学習通信040515
◎乗り越える力に自信を……。

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 コペル君は庭におりて、日を浴びながら歩きまわりました。
 楓の枝は、堅い肌のいたるところから、真赤な芽を吹き出しています。八つ手の頂きにも。厚い外套をスッポリとかぶった新芽が、竹の子のような頭を突き出していますし、どうだんの細かな枝の先は、みんな小さな玉をつけています。庭のどこを見ても、柔かな土をもちあげたり、堅い梢をふくらませたり、数知れない新しい芽が、みんな、もう外をのぞきたがっていました。そして、ほかのものよりも先に地上に顔を出した草の葉は、僕を見てくれというように、いきいきした顔をあげて、一生懸命のびあがっています。

 コペル君はいい気持でした。そろそろ厚いスウェーターを脱いでもいい時が来たのです。グラウンドにバットの音が響くのも、もう遠いことではありません。

 ふと、コペル君は、庭の隅の檜葉の下に、泥まみれになったスポンジボールを見つけました。なんだ、去年の秋なくして、さんざんさがしても見つからなかったやつは、こんなところにあったのか、──コペル君は、笑いながらそのボールを拾いあげました。ボールは去年の秋ここに転がりこんだまま、じっと一冬をここで越したのでした。黙って転がっているボールの上にいくたびか雪がつもり、またいくたびか溶けていったことを思うと、コぺル君は、長い長い冬が、とうとう過ぎ去ったことを、はっきりと感じました。

 それから、コペル君は、縁側の下から小さなシャベルを持ち出して来て、日蔭に芽を出している草花を、日当りのよいところに移してやりました。同じ黄水仙でも、日当りのよいところにいるものは、もう花をつけているのに、日当りの悪いところにいるものは、まだ蕾ももっていません。コペル君は、庭をブラブラ歩きながら、見当たり次第、かわいそうな草花を、暖かいところに移し植えてやりました。

 「もう、ないかしら。」
と、コペル君が見廻したときでした。さっきスポンジボールの転がっていた近くに、ポツリと芽を出している、草花らしいものが眼に入りました。

  「そうだ。あすこに、まだ一本ある。」
 コペル君は、さっそく、それを掘り出しにかかりました。
 だが、掘りはじめて間もなく、コペル君は意外なことに出会いました。その草は、どんなに深くとも、五センチと土をかぶってはいまいと思われたのに、どうして、どうして、五センチ掘っても、七センチ掘っても、まだ根は出て来ないのです。ザクリザクリ、とコペル君は、シャベルを土に突っこんで、その草のまわりに穴を掘ってゆきました。

 穴はだんだん深く大きくなってゆき、コペル君の足もとには、しめッぽい土が次第に高く積みあがってゆきます。大きな檜葉の下蔭の薄暗い穴の中には、先の方だけちょっと緑色をした、蒼白い茎が、心細そうにのびています。十センチ、十一センチ、十二センチ、コペル君は熱心に掘り進みました。しかし、根はなかなか出て来ませんでした。

 十五センチを越える頃には、コペル君も興奮して来ました。この一本の小さな草が、こんなに深い地の下から、土をくぐって地面までよくも頭をもちあげて来たものだ。コペル君は、いつの間にか、小さな草に感心し出していました。

 二十センチになっても、まだ根には達しませんでした。コペル君は、あきれたように、そのヒョロヒョロとのびた、蒼白い茎を見つめました。それは、草花というよりは、ねぎにそっくりでした。それにしても、これだけのびるのに、いったい何日かかったことでしょう。少なくとも十日や十五日ではないにきまっています。して見れば、まだ地面に雪の残っていた時分から、この草は、春の近づいたことを知って、そろそろと地の底で芽を出しはじめたに相違ありません。

そして、暗い土の中で、少しずつ、少しずつ、休まずにのびて来て、やっとこの頃、この地上に顔を出したのです。なんて辛抱のいい奴だ! とコペル君は、心の中で叫びました。誰も見ていないところで、黙ってこれだけの努力をつづけていたのかと思うと、コペル君は、何か胸にせまるものを感じました。この奇妙な形をした草は、もうコペル君にとって、どうでもいい相手ではありませんでした。

 「よくやった。よくやった。」
 コペル君は、声をかけてやりたい気持で、また、熱心に土を掘りつづけました。

 とうとう根があらわれました。それが黄水仙の球根であることは、コペル君にも、すぐわかりました。どうして、そんな深いところに、黄水仙の球根がまぎれこんだのか、それは、コペル君にはわかりませんでした。しかし、そんな深いところに埋められてしまっても、この球根は死んでしまわなかったのです。

そして、命のある限りは、厚い土にへだてられながら、やっぱり太陽の熱を感じ、春が近づけば芽を出して、明るい地上に向かってのびてゆかずにはいられなかったのです。

 コペル君は、その奇妙な水仙をつるしあげて見ました。三十センチばかりあるところを見ると、地土で花をつけている仲間と、ほぼ同じくらいの背丈です。だが、誰が見ても、水仙とは見えません。

白い茎の部分は、どう見てもねぎで、ただ、ちょっぴりと緑に染まっている頭だけが、そう思って見れば、水仙の葉の頭でした。コペル君は、このおどけた恰好の水仙を、ほかの仲間が、肩を並べて日に当たっているそばへもっていって、植えてやりました。深く穴を掘って、白い部分は、やっぱり土の下にかくしてやりました。

 ほかの黄水仙たちは、まるで洗ったようにあざやかな緑色の葉を、すいすいといい形にのばして、濃い黄色の花を半ば開きかけて立っています。そのわきに、ちょこッと頭を出している、この植えたての水仙を見ていると、コペル君は、たまらなく、いじらしく感じました。コペル君には、土の中にかくれている、あの蒼白い茎が、土をとおして眼に見えるようでした。

 「そうだ! あんな深いところからでも、こいつはのびて来ずにはいられなかったんだ。」

 コペル君は、もう一度、それを思いました。のびて来ずにはいられなかった力は、わずか三センチばかりの緑の中にもみなぎって、小さなつつましい、この草に、しゃんと頭をもちあげさせているのです。だが──
 だが、眼をあげて見ると、その延びて来ずにいられないものは、楓の中にも、八つ手の中にも、どうだんの中にも、──いや、あらゆる草木の中に、いまや一せいに動き出しているのでした。

 コペル君は、泥だらけの手を払うことを忘れて、暖かな日光の中に立ちつくしました。胸が気持よく高まっています。

 延びてゆかずにいられないものは、コペル君のからだの中にも動いているのでした。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p275-280)

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 植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。かりに人間が大きく力づよく生まれたとしても、その体と力をもちいることを学ぶまでは、それは人間にとってなんの役にもたつまい。かえってそれは有害なものとなる。
 
ほかの人がかれを助けようとは思わなくなるからだ。そして、ほうりだされたままのその人間は、自分になにが必要かを知るまえに、必要なものが欠乏して死んでしまうだろう。
 
人は子どもの状態をあわれむ。人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない、ということがわからないのだ。

 わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。
 
 この教育は、自然か人間か事物によってあたえられる。わたしたちの能力と器官の内部的発展は自然の教育である。この発展をいかに利用すべきかを教えるのは人間の教育である。わたしたちを刺激する事物についてわたしたち自身の経験が獲得するのは事物の教育である。
 
 だからわたしたちはみな、三種類の先生によって教育される。これらの先生のそれぞれの教えがたがいに矛盾しているばあいには、弟子は悪い教育をうける。そして、けっして調和のとれた人になれない。それらの教えが一致して同じ目的にむかっているばあいにだけ、弟子はその目標どおりに教育され、一貫した人生を送ることができる。こういう人だけがよい教育をうけたことになる。
 
 ところで、この三とおりの教育のなかで、自然の教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。事物の教育はある点においてだけわたしたちの自由になる。人間の教育だけがほんとうにわたしたちの手ににぎられているのだが、それも、ある仮定のうえに立ってのことだ。子どものまわりにいるすべての人のことばや行動を完全に指導することをだれに期待できよう。
 
 だから、教育はひとつの技術であるとしても、その成功はほとんど望みないと言っていい。そのために必要な協力はだれの自由にもならないからだ。慎重に考えてやってみてようやくできることは、いくらかでも目標に近づくことだ。目標に到達するには幸運に恵まれなければならない。
 
 この目標とはなにか。それは自然の目標そのものだ。これはすでに証明ずみのことだ。完全な教育には三つの教育の一致が必要なのだから、わたしたちの力でどうすることもできないものにほかの二つを一致させなければならない。しかしおそらく、この自然ということばの意味はあまりにも漠然としている。ここでそれをはっきりさせる必要がある。
 
 自然とは習性にほかならない、という人がある。これはなにを意味するか。強制によってでなければ得られない習性で、自然を圧し殺すことにならない習性があるではないか。
 
たとえば、鉛直方向に伸びようとする傾向をさまたげられている植物の習性がそれだ。その植物は、自由にされても強制された方向に伸びつづける。しかし、樹液はそのために未来の方向を変えるようなことはしない。そこで、植物がさらに伸びていくと、その伸びかたはふたたび鉛直になる。
 
人間の傾向も同じことだ。同じ状態にあるかぎり、習性から生じた傾向をもちつづける。しかもわたしたちにとってこのうえなく不自然な傾向をもちつづけることもある。しかし、状況が変わるとすぐに、そういう習性はやみ、ふたたび自然の傾向があらわれる。
 
教育はたしかにひとつの習慣にほかならない。ところで、教育されたことを忘れたり、失ったりする人があり、またそれをもちつづけている人もあるのではないか。このちがいはどこから生じるのか。自然という名称を自然にふさわしい習性にかぎらなければならないというなら、右のようなわけのわからないことを言わなくてもいい。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p24-26)

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◎人の成長する力、もと≠ヨ回復しようとする力に自信がもててこそ「閉塞感」を乗り越える行方もみえる、と。