学習通信040522
◎出来事も見方によっては……

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劇薬としてのフランス革命

 仮説の一:革命二分説
 フランス革命が、偉大であると同時に悲惨であるという二つの顔をもっていたのはなぜなのか、私たちはたいへん難しい問題に直面しました。難しい問題を解こうとするとき、一つの有効な方法として、ある仮説を立ててみるという方法があります。仮説というのは、仮にこう考えてみたらどうだろう、ということです。

たとえば、昔、地球は宇宙の中心にあって動かないものだと思われていました。だが、このように考えていたのでは、惑星の複雑な動きを説明できないという難問が生じました。そのとき、コペルニクスは、地球が太陽のまわりを回っていると考えてみたらどうだろう、という仮説を立てました。この仮説によって、あらゆる天体の動きがみごとに解明されたことは、皆さんもよくご承知のところでしょう。

 フランス革命のこの難問についても、いくつかの仮説が立てられました。そのなかで、一番わかりやすいように見える仮説は、フランス革命を前半と後半に分けて、はじめのうちは良かったが、のちに悪くなったのだ、とする仮説です。ある学者は、この仮説に立って、はじめは正しい道を走っていた自動車が、途中でスリップして悪い道にはまりこんでしまったようなものだ、と考えました。

こういう仮説を、ここでは、革命二分説と名づけておきましょう。悲惨な流血を生んだ恐怖政治が、一七九二年に芽ばえ、九三年に本格化することを考えると、この説は、いかにももっとものように見えます。

 実際、現代のフランス人たちの多くも、この革命二分説を支持しているらしいのです。去る一九八九年に、フランス革命の二百周年を祝おうという計画が立てられたとき、たちまち、あんな流血の恐怖政治を祝うことなどできるか、という反論が出されました。

そこで、フランス革命二百周年の祝賀は、もっぱら一七八九年の「人権宣言」を祝うのだということになりました。革命後半の恐怖政治を祝うのではなく、革命当初の人権宣言を祝うのならよかろう、というわけです。

 しかしながら、この革命二分説では、どうにも説明のつかないことが多すぎるのです。たとえば、当の「人権宣言」について考えてみましょう。一七八九年の人権宣言は、主権が国民にあり、国民はすべて平等な権利をもつことを明らかにしました。主権者たる国民の権利が平等であるならば、当然、すべての国民が参政権をもつという普通選挙が採用されるべきでしょう。

ところが、革命の前半では、一定の財産をもつ人だけに選挙権を与えるという制限選挙制がとられました。普通選挙が採用されたのは、革命が恐怖政治に向かおうとする一七九二年から九三年にかけてのことでした。また、権利の平等にそむく領主の特権(領主が農民から対示を徴収する権利)が完全に廃止されたのも、一七九三年になってからのことでした。

さらに、基本的人権の原理を推し進めて、人権のなかでも最も重要なものとして生存権を保障すべきだと主張したのは、さきに触れたように、恐怖政治のリーダーであるロベスピエールでした。そうだとすれば、前半は良くて後半に悪くなったという革命二分説は、どうも成り立ちにくいのです。

 仮説の二:ブロック説と劇薬説
 いまのべた例からもわかるように、一七八九年に掲げられた革命の原理は、むしろ、恐怖政治の始まる九三年になってから完成されたらしいのです。したがって、フランス革命は、二つに分けることのできない、ひとまとまりであると考えるほうがよいのではないでしょうか。

クレマンソーというフランスの政治家は、一八九一年に、「フランス革命は一つのブロック(かたまり)なのだ」と述べましたが、この仮説、つまり革命ブロック説のほうが当たっているように私には思われるのです。

 フランス革命がひとかたまりのブロックだとすれば、革命の偉大と悲惨は、そのブロックの二つの側面であり、いわば、一枚のメダルの裏表のようなものだということになります。でも、皆さんは、一つのかたまりである革命が、偉大であると同時に悲惨でもあるなどという矛盾した現象を理解しにくいでしょうね。そこで、私は、この矛盾した現象を説明するために、ブロック説をもう少し進めて、フランス革命は一つの劇薬だったのだ、という仮説を立ててみたいと思います。

 劇薬というのは、「序」で書いたように、作用がはげしい危険な薬剤のことでした。つまり、社会を変革するのにきわめて有効でありながら、危険な作用をもあわせ持つ劇薬、それがフランス革命だったのだと考えてみてはどうでしょうか。

 たとえば、いま、がんの治療に用いられている抗がん剤をとりあげてみましょう。抗がん剤は、がん細胞を攻撃すると同時に、正常な細胞をも攻撃して、吐き気や貧血や脱毛などのはげしい副作用をもたらし、ときには患者を死にいたらせることさえあります。この副作用というのは、人間がかってにそう名づけているのであって、抗がん剤にとっては、一つの作用が二つの現われ方をしているだけなのです。

これと同じように、フランス革命は、古い社会を変革する偉大な作用を発揮すると同時に、その作用そのものが恐怖政治の悲惨をももたらしたのだ、と考えてみてはどうでしょうか。

 革命とは劇薬みたいなものだというこの仮説が当たっているかどうか、それを検証することは、次章以下の本書全体の課題です。ただ、ここでは、この仮説がそれほどとっぴなものではないことを知っていただくために、フランス革命の二つのシンボルをとりあげてみたいと思います。

 ラ・マルセイエーズ
 皆さんは、フランスの国歌ラ・マルセイエーズをお聞きになったことがありますか。この歌は、一七九二年、革命を倒すために侵入してきた敵軍にたいして、義勇兵が出陣するときに歌いだしたもので、いわばフランス革命のシンボルです。

この歌は、一七九五年に国歌になり、革命後の王政復古で廃止されましたが、第三共和政のもとで一八七九年に再び国歌になって今日に至っています。この革命の歌は、単にフランスの国歌であるだけではなく、自由のための戦いの歌として、国境を越えて広く親しまれてきました。

 第二次大戦後まもなく日本で公開されたアメリカ映画「カサブランカ」(一九四三年製作)は、たびたびリバイバルで上映されたりテレビで放映されたりしましたから、ご覧になった方も多いでしょう。大戦中の北アフリカのカサブランカを舞台に、恋とレジスタンス(ナチスヘの抵抗運動)の織りなす物語です。

その映画の一つのクライマックスはこうでした。ナチスの手を逃れてヨーロッパ各地からカサブランカに来た人びとが酒場に集まっていると、駐留ドイツ軍の一団がナチスの歌を合唱し始める。それを見て、潜行中のレジスタンスの闘士が「ラ・マルセイエーズを!」と合図をすると、酒場の楽団の演奏に合わせて、国籍もさまざまな客たちがいっせいにラ・マルセイエーズを高唱し、ナチスの歌をかき消してしまいます。

 このように、フランス革命の歌ラ・マルセイエーズは、世界中で自由と解放の歌として愛唱されています。しかし、その歌詞たるや、まことに血なまぐさいものなのです。

起てや祖国の 健児らよ、 栄えある日こそ 来たるなれ、
われに刃向かう 暴虐の、 血染めの旗ぞ ひるがえる、
君よ聞かずや 野に山に、 敵兵どもの 吠えるのを、
わが同胞を 殺さんと、 奴らはわれに 迫り来る、
いざ武器を取れ 市民たち! 隊伍を組めや いざ行かん!
敵の汚れし 血潮もて、 わが田の畝を潤さん。

 自由のための戦いの歌は、同時に、革命に敵対する者を殺し尽くせという憎しみの歌でもあります。ですから、最近のフランスでは、こんな血なまぐさい歌は、いまのヨーロッパ連合(EU)の時代には国歌としてふさわしくない、という意見が有力になっているほどです。ここでは、自由を求める革命が、同時に、革命の敵にたいする憎悪をかきたてるという点に注意しておきましょう。

 その、敵にたいする憎悪が、外敵にたいしてだけではなく、国内の敵にたいしても向けられる場合にはどうなるでしょう。そう、ギロチンです。ラ・マルセイエーズとギロチンは、意外に近い距離にある、──というより、同じ情熱の裏表なのです。

 ギロチン
 ギロチン(正しくはギヨチーヌ)は、皆さんもご存じの断頭台で、いわば恐怖政治のシンボルです。パリの革命広場(いまのコンコルド広場)にすえられたギロチンでは、国王ルイ一六世や王妃マリ・アントワネットをはじめ、ラヴォワジエのような罪なき犠牲者もたくさん殺されました。一七九三年末に、中部フランスのムゥランという町に設置されたギロチンには、つぎのような銘文が記されておりました。

 アリストクラートよ、富裕者よ、エゴイストよ、人民を飢えさせる者よ、ここに戦慄せよ! わが刃はつねに休むことなし。

 アリストクラートというのは、貴族をはじめ、デモクラシーに反対する者という意味ですし、エゴイストというのは、自分の利益だけをむさぼる者という意味ですから、この銘文は、要するに、革命をさまたげる者はみなごろしにするぞ、ということです。もともと、革命というのは、それまでの社会をひっくり返してしまおうという運動ですから、国内にもそれに反対する人びとがたくさん現われるのはいわば当然です。

しかも、のちに第四章でのべるように、革命をどのように進めるかという問題をめぐって、革命派の内部でもはげしい争いが生じました。ギロチンは、革命を徹底的に射し進めようとする人びとが反対派をみなごろしにするために用いたおそるべき武器でした。「敵の汚れし血潮もて、わが田の畝を潤さん」というラ・マルセイエーズの歌が国内の敵に向けられたとき、このギロチンの銘文になったのだと言ってよいでしょう。

 ラ・マルセイエーズは、国外の敵にたいするフランス国民の団結を呼びかけます。革命によってあらたに生まれた共和国の主要な標語の一つは、「単一不可分の共和国」、つまり国民の統一と団結でした。ところが、革命の敵にたいする憎悪は、国内において、ギロチンが象徴しているように、国民の間に深い亀裂をもたらしました。

その亀裂は、その後ながいあいだ、おそらくは今日にいたるまで、修復されることができないほどの深い傷あとを残しました。フランス革命は、自由のための戦いという偉大な事業であったと同時に、その戦いそのものがギロチンの深刻な悲惨を生んだのです。

 ラ・マルセイエーズの明るい歌声の裏面が悲惨なギロチンであったとすれば、この偉大と悲惨をともに備えたフランス革命を、一つの劇薬にたとえることもまた許されるのではないでしょうか。

これから、私たちは、フランス革命が一つの劇薬であったという仮説を検証するために、フランスではなぜ劇薬が用いられたのか(第二章)、劇薬はどんな効果をあげたのか(第三章)、劇薬の痛みについて考える(第四章)、という順序で、具体的な検討を進めたいと思います。どうぞ、そのつもりで読み進んでいってください。
(遅塚忠躬著「フランス革命」岩波ジュニア新書 p28-37)

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第三篇 社会主義

一 歴史的なこと

 〈序論〉では、革命を準備した一ハ世紀のフランスの哲学者たちが、現存するすべてのものについての唯一の審判者としての理性に、どのように訴えたかを見た。〈一つの理性国家を、一つの理性社会を、打ち立てよう、永遠の理性に矛盾するものは、すべて容赦なく取り除こう〉、というのであった。

この〈永遠の理性〉というものが、現実には、ちょうどそのころ発展をとげてブルジョアになりかけていた中産市民の知力を理想化したものにほかならなかったことも、同様に見てきた。

だから、フランス革命がこの〈理性社会〉とこの〈理性国家〉とを実現したとき、〈その新しい諸制度は、以前の状態に比べれば大いに合理的ではあっても、けっして絶対的に理性的なものなどではない〉、ということが明らかになったわけである。

〈理性国家〉は完全に破綻してしまっていた。ルソーの〈社会契約〉は、恐怖政治時代というかたちで実現されていた。

そして、自分自身の政治的能力に自信をなくした市民階級は、この恐怖政治時代からのがれて、はじめは総裁政府の腐敗のなかに、そして最後にはナポレオンの専制政治の保護のもとに、逃げ込んだのであった。

約束された永久の平和は、急転して、はてしない征服戦争になっていた。〈理性社会〉の運命は、これよりましではなかった。

貧富の対立は、解消して全般的な幸福・繁栄となるどころか、──この対立の架け橋の役をしていたツンフトその他の特権と、この対立を緩和していた教会の慈善施設とが廃止されたために、いっそう激しくなっていた。

資本主義を基礎とした産業の隆盛によって、労働する大衆の貧困と悲惨とが社会の存立条件の一つにまでなった。

犯罪の件数は年ごとにふえた。前には白昼平然と行なわれていた封建的悪徳は、根絶はされなかったけれどもさしあたっては奥のほうへ押しやられていたが、そのぶん、これまでただこっそりやられていただけのブルジョア的悪徳が、それだけさかんにはびこってきた。

商業は、ますます詐欺になっていった。革命の標語であった「友愛」は、競争の策略と妬みとなって実現された。力ずくの抑圧の代わりに買収が現われ、社会的権力の第一の挺子としての剣の代わりに貨幣が現われた。初夜権は、封権領主からブルジョア的工場主へ移った。

売淫は、これまでなかったほどに広まった。婚姻そのものは、あいかわらず、売淫の・法律で認められた形式、売淫の公けの隠れみの、であったし、そのうえ、おびただしい姦通で補足されていた。

要するに、啓蒙思想家たちのきらびやかな約束に比べて、「理性の勝利」でつくりだされた社会的および政治的諸制度は、人をひどく幻滅させる戯画であることがわかったのである。まだ欠けていたのは、ただこの幻滅を単語する人びとだけであった。

そして、このような人びとは、世紀の変わり目にやってきた。

一八〇二年にサンーシモンの『ジュネーブ人の手紙』〔『同時代人へあてたジュネーブの一住民の手紙」(一八〇二年執事、一八○三年刊)〕が現われた。

一八〇八年には、フーリエの最初の著作〔『四運動および一般運命の理論』〕が現われた、──彼の理論の基礎はもう一七九九年にはできあがっていたけれども。

一八OO年一月一日には、ロバート・オウエンがニュー・ラナークの管理を引き受けた。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p121-123)

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◎「同じ情熱の裏表」という解釈は、日本の東南アジアへの侵略を正当化する「つくる会」の主張に、アメリカのイラク戦争の正当化にも……しっくりとはいかない。

◎歴史を科学的社会主義の目でとらえる。
学習通信040520 と重ねてください。