学習通信040424
◎利潤はどこから生まれるのか

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 所得分配はそれぞれの人が供給する生産要素の働きに応じて決定されていることがわかるでしょう。サラリーマンは安定的なサラリーをもらっている階層です。銀行に預金をして、そこから利息を得ている人たちも、あらかじめ支払われる金利が確定しているという意味で比較的落ち着いた所得を得ていると言ってよいでしょう。
(中谷巌著「痛快 経済学」集英社文庫 p167)

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 資本の利潤の上昇・下落は、労働の賃銀の上昇・下落と同一の原因に、すなわち、社会の富が増加の状態にあるか、減退の状態にあるかに依存する。だが、このような原因が前者と後者とに与える影響は、たいへん異なっている。

 賃銀を騰貴させる資本の増加は、利潤を引き下げる傾向がある。多数の富裕な商人の資本が同一事業にふりむけられるとき、かれら相互の競争は自然にその利潤を引き下げる傾向がある。また、同じ社会で営まれる種々さまざまな職業において、同じような資本の増加があるときは、同じ競争がこれらすべての事業で同じ効果をもたらすにちがいない。

 すでに述べたとおり、労働の平均賃銀とはなにかということを確定するのは、ある特定の場所、ある特定の時点でさえ、容易なことではない。われわれとしては、こうした場合でさえ、最も日常的な賃銀とはなんであるかを決定するのが精いっぱいなところである。

ところが資本の利潤となると、こういうことですら滅多に決定できないのである。利潤というものは非常に変動しがちなものであるから、ある特定の事業を営んでいる人でも、自分の年利潤の平均がいったいどれだけであるかを、つねに明らかにできるとはかぎらないのである。

利潤は、事業を営んでいる人が扱う諸商品の価格のあらゆる変動から影響を受けるばかりでなく、かれの競争者と顧客との運不運からも、また財貨が海路と陸路のどちらかで運ばれるときに、または倉庫に貯蔵されているときにすら生じがちな、他の無数の偶発的な出来事からも影響を受ける。したがって、利潤は年々変動するばかりでなく、日々、ほとんど時々刻々に変動する。

一大王国で営まれているさまざまな事業全体の平均利潤がどれだけであるかを確定するのは、はるかに困難なことにちがいない。また、それが以前にはどれだけであったか、ずっと遠い時期にはどれだけであったかを多少とも正確に判断するのは、まったく不可能なことにちがいないのである。
(スミス著「国富論T」中公文庫 p148-149)

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 さて、マルクスは、続けて、貨幣が資本に転化する諸過程を研究して、まず、〈貨幣が資本として流通する形態は、貨幣が一般的な商品等価物として流通する形態を逆にしたものである〉、ということをつかむ。単純な商品所有者は、買うために売る。

つまり、自分には必要のない物を売って、この取引で得た貨幣で自分に必要な物を買うわけである。新規の資本家は、はじめから、自分自身には必要のない物を買う。彼が買うのは、売るためであり、それももっと高く売るためであり、はじめに買取引に投じた貨幣価値を、或る貨幣増加分だけふやして回収するためなのである。そして、この増加分をマルクスは〈剰余価値〉と名づけている。

 この剰余価値は、どこから生じるのか? それが、買い手が商品を価値以下に買ったことから生じることも、また、売り手が商品を価値以上に売ったことから生じることも、ありえない。と言うのも、各人は互いに買い手となり売り手となるので、両方の場合に各人の利得と損失とが互いに相殺されるからである。

剰余価値はまた、詐欺から生じることもありえない。と言うのも、詐欺には、一方を犠牲にして他方を富ませることはできても、両者が所有している総額をふやすことはできず、したがってまた全体としての流通している価値の総額をふやすこともできないからである。「一国の資本家階級の総体には、自分で自分からだまし取ることはできない」〔la、二七八ぺージ、A、同ページ〕。

 それでもわれわれには、どの国の資本家階級の総体も、買い入れたよりも高く売ることによって、剰余価値を取得することによって、われわれの眼前で絶えず富んでいくのがわかる。だから、われわれは、はじめの振り出しから一歩も進んでいないわけである。

すなわち、この剰余価値はどこから生じるのか? この問題を解決しなければならないし、しかも、詐欺をいっさい排除して、なにか或る強制力の介入をいっさい排除して、純経済的な仕方で解決しなければならないのである。──問題はこうである、──〈等しい価値がつねに等しい価値と交換される〉、という前提のもとでさえ、買い入れたよりもつねに高く売れるということが、どうしてありえるのか?

 この問題を解決したことが、マルクスの著作の最も画期的な功績である。この解決は、以前には社会主義者もブルジョア経済学者も同じようにまったくの闇のなかで手さぐりしていた経済学の領域に、明るい日の光を注いだ。科学的社会主義は、この解決とともに始まり、この解決を中心にまとまっている。

 この解決はつぎのとおりである。資本に転化させられようとしている貨幣の価値の増大が、この貨幣に起こったり買い入れから生じたりすることは、ありえない。それは、この貨幣がここではただ商品の価格を実現するだけであり、そして、この価格が──われわれは〈等しい価値どうしが交換される〉と前提しているのだから──その商品の価値と異なってはいないからである。

価値のこの増大は、しかし、同じ理由で、商品の販売から生じてくることもありえない。この変化は、だから、買われる商品に起こるに違いないが、しかし──商品はその価値どおりに売買されるのだから──それの価値に起こるのではなく、それの使用価値そのものに起こるに違いない。

すなわち、この価値変化は、商品が消費されることから生まれてくるに違いない。「或る商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、……市場において、一商品を──それの使用価値が価値の源泉であるという独特な性質をもっている一商品を、したがって、それの現実的消費が、自身、労働の対象化であり、だから価値創造である一商品を──運よく見つけ出さなければなるまい。

そして、この貨幣所有者は、市場でこのような特殊な商品を見つける。──労働能力または労働力がそれである」〔Ta、ニ八五/二八六ページ、A、同ぺージ〕。すでに見たとおり、労働そのものは価値をもちえないが、労働力についてはけっしてそうではない。

労働力は、事実こんにち商品になっているように商品になると、そのとたんに或る価値をもつようになる。そして、この価値は、「他のどの商品とも同じく、この特殊な物品の生産に、したがってまた再生産にも、必要な労働時間に」〔同、二九一ぺージ〕規定される。すなわち、労働者が、自分を労働能力のある状態に保つために、また自分の一族を繁殖させるために、必要とする生活手段、これをつくりだすのに必要な労働時間に、規定される。

〔いま、〕〈この生活手段が日々に六時間の労働時間を代表する〉、と仮定しよう。わが新規の資本家は、自分の事業の経営のために労働力を買い入れる、つまり、一人の労働者を雇い入れる。

この労働者に同じく六労働時間を代表する貨幣額を支払えば、彼は、こうしてこの労働者にその労働力の一日分の価値を完全に支払うことになる。さて、この労働者は、この新規の資本家のために六時間働いたとたんに、この資本家にその経費を、彼が支払った労働力の一日分の価値を、完全に補償したことになる。

これではしかし貨幣は、資本に転化したことにはならないであろうし、剰余価値を生み出したことにはならないであろう。労働力の買い手は、だから、自分が行なった取引の性質についてこれとはまったく別の見解をもちもするわけである。

労働者を二四時間生かしておくのにただ六労働時間しか必要ないからといって、〈労働者は二四時間中に一二時間働いてはならない〉ということにはけっしてならない。労働力の価値と、労働過程で労働力がつくりだす価値とは、二つの異なった大きさである。貨幣所有者は、労働力の一日分の価値を支払った。

だから、労働力の一日間の使用つまり一日間の労働も、彼のものであるわけである。労働力の一日間の使用がつくりだす価値が労働力自身の一日分の価値の二倍の大きさであるということは、買い手にとって特別の好運であるが、商品交換の法則にてらしてけっして売り手にたいする不法ではない。

こうして、労働者は、貨幣所有者に──われわれの仮定によれば──日々に六労働時間分の価値生産物の出費をかけるが、しかし、貨幣所有者に日々に一二労働時間分の価値生産物を提供することになる。貨幣所有者の利益になる差額──それは、六時間分の不払剰余労働であり、六時間分の労働が体現されている不払剰余生産物である。手品は仕上がった。剰余価値がつくりだされた。貨幣が資本に転化した。

 マルクスは、このように、剰余価値がどういうふうにして発生するのか、また、商品の交換を規制する諸法則が支配しているところでは、どういうふうにだけ発生できるのか、このことを証明することによって、こんにちの資本主義的な生産の仕方とこれにもとづいた取得の仕方との仕組みを暴き出し、こんにちの社会制度全体がそのまわりに付着した結晶核を明るみに出したのである。

 とは言え、資本がこのようにつくりだされるのには、一つの本質的に重要な前提がある。すなわち、「貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は、商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。

〈自由な〉と言うのは、二重の意味においてであって、〔一面では、〕〈自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分できる〉、という意味で自由だ、ということであり、他面では、〈ほかには商品として売るものをもっておらず、自分の労働力の現実化のために必要なすべての物から解き放たれており自由である〔それをもっていない〕〉、という意味で自由だ、ということなのである」〔Ta、三八九ページ、A、同ページ〕。

しかし、一方の側の貨幣所有者または商品所有者と、他方の側の、自分自身の労働力のほかにはなにも所有していない人とのこの関係は、自然史的関係でもなければ、歴史上のすべての時代に共通した〔社会的〕関係でもない。「それは明らかに、自身、或る先行した歴史的発展の結果であり、……社会的生産の多数の以前の構成体の没落の産物である」〔同前〕。

詳しく言うと、この自由な労働者は、歴史上、一五世紀末から一六世紀はじめにかけて、封建的生産様式の分解の結果として、はじめて大量に出現するのである。これによってしかし、また、これと同じ時期に世界貿易と世界市場とがつくりだされたことによって、〈既存の大量の動産的富がどうしてもますます資本に転化していき、剰余価値の産出に向けられた資本主義的な生産の仕方がどうしてもますます唯一の支配的な生産様式になっていってしまう〉、そのための土台ができあがったのである。

 ここまでは、マルクスの「乱雑な構想」を、そこでは「知力の判別能力が、すべての正直な概念使用もろともだめになってしまう」という、この「歴史的幻想と論理的幻想との雑種」を、跡づけてきた。こんどは、この「浅薄さ」を、デューリング氏がわれわれに提供してくれる「深遠な論理的真理」および「精密諸学科の意味における究極的で最も厳密な科学性」と比べてみよう。
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p37-41)

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◎「貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は、商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。」……。労働者の存在なしには資本は存在できない。