学習通信040426
◎家族そして国家……私的所有ということ。
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原始時代では、人々は支配する人間と、それに従う人間にまだ分かねていない。また男と女の間にも、どちらかがもう一方を支配するという関係は成立していなかった。人々は、ときには飢えに襲われながらも、原始的平等のもとに平和に暮らしていた。しかし生産性が高まるにつれ、武力による他集団の征服がはじまり、このような状態のもとで、政治的権力をにぎる人間が現れる。
その人間は、武力との関連から、しだいに男性に限られるようになる。このように男性優位の傾向は、まず政治権力を男性がおもににぎるところからはじまり、愛・性・家族をめぐる男性優位のいろいろな動きも、まず政治権力者としての大王(天皇の前身)や各地の首長を中心に見られはじめる。大王による、服属集団から差し出された女性との結婚や、一夫多妻制の開始などはその一例である。
このような政治権力をめぐる男性優位の集大成ともいえるものが、日本での最初の国家である律令国家の成立だった。それは、非常に早い時代に家父長制(=男性による女性支配の体制)を成立させたところの、中国の国家のしくみと法を取り入れることにより成立したもので、そこには男性優位の考え方が強くつらぬかれていたのである。
律令国家の成立が当時の女性にもたらしたものは、中央・地方の政治組織からの女性の排除、男性を戸主とし、父系による人々の戸への編成(この戸主は形の上では、班田・納税の責任者だった)、家父長制思想の取り入れとその実施(たとえば節婦(せっぷ)の表彰)がある。これらはただちに女性の地位の低下をひき起こしたわけではないが、徐々に男性優位の意識を人々にしみとおらせていくことになった。
しかしこのような律令国家の成立にもかかわらず、当時の村で暮らす女性たちは、男性と同じように村の祭りに参加することができた。また村の祭祀をつかさどるのが女性である場合も少なくなく、従来の男女対等のあり方が依然行われた。
このように、国家とかかわる場では、男性と肩を並べることのできなかった古代の女性は、実際の村の生活では、男性と対等の地位を占めていた。それが可能だったのは、当時、女性が男性と同じように、所有にかかわっていたからである。つまり、経済的に対等であることを基礎にして、村の生活での政治的・社会的な対等が保障されていたのである。
そしてまた男性と同じく所有権をもつことで、当時の女性は経営にかかわることができた。当時の豪族順では、夫と妻からなる家長と家室が共同で経営を行っていたことは、九世紀初めに成立した仏教説話集『日本霊異記』にみられる。
また貴族順で女性が自分の財産を管理運営していたことは、家政機関の国家による設置が女性にも認められていることから知ることができる。一般農民順については、史料がないので確かなことはいえないが、共同体などに支えられた、自立していない経営を、夫と妻が協力して行っていたと考えられる。
このような所有と経営にみられる、経済的地位の男女対等なあり方が、家父長制家族(男性家父長が妻子以下を支配する、男性優位の家族)を成立させなかったのである。なぜなら、家父長制家族の家長の権力の基盤は、家長による家の財産の所有・管理にあるので、女性も男性とともに所有・経営にかかわるあり方のもとでは、家長一人が所有・経営権をにぎる家族にはならないからである。
家父長制家族が成立していないということは、別の言い方をすれば、経済的単位としての家族(=社会的単位としての家族)が成立していないということを意味する。夫と妻が自分のわずかな財産を持ちよってつくる当時の一般農民層の家族は、所有・経営権をつかさどる家長により統率された強力な経済的単位には程遠い、不安定なもので、たとえば、夫と妻が離婚すればたちまち消滅してしまうようなものだった。
当時のこのような農民の家族は、共同体にたよると同時に、この家族をとりまく、父方母方両方の親族ともお互いに助け合いながら、その不安定な経営をやっと維持していた。当時の家族がどのような人々からなっていたかというと、夫の通い、母と娘夫婦の同居など、さまざまな形を経て、けっきょくは核家族的なものに落ち着くと考えられる。そのような家族を、父方母方両方の親族と共同体が支えているのが、当時の家族のあり方としてよいだろう。
最後に、愛・性・結婚をめぐる男女関係についてみると、古代の男女の恋愛は、男女対等な関係のもとで、お互いに気にいればすぐ性関係をもつというものだった。そこには単婚(現在の私たちの行っている、一人の夫に対して一人の妻がいる、結びつきの強い結婚)の成立とともに現れる、いわゆるプラトニックラブは存在しない。
そしてこのような恋愛=性関係のもとでは、女性の処女性は問題にならない。そのことは、当時の日本語に処女を意味することばがない点によく示されている。これまで処女を表すと考えられてきた「をとめ」は、当時はただ年若い女性を示すことばで、「をとめ」が処女かどうかは当時の人々にとって問題にならなかったのである。このような恋愛=性関係の長続きしたものが結婚である。
お互いを夫と妻として認め合った男女は、ある時期に妻の両親──さらには父方母方両方の親族や共同体──の承認を得て、周囲の人々からも夫婦として認められた。ここには、後の時代のように、娘の父の承諾のもとでの結婚というあり方はまだみられない。しかし、そこには現代の私たちの想像をこえた、結婚をめぐる共同体規制や、原始的なものの考え方によるさまざまの制約があった。
当時の恋愛・結婚は、家父長の承認を得る必要がなく、対等な関係にある男女の互いの性愛をもとに成立したが、それを近代の自由な恋愛・結婚と同一視することはできないのである。
(総合女性史研究会編「日本の女性の歴史 -性・愛・家族-」角川書店 p14-17)
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こうしてわれわれは、英雄時代のギリシアの制度のなかに古い氏族組織がまだ活力をもって働いているが、しかしまたすでにその覆滅(ふくめつ)の端緒も生まれていることを見る。
その端緒とは次のものである。
子どもたちに財産を相続させること(これによって家族内での富の蓄積が助長され、家族が氏族に対立する一つの力となった)をともなう父権、富の違いが、世襲貴族と王権との最初の萌芽の形成を通じてギリシアの制度に及ぼした反作用、最初はまだ捕虜だけからなっていたが、すでに自分の属ずる部族の部族員、さらには自分の属する氏族員までもを奴隷化する見通しをひらきつつあった奴隷制、家畜や奴隷や財宝を略取するための陸海での組織的な略奪に、つまり正規の営利の源泉に、すでに変質しつつあった部族間の戦争、要するに、最高の善としての富のあがめたたえと、富の暴力的略奪を正当化するための古い氏族諸秩序の悪用、これである。
まだ一つだけ欠けているものがあった。
一つの制度、すなわち、個々人が新たに獲得した富を、氏族秩序の共産主義的伝統に対抗して確保するだけでなく、以前にはあれほど軽んじられていた私有財産を神聖化し、この神聖化こそあらゆる人間共同体の最高の目的であると宣言するだけでなく、つぎつぎに発展してくる財産獲得の新しい諸形態、したがってたえず加速度化する富の増殖の新しい諸形態に、普遍的な社会的承認の刻印を押しもする一つの制度、はじまりつつある諸階級への社会の分裂を永久化するだけでなく、有産階級が無産階級を搾取する権利と、無産階級にたいする有産階級の支配とを永久化しもする一つの制度、が欠けていた。
そしてこの制度は現われた。国家が発明されたのだ。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p144-145)
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◎国家の誕生とはどういうことなのだろう。