスにおいてばかりか、デューリング氏においても、一つの歴史的局面であるわけである。そこで、どうしてもわれわれは、〈ここではわれわれはイエズス会士〔詭弁をもてあそぶ偽善家、という意昧で言う〕のところにいるのだ〉、と結論せずにはいられないことになる。

二人の人間が同じことをしても、同じことにはならないのである〔ローマの劇作家テレンティウスの喜劇『アデルフォエ』第五幕第三場のせりふを言いかえたもの〕。マルクスが〈資本は一つの歴史的局面だ〉と言えば、それは〈乱雑な構想〉であり〈歴史的幻想と論理的幻想との雑種〉であって、そこでは〈判別能力が、すべての正直な概念使用もろともだめになってしまう〉。

デューリング氏が同じように〈資本は一つの歴史的局面だ〉と描き出せば、それは、〈国民経済学的分析の鋭さ〉と〈精密諸学科の意味における究極的で最も厳密な科学性〉との証明になるのである。

 では、デューリング式資本観念は、マルクスのそれとなにによって区別されるのか?

 マルクスは言う、──「資本が剰余労働を発明したのではない。社会の一部の人が生産手段を独占しているところでは、どこでも、労働者は、自由であろうと自由でなかろうと、生産手段の所有者のための生活手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に、余分な労働時間をつけ加えなければならない」〔la、四〇〇ページ、A、三九九ぺージ〕。

したがって、剰余労働──労働者が自己維持のために必要とする時間を超える労働──と、この剰余労働の生産物の他人による取得すなわち労働の搾取とは、これまでのすべての社会形態に──それが階級対立のかたちをとって運動してきた限りで──共通のものである。

しかし、この剰余労働の生産物が剰余価値というかたちをとるときにはじめて、生産手段の所有者が自由な──社会的束縛から自由であるとともに、自分の所有からも自由な〔なにも所有していない〕──労働者を搾取の対象として自分の向かい側に見いだし、そして、商品を生産する目的で彼を搾取するときにはじめて、生産手段は、マルクスによれば、資本という独特な性格を帯びるのだという。そして、これが大規模に起こったのは、やっと一五世紀の末と一六世紀のはじめ以来のことである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p42-45)

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◎資本についての正確な理解は、わたしたちにとって重大です。このあいだも「労働者も資本家も同じだ」(人間としては同じでしょうが?)と労働学校で論議が白熱していました……。