学習通信040425
◎どうして貧困≠ニいうものがあるのか……。

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 君は浦川君のうちを訪問して、浦川君のうちと、君たちのうちとの相違を知った。浦川君のうちが、君たちのうちに比べて、貧しいということを知った。しかし、世間には、浦川君のうちだけの暮しも出来ない人が、驚くほどたくさんあるのだよ。その人たちから見ると、浦川君のうちだって、まだまだ貧乏とはいえない。そう聞くと、君はびっくりするだろうか。

 でも、現に浦川君のうちに若い衆となって勤めている人々を考えて見たまえ。あの人々は、何年か後に、せめて浦川君のうちぐらいな店がもてたらと、それを希望に働いているのだ。浦川君のうちでは、貧しいといっても、息子を中学校にあげている。しかし、若い衆たちは、小学校だけで学校をやめなければならなかった。

また、浦川君の一家は、まだしも、お豆腐を作る機械を据えつけ、原料の大豆を買いこみ、若い衆を雇い、一種の家内工業を営んで暮しを立てているけれど、若い衆たちは、自分の労力のほかに、なに一つ生計をたててゆくもとでをもっていない。一日中からだを働かせて、それで命をつないでいるのだ。

 こういう人々が、万一、不治の病気にかかったり、再び働けないほどの大怪我をしたら、いったい、どうなることだろう。労力一つをたよりに生きている人たちにとっては、働けなくなるということは、餓死に追られることではないか。

それだのに、残念な話だが今の世の中では、からだをこわしたら一番こまる人たちが、一番からだをこわしやすい境遇に生きているんだ。粗悪な食物、不衛生な住居、それに毎日の仕事だって、翌日まで疲れを残さないようになどと、ぜいたくなことは言っていられない。毎日、毎日、追われるように働きつづけて生きてゆくのだ。

 君は昨年の夏、お母さんや僕といっしょに房州にいったとき、両国の停車場を出てからしばらくの間、高架線の上から見おろす、本所区、城東区一帯の土地に、大小さまざまな煙突が林のように立ちならんで、もうもうと煙を吐き出していた光景を覚えているかしら。暑い日だった。グラグラと眼がくらむような夏の空の下に、隙間もなくびっしりと屋根が並んで、その間から突出ている無数の煙突は、はるかに地平線の方までつづいていた。

熱い風が、その上を通って、汽車の中まで吹きこんで来た。君は両国を出るとすぐ、もうアイスクリームがたべたいといい出したね。だが、東京の暑さがたまらなくなって、僕たちが房州に出かけて行ったあのとき、あの数知れない煙突の一本、一本の下に、それぞれ何十人、何百人という労働者が、汗を流し埃にまみれて働いていたんだ。──それから、東京の街を出て、ひろびろとした青田を見渡すようになって、僕たちはやっと涼しい風を感じ、ホッと息をついた。

しかし、考えて見れば、あの青々とした田んぼだって、避暑になんか行けないお百姓たちが、骨を折って作ったものなんだ。また実際、汽車の窓から見ていると、ところどころ田んばの中に、女の人までまじって、何人かのお百姓が、腰まで水にひたりながら、熱心に田の草を取っていたじゃあないか。

 ああいう人たちがいる。ああいう人たちが、日本中どこにいっても、──いや、世界中どこにいっても、人口の大部分を占めているのだ。あの人たちは、日常、どんなにいろいろな不自由を忍んでゆかなければならないことだろう。何もかも、足らない勝ちの暮しで、病気の手当さえも十分には出来ないんだ。まして、人間の誇りである学芸を修めることも、優れた絵画や音楽を楽しむことも、あの人々には、所詮叶わない望みとなっている。

──コペル君! 君は『人間はどれだけの事をして来たか』という本を二冊も読んだから、人間が野獣同様な生活をしていた大昔から、何万年という長い年月、どんなに努力に努力をつづけて、とうとう今日の文明にたどりついたかという、輝かしい歴史を知っているはずだ。しかし、その努力の賜物も、今日、人類の誰にでも与えられているわけじゃあないんだよ。
「それはいけない事だ。」
と、君はいうに違いない。そうだ、たしかに間違ったことだ。人間であるからには、すべての人が人間らしく生きてゆけなくては嘘だ。そういう世の中でなくては嘘だ。このことは、真直ぐな心をもっている限り、誰にだって異議のないことなんだ。

だが、今のところ、どんなに僕たちが残念に思っても、世の中はまだそうなってはいない。人類は、進歩したといっても、まだ、そこまでは行きついていないのだ。そういうことは、すべて、これからの問題として残されているのだ。

 そもそも、この世の中に貧困というものがあるために、どれほど痛ましい出来事が生まれて来ているか。どんなに多くの人々が不幸に沈んでいるか。また、どんなに根深い争いが人間同志の間に生じて来ているか。僕は、いま仕合せに暮らしている君に、わざわざそれを話して聞かせようとは思わない。僕が説明しないでも、やがて大人になってゆくにつれて、君は、どうしてもそれを知らずにはいないだろう。

 では、なぜ、これほど文明の進んだ世の中に、そんな厭なことがなお残っているのだろうか。なぜ、この世の中から、そういう不幸が除かれないでいるのだろうか。このことも、君の年で、十分に正しく理解することは、まだむずかしい。大体のことは、『人生案内』の「社会」という部分を読めばわかるけれど、これについては、君がもっと大きくなって、こみ入った世の中の関係を十分に知り、思慮も熟したところで、正しい判断を見つけても、決して遅くはない。

 ただ、いまの君にしっかりとわかっていてもらいたいと思うことは、このような世の中で、君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに延ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか、ということだ。コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。

この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかという意味で使われているね。しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持になる。

それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すベきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。

 同じく小学校を卒業したからといって、誰も彼もが、君たちと同じように中学校にゆけるわけではない。また、同じく中学校に通っていても、浦川君のような家庭にいれば、うちの仕事のために、なんのかのと勉強の時間を割かなければならない。それだのに君には、いま何一つ、勉強を妨げるものはないじゃあないか。人類が何万年の努力を以って積みあげたものは、どれでも、君の勉強次第で自由に取れるのだ。

 そうとすれば──
 いや、この先は、もう言わないでも、君にはよくわかっているね。君のような恵まれた立場にいる人が、どんなことをしなければならないか、どういう心掛けで生きてゆくのが本当か、それは、僕から言われないだって、ちゃんとわかるはずだ。

 君のなくなったお父さんといっしょに、また、君に一生の希望をかけているお母さんといっしょに、僕は心から願っている──
 君がぐんぐんと才能を延ばしていって、世の中のために本当に役に立つ人になってくれることを!
 たのむよ、コペル君!
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p132-137)

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マルクスの『資本論』



 この世に資本家と労働者が存在するようになって以来、労働者にとっておそらく本書と同じように重要である書物は一冊も出版されていない。われわれのこんにちの全社会制度がそれをめぐって回転する軸である資本と労働との関係が、ここではじめて科学的に、しかもただ一ドイツ人だけにできたような徹底性とするどさとをもって展開されているのである。オウエン、サン-シモン、フーリエの著作がどれほど価値多いものであれ、また今後もそうであろうとも、最絶頂に立つ見物人の前方にひらける下方の山景のように、そこから近代的社会諸関係の分野全体がはっきりと見晴らしよく横たわっているような高所によじ登ることは、あらかじめ一人のドイツ人のために残されていたのである。

 これまでの経済学はわれわれにこう教える。労働はあらゆる富の源泉であり、あらゆる価値の尺度である。したがって、その生産に同一の労働時間を費やした二つの対象は、また同一の価値をもっており、平均的には等しい価値だけが相互に交換されうるのだから、これらの対象も相互に交換されなければならない、と。

しかし同時に、この経済学は、資本とそれが名づける一種の蓄積された労働が存在すること、この資本は、そのなかに含まれている資源によって生きた労働の生産性を百倍も千倍も高め、それにたいして利潤または利得と名づけられる一定の報酬を要求することを教える。われわれすべてが知っているように、このことは、実際には次のような状態である。

すなわち、生きた労働の報酬はますます少なくなり、賃銀だけで生活する労働者の大衆はますます多くなり、ますます貧しくなるのに、蓄積された死んだ労働の利潤はますます多量になり、資本家の資本はますます巨大となる。この矛盾はどのように解決されるべきか? 労働者がその生産物につけ加える労働の全価値を補填されて受け取るとすれば、資本家のための利潤はどうして残りうるのか? そして、等しい価値だけが交換されるのであるから、どうしてもこのことはそういう事態であろう。

他方で、多くの経済学者によって認められているように、この生産物が労働者と資本家とのあいだで分割されるとすれば、どのようにして等しい価値どうしが交換されうるのか、どのようにして労働者は彼の生産物の全価値を受け取ることができるのか? これまでの経済学はこの矛盾のまえで途方にくれて突っ立って、困惑した空虚な決まり文句を書いたり、あわててどもって言ったりする。

これまでの社会主義的な経済学批判者さえも、この矛盾を強調すること以上にはなにもなしえなかった。マルクスがいまやついにこの利潤の発生過程をその生誕の地まで追究し、それによってすべてを明らかにするまでは、だれもこの矛盾を解決しなかった。

 資本の展開にあたって、マルクスは、資本家は交換を通して彼らの資本を価値増殖する、という単純で周知である事実から出発する。すなわち、資本家は彼らの貨幣で商品を買い、そのあとで彼らがこの商品に費やしたよりも多くの貨幣でこれを売る。たとえば、ある資本家は綿花を一〇〇〇ターレルで買って、それをふたたび一一〇〇ターレルで売り、こうして一〇〇ターレルを「儲ける」。

元の資本を超えるこの一〇〇ターレルの超過分を、マルクスは剰余価値と名づけている。この剰余価値はとこから生じるか? 経済学者たちの仮定によれば、等しい価値だけが交換される、そして抽象理論の領域でもこのことは正しい。

したがって、綿花の購入とそれの再販売は、一銀ターレルを二〇銀グロッシェンと交換し、この補助貨幣を銀ターレルと再交換する──この場合には、人はより富裕にもまたより貧乏にもならない──のと同様に、剰余価値を生み出しえない。しかし、剰余価値は、売り手が商品をその価値以上で売ったり、あるいは買い手が商品をその価値以上で買う、ということからは同様に生じえない。

なぜなら、各人は順々に、あるときは買い手であり、あるときは売り手であって、したがってこうしたことは一方また相殺されるからである。同様に剰余価値は、買い手と売り手とが互いにだまして得をすることが原因ではありえない。

なぜなら、こうしたことは新しい価値または剰余価値を決して創造せずに、ただ現存資本を資本家のあいだで別様に分配するだけであろうからである。資本家は、商品をその価値どおりで買って価値どおりで売るにもかかわらず、彼は投げ入れたよりも多くの価値を引き出す。このことはどのように生じるのか?

 資本家は、現在の社会的諸関係のもとでは、その消費が新しい価値の源泉であり、新しい価値の創造であるという独自の性質をもっている一商品を商品市場で見いだす。この商品が労働力である。

 労働力の価値とはなにか? どの商品の価値もその生産に必要な労働によってはかられる。労働力は生きた労働者の姿で存在する。この労働者は、彼の生存のために、ならびに彼の死後も労働力の存続を保障する彼の家族の扶養のために、一定量の生活諸手段を必要とする。

だから、これらの生活手段の生産に必要な労働時間が労働力の価値を表わす。資本家はこの価値を週ごとに支払い、それと引き換えに労働者の週労働の使用を買う。そこまでは、経済学者諸君も労働力の価値についてわれわれにほぼ同意するであろう。

 さて、資本家は彼の労働者を労働につける。ある一定時間内に労働者は、彼の週賃銀に代表されていただけの労働を提供したであろう。ある労働者の週賃銀が三労働日を代表すると仮定すれば、月曜日に始めたその労働者は、水曜日の夕方に支払われた賃銀の全価値を資本家に補填してしまっている。

だが、彼はそれから労働するのをやめるか? 決してやめない。資本家は彼の週労働を買った。だから、労働者はその週の残りの三日、なおも労働しなければならない。労働者の賃銀の補填に必要な時間を超える労働者のこの剰余労働が、剰余価値の、利潤の、資本の絶えず増大する膨張の源泉である。

 労働者は三日間で彼の受け取った賃銀をふたたびつくり出し、残りの三日は資本家のために労働するということが恣意的な仮定だ、と言ってはならない。労働者が賃銀を補填するのにちょうど三日かかるか、あるいは二日かかるか、それとも四日かかるかどうかは、もちろん、この場合まったくどうでもよい。

また事情に応じても変化する。しかし、肝心なのは、資本家は彼が支払う労働のほかにさらに彼が支払わない労働をも手に入れる、ということである。そしてそれは決して恣意的な仮定ではない。なぜなら資本家は、ずっと賃銀として支払うだけの労働しか労働者から取り出せない日々では、まさに彼の全利潤が消えてしまうのだから、彼は自分の仕事場を閉鎖するだろうからである。

 ここにあのすべての矛盾の解決がある。剰余価値(資本家の利潤がそのうち大部分をなす)の発生はいまやまったく明らかであり、当然である。労働力の価値は支払われるが、しかしこの価値は、資本家が労働力から手に入れるすべを心得ている価値よりもはるかに少ない。そこでその差額すなわち不払労働が、まさに資本家の、あるいはより正確に言えば、資本家階級の分け前をなすのである。

なぜなら、右の例で綿花商がその綿花から手に入れた利潤でさえ、綿花価格が騰貴していなかったならば、不払労働からなるに違いないからである。商人は〔その綿花を〕、自分の製品からあの一〇〇ターレルのほかにさらに自分のために利得を手に入れることができる、それゆえポケットに入れた不払労働を商人と分け合う、綿工場主に売ったに違いない。

一般に、労働しないすべての社会成員を維持するのは、この不払労働である。この不払労働から、国税や地方税──それらが資本家階級にかかってくる限りで──、土地所有者の地代等が支払われる。この不払労働に、現存の社会の状態全体はもとづいているのである。

 他方で、不払労働は、一方の側の資本家と他方の側の賃労働者とによって生産が営まれる現在の諸関係のもとではじめて発生したと考えるのは、ばかげたことであろう。その逆である。被抑圧階級はいつの時代にも不払労働をしなければならなかった。奴隷制が労働組織の支配的形態であった長い時代のあいだずっと、奴隷たちは、生活諸手段の形で彼らに補填されたよりもはるかに多く労働しなければならなかった。

農奴制の支配のもとで、農民的夫役労働者の廃止にいたるまで、事態は同じであった。そのうえここでは、農民が自分自身の生活の維持のために労働する時間と領主のための剰余労働とのあいだの区別が手に取るようにあらわになる。まさに、後者が前者から分離されて行なわれるからである。いまや形態は変わったが、事の核心は昔のままである。

そこで、「社会の一部のものが生産諸手段を独占している」限り、「労働者は、自由であろうと自由でなかろうと、生産諸介段の所有者のための生活諸手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えなければならない」(マルクス、二〇二ぺージ)。



 前の論説で、われわれは、資本家に働かされるどの労働者も二倍の労働を行なうことを見た。労働者は、彼の労働時間の一部分のあいだに、資本家によって彼に前貸しされた賃銀を補填する。労働のこの部分を、マルクスは必要労働と名づける。

しかし、そのあとで労働者はさらに引き続いて労働しなければならず、そしてこの時間のあいだに彼は資本家のために剰余価値──そのうち利潤がかなりの部分をなす──を生産する。労働のこの部分は剰余労働と呼ばれる。

 われわれは、労働者が週の三日を彼の賃銀の補填のために労働し、三日を資本家のための剰余価値の生産のために労働すると仮定しよう。別の言い方をすれば、このことは、一日一二時間労働の場合、労働者が毎日彼の賃銀のために六時間労働し、剰余価値の生産のために六時間労働する、ということである。

一週間からは六日しか日曜日を加えてさえ七日しか引き出しえないが、いずれの個々の日からも六、八、一〇、一二、一五、またはそれ以上の労働時間さえ引き出しうる。労働者は、彼の日賃銀のために一労働日を資本家に売った。しかし、一労働日はどのくらいか? 八時間か、それとも一八時間か?

 資本家は、労働日ができるだけ長くされることに関心がある。労働日が長ければ長いほど、それはますます多くの剰余価値をつくり出す。労働者は、彼が賃銀の補填を超えて労働したどの時間の労働も彼から不法に奪い取られたものだという正しい感覚をもっている。

彼は、過度に長い時間労働することがなにを意味するかを彼自身のからだで体験しなくてはならない。資本家は彼の利潤のためにたたかい、労働者は彼の健康のために、労働、睡眠、食事以外に、さらにそのほかにも人間として活動しうるように、日々数時間の休息のためにたたかう。

ついでに言えば、個々の資本家がこの闘争に加わろうとするか否かは、決して彼らの善意にかかっていることではない。なぜなら、競争が、彼らのうちでもっとも博愛的な者にさえも、彼らの仲間に従うことを、そしてこの仲間と同じくらい長い労働時間を習慣にすることを強制するからである。

 労働日の確定のための闘争は、自由な労働者の最初の歴史的登場からこんにちまで続いている。異なる工業には、異なる慣習的な労働日が支配している。しかし実際には、それらはまれにしか守られない。法律が労働日を定めて、その遵守を監視しているところにだけ、ただそこだけ標章労働日が存在すると本当に言うことができる。

そしてこんにちまでのところ、イギリスの工場地方でおおかた事実そうなっているだけである。ここでは、一〇時間労働日(五日間は一〇時間半、土曜日は七時間半)がすべての婦人と、一三歳から一ハ歳までの少年のために定められている、そして、成年男子は彼らなしには労働できないから、彼らもまた一〇時間労働日にはいる。

イギリスの上場労働者は、この法律を、多年にわたるがんばりによって、工場主とのもっともねばり強い、もっとも頑強な闘争によって、出版の自由、団結および集会の権利によって、また支配階級自身内の分裂の巧妙な利用によって、獲得した。それはイギリスの労働者の女神サフスの像となった。それはしだいにすべての大工業部門に、昨年にはほとんどすべての工業に──少なくとも婦人と児童が雇用されているすべての工業に──拡大された。

本書は、このようなイギリスにおける労働日の法律的規制の歴史について、きわめて詳細な資料を含んでいる。次の「北ドイツ国会」は、営業条例も、またひいては工場労働の規制も審議しなければならないであろう。われわれは、ドイツの労働者たちによって選出された議員のだれ一人も、まえもってマルクスの著書を全面的に熟知しないうちに、この法律の審議にかからないことを期待する。

そこには通過させることが多数ある。支配階級内の分裂は、かつてイギリスであったよりも労働者にとって有利である。なぜなら、普通選挙権は労働者の好意を得ようと媚びることを支配階級に余儀なくさせるからである。

このような状況のもとでは、四人ないし五人のブロレタリアートの代表は、もし彼らがその地位を利用するすべを心得ているならば、もし彼らがなによりもまずなにが問題になっているのかを知っているならば──ブルジョアはそれを知っていないが──一つの力である。そして、マルクスの著書はそのためにすべての材料を彼らにととのえて提供しているのである。

 われわれは、よりいっそう理論的な興味のある一巡のそのほかのたいへんすばらしい研究をとばして、もう資本の蓄積または集積を扱っている最後の章にだけ向かおう。

ここでは、なによりもまず、資本主義的生産方法、すなわち、一方の側では資本家、他方の側では賃労働者によってもたらされた生産方法が、資本家のためにその資本を絶えず新たに生産するばかりでなく、また同時に労働者の貧困をもくりかえし生産する、ということが、

こうして、一方の側では、いっさいの生活手段、いっさいの原料、いっさいの労働用具の所有者である資本家が絶えず新たに存在し、他方の側では、せいぜいのところ、自分を労働可能な状態に維持し、かつ、労働可能なプロレタリアの新世代を育成するのにやっと足りるだけの量の生活手段と引き換えに、自分の労働力をこれらの資本家に売ることを余儀なくされている労働者の大群が絶えず新たに存在するように配慮されている、ということが証明されている。だが、資本はみずからを再生産するだけではない。

それは絶えず増加され増大される、それとともに労働者という無所有な階級にたいするその権力も増大する。そして、資本そのものが絶えず増大する規模で再生産されるのと同じように、近代的な資本主義的生産様式もまた、絶えず増大する規模で、絶えず増加していく数で、無産の労働者の階級を再生産する。

「資本の蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極にはより多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極にはより多くの賃労働者を、再生産する。……したがって、資本の蓄積はプロレタリアートの増加である」(六〇〇ページ)。

だが、機械の進歩によって、改良された農耕等によって、同一量の生産物を生産するのに、絶えずより少ない労働者しか必要とされないのだから、この改善すなわちこの労働者のこの過剰化は、どんな増大する資本よりも急速に増大するのだから、この絶えず増大する数の労働者はどうなることであろうか? 彼らは産業予備軍を形成する。予備軍は、悪いまたは中位の景気のあいだはその労働〔力〕の価値以下を支払われる、また不規則に雇用される、それとも公的な貧民救済に帰する。

しかし予備軍は、事業のとくに活発な時期には、イギリスで明白であるように、資本家階級にとって不可欠なものである。──だが予備軍は、どんな事情のもとでも、規則的に雇用されている労働者の抵抗力を破砕して、彼らの賃銀を低く抑えておくことに役立つ。

「社会の富……が大きくなればなるほど、それだけ相対的過剰人口(過剰な人口)あるいは産業予備軍が大きくなる。〔……〕しかし、この予備軍が現役の(規則的に雇用される)労働者軍と比べて大きくなればなるほど、固定的(恒常的)過剰人口、すなわちその貧困がその労働苦に反比例する労働者諸層がそれだけ大量的となる。

最後に、労働者階級中の貧民層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民がそれだけ大きくなる。これこそが資本主義的蓄積の絶対的・一般的な法則である」(六三二ページ)。

 以上が、厳密に科学的に論証された──そこで官許経済学者たちはおそらく論駁を試みることさえもしないように用心している──近代資本主義的社会システムのいくつかの主要法則である。だが、これですべてが言いつくされたか? 決してそうではない。

マルクスは資本主義的生産の悪い面をするどく強調するが、彼は、社会のすべての成員にたいして一様な人間にふさわしい発展を可能にする高い程度にまで社会の生産諸力を発展させるためには、この社会形態がぜひとも必要であったことを、同じようにはっきり論証する。そのためには、以前のすべての社会形態はあまりにも貧しかった。

はじめて資本主義的生産がそれに必要である富と生産諸力をつくリ出すが、それはまた同時に、大量の抑圧された労働者として、社会全体のために──こんにちのように、独占的階級のためにではなく──この富と生産諸カの利用を要求することをますます余儀なくされる社会階級をつくり出すのである。
(エンゲルス著「『資本論』要項・『資本論』書評」新日本出版社 p170-177)

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◎資本主義と労働者とは……。