学習通信040429
◎資本の人格化≠ニはなんぞや
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たとえば正しい仕事が出来、又は正しい仕事をする男の仕事を助けることが出来る女が、男を堕落に導いたり、一家を没落に導いたりする職業につくなぞはその一例である。
男の劣情に媚びて、それによって生活をしていながら、男は下等なものだと言う女がいれば、それは眼医者をやりながら、人間は眼の悪い人ばかりだと言うようなものである。
今の時代ではそれ等の仕事をするものを一概に悪口するわけにはゆかない。なぜかと言うと、一面そういう世界に落ち込むように今の社会は出来ているとも言えるし、社会も、人間も病的なところが多いので、その病的なところを利用して得をしようとする悪辣なものがいるから、その犠牲になるものは必ずしも、悪人ではないからである。しかしそれはほめた仕事でないことは、仕事している当人も知っているところである。賤業という名さえついている。
今の多くの人は仕事と言えば金をとる事だと思っている。しかし本当の仕事と金をとる事とは必ずしも一致していない。むしろ反対な場合が多い。正しい生活をし、正しい仕事をすればする程、金がとれるなら、孔子も言っているが、富者でないことは恥である。しかし今の世では正しい生活をすれば、金が取れない場合の方が多いので、清貧という言葉が尊敬される言葉になっている。
ただ金をとりたくって仕方がないものが、現世には多いので、その人達は自分がとりたくって取れないものをとっている人を成功者のように思い、富者を尊敬する傾きがあるが、人間をつくったものは金というもののことははっきり考えないで人間をつくっているので、金にあまり執着の強い人や、金万能の人には好感も、尊敬も持てない場合が多いのだ。
自分の生命より金にがつがつしているものを見ると浅ましい気がする。その執着に、何か不自然な醜いものを感じる。
勿論、今の時代では金は大事なものであり、有力なものである。金がなければいろいろのいい仕事が出来ない。生きてゆくのに金の必要なことはここでは言わない。自分の生活以上に、無限に金をほしがる人に就て一寸ここでふれたいのだ。
つまり仕事の為に金がほしい人に就ては別に自分は非難しようとは思わない。ある仕事をしたい人には相当の金がいる。その仕事がいい仕事だったら、その仕事の為に集めた金は、所謂浄財と言ってもいいであろう。しかし他方金をもうけるために仕事をする人がある。金が目的で一生をつぶす人がある。現代ではそういう人は存外少なくない。そして多少人々は金をとることが仕事だと心得る傾きがある。金とることは、生きる為でなく、金とる為に生きる人がある。つまり自己の健康の為に生きる人があるようなものであり、又食う為に慟く人があるようなものだ。否、それ以上、そういう人は誤りを犯しやすい。
国家の為とか、隣人の為とか、或はもっと大きく人類の為とかに貢献するには金が必要だ。だから金を大事にし、又もうけるだけもうけると言うのなら、それは金もうけの為に金をもうけているのではない。しかし世間には金を多く持つということを目的にして、当然と心得ている人が少なくなく、又現世ではそれが当然で、それに成功した人が本当の成功者だと思っている人が少なくないのだ。
尤もこの本を読むような人に討そういう人は少ないと思うが。
尤も今の時代は分業の時代だから、一方金もうけの人が居てくれるのは都合がいいこともあるであろう。損ばかりしている国民を持っていては困るであろう。だから金もうけのうまい人が居るのもいいかも知れないが、それだから人生の目的は金だとは言えない。
殊に金の為には自分の自我を殺し、他人の自我を殺し、不道徳なことを敢てしてもいいと思っている人があれば、勿論まちがいである。金は目的にすべきものではない。
殊に他人を損させてまで得をしたり、他人の人格を堕落させることで金をもうけたりすることは恥である。
例えば本屋がいい本をつくって金をとり、その金で益々いい本を出すというのなら本屋の名誉であるが、下らない本をつくって、下らない人間の下らない欲情に媚びて、そして金をもうけさえすればいいでは、本屋の恥である。
例えば医者は仁術であるが、金をもうけることを目的として、病人の病気が早くなおるものをわざとなおさなかったり、健康に不必要なことに金をつかわしたり、殊にひどいのは病気をわざと重くして、金をもうけたとしたら、それは詐欺以上の悪事である。
金は正しいからもうかるとはきまらない。不正をしたからもうかるという場合もあるのだ。以上あげた例よりもっとひどい例はいくらもあげられる。戦争でもうける人々の内に、だから戦争があるといいなぞと言う人がたまにあるが、これなぞも随分無神経な言葉である。
人間にとって大事なのは金もうけではないのだ。金がありすぎることはむしろ人間を堕落させやすい。金をもうけることがうまいということはその人の自慢にならない。その金をよく生かすということは自慢になる。
そして金をもうけられないことは恥にはならないのだ。いい生活をしない、いい仕事をしないということは恥になる。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 p40-44)
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資本主義経済の推進力は利潤第一主義にある
では、この資本主義経済は、なにを推進力にして動くのか。マルクスは、『資本論』の全巻で、「できるだけ大きな剰余価値の生産」にこそ、資本主義経済の推進力があるということを、あらゆる角度から解明しています。
この問題について、マルクスの代表的な文章のいくつかを見てみましょう。
「資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のでき るだけ大きな搾取である」(『資本論』第一部「第一一章 協業」B五七六ページ)。
これは、「協業」を論じたところにある文章です。その少し前、「労働日」、つまり労働時間をめぐる資本と労働の闘争を扱ったところでは、資本家が剰余価値のどこまでもの拡大にかりたてられるのは、その資本家の個人的な悪徳によることではない、「人格化された資本」としての必然的な行動、つまり、資本の代表者であるかぎりは、そういう行動をせざるをえないものだ、と説明しています。マルクスは、ここでは、それが「資本の魂」であり、「唯一の生活本能」である、という言葉も使っています。
「資本家としては、彼〔資本家〕はただ人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本は唯一の生活本能を、すなわち自己を増殖し、剰余価値を創造し、その不変部分である生産諸手段で、できる限り大きな量の剰余労働を吸収しようとする本能をもっている」(同前「第八章 労働日」A三九五ページ)。
資本主義を動かす最大の動機と推進力は、剰余価値の拡大にある。マルクスは、このことを『資本論』の全巻でくりかえし強調しました。これが、マルクスが資本主義経済の徹底した研究からつかみだした「資本の魂」であり、「資本の生活本能」でした。剰余価値の主要な部分が利潤ですから、私たちは、この「資本の魂」を、「利潤第一主義」というよりわかりやすい言葉でいま表現していますが、ここにマルクスの資本主義研究の非常に大事な中心点のIつがあります。
利潤第一主義が資本主義経済を動かす最大の原理だというこの指摘は、すべての資本主義社会に共通する真理です。しかも、資本主義がすすめばすすむほど、個々の資本の個々の企業の行動原理というだけでなく、政治をはじめ、社会のさまざまな領域が利潤第一主義の原理におかされてゆくようになります。
ですから、いまの日本社会を見る場合にも、利潤第一主義という角度から問題をとらえると、社会のいろいろな分野で横行している不合理な現象について、それがなぜ起こってくるかの根源や背景が分かってくるようになります。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p106-108)
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経験が資本家一般に示すものは、絶えざる過剰人口、すなわち資本の当面の増殖故に比較しての過剰人口であるとはいえ、この過剰人口の流れは、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわばふ未熟のうちに摘み取られる代々の人間から形成されているのではあるが。
もちろん、経験は、他面では、歴史的に言えばやっときのう始まったばかりの資本主義的生産が、いかに急速にかつ深く人民の力の生命源をおかしてしまったか、産業人口の退化が、もっぱら農村から絶えず自然発生的な生命要素を吸収することによっていかに緩慢にされるか、また農村労働者さえも、自由な空気にめぐまれ、彼らのあいだで実に全能の力をもって支配している自然陶汰の原理≠ノより最強個体のみが成長させられているにもかかわらず、すでにいかに衰弱しはじめているか、を賢明な観察者に示している。
自分を取り巻いている労働者世代の苦悩を否認する実に「十分な理由」をもつ資本は、その実際の運動において、人類の将来の退化や結局は食い止めることのできない人口の減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に墜落するかもしれないということによって少しも左右されないのと同じことである。
どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということはだれでも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだあとで、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。
大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!≠アれがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。
それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問にかんする苦情に答えて資本は言う──われらが楽しみ(利潤)を増すがゆえに、われら、かの艱苦に悩むべきなのか? と。
しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。
自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである。
(マルクス著「資本論」新日本新書A p463-464)
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◎「全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない」と。