学習通信040520
◎「何ごとのおはしますかは知らねども」……小泉政治。

■━━━━━

 世界をゆるがすような大きな歴史的事件が足許から起ころうとしているのに、ペトログラードの市民生活は、芝居も音楽会も変りなくつづけられていて、小官僚の妻君たちは、お茶を歎みなから、暮しにくくなったことをこぼしあっていた。そして、同じころ日本人は、大戦による好景気に酔い痴れていて、ロシア革命を全く無知のまま迎えた。このことは、半世紀以上の前の話とはいえ、いまも嗤えないことではないかと思う。

ひょっとすると、いつの時代でもこんなものかもしれぬ、とさえ思われることである。現在の私たちについて見ても、現実と私たちとの間には、知らないうちに何かビニールの膜のようなものが出来ていて、現実の真実の姿がなかなか眼に映らないのである。形勢が重大になって来て、現実の方がこの膜を破って姿をあらわすまで、私たちは気づかずにいるか、或いは多少気づいても直視しようとはしない。

そして、いよいよ眼がそむけられなくなったときには、もはや簡単には処置しようもなくなっている、という段どりは、現に私たちが、一九六〇年代の日本経済の高度成長を経て、深刻な公害・都市問題・インフレーションに直面するに至った過程で、実際に経験して来たことであるが、それは、かつて、五・一五事件や二・二六事件を経て、日本が完全に軍国主義に制圧され、軍部独裁の体制ができあがっていった過程でも、私たちが痛い思いをもって経験したことなのである。

私たちにとっては「いつか来た道」なのである。私個人は、その中にいて少しは努力して自分の眼を拭って来たわけであるが、それでも官憲の服にかくれて海外の本を取りよせるという、普通でない努力をしなければならなかった。その私にとっても、決定的であったのは、本による知識よりも、世界恐慌後の内外の暗い情勢がもはや覆うことかできなくなり、否応なく、その無気味な姿が眼に入って来たことであった。

実際に日常の生活に衝撃を与えるような事件が起こるとか、そのような状況が発生しない限り、大多数の人々は自分たちの日常に直接かかわりのないことに眼を配ろうとはしないのが常である。

 このような社会意識については、社会学者によって、情報論とか、マスコミュニケーション論とか、知識社会学とか、いろいろな角度から研究されていて、私たちはすでに多くのことを教えられているけれど、日本が大きな産業国家となり、大衆社会といわれる今までになかった社会の在り方が私たちの現実となってからは、上記のような傾向に伴う危険が、かえって五十年前よりも巡かに大きくなって来ているということは、社会学の素人である私たちにも、眼をそこに向けさえすれば明らかな眼前の事実となっている。

大衆に関する研究がいくら進んでも、大衆は大衆に関する本などはけっして読まない。この種の研究が利用されるとすれば、大衆を操作する必要のある人々によってである。いうまでもなく、このような操作にとって必要且つ有力な手段は、新聞・雑誌・ラジオ・テレビ、そのいずれも大衆の手中にはなく、大衆は受容するだけでこれを管理することはできない。結局、大衆は大衆を操作しようとする人々にとって都合のよい物の見方、考え方、感じ方に巧みに導かれ、慣らされてゆく。

今日では、このこともすでに言い古されたことに属するが、しかし論壇で言い古されたからといって事実が取り除かれたわけではない。同時代のことが、今日、私たちの間で、どれだけ正確に眼に映り、どれだけその意味が理解され、どれだけ狂いのない評価を受けているといえるのだろうか。リードのかつて報道したペトログラードの小官僚の──サラリーマンの──妻君たちは、今日の巨大な団地群に、いまでも生きており、いまでは何万倍、何十万倍に増えている、と思うのは私の錯覚であろうか。

 この危険は、日本の場合には、国民が無知の状態に置かれるという危険だけに留まらなかった。国民を無知の状態に置こうと努める者自身が、いつのまにか恐るべき無知に陥っていったのである。──「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」という言葉は、保守的な為政者を批評する場合に、その態度を象徴するものとして、よく引用される言葉である。

俗解ではあるが、情報を為政者だけの手に独占しておいて、民衆には公開しようとしない態度や方針を指してこう呼んでいる。言論・報道の取締りについて言えば、正確な情報は為政者だけが握り、行政上都合の悪い情報や政策上秘密を要する情報は秘匿しておくために、「民をして知らしめない」のである。

いずれにせよ、「知らしむべからず」ということには「為政者だけは知っている」ということが前提になっているのである。ところが、社会主義の取締りにおいては、社会主義をもって国体と相容れぬものとみなしてこのイデオロギーそのものを国民から遮断しようというイデオロギーが、取締りの政策の根源にあった。

いうまでもないが、「国体と相容れぬ」ということは、第二次大戦の終末まで、絶対の断罪であった。そして、国民にとって国体とは「何ごとのおはしますかは知らねども」という非合理的尊崇の対象であり、社会主義は──特に共産主義は──この国体の対極のものとして、やはり、「何であるかはわからないが」憎むべきもの、厭うべきものとして受けとられていた。

社会主義者を指す「主義者」という言葉は、私の学生時代まで通用していた日常語であるけれど、それを口にする場合にこの言葉に籠められていた軽蔑と嫌悪の感情を、私はいまも忘れない。誠実で温厚で親切で、何事についても思慮の深い申し分のないように見える人柄の人でも、その例外ではなかった。子どもであった私は、いくぶんの奇異を覚えながら、「何ごとのおはしますかは知らねども」この嫌悪の感情を吹きこまれていた。このようにして、肯定が非合理的なものであると共に、その反対物の否定も非合理的になっていたのである。

社会主義に対する否定は、否定する者が、これを理解し認識した上で行う理性的な否定ではなかった。明治以来、代々の政府が、社会主義を君主制に対する危険なバクテリアと見なして、ペストやコレラに対する防疫と同じように、その撲滅を図り、海外からの侵入を阻止していた。この心理は、社会主義運動を取り締まる人物を支配し、為政者たちをも虜とする。

彼らは取り締まりつつ、取り締まるものを理解せず、これに伴う言論・報道・出版の自由の制限は、もはや、真実を自分だけに独占して都合の悪いものを民衆に知らせないためではなく、彼ら自身が真実を知らず、彼ら自身が盲目に陥りつつ行う全面的な排除となっていたのである。

 このような非合理も、国内の政策としては、力さえあればそれを強行してゆけた。しかし、問題が国際化すると共に、この非合理的否定が、彼ら自身に対する手きびしい否定となって跳ねかえって来た。──一九一七年、ロシアに革命が起り、初めて社会主義の政権が地上に出現した。日本の指導者たちは、この事件の世界史的意味を理解することができず、この革命の本質を把握することができなかった。

彼らは、ひたすらにこの新しい政権の崩壊を期待した。彼らには、帝制の顛覆(てんぷく)が直ちにロシアそのものの全面的崩壊と受けとられ、「過激派」の指導するソヴエト政権の下にロシアが新たな強国として復活するなどとは、夢想もしなかった。彼らは、その崩壊に乗じて沿海州を手に入れる野望さえ抱き、コルチャクを支援してシベリアヘ出兵した。この野望は聯合国の手で押さえられたが、ソヴエト・ロシアに対する認識は正されなかった。

そして、重大な、取返しのつかぬ情勢判断の誤りがそこから生まれた。──革命に対する彼らの無理解が、中国に関しても、同じ誤りを犯させたのである。日本の指導層は、中国における民族主義の力を理解せず、まして、中国共産党がその民族主義を代表していたことを理解しなかった。中国共産党員を「共産匪」と呼び匪賊の一種と見なしていた。そして、共産主義と民族主義との結合から生まれる六億の人民の強大な抵抗力を考慮することを知らないまま、彼らは日本を日中戦争の泥沼に突入させてゆき、次いで、引きずられるように、太平洋戦争にのめりこんでいった──。

──略──

 人は、或いはいうかもしれない──「それは、リードがすでに共産主義者の思想にとりつかれていたからではないのか。だからこそ、あの時期にこれを人類史上最大の事件の一つだと評価し、十一月七日の決起を世界史的重要性をもつなどと考えることができたのではないか。

それは、彼の見識というよりは、イデオロギーによる決まり文句だったのではないか」と。たしかに、そう疑われるほど、私たちの周囲には、この種の決まり文句が氾濫している。なんの感激もなく、なんの実感も伴わずに、この種の言葉が、たやすく口にされ、聞く方ももはや、それを怪しみもしない。

しかし、この本のドイツ語版に附いていたカルル・レラデックの解説によれば、リードの場合には、むしろ逆であった。リードがボルシェヴィキーを支持するようになったのは、彼が十月革命を見た後であり、見たからであったという。

それまでは、社会主義的傾向の強い一進歩主義者に過ぎなかった彼が、はっきりとボルシェヴィズムの立場に立ち、政治活動をも開始するようになったのは、その後のことだったのである。

『つい昨日のこと』(Only Yesterday, by F. L. Allen)という考現学的な本には、アメリカにおける当時の気違いじみるほどの反共的風潮が詳しく紹介されている。リードのボルシェヴィキー支持は、けっして彼にとって有利ではなかった。ハーヴァード出身者に似合わしい行動ではなかった。知人たちにも不審に感じられたのであろう。

彼は友人から「なぜ、ボルシェヴィキーなんか支持するのか」という質問を受けた。そのとき、彼は「あのロシアの崩壊状態の中で、建設的な綱領をもち、しかもそれを実施する力をもっていたのは、あの連中だけだったではないか」と答えたそうである。観念ではなく現実が、彼を説得し、彼の価値感を変えた。民衆の味方という立場以外には、特定な政治的立場によって拘束されず、イデオロギーによる固定的な見方にも捉えられなかったことが、却って彼を重要な真実に近づけたのであった。

私は、ラデックの文章の中で、リードのこの応答を読んだとき、いかにもアメリカ人らしいプラグマティックな考え方だと思いながら、そう言っただけでは済まされないものをこの答えの中に感じたのを、いまも忘れない。そのころ、日本では、マルクス主義の世界観や歴史観の洗礼を受け、それだけで「実践」へ飛びこんでゆく青年たちが多かった。

そして「理論闘争」は、彼らの好む主戦場であった。もしも、彼らになぜボルシェヴィキーを支持するのか、と質問したならば、滔々(とうとう)と数千言の返事が返って来たに違いないが、恐らく一人としてリードのような直截な返事をする者はなかったろうと思う。政治的行動はあったが、一つの政党を支持するか、否かを、その綱領とそれを実現する実力とによってテストして決定するという、成熟した思慮は、そこには見られなかった。

それには、それだけの理由があったし、成熟した思慮を二十歳を越したばかりの青年に求めるのは、無理かもしれない。しかし、この未成熟をいつまでも脱することができないならば、革新政党は、いつまでも世界観政党として留まり、青年たちは挫折感を繰り返し、理論がいかに精緻になり尖鋭になっても、現実を動かす力には転化しないであろう。リードが、当時の私などに比べても、マルクスをそれほど読んでいたとは思えなかっただけに、この話は、私の心に深く残ったのである。

肝要なのは現実であった。現実を明晰な光の中に照らし出し、現実を捉え、現実を変えてゆくためにこそ、理論は欠くことができないのであった。同時に理論は、それに堪えるか否かを、絶えず現実によって検証されねばならないのであった。その現実に、──リードの眼は喰いこんでいた。私の眼は、喰いこんでいるとはいえなかった。
(吉野源三郎著「同時代のこと」岩波新書 p22-32)

■━━━━━

知識と認識のちがいはと問われて

「知識と認識とはどうちがうのですか」という質問をうけたことがあります。

 即答しかねました。私の知識の倉庫には、答えの準備がなかったのです。どこかで教わったことがあるとか、何かで読んだことがあるといった記憶もありません。自分でとくに考えたことも、それまではなかったように思います。

 そこで、大急ぎで考えました。「知識」にせよ「認識」にせよ、とくに学術用語というわけではなく、わりに日常的に使われることば、使っていることばであり、とくに私の場合、学習運動という場所に身をおいているだけ、それだけひんぱんに使っているはずのことばで、たぶんその日もいっぱい使ったのでしょう。

その場合、たがいにいいかえのきく同義語として使っているのかといえば、そんな場合もあるだろうけれども、おのずから使いわけている場合もあり、その方がむしろおおいのではないか──では、どのように使いわけているのか、と考えてくると、何となく見当がつくみたいです。

 認識≠ニいう場合には、あることがらについて人が考えて到達した結論だけではなく、なぜそういう結論になるのかという、その結論にいたるまでの過程が視野におさめられているように思う。これにたいして知識≠ニいう場合には、もっぱら結論のところに(そしてしばしばそこだけに)注意がむけられているのではないか」──およそ、こんなことを答えたと思います。

 あとで『広辞苑』を引いてみたら、「認識」の項に、「知識とほぼ同じ意味」としながらも「知識が主として知りえた成果をさすのに対し、認識は知る作用および成果の両者をさすことが多い」と説明されていて、私の答えが見当ちがいではなかったことを知りました。

 でも、なぜ「知りえた成果」だけを主としてさす場合には「知識」といい、その成果にいたる過程をもちあわせてさす場合には「認識」といって、その逆ではないのでしょう?

 文字づらからすれば、知識と認識とは「知」と「認」一字のちがいにすぎません。そして「知」という字と「認」という字の意味のちがいをいくらせんさくしても、知識ということばと認識ということばを私たちがあのように使いわけている──ごく自然に使いわけている──根拠がそこから示されてこようとは思えません。では──と考えているうちに気がつきました。「認識する」とはいうけれど、「知識する」とはいわないし、いえないということに。

 これで、あの「なぜ」に答えることができそうです。そして、知識と認識とのちがいについての質問に、自分なりの認識をふまえた、自分として責任のとれる答えをかえすことができそうです。

「たんなる知識」と「真の知識」

 認識と知識とのちがいについて、もう少しこだわってみたい、と思います。
 クジラは魚類か哺乳類か、という問題を例にとってみましょう。

 A「クジラは魚だよ」
 B「いいや、クジラは哺乳類だよ」

 正しい方に○を、まちがっている方に×をつけよ、といわれたら、あなたはどうしますか?

 もちろん、Aの方に×を、Bの方に○をつけるでしょう。それが正解です。小学生だって、ほとんどがそう答えるでしょう。

 でもそれは、そのように答える小学生のすべてが、クジラは魚類でなく哺乳類にぞくするということを正しく認識している、ということを意味しません。「なぜ?」とたずねてみれば、すぐわかります。なぜクジラは魚類ではなく哺乳類なのか、ときかれて、「本にそう書いてあったから」「先生がそういったから」というふうにしか答えられないことが、しばしばあるにちがいないのです。

 「クジラは魚類ではなく哺乳類だ」という、結論的には文句なしに正しい知識をその子はもっているわけですが、それが「たんなる知識」にとどまっていて、「真の知識」とはなりえていない、というふうに整理してもいいでしょう。

「クジラのお母さんは赤ちゃんクジラをおなかから生む」「クジラのお母さんにはオッパイがあり、赤ちゃんクジラはそのオッパイを吸って育つ」「クジラにはおへそがある」「クジラのくびの骨の数は、キリンのくびの骨の数と同じ(七つ)だ」といったことをあげながら、これらは魚類にはない、哺乳類だけのもつ特徴で、だからクジラは哺乳類なのだ、というふうになってこそ、はじめて「よくわかっている」といえるのではないでしょうか。

「正しい知識」を身につけるだけでなく、それにいたる考え方を身につけることが大事だ、ということです。学習とは、正しい知識を学ぶというだけでなく、考え方を学ぶということを重要な内容としてふくんでいるのだと思います。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p32-36)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎労働学校で私たちが学ぶことの意味を深くとらえよう。

◎「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」は、民もだが為政者もまた、「よくわからない」ことになるのだと。