学習通信040506
過ちをのりこえる とはどういうことか……

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 そのうちに、コペル君がまたぼんやりと空を眺めていると、お母さんが話し始めました──
 「潤一さん。お母さんはね、こうして編物なんかしていると、よく思い出すことがあるのよ。」
 ゆっくりとした、やさしい声でした。

 「それはね。お母さんがまだ女学校にいっていた頃のことなの。お母さんは、学校の帰りにわざと廻り道をして、湯島の天神下に出て、それから天神様を通り抜けて、本郷のおうちに帰って来ることがよくあったの。そんなときには、きまって、あの天神様の裏の石段を登って境内に出たものでした。潤一さんは知ってるかどうか、あの天神様の裏には、今でも古い石段が残ってるはずよ。あすこを通ると、昼間でも、なんだか空気がヒヤリとするような、寂しい石段だったけど、今はどうですか……。

 ある日、お母さんがその石段を登りかけたとき、見ると一人のおばあさんが、木綿の風呂敷包みを片手に下げて、お母さんより五、六段先を登ってゆくところでした。そうね、年はもう七十を越していたでしょうか、今でも覚えているけれど、白毛の髪を切下げにして、細い組子の帯をピチャンコにしめた、小さなおばあさんでした。それが着物の裾をはしょって、白いお腰の下から白足袋をはいた痩せた脛を出して、コウモリ傘を杖にヤットコサと石段を登ってゆくのよ。

風呂敷包みの中は何か知れなかったけど、小さい割にずいぶん重そうなの。歯のついた下駄をはいてるもんだから、石段を踏みしめるごとに、それがキリッ、キリッときしんで、見てても、そりゃあ足許が危いんです。で、二、三段のぼっては休み、二、三段のぼっては休み、休むたんびに腰をのはして、それからまた、エッチラオッチラとのぼってゆくのね。お母さんはなんだか見ていられないような気がして来ました。

 こりゃあ、あの荷物を持ってあげなけりゃあいけない。お母さんはそう考えたの。トントンと駆けのぼって、おばあさんに追いつくのは雑作もないし、その荷物を持った上に、おばあさんの手をひいてあげるのだって、お母さんには大した骨折じゃあないんですもの。それで、おばあさんが中途でとまって、やれやれと腰をのばしているとき、お母さんは、そのそばに走りよろうと思ったのよ。ところか、その途端に、おばあさんも歩き出したの。

背中を丸くして、ほかのことは何も考えないような様子で歩き出されて見ると、お母さんも話しかけるキッカケがないような気がして、そのまま走りよれなくなってしまい、だまっておばあさんのあとからのぼっていきました。

 こんどおばあさんが休んだら、そのとき、そばにいって、「おばあさん、もってあげましょう」と言い出そう。そう考えて、お母さんはあとからついていったんです。ところが、おばあさんが立ちどまったときになると、なにかきまりの悪いような気がして来て、すぐにトントンと駆けのぼってゆけないの。どうしようかな、と考えてるうちに、また、おばあさんは、なんにも見向きもしない様子で、石段をのぼりはじめてしまいました。

 この次にとまったとき──。お母さんは、そう考えて、またおばあさんのあとから、石段をのぼってゆきました。だけど、その次のときも、ちょっとためらってるひまにキッカケを失っちまって、またダメでした。

 そんなことを二、三回繰りかえしているうちに、何しろ、そうたくさんもない石段でしょう、とうとうおばあさんは、石段をのぼり切ってしまったの。そのときには、ためらい、ためらいついて来たお母さんも、おばあさんに追いついて、二人は同時に最後の石段を踏んで天神様の境内に立ったんです。

お母さんがすぐうしろで、こんな事を考えて気を揉んでたことなんか、夢にも知らないで、おばあさんは、石段をのぼり切ると風呂敷包みをそばの腰かけ石におろし、しばらく腰かけることも忘れたように、コウモリ傘に手をついて、眼の下の町を眺めながら肩で息をしていました。そうして、お母さんがそばを通ったとき、ちょっとお母さんの方を見たけれど、別に面白くもないという顔つきで、また向うを向いてしまったの。──それだのに、おかしいわね、お母さんの方では、その顔を今でもちゃんと覚えているんですよ。

 潤一さん。話ッていうのは、ただ、これだけなの。でも、お母さんは、ずっとあとになってからも、この時のことを、ときどき思い出すんです。──そう、いろいろなときに、いろいろな気持で思い出すの。」

 お母さんは、そういってちょっと言葉を切りました。そして、編物の手だけは休めずにセッセと運びながら、何か遠いことを思い浮かべている様子でしたが、やがて、また静かに話しはじめました。

 「おばあさんの大儀そうな様子を見かねて、代りに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果さないでしまった、──まあ、それだけの話ですけど、このことは、妙に深くお母さんの心に残ったんです。そのときも、おばあさんに別れて、ひとりでおうちへ帰って来る途中、歩きながらいろいろそのことを考えました。なぜ思い立ったとき、すぐに駆け出さなかったんだろう、なぜ心に思ったとおりしてあげなかったんだろうッて、そう思うと、自分がたいへん悪いことをしてしまったような気がして来るのね。

それに、石段をあがり切ってしまった以上、折角の自分の心持も、もうなんにもならないでしょう。もう、心に思ったそのことをする機会は、二度と来ないのでしょう。その機会というものは、おばあさんが石段の一番上のところに立つと同時に、まあ、永遠に去ってしまったわけね。──ほんの些細なことでしたけれど、お母さんは、やっぱり後悔したんです。あとになって、なんと思って見たところで、もう追っつかない。この追っつかないということでは、こんな些細な事だって、大きな取りかえしのつかない出来事と、ちっとも変わりはないんですもの。

 そうねえ、もう、あれから何年になるかしら。お母さんが女学校の四年生ぐらいのときだから、もう二十年あまりになるでしょうね。それから、お母さんも大人になり、なくなったお父さまのところにお嫁に来て、潤一さんが生まれ、一昨年お父さまがおなくなりになるまで、二十年の間には、いろんなことがありました。だけど、この石段の思い出ばかりは、ついこないだのことのように、はっきりと覚えているんです。なぜかというと、お母さんは、その後いろんなことに出会って、あのときのことを思い出すことが、いくどかあったから──。

 潤一さん。大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろうと、残念な気持で思いかえすことは、よくあるものなのよ。どんな人だって、しみじみ自分を振りかえって見たら、みんなそんな思い出を一つや二つもってるでしょう。大人になればなるほど、子供の頃よりは、もっと大きなことで、もっと取りかえしがつかないことで、そういう思いをすることがあるものなの。お母さんなんか、なくなったお父さまのことおなくなりになるなら、ああもしておけばよかった、こうもしておけばよかったと、そう思うことばかりよ。」

 お母さんは、編物の手をとめて、コペル君といっしょに、障子のガラス越しに、水色に晴れた空をしばらく見ていましたが、気を取り直したように明るい顔にかえると、ほほえみながら、また話しつづけました。

 「でもね、潤一さん、石段の思い出は、お母さんには厭な思い出じゃあないの。そりゃあ、お母さんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔むことがたくさんあるけれど、でも、「あのときああして、ほんとによかった」と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそういうんじゃあないんですよ。自分の心の中の温かい気持やきれいな気持を、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。そうして、今になってそれを考えて見ると、それはみんな、あの石段の思い出のおかげのように思われるんです。

 ほんとにそうよ。あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かして来ることが出来なかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、──だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。

 だから、お母さんは、あの石段のことでは、損をしていないと思うの。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。ひとの親切というものが、しみじみと感じられるようになったのも、やっぱり、それからでした。」

 コペル君には、お母さんのいうことが、最近の自分のはげしい後悔と結びつけて、一つ一つ、よくわかりました。

 「それでね、潤一さん−」
とお母さんは、相変わらず編物をつづけながら、コペル君の顔を見ないでいいました。

 「潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。

それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは──、そう、誰かがきっと知ってくれます。……」
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p241-248)

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 それでは、〈否定の否定〉とはなにか? 自然と歴史と思考との、きわめて一般的な・まさにそれゆえにきわめて広く作用している・重要な発展法則である。

以上に見てきたように、動植物でも地質学でも数学でも歴史でも哲学でも効力をもっている法則であって、これには、デューリング氏でさえ、どれほど逆らおうがもがこうが、それとは知らずに、氏なりの流儀で、従わないわけにはいかないのである。

私がなにか特殊な発展過程について、たとえば、オオムギの粒が、発芽してから、実を結んだ植物が死ぬまでにたどる、その発展過程について、〈これは《否定の否定》である〉と言ったところで、この過程についてまったくなにも言ってはいないのだ、ということは、わかりきった話である。

と言うのも、もし私が〈そんなことはない〉と主張したとしても、──積分法もやはり〈否定の否定〉なのだから──〈オオムギの茎の生活過程は、積分法である〉、とか、あるいは、そう言いたいなら、〈社会主義である〉、とか、そういった無意味なことを主張することにしかならないであろうから。

こうした主張こそ、しかし、形而上学者たちが絶えず弁証法になすりつけているものなのである。

私は、すべてこうした過程について〈それは《否定の否定》である〉と言うとき、そうした過程をすべてひとまとめにこの一つの運動法則に包括しているのであって、まさにそれゆえに、どの個々の特殊過程の特殊性をも考慮の外に置いているのである。

しかし、弁証法とは、自然と人間社会と思考との一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではないのである。

 ところで、しかし、つぎのように反論する人がいるかもしれない、──<ここで行なわれた否定は、けっして本当の否定ではない・オオムギの粒を碾き砕いてもそれを否定することになるし、昆虫を踏みつぶしてもそれを否定することになるし、正量aを消去してもそれを否定することになる〉、うんぬん、と。

あるいは、〈《このバラはバラでない》と言えば、《このバラはバラである》という文を否定することになるが、この否定をもう一度否定して《このバラはやはりバラである》と言ったところで、そこからなにかが生まれてくるのか?〉と。

──こうした反論は、事実、弁証法に反対して形而上学者たちが持ち出してくるおもな論拠なのであって、この狭い思考にまったくふさわしい。

弁証法における否定とは、単に<いな〉と言うことでも、或る事物を〈存在しない〉と言明することでも、その事物を任意の仕方で破壊することでも、ない。

すでにスピノーザが、〈すべての限定または規定は、同時に否定である〉、と言っている。そして、さらに、この場合、否定の仕方は、第一には過程の一般的性質に、第二にはその特殊な性質に、規定されている。

〔まず、〕私が、ただ否定するだけでなく、この否定をもう一度止揚する、というきまりになっている。だから、私は、第一の否定を、第二の否定が引き続き可能であるように、または、それが可能になるように、取り仕切らなければならないわけである。

〔では、つぎに〕どういうふうにするのか? それぞれの個々の場合の特殊な性質に合わせてそれを行なうのである。もしオオムギ粒を碾き砕き、昆虫を踏みつぶすなら、なるほど第一の行為はしたが、第二の行為はできなくしてしまった。

というわけで、どういう種類の事物にも、或る発展がそこから生まれてくるような・それ独特の否定のされかたがあるのであって、これは、どういう種類の観念また概念についても同様である。

微積分学での否定は、〔初等数学で〕負の根から正の累乗をつくる場合の否定とは違ったものである。これは、他のすべての事柄と同様に、習いおぼえなければならないことである。

オオムギの茎と微積分学とが〈否定の否定〉にあたるということをただ知っているだけでは、オオムギをうまく栽培することも、微分し積分することも、できない。

それは、絃の長短に音色が規定されるという法則〔を知った〕だけでいきなりヴァイオリンを弾くことができないのと、同じである。

──しかし、aを代わるがわる書いたり消したり、または、或るバラについて、代わるがわる〈これはバラである〉・〈これはバラでない〉と主張したりする、そういうばかばかしい仕事になってしまう〈否定の否定〉をやってみたところで、こんな退屈な手続きをする人の愚かしさのほかにはなにも出てこないのは、明らかである。

それなのに形而上学者たちは、〈《否定の否定》をやってみようと一度でも思ったりしたら、こういうふうにするのが正しい仕方だ〉、とわれわれに思い込ませたいのである。

 だから、またしてもほかならぬデューリング氏が、〈《否定の否定》は、ヘーゲルが発明した宗教の領域から借りてきた・堕罪と救済との物語を頼りにした・ばからしい類推である〉と主張して、われわれを煙にまいているわけなのである。

人間は、弁証法とはなんであるかを知るずっと前から弁証法的にものを考えてきたのであって、それはちょうど、〈散文〉という表現が生まれるずっと前からもう散文を話していたのと同じである。

〈否定の否定〉という法則は、自然と歴史とのなかで無意識的に行なわれ、また、この法則がついに認識されるまではわれわれの頭のなかでも無意識に行なわれているものであって、これをヘーゲルがはじめて明確に定式化したにすぎない。

そこで、もしデューリング氏が、このことをこっそり自分でもやろうと思うがただ名前だけはがまんできないのならば、もっとよい名前を見つけるがよい。もししかし、この事柄を思考から追い出そうと思うのなら、どうか、まずそれを自然と歴史とから追い出していただきたい。

そして、 -a×-aが+a2 にならず、微分と積分とが刑罰のおどしをもって禁止されている、そのような数学を発明していただきたい。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p200-203)

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◎同じ過ちを繰り返すということは、どういうことなのだろうか。過ち≠サれすらわからない……。

「課題はその解決の手段と同時に生じる」……自らの提起されている課題≠キらわからなければ、あらたな一歩も、決断もない。

過った過去を捨て去るのではなく、のりこえ(ふみこえ)≠ニいうこと……。

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