学習通信040528
◎文化を身近に……。

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武士道を知っていますか

「武士道」ブームである。火をつけたのは映画「ラストサムライ」。ハリウッドから武士道精神を称賛されて、日本人は改めて「潔さ」の美学に目覚めたのか。その実相を探る。

 アテネ五輪で初の金メダルをめざす日本のシンクロナイズド・スイミング。チームのフリールーティンのテーマは、「武士道」だ

米映画が火つけ

「『ラストサムライ』を見て、これだと思った」。井村雅代コーチが言う。「潔さ、後のことを考えずに向かっていく姿勢、ひるまない心。今の日本で忘れられている価値」。映画のおかげで世界中に知られた「サムライ・スピリット」の体現が、高い評価を得られるよう期待している。

 関連書籍も売れている。五千円札の顔≠ノもなっている新渡戸稲造の「武士道」(矢内原忠雄訳で岩波文庫)は、これまでも年間一万数千部と安定していたが、映画が話題になった昨年十一月以降だけで約四万部を重版、累計で五十六万部に達した。

 三笠書房の現代語訳「武士道」(奈良本辰也訳)も一九八三年の出版以来八十三万部を刊行、そのうち二十一万五千部が昨年後半からの重版だ。四月には宝島社が対訳版のムック「NITOBE武士道を英語で読む」を発行した。

 八重洲ブックセンター(東京・中央)は、昨年十二月から四階の歴史書売り場に加え、一階にも武士道コーナーを設けた。「映画のブームが一巡したあともビジネスマンに根強く読まれている」と担当者。

 雑誌でも武士道特集が相次いでいる。「中央公論」(中央公論新社)は六月号で「武士道と日露戦争」を掲載。間宮原編集長は「近代国家が形成される過程で、伝統的なメンタリティーが果たした役割に光を当てている」と狙いを語る。

自信回復の助け

 五月号で「武士道を貫いた男たち」を特集したのは「歴史街道」(PHP研究所)。作家の童門冬二氏と評論家の森本哲郎氏の対談で、日本人が忘れかけている「行動の美学」に迫った。六月には河出書房新社が季刊誌「文芸」の別冊で「武士道入門(仮題)」を発行する予定だ。

 「ラストサムライ」は、明治政府に軍事顧問として雇われた米軍人(トム・クルーズ)が、新政府に反逆する参議の勝元(渡辺謙)一派を討伐する戦闘中、捕虜になって彼らの村で暮らすうちに武士道に生きるサムライたちに魅了され、一緒になって闘う、という物語。この種のハリウッド作品としては良心的である。

 興行収入は百四十億円に上り、最近の洋画では「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の百七十三億円に次いだ。家族向きのハリー・ポッターに迫る勢いは、当初「百億円」を見込んだ配給側にとっても意外だったようだ。

 「バブル崩壊後、欧米型の合理主義を取り入れても『失われた十年』から抜けられず、日本人は自信を失った。企業不祥事でも、トップの無責任で潔くない態度にうんざりしていた。そんな時に、損得を超えて行動する昔の日本人の精神の輝きが米国人から賛美され、一筋の光明を見いだした」。評論家の室伏哲郎氏は、ブームの背景をこう分析している。
(日経新聞 040527)

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 文化とは、人間、すなわち社会またはそれを構成する個人がつくり出し、かつ享受するものであるから、文化には、つくり出すはたらきと、つくられたものと、享受するはたらきとの三つの面があるわけである。この三者は密接に結びついていながら、それぞれ相互にある程度の独立した面をももっている。そこでこの三者の相互関係を中心に文化の発達が追跡されるべきであろう。

 文化をつくり出すはたらきとは、どのような社会または個人の要求により、どのような社会または個人の活動を通じ、いかなる素材・方法によって文化がつくり出されたか、ということである。つくられたものとは、こうしてつくり出された文化が、どんな性格・構造・役割をもつかということである。

享受とは、そのつくられた文化が、どのような社会または個人によって受け入れられ、役立てられ、さらにつぎの文化をつくり出す上にいかなる貢献をしたか、という問題である。

──略──

 文化史にかぎらず、すべて歴史を明らかにすることは、人間社会の発展のすじ道・方向を明らかにして、将来への正しい進路を探るためである。日本文化史もまた、過去の日本文化の発達の径路を明らかにして、将来の日本文化のよりよき創造のための知識を得ようとする主体的な関心にもとづいて要求せられるものにほかならない。将来への前向きの姿勢をくずすとき、日本文化史は日本の社会に望ましくないはたらきを演ずるおそれもある。

 日本の文化的伝統は、それが価値あるものであるならば、必ず人類文化の発展のために、なんらかの寄与をなすであろうし、またなさしめなければならない。そのためには、私たち日本人は日本の文化的伝統を安易な気持で受けとめてはならないはずである。

 敗戦前の日本では、日本の国家や文化の特殊性が、「国体の精華」とか「日本精神」とかの美名で誇称され、「万邦無比」のものであるかのごとく呼号されてきた。だが、それらは政治的動機から出た、実質的根拠のない、独りよがりの優越観にすぎず、日本文化の創造的発展のためになんの役にも立たないばかりか、むしろさまたげとなるものでさえあった。

「国体」主義・「日本精神」主義の上に立つ日本文化尊重論者は、しばしば特定の発展段階の歴史的産物にすぎないものを日本歴史の古今に一貫する伝統であるかのごとく強調し、その永久の保持を力説することにより、社会の発展にともなう新しい文化の創造にたいし、意識的な妨害を加えることが少くなかった。

とくにかれらは、その所属する支配体制を擁護するために、過去の文化的伝統についても、常に体制側の文化のみを評価し、反体制的な動向を示す文化にたいしては、否定的態度をとるか、またはこれを隠蔽することにつとめたから、かれらの説く日本の文化的伝統なるものは、いちじるしくゆがめられたものであり、ロに伝統の尊重が説かれながらも、日本文化の進歩発展はそれによってかえって困難におとしいれられることをまぬかれなかった。

 戦後には、アメリカの支配下におけるアメリカニズムの横溢によって、古くさい「万邦無比」論はまったく権威を失ったが、これに代る民族文化にたいする健全な評価の態度は確立するにいたっていない。アメリカヘの従属からの独立をさけぶ革新派の提唱した民族文化論も、日本の文化的伝統を的確に再評価する試みに成功したとはいえない。

他方、紀元節や君が代や元号制度の復活などに象徴されているような、復古的伝統主義が失地回復にのりだしてきている昨今、日本の文化的伝統にたいする正しい受けとめ方を確立することは、焦眉の急にせまられているといってよかろう。

 日本の文化的伝統にたいする無関心と忘却とは、私たち現代人の文化的創造活動を根のないものにしてしまう。歴史を媒介としない、空虚な創造というものはありえないからである。ゆがめられない真実の追求という態度に立つ日本文化史の使命はそこにあると思う。

 前にのべた日本文化史のいくつかの課題は、このような使命を達成するために必要な真実の究明を目的とするものといえる。私たちは、まず日本文化史について、そうした真実を明らかにすることにつとめなければならない。

さらに、その真実に立脚しつつ、過去の文化的伝統の中から、私たちがほんとうに誇りうるもの、今日の日本において依然として高い価値を失っておらず、さらに明日の日本の発展のために、さらにひろく世界人類の向上のために貢献しうるもの、その反対に、日本民族の進歩をさまたげてきたもの、今日および今後の私たちの努力によって一日も早く清算されなければならないものを、的確に見わけ、それぞれにふさわしい正当な位置づけを行なうよう努力しなければならないであろう。
(家永三郎著「日本文化史」岩波新書 p4-8)

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 ──文化とはなかなかやっかいなことばなのですが、社会科学の用語としてのかぎり、このことばの主要な用法は、次の三つに整理できる、と私は思います。

 その第一は、人間がつくりだしたいっさいのものをさしていう場合で、「埋蔵文化財」とか「文化遺産」とかいう場合がそれにあたります。

 第二は、社会をかたちづくる人間の諸活動のうち、経済、政治以外の領域を包括的にさしていう場合で、新聞の「文化面」などという場合がそれにあたります。逆に、新聞の文化面であつかわれるような領域、それがここでいう文化だ、といってもいいでしょう。科学、芸術、宗教、教育、スポーツなどのいとなみがこれにふくまれます。

 第三は、社会のなかに(あるいは動物の群のなかに)たくわえられ、世代から世代へと伝えられていく情報(生活の知恵、行動のパターン)をさしていう場合です。たとえば人間の言語は、鳥のさえずりや獣のほえ声とはちがって、このような意味でのもっとも基本的な文化の一つです。ただし、鳥のさえずりや獣のほえ声も、特定のさえずり方、ほえ方が特定の情報を伝える信号として群ごとにきまっている──遺伝的にではなく──場合があり、そういう場合には文化とみなすことができます。

 このように、この意味での文化は必ずしも人間だけに限定されません。宮崎県幸島のニホンザルが「芋洗い文化」を共有していることは、有名な話です。「温泉浴文化」を共有しているニホンザルの群もあります。つまり、この意味での文化は、生物学の概念でもあるわけです。

 ただし、人間以外の動物の場合、文化がはたす役割はそれほど大きなものではありません。人間は、文化が決定的な役割をはたすにいたった唯一の生物です。

 このことは、人間が労働によって生きることを本質とする唯一の生物だということ、人間の先祖が人間になっていったのも労働を通じてであったということと深くかかわっているでしょう。労働は、クモの巣づくりやビーバーのダムづくりとはちがって、道具や機械などの労働手段、つまり人工の手足をもちいてなされるいとなみです。

この労働手段をつくったり使ったりする技術は、労働の発展のなかから生みだされてきた言語とならんで、人間にとってもっとも基本的な文化であり、それなしには人間として生きること自体が不可能な、人間にとってもっとも本質的なものだということができます。
(高田求著「学習のある生活」学習の友 p62-64)

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 私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない。すなわちこの機械は自分で自分のねじをまくように、またこれを壊したり狂わしたりしそうなあらゆるものからある点まで身を守るために、自然から感覚というものを授かっている。私は人間機械のなかにも確かに同じものを認める。ただ、禽獣の行動においては自然だけがすべてを行なうのに対して、人間は自由な能因として自然の行動に協力する、という点がちがっている。

一方は本能によって、他方は自由行為によって、択んだり斥けたりする。そのために、禽獣は、そうすることが自分に利益であるような場合にさえ、自分に指定された規則から離れることができず、人間はしばしば身に損害を招いてもそれを犯すことになる。

こういうわけで、鳩は最上等の肉でいっぱいな鉢の側にいても、また猫は山と積んだ果物や穀物の上にいても、餓え死にするだろう。

どちらも、もしそれを食べてみることを思いついたとしたら、その軽蔑している食物で結構生きてゆけただろうに。そこへいくと、放埓な人間は、熱病や死をひき起すような不節制におちいる。精神が感覚を変質させ、自然が黙っているときにも意志は依然として物をいうからである。
(ルソー著「人間不平等起源論」岩波文庫 p51-52)

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◎「労働手段をつくったり使ったりする技術」は「人間にとってもっとも基本的な文化」……働くことと文化。

◎憲法第25条に「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。