学習通信040427
◎趣味悪い!≠チて の本質。

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 ソ連崩壊と趣味の関係

 ぼくはむかし趣味を軽蔑していた。
 趣味というのは自分だけの楽しみで、世の中には何もコミットしないじゃないか、と思ってばかにしていた。

 趣味よりも思想の方が偉いと思っていた。
 思想とか革命とか、前衛芸術とか、そういうものの方が雄々しいもので、趣味なんて女々しいものだと思っていたのだ。

 たとえばピカソとマチスという現代美術の両巨頭がいる(いまはもう近代美術になっているけど、ぼくの若いころはまだそれが現代美術だった)。その両巨頭のどちらが好きかというと、ピカソだった。

 いや、好き嫌いというより、ビカソの方を尊敬していた。
 ピカソの方が前衛的な感じで、フランコ独裁に抗議する大作「ゲルニカ」を描いているし、後には朝鮮戦争に抗議する絵も描いているし、やっばり凄いと思っていた。やっばり思想があるんだ、と思っていた。それに比べると、一方のマチスはただ綺麗なだけじゃないか、と思っていた。社会にコミットするものがない。ただの美術というか、むしろ趣味的なものじゃないか。

 そう思って、あまりちゃんと見ようとしなかった。
 趣味を軽蔑していたのだ。
 思想が偉い。感覚よりも頭の方が偉いと思っていたのだ。
 これは若い頭の特徴ということもあるけど、あのころの時代の特徴でもあるんじゃないか。

 あのころとはどのころかというと、少くともソ連崩壊以前の時代ということ。
 革命信仰とか、共産主義信仰の生きていた時代、趣味との関係でいうと、思想の信仰が強くあった時代。

 思想の信仰といってしまえば、まだいまも若い頭や固い頭の中ではあるかもしれないが、当時はそれが世の中全体に強くあったのである。
 それともう一つ、科学が信じられていた時代ということもある。

 ソ連の人工衛星が飛び、初の宇宙飛行士ガガーリンが飛び、初の女性宇宙飛行士が「ヤー、チャイカ」とメッセージを送ってきた。そのころが共産主義信仰と科学信仰の頂点だったんじゃないか。

 月の裏側の写真もソ連が最初に撮った。もっとも恐ろしくコントラストの悪いものだったが。
 でもその後はアメリカが意地で頑張って、アポロで人類初の月面着陸を果す。
 この辺りがデッドヒートで、共産主義が資本主義に技かれた。
 共産主義信仰はまだあったにしても、その辺からちょっとその信仰の力が衰えはじめたんだと思う。

 でも科学信仰の方はアメリカが引きついで、月面まで持っていったのである。
 でもこの信仰も、頂点はそこまでだった。もちろん科学信仰はいまもあって、いろんな弊害ももたらしているんだけど、科学の将来を無批判的に憧憬できたのはそこが頂点ではなかったかということ。

 共産主義信仰はもうその前から崩れはじめていたけど、誰もがそれを明らかに悟ることになったのは、やはり何といってもソ運の崩壊である。
 それと同じように、科学信仰の崩壊を悟らざるを得ないのは、やはりオゾンホールの出現であろう。科学のもたらす力が地球を実際的に破壊する現象を見て、科学信仰は崩れはしめた。

 科学はもちろん必要である。ただその信仰が危ないのだ。
 趣味のことを考えるのにどうしてそんな、ソ連の崩壊やオゾンホールのことを出さなければいけないのか、ぼく自身も書きながら変なことになってきたと思うのだけど、でもいま自分の中には思想よりも確かなのは趣味だと思う力があり、それは何だろうかと考えていくと、こうなってしまうのである。

 人間はいつでも趣味や遊びを侍っている。原始時代からそうだろう。
 動物にだってあるんだから。描は紐にじゃれるし、犬はボールに飛びついてくわえて飛んでくる。何の腹の足しにもならないのに。

 まして人間はいつだって趣味を持っているんだけど、それが蓋をされて押さえられていることがある。その蓋が、近代においては思想だった。
 少くとも近代のぼくの内部を観察するに、思想によって蓋をされて、趣味はちょっと縮こまっていた、身を引いていた、ということがあるのである。

 といって別に大した思想を持っていたわけではない。考え方の形としてそうだったということ。
 先にもいったが、それは時代でもあり、年齢によることでもある。

 歳をとると趣味が出てくる、趣味に向かうようになる、というのは一般的にそうだろう。現役引退という物理条件もあるし、もう一つ、その人の内部的問題も大きい。

 何といっても若いものの思想の信仰が挫折し、挫折ということに関しては思想に限らず他にいくつも散見するわけで、挫折は何も特殊なことではなく世の常なんだ、ということを知るようになる。

 挫折の効用は何かというと、力の限界がわかってくること。若いときは何でも出来ると思っているけど、挫折をめぐって自分の力の限界が見えてくる。世の中での可能性の限界も見えてきてしまう。

 でも自分は生きている。何かやらないと生きてはいけないわけで、金を稼ぐこともそうだけど、生きる楽しみでもそうだ。ロボットみたいに生きているとしても、ロボットではない。人間はやはり有機生命体であって、どんな小さなことでも何か楽しみがないとやっていけない。晩ご飯への期待、ビールヘの期待、おかずへの期待、パチンコの球への期待、明日友だちと会うことへの期待、オークションの申し込みが当たっていることへの期待、そういう小さな楽しみでもつなぎつなぎしなければ、なかなか簡単に生きていけない。

 自分の力の限界が見えた後になって、そういう小さな楽しみが切実に感じられてくる。それまで思想とか理想に君臨されて、趣味なんてそんな小さなもの、とむしろ軽蔑的に見ていたものが、押さえる蓋がなくなると目の前にアップになって、細密に、ありありと見えてくる。

 つまりそうやって趣味の世界に入っていけるのだと思う。じっさいに、自分の力の限界を知り、落胆もあるだろうが、ある諦めの後にその限界内で何かをはじめてみると、それが自分にとってじつに大きな世界になってくるのである。無限の世界に向かっていたときにはムダな力ばかりで空回りしていたものが、限界の中ではむしろ有効に力が発揮されて、その限られた世界が広がってくる。

 これはやってみなければわからないことだけれど、力の限界を知って、その限界内で何ごとかをはじめると、その限界内の世界が無限に広がってくる。

 宇宙は確かに無限だけど、指の先の爪の先の垢の中の世界というのも、無限である。宇宙はすぐ届かなくなるけど、爪の先の垢の世界はとりあえず届くところにある。

 それに、歳をとると、どうしても人生が見えてくる。つまり有限の先が見えてくるわけで、その有限世界をどう過すかという問題になってくる。

 若いころは人生の先がまだ遠くて、有限性がわかりにくい、だから自分の人生への切実さが少く、思想の世界のために自分の人生を寄付できるとも考えてしまう。じっさいにそれを実行に移して、思想のために自分の人生を棒に振る人もいる。振り切ってしまえれば、それはそれで自分の人生を楽しんだのだということもできるけど、ちょっと苦しい。やはり自分の人生というときの、「自分」がちょっと稀薄なのだ。

 で、棒に振るにしろ振らないにしろ、歳をとると、自分というのが濃厚になる。他の誰でもない「自分」の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ。

 趣味はそこからだろう。自分が楽しくなければしょうがないわけだから、世の中にコミットするもしないも、それも趣味のうち、といえるようになる。つまり思想が趣味の人もいるだろうし、政治が趣味の人もいるだろうし、運動が趣味の人もいるだろう。思想思想という言葉の裏に、それぞれみんな「自分」の人生を引きずっているのが、本人以上に見えてくるのだ。

 しかしそういうことが年の功だとすると、じゃあ若者の趣味はどうなるんだという問題がある。じゃあ若者は趣味を持てないのか。でも最近の若者はけっこう趣味に走るじゃないか。

 そうなのだ。いまの若者はけっこう年の功を積んでいるんだと思う。若くして、すでに年の功。
 時代にも年齢があるのだ。地球にも太陽にも年齢があるんだから当惑だと思うが、それぞれの文化や文明にも年齢がある。

 いまの時代は、改革はともかくとして、革命信仰を持つことができない。科学信仰を侍つことができない。というところで、時代そのものにも有限の先が見えているわけでそういう時代に生まれてくるのだから、いまの若者は既に基礎控除のようにして、みんな一律に年の功を持っているのだ。
 だから年齢的には若者だけど、一気に趣味に走れる。

 ミーイズムとかマイブームという言葉はその代表だろう。本来なら現役引退の老人が口にするべき言葉である。それが若年層から湧いてくるのだ。
 だから趣味はますます堂々たる営為になってくるわけで、破産した思想の力も、その趣味の力の反射で、別の形で再生するかもしれないのである。
(赤瀬川源平著「老人力」ちくま文庫 p99-107)

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 趣味の定義を遠くもとめていけばいくほど、なおさら道がわからなくなる。趣味とはもっとも多くの人を喜ばせたり不快にしたりするものを判断する能力にほかならないのだ。

それを忘れては、趣味とはなにかわからなくなってしまう。だからといって、よい趣味の人がそうでない人よりもたくさんいることにはならない。

多数の人は一つ一つのことについて健全に判断するとしても、すべてのことについて多数の人と同じように判断する人は少ないし、もっとも一般的な趣味の綜合がよい趣味を形づくるとしても、よい趣味の人は少ないのだ。これは、もっともありふれた線の集合が美人をつくるとしても、美しいひとは少ない、ということと同じだ。

 ここでは、わたしたちにとって役にたつから好きだとか、害をあたえるからきらいだとかいうことが問題なのではないことを注意しなければならない。趣味ということは、利害のないことかせいぜい楽しみに利害のあることにたいしてはたらくにすぎないので、わたしたちの必要に関係のあることにたいしてははたらかない。

わたしたちの必要に関係のあることを判断するには、趣味は必要ではなく、欲望だけで十分なのだ。こういうことが趣味の純粋な決断を、ひじょうにむずかしいものにしている、また、見たところ、ひじょうに気まぐれなものにしている。趣味を決定する本能のほかにはその決断の理由は別にみあたらないのだ。

さらに、道徳的なことにおける趣味の法則と物体的なことにおける趣味の法則とを区別しなければならない。物体的なことにおいては、趣味の原則はまったく説明されえないように思われる。

しかし、模倣に関係のあることでは、なにごとにおいても、道徳的なものがはいってくることを注意する必要がある。

物体的であるように見えながら、じつはそうでない美しさはこうして説明されるのだ。さらにいえば、趣味には局地的な規則があって、これは、さまざまなことにおいて、趣味を、風土、風習、統治形態、制度などによって左右されるものにしている。また、年齢、性、性格に関係のある規則もあるし、こういう意味で、趣味を非難してはならない、といわれているのだ。

 趣味はすべての人に自然にそなわっているものだが、人はすべて同じ範囲のものをもっているのではない、それはすべての人に同じ程度に発達するのではない、また、すべての人にとって、それはさまざまな原因で変化しやすいものだ。人がもつことのできる趣味のひろさはうけている感受性によってきまり、その育成と形態は生活してきた環境によってきまる。

第一に、多数の人とつきあって多くのことをくらべてみなければならない。第二に、ひまと遊びから生まれるつきあいが必要だ。仕事のうえのつきあいは、楽しみではなく、利害によって規制されるからだ。第三には、不平等があまり大きくなく、臆見の圧制が緩和されていて、虚栄心よりも快楽が支配的なつきあいが必要だ。そうでないばあいには、流行が趣味を失わせてしまい、人を喜ばせるものではなく、きわだたせるものがもとめられることになるからだ。

 この最後のばあいには、よい趣味とは多数者の趣味であるということは真実ではなくなる。なぜそうなるのか。目標が変わってくるからだ。そうなると大衆にはかれら自身の判断というものはなくなり、自分たちよりもそのことに明るいと思われる人たちの考えにしたがってのみ判断するようになる。

よいことではなく、その人たちがよいとみとめたことをみとめるようになる。いつでも、あらゆる人に自分自身の考えをもたせるようにするがいい。そうすれば、それ自体いちばん感じのいいことがかならず多くの人の賛同をかちえるだろう。

 人間は、いくら骨を折っても、模倣によらなければ美しいものをなにひとつつくりだせない。趣味の正しい手本はすべて自然のうちにある。この巨匠から離れると、それだけわたしたちの絵はゆがんだものになる。

そうなると、わたしたちは自分の好きなものから手本をひきだすことになり、思いつきと権威によって決まる気まぐれの美は、わたしたちを指導する人たちの気に入るもの以外のなにものでもなくなってしまう。

 わたしたちを指導する人たちとは、芸術家、貴族、金持ちのことだが、そういう人たち自身を導いているのはかれらの利益か虚栄心なのだ。虚栄心のつよい人たちは富をみせびらかそうとして、利益をもとめる人たちはその恩恵にあずかろうとして、きそって金をつかい、つかわせる新しい方法をさがしている。

そこで大がかりなぜいたくが支配権を確立し、手に入れることの困難な、高価なもけを好ませる。そうなると、いわゆる美しいものは、自然を模写するどころではなく、自然に反することによってのみ美しいとされる。こんなわけで、ぜいたくと悪趣味はかならず結びついているのだ。趣味に金がかかるばあいには、それはいつもまちがった趣味なのだ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p277-279)

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◎「ぜいたく(利益か虚栄心)と悪趣味はかならず結びついているのだ」と。

◎「自分というのが濃厚になる」「趣味は……自分が楽しくなければしょうがない」と。

◎利害と虚栄……自分をよく見られたい……月の賃金の3倍のローレックスと……悪趣味?