学習通信040514
◎大企業と国際金融資本の応援団が資本≠語っている。
自衛隊を軍隊≠ニ喧伝し文字道理の活躍をもとめるようなもの……。

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貨幣は貨幣を生む。これこそ資本主義の本質

 貨幣は貨幣を生む。
 中世カトリックの解釈からすれば、狂気の沙汰である。「隣人を愛せよ」というキリスト教の根本教義と「貨幣は貨幣を生む」という思想は根本的に矛盾するとカトリックでは解釈するからである。

 しかし、「貨幣は貨幣を生む」ことこそ、資本主義の本質である。封建制度以前とも社会主義とも違った資本主義の特徴である。

 「狂気の沙汰である」という解釈を、「正常のことである」という解釈に変換しなければ、封建制を打破して資本主義は生まれてこない。
 しかし、この「変換」がどれほど困難なことであるか。今まで述べてきたことだけからも明白であろう。

 右に縷説(るせつ)した(詳しく述べた)ように、「貨幣が貨幣を生む」という命題(文章)を承認できない所以(理由)は、利子・利潤を論理的に正当なものであると認めない中世カトリックの解釈による。中世カトリック教会は、この解釈をどこから持ってきたかというと、利子・利潤をとることは、「隣人を愛せよ」というキリスト教の根本主義と矛盾すると考えたからである。

 キリスト教の根本教義と矛盾する!
 これは大変なことである。一筋縄でも二筋縄でも三筋縄でも到底ゆきっこない。
 すでにいくつかの例を挙げて説明したように、カトリック教会の腐敗堕落は、ずいぶん早くから始まっていた。自ら決めた独身の戒律を破って法王はじめ高僧どもがセックスにふけることは、ボッカチオが書き、人びとも嘲笑するところであった。

 最も驚くべきことは、利子を厳禁したカトリック教会自身が、高利貸に頼らなければやりくりができなくなったことである。いや、自らも、高利貸を営んで膨大な利潤をあげていたことである。このことは民衆に知れわたっていた。

 もう二進(にっち)も三進(さっち)も行きっこない。
 「利子・利潤は隣人愛の表れであり、キリスト教の根本教義と矛盾しない」ことを証明し、資本主義の精神への道が拓かれなければならない。
 この理論的奇蹟を実現したのがカルヴァンである(六二頁参照)。

 利子・利潤は正当である。論理的に正しい。
 このことが証明され、人びとの心の中にしっかりと根を下ろすようになってはじめて資本主義の精神が成立する。
 どんなに活発に経済活動を行い、膨大な金を儲けても、これは実は罪悪ではないか。本当は悪いことではないか。他に正当性根拠を求めなければならないのではないか。

 心の奥底に、このひっかかりが少しでもあるうちは、資本主義の精神は成立せず、資本主義はフル回転を始めないのである。技術は進歩し、巨大な資金が蓄積されても、資本主義(本来の資本主義)はスタートしない。巨大な資金も、所詮、前期的資本に過ぎない。いまだ資本(資本主義の資本)ではないのである。そして、このような「資本主義もどき」をヴェーバーは賎民資本主義と呼んだ。

 賎民資本主義における「資本もどき」を前期的資本という。この金儲けの元手としての「資本」は、人類の歴史とともに古い。このような資本が前期的資本である。千一夜物語にも、大金持ちになるためには元手が大切か運が大切かをめぐって論争になる場面がある。中国にも、陶朱(とうしゅ)・猗頓(いとん)の富という熟語がある。

『史記』の「貨殖列伝第六九」には、前期的資本が春秋・戦国時代にも躍動していたあり様が見て取れる。末代(九六〇〜一二七九年)になると中国経済の規模と富とは産業革命直前の英米を追い抜くほどにも発達していた(一ハ〜一九頁参照)。それでも、中国の前期的資本は資本(本来の資本、産業資本)には発育しなかった。前期的資本は、本来、産業資本(資本主義の資本)には発育しないのである。

 日本でも、銭屋五兵衛や紀伊国屋文左右衛門は巨大な富を築いたが、それらはずっと前期的資本のままであって、資本(資本主義の資本)とは別の範躊(はんちゅう)であり続けた。

 前期的資本は、商業資本および高利貸資本からなる。前期的資本が存在するためには、「単純な商品流通および貨幣流通」以外、何の条件をも必要としない(『大塚久雄著作集第三巻』岩波書店一九六九年・二九頁)。ともかく、商品が流通し貨幣が流通しさえすればよい。

 周知のように、競争こそ資本主義の要諦(ようてい)である。資本主義の経済法則は、競争を基礎におき、競争によって資本主義自身が再生産される。

 前期的資本は、十分な競争が行われる程度にまで商品生産が一般化されていないときに発生する。
 ゆえに、前期的資本は、資本主義の成立以前にすでに存在し、それは、資本主義の成立以前にのみ存在するのである。すなわち、前期的資本は、資本主義の成立とともに消え去るのである。

 前期的資本の利潤は、流通過程から得られる。ゆえに、それは、偶然的であり投機的である。すなわち、前期的資本は、商略や欺瞞や暴力によって利潤を得る。それは、法も規範も知らない。ここが、資本(資本主義の資本)とは根本的に道う。

 資本(産業資本)の利潤は生産過程から得られる(資本主義では、流通も生産の一種である)。それは必然的であり投機的ではない。それは合法的かつ正常的(社会の倫理・道徳を守っていると仮定される)である。商略や欺瞞や暴力はもっての外である。
(小室直樹著「資本主義のための革新」日経BP社 p42-45)

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 ただ、こうして歴史を振り返ると、「資本主義」は、たかだか一〜二世紀の歴史しかないことにあらためて気づく。ちなみに、マルクスが『資本論』第一巻を出版したのは一八六七年。その意味では、「資本主義」というもの自体、いかなる局面でも、いつの時代でも成り立つ真理というものではなく、近代に独特の制度にすぎない。

 資本主義とは、歴史的な社会システムなのである。
 そういう捉え方のもとで、「資本主義」そのものの説明を試みておこう。ここでは、「資本主義」に対していささかシニカルな見方を展開しているI・ウォーラーステイン氏の『史的システムとしての資本主義』(川北稔訳、岩波書店)を参考に叙述がなされていることをお断りしておきたい。

 「資本主義」の特徴として、まずもって指摘しておかねばならない最も重要な点は、「資本」というものが自己増殖を第一の目的として使用されるということである。過去における資金の蓄積は、さらに資本を蓄積するために用いられる。そういう働きをするとき、その資金は「資本」になる。単に資金を貯めて寝かせておくだけでは「資本」とは呼べない。資本はつねに膨張しつづけるものなのだ。

 おカネがおカネを生む──これが「資本主義」のエッセンスである。
 無論、こうした「資本」が社会において機能するためには、いくつかの前提条件があることに留意すべきだろう。たとえば、ビジネスを展開する資本家にとっては、生産を円滑に行なうために労働力を常時得ることができなければならない。

然るべき労働者がつねに存在しなければならないという条件は、現代に暮らすわれわれにとっては自明のことのように見えるが、じつはそのこと自体、近代になってようやく定着した出来事にすぎないことに留意しておこう。

 「資本主義」が誕生する舞台となった近代市民社会は、自立的な人格を持ち、自由に自己の意思によって契約を行なう権限を持った私人としての市民たちから構成されるようになった社会である。その私人たちのなかで、生産手段を所有する資本家が使用者として、生産手段も資産もない人たちが被雇用者として、両者のあいだで雇用契約が結ばれていくという姿は、共同体が崩壊した後の社会でなければ成り立ち得なかった。

 また仮に、労働力が得られて商品を生産できるようになったとしても、それを売り捌くためのマーケットがなければならない。このように考えていくと、「資本」が機能するには、流通機構と購買力を持った消費者の存在も不可欠だということがわかる。さらに言うと、その商品の価格は、売り手が要したコストを超えていなければならず、それによって得られた利潤でさらなる投資ができる環境が整っている必要がある。

 それらのすべての条件が整備されてはじめて、資本は投資されていく。「生産⇒販売⇒生産」という資本循環が円滑にそして持続的に自転を始める。

 歴史的に見ると、こうした諸条件は、近代になるまで成立しなかった。貨幣の形態をとっている資本が足りないとか、生産者に使える労働者がいないとか、商業網が欠けているとか、購買力のある消費者に恵まれない、という場合が多かった、とウォーラーステイン氏は指摘している。

 ここで指摘した資本循環「生産⇒販売⇒生産」は、言うまでもなく、個々の「資本」の意思に支えられている。そういう意味で、資本主義経済の論理は、資本蓄積を極大化しようとする資本家の合理的な意思によって支配されてきたといえる。そして、この合理的な意思は、資本を蓄積するという観点において判断を誤った個人や企業を退出させるというメカニズムによって強制されてきた。

 このことを、ウォーラーステイン氏は、「破産こそは、資本主義というシステムの強力な浄化液であり、すべての経済主体をして、すでに十分に踏みならされた轍からつねに大きくは離れられないようにしてきたものである」と叙述している。その意味で、「資本主義」と企業淘汰は切っても切れない関係にある。

 さて、原論的な話はこれくらいにしておこう。
 先にご紹介した重田澄男氏は、研究の結果、「資本主義とは、資本家や企業が賃金労働者を雇って利潤の獲得を目的として行う近代社会特有の生産の形態、ならびに、それを基礎とした経済構造、社会体制」と定義づけた。本書では、この定義を借りて、比較的広い意味で「資本主義」というものを捉えることとしたい。
(木村剛著「日本資本主義の哲学」PHP p152-155)

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 こうして、デューリング氏自身、「資本について、〈資本とは生産された生産手段である〉という、普通に通用している概念」をいだいていない。そうではなくて、むしろそれとは正反対の──土地とその天然資源という──生産されたのではない生産手段をさえ含む概念をいだいているのである。

ところで、しかし、〈資本とは「生産された生産手段」そのものだ〉という観念は、これはこれで、ただ俗流経済学のなかで普通に通用しているだけである。

デューリング氏にとってこれほどにも大事なこの俗流経済学の外では、「生産された生産手段」または総じて或る価値額は、それが利潤または利子をもたらすときに、すなわち、不払労働の剰余生産物を剰余価値というかたちで、それもこんどは剰余価値のこの二つの特定の下位形態で、取得するときに、はじめて資本となるのである。

この場合、ブルジョア経済学全体が、〈利潤または利子をもたらすという性質は、通常の諸条件のもとで生産または交換に用いられるどの価値額にもおのずからそなわっているものだ〉という観念にとらわれている、ということは、どこまでも完全にどうでもよいことである。

資本と利潤、または、資本と利子、は、古典経済学では、原因と結果、父と子、きのうときょう、というのと同じく切り離せず、同じく互いに関連しあっている。

現代経済学的な意昧での語〈資本〉が現われてくるのは、しかし、やっと事柄そのものが現われてくる時代、すなわち、動産的な富が──商品を生産するために自由な労働者を搾取することによって──ますます資本の機能をもつようになる時代、のことであって、詳しく言うと、この語は、歴史上最初の資本家国民である一五世紀と一六世紀とのイタリア人が導入するのである。

そして、はじめてマルクスが、現代の資本に特有の取得様式を根本にまで立ち返って分析し、〈資本〉という概念を歴史的諸事実──この概念は、結局のところ、これから抽象されてきたものであり、それのおかげで存在することになったのである──に一致させた。

マルクスは、そうすることによって、この経済学上の概念を、古典経済学においてもこれまでの社会主義者においてもまだそれに付きまとっていた不明確なあやふやな観念から解放したのである。

こうして、まさにマルクスこそ、デューリング氏がいつでも口にしているのに悲しいことに氏のところではどうしても見あたらない、あの「究極的で最も厳密な科学性」をもって行動したのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p45-46)

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 さて、さきに引用したもろもろの箇所からわかるように、マルクスはけっして、〈剰余生産物の最初の取得者である産業資本家は、その剰余生産物を──デューリング氏がここで前提しているように──どんな事情のもとでも平均してその全価値で売る〉、とは主張していない。

マルクスは、〈商業利得も剰余価値の一部分になっている〉、とはっきり言っている。そして、このことが可能になるのは、手もとの諸前提のもとでは、なんと言っても、工場主が自分の生産物を商人に価値以下で売り、そうすることによって、獲物の或る分け前を商人に譲渡する、ただそのときにだけである。

だから、確かに、マルクスには、問いをここに提出されているようなかたちで投げかける余地さえありえなかったわけである。合理的に提起するなら、問題は、つぎのようになる、──剰余価値は、どのようにしてその下位形態である利潤・利子・商業利得・地代などなどに転化するのか、と。

そして、マルクスがこの問題を解決すると約束している場所は、確かに、第二部ではある。けれども、もしデューリング氏が『資本論』の第二巻〔当初のプランでは、第三部はここに予定されていた〕が出るまで持ちきれないのであれば、さしあたって第一巻をもう少し正確に調べてみなければいけなかった。

そうすれば、すでに引用したもろもろの箇所のほかに、たとえば三二三ページ〔lb、五五〇ぺージ、B、九九ニページ〕でつぎのことを読むことができた〔はずである〕。

すなわち、マルクスによれば、資本主義的生産の内在的諸法則は、諸資本の外的運動のうちに競争の強制法則として現われ、そして、このかたちで推進的動機として個々の資本家の意識にのぼってくる、というのであり、競争の科学的な分析は、だから、資本の内的本性が概念把握されているときにだけ可能になるわけであって、それはちょうど、天体の見かけの運動が、それの本当の・しかし感覚器官では知覚できない・運動を識っている人だけに理解されるのと同じだ、というのである。

これに続けて、マルクスは、一つ例を挙げて、或る特定の法則すなわち価値法則が、どのように或る特定の場合に競争の内部に現われて、その推進力を発揮するのか、これを示している。

デューリング氏は、すでにこのことから、剰余価値の分配にさいして競争が一つの主役を演じるということを察知できた〔はずである〕し、また、まったくの話、少し考えめぐらしさえすれば、第一巻で与えられているこうした暗示だけからでも、剰余価値のその下位形態への転化を少なくともそのあらましにおいて認識することが十分にできるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p51-52)

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◎「資本主義的生産の内在的諸法則は、諸資本の外的運動のうちに競争の強制法則として現われ、そして、このかたちで推進的動機として個々の資本家の意識にのぼってくる」と。資本の人格化……。