学習通信040511
◎人類の未来論を深めよう。

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 第二の角度は、いわば人類史的な見方であります。「生産手段の社会化」が人間社会の本来の姿を取り戻すものであって、そういう意味で人類史の新しい時代を画する変革であることをおおもとからつかむ、この歴史観も大事であります。

 人類の歴史をより深く考えますと、だいたい生産手段というのは、人間がそれを使って自然に働きかける手段であります。

 少なくとも数十万年は続いた人類史の曙(あけぼの)の段階では、生産者が自分の生産手段をもって自然に働きかける、これが人間本来の姿でした。

 階級社会に変わってこの状態が根本から変わりました。階級社会には、奴隷制、封建制、資本主義という主な三つの時代がありますが、時間の長さからいえば、合わせてせいぜい数千年であります。この階級社会では、生産者と生産手段が切り離され、生産手段が支配者の持ち物となりました。そのために、生産者が他人である支配者のために働くというのが、生産の主要な様式に変わりました。

 そして最後の搾取社会である資本主義の時代を迎えて、生産手段と生産力が高度な発展をとげ、新しい社会の物質的土台をつくりだす。同時に、一方では個々の企業が生産手段を持った状態では巨大化した生産の管理ができなくなるという矛盾が激しくなると同時に、生産者の側には、それだけ発展した生産手段を集団として動かすことができる力も発展してくる。ここに大づかみにみた資本主義時代の特徴があります。

 そのうえにたって、共同体である社会が生産手段を握る、こういう形で生産者と生産手段の結びつきを回復するという新しい段階、人類のいわば「本史」への発展を意味する社会変革が日程にのぼってきたのです。

 ここに、「生産手段の社会化」という目標を人類史という大きな視野でとらえた場合の大きな意義があることを強調したいと思います。
(しんぶん赤旗 040115  綱領改定についての不破議長の報告)

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 一方では氏族制度の諸機関が、一部は改変され、一部は新しい諸機関の割りこみによって排除され、そしてしまいには真の国家官庁によって完全に置き代えられたことにより、他方では自分の氏族、胞族、部族内で自己防衛する真の「武装人民」に代わって、この国家官庁のお役に立ちうる、したがって人民弾圧にも行使できる、一つの武装した「公的権カ」が現われたことによって、国家が発展してきた経過──これについては少なくともその第一幕を、古代アテナイほどみごとにたどれるところはどこにもない。

形態の諸転化はだいたいモーガンが叙述しているが、それらを生みだした経済的内容は、大部分私がつけ足さなければならない。

 英雄時代には、アッティカにいたアテナイ人四部族は、まだ離ればなれの領域に佐んでいた。四部族を構成している一二の胞族でさえ、ケクロプスの一二の都市に、まだ別々の住地をもっていたらしい。

制度は英雄時代の制度、つまり民会、人民〔代表〕会議、バシレウスであった。文書にしるされた歴史がさかのぼるかぎりでは、土地はすでに分配されて私的所有に移されていたが、これは、来開時代の上段階の末ころにすでに比較的発展していた商品生産と、商品生産に照応する商品取引に符合するものである。

穀物のほかにブドウ酒とオリーブ油がつくられた。エーゲ海の海上貿易はしだいにフェニキア人から奪いとられ、大部分アッティカ人の手に帰していった。所有地の販売と購入とにより、農耕と手工業、商業、航海との分業の進展により、氏族、胞族、部族の所属者たちは、たちまち入りまじりあい、胞族と部族の居住地域は、同国人ではあっても、これらの団体に所属していない住民たち、したがって自分の住地ではよそ者となっている住民たちを、受けいれなければならなかった。

というのは、各胞族と各部族とは、平時には自分の事項を、アテナイの人民〔代表〕会議やバシレウスに送ることなく、自分で処理していたからである。ところが胞族または部族に所属しないでその領域内に住んでいた者は、当然この処理にはまったく加わることができなかった。

 このため、氏族制度の諸機関の規則的な運営は、ひどく混乱におちいり、すでに英雄時代に是正が必要となった。テセウスが定めたといわれる制度が採用された。変更の実体は、なかんずく、アテナイに一つの中央行政府が設けられたこと、すなわち、これまで諸部族が自主的に処理してきた事項の一部が共同事項であると宣言され、アテナイにおかれている共同会議〔首長会議〕に移管されたことにあった。

このことによってアテナイ人は、アメリカのどの原住民族よりも一歩前進した。並びあって住む諸部族の単なる連合体に代わって、単一の部族団への諸部族の融合体が現われた。これとともに部族と氏族の法慣習に優越するアテナイの一般部族団法が生まれた。アテナイ市民は、自分が部族外の者になっている領域においても、アテナイ市民として一定の権利と新たな法的保護をあたえられた。

だが、それによって氏族制度の覆滅への第一歩がふみだされた。というのは、それは、アッティカ全土において部族外の者であって、まったくアテナイの氏族制度の外にありつづけた人々を、のちに市民として認めるようになる第一歩だったからである。テセウスが定めたと言われる第三の制度は、氏族、胞族、部族にかかわりなく、全人民を三つの階級に、すなわち、エウバトリダイつまり貴族、ゲオモロイつまり農民、デミウルゴイつまり手工業者に区分し、公職就任の独占権を貴族に付託したことであった。

なるほどこの区分は、貴族による公職就任を例外として、効果をあげずに終わった。それは、そのほかには階級のあいだになんの権利の差も設けなかったからである。だがこの区分は、ひそかに発展してきた新しい社会的諸要素を示してくれるがゆえに、重要である。

この区分は、氏族の公職への一定の家族の出身者の慣習的な就任が、すでにこの公職にたいするこれらの家族のほとんど争う余地のない要求権にまで発展していたこと、そうでなくても富をもっていることで勢力のあるこれらの家族が、彼らの氏族の外で独自な一特権階級を結成しはじめたこと、そしてようやく芽をだしたばかりの国家が、この越権を神聖化したことを示している。

さらにそれは、農民と手工業者のあいだの分業がすでに十分に強固になって、氏族と部族を基準にした古い編成と、社会的意義の点で優位を争うまでになったことを示している。

最後にそれは、氏族社会と国家とのあいだの両立しがたい対立を宣告している。国家を形成しようとする最初の企ての本質は、各氏族の氏族員を特権者と非特権者に、さらに後者を二つの職業階級に分け、こうしてこの二階級を互いに対立させることによって、氏族を引きさくことにある。

 それ以後ソロンのときまでのアテナイの政治史は、不完全にしかわかっていない。バシレウス〔軍隊指揮者〕の職は廃止された。国家の頂点に立ったのは、貴族のなかから選ばれたアルコン〔首長〕たちであった。貴族の支配はますます強まり、紀元前六〇〇年ころにはたえがたい程度に達した。

しかも庶民の自由を抑圧する主要な手段は──貨幣と高利貸付だった。貴族の本拠はアテナイとその周辺にあり、ここでは海上貿易と、いまだにときどきおまけとしてつく海賊行為とが、貴族を富ませ、貨幣形態の富をその手に集中させた。

発展しつつある貨幣経済は、ここから、腐蝕作用をする硝酸のように、自然経済に基礎をおく古米の土地共同体の生活様式のなかに侵入していった。氏族制度は、貨幣経済とは絶対に両立するものではない。

アッティカの分割地農民の破滅は、彼らを保護してだきかかえている古い氏族紐帯の弛緩と同時に起こった。債務証書と不動産質入れ(というのは、アテナイ人はすでに抵当権をも発明していたから)は、氏族をも胞族をも意に介さなかった。それに古い氏族制度は、貨幣も前貸しも金銭債務も知らなかった。

それゆえ、ますますはびこる貴族の貨幣支配が、債権者を債務者から守るために、貨幣所有者による小農民の搾取を神聖化するために、一つの新しい慣習法をもつくりだした。アッティカの全耕地には抵当標が一面に立ちならび、それには、この標の立っている地所はだれそれにこれこれの金額で質にはいっているとしるされていた。こう表示されていない耕地は、大部分が抵当流れになったか利子がとどこおったためにすでに売られて、貴族高利貸の所有に移っていた。

農民は、小作人としてその耕地にとどまり、その労働の収穫の六分の一で生活することを許されれば喜んでよかった。他方、彼は六分の五を新しい主人に小作料として支払わなければならなかった。そればかりではない。

売った地所の代金が債務を弁済するのに足りなかったり、この債務が質物によって担保されることなくなされていたりしたときには、債務者は、債権者に弁済するために、自分の子どもたちを外国に奴隷として売らなければならなかった。

父による子どもたちの身売り──これが父権と一夫一婦婚との最初の果実だったのだ! そして吸血鬼がそれでも満足しないときは、この吸血鬼は債務者自身をも奴隷として売ることができた。これが、アテナイ人のもとでの文明のこころよい曙光であった。

 以前、人民の生活状態がまだ氏族制度に照応していた時代には、こういう変革は不可能であった。ところがここにこの変革が起こった。人々にはどうしてなのかわからなかった。ちょっと、わがイロクォイ族のもとに立ち返ってみよう。

いまやアテナイ人に、いわば彼らが手を貸すことなしに、また確かに彼らの意志に反して押しつけられたような状態は、イロクォイ族のもとでは考えられなかった。そこでは、生計の資を生産する仕方は年々歳々同じであり、外部から強制されたようなこうした衝突、富者と貧者、搾取者と被搾取者の対立を生みだすことは決してありえなかった。

イロクォイ族は、まだとうてい自然を支配するどころではなかったが、しかし自分たちに妥当な自然の限界の内部では、自分自身の生産を支配していた。彼らは、その小園圃(えんぼ)での不作や、その湖と河にいる魚類資源やその森林の野生鳥獣数の枯渇を別にすれば、彼らの生計の資を獲得するやり方がどんな結果を生じるかを知っていた。

結果として必ず生じてくるものは、乏しいものになったり豊かなものになったりするにせよ、生計の資であった。だが、結果として決して生じるはずのないもの、それは、意図しもしない社会的諸変革、氏族紐帯の寸断、対立し闘争しあう諸階級への氏族員および部族員の分裂であった。生産はきわめて狭いわく内でいとなまれていた。

だが──生産者たちは自分自身の生産物を支配していた。これこそ、未開時代の生産のたいへんな長所だったのであり、この長所は文明時代の開始とともに失われたのであって、これをとりもどすこと、だが人間が今日達成している強力な自然支配と、今日可能となっている自由な結合とを基礎にしてこれをとりもどすことが、次の諸世代の任務であろう。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p146-151)

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◎「生産者たちは自分自身の生産物を支配していた」と。