学習通信040530
◎自己責任とはなにか

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イラク人質事件
「お上にたてつくな」は四流国

 東京大学の教職員有志によるイラク人質問題の緊急アピールの記者会見での、代表世話人・醍醐聴(だいご・さとし)教授(経済学研究科)の発言を紹介します。

 人質だった方々は、日本として誇るべき非常に優れた活動をしていました。本来であれば、私たちがたたえるべき方々であるにもかかわらず、なぜか日本に帰ってこられると、自己責任というフレーズでバッシングに
あっています。これは非常に不条理だという気持ちが強くありました。

 自己責任ということでいえば、5人の方々は、ある意味で自己責任を果たしています。5人が、イラクに敵対するどころか、イラクのために身をていして支援の手を差しのべた人たちだという実績が理解されたことが、無事解放に至った大きな要因だったと思います。いうなれば、自分の身を自分で守られた。これは、すなわち自己責任ではないでしょうか。だから、あの方たちは胸を張って日本に帰ってこられるべきだったんです。

 また、3日以内に自衛隊が撤退しなければ人質を殺害すると言われたとき、ご家族が政府に自衛隊撤退も選択肢に入れて救命をお願いしたいとおっしゃったことに対し、国家の政策の変更を求めるとはけしからんという論調がありました。

 国に救いを求めるものがお上にたてつくのはまかりならん、そういうことを言うんだったら自業自得だという論調です。これは、もう四流国、民主主義国家ではない。とても恐ろしいことです。日本の政治の中にそういう体質が残っていたということが、今回端なくも露呈したわけです。

 自己責任を言う人は、危険な所になぜ行くんだといいます。しかし、問題は、なぜイラクが危険になっているのかということです。彼らがイラクで命の危険を感じながらしかやれなくなったのは、日本が、招かれざる客のアメリカに協力している世界で有数の国だとイラク人から見られているからです。その背景を抜きに論点を「自己責任」にずらしてしまうのは、問題のすりかえです。

 深刻なのは、不条理なバッシングが民間ベースではないことです。この程度のことを言っても構わないという、いじめの水先案内的な土壌づくりを政府や政治がやっていることが、私は非常に重大だと思います。
(しんぶん赤旗・日曜日 040502)

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インタビュー 領空侵犯
自己責任で鎖国≠キるな 個人主義とは異質な議論
 中原伸之(前日銀審議委員)

 ──イラクでの日本人人質事件で「自己責任論議」が起きました。

 「国の渡航自粛命令を無視したというが、幕末の吉田松陰は『鎖国令』を破り、下田でペリーの艦船に乗り込み米国密航を企てました。若き松陰は尊皇攘夷(じょうい)を唱えながらも米国を知ろうとした。言いたいのは、国や時代を変えるのは、そうした若いエネルギーということです」

 「当時、開国か攘夷かで国論が二分したように、今回も自衛隊派遣で二分する中での事件。人質にされた方々も、無鉄砲な面とか、用意不十分な点もあったようだが、非難ばかりでは、江戸時代の鎖国心理に逆行しかねません」

 ──人質は「平成の松陰」というわけですか。

 「そこまでは言えないが、イラクの子供を助けたい、イラクの実態を日本に知らせたい、というのは貴重な思い。グローバル化が進む中で、元米国防次官のジョセフ・ナイ氏が指摘した米国の『ソフトパワー(情報力)』は今や分散し、国境も消滅しつつある。テロも、非政府組織(NGO)も、多国籍企業も、その中で動いている。そういう時代に個人はどう行動するのか、政府及び『ハードパワー(軍)』はどう機能するのかを考える上で、彼らの行動は一石を投じたと思います」

 ──自己責任はないと。

 「いや、自己責任は彼らも認めているでしょう。ただ日本での議論は『共同体』に迷感をかけたことへの非難で、欧米流の徹底した個人主義に基づくものではない。集団主義の日本で果たして、社会契約説による政府と国民の関係がなじむのかは疑問です」

 「人質だけに自己責任を問うなら、先延ばしが続くペイオフはどうか。銀行への公的資金注人も不要なはず。国民年金の八兆円の徴収漏れ、政治家の国民年金保険料の未納もある。結局、人質非難のためのご都合主義に聞こえる」

 ──政府には、犯人との交渉能力不足を露呈させられたとの腹立ちもあるのでは。

 「人質解放交渉は、国の当然の義務です。私は政府はできることはやったと思う。しかし、仏ルモンド紙が『志のある青年まで村八分にするのはいかがか』との論旨で批判したように、新しい動きを受け入れない退嬰(たいえい)的な雰囲気が、政府や社会にあるとすると危険です」

 「政府の責任者は『大変だった』『こんなことは二度とやってほしくない』と口々に言いましたね。実際、大変だっただろうが、新約聖書ルカ伝では、放蕩(ほうとう)息子ですら放浪から戻った際、父が歓迎した話があります。指導者たる者は、窮地から脱した人を温かく迎え入れる広い心を持つべきでしょう」
(日経新聞040510)

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潮流

街をいく新入社員とおぼしき若者のスーツ姿や制服姿が、だいぶなじんでみえます。しかし、ことしの新入社員の意識調査(社会経済生産性本部)は、いささか意外でした

▼「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるよう指示された」とき、あなたはどうするか。「指示の通り行動する」と答えた人が43・4%。前年の32%からふえ、過去最高でした

▼これまでは二割台から三割台でした。四割を超えたのは初めて。「できるかぎり避ける」は40・8%(前年46・3%)で、「指示通り行動する」を下回りました。調査の担当者は、きびしい就職活動をへて会社にしがみつこうとする意識の表れ、とにらみます

▼イラク人質事件での「自己責任」論を思い起こしました。与党の政治家は、人質に「反日的分子」の非難を投げつけました。企業社会の若者も、「長いものに巻かれろ」へ仕向けられているのでしょうか

▼しかし現実には、人質の五人のように「人道」や「正義」の理想を忘れない若者は多い。彼らこそが、イラクで日本の信用が地におちないよう救っています。逆に、企業社会では「良心に反する」不正をはたらいた会社が、信用を失っています。良心に恥じない若者の行動をおさえる社会は閉塞感に陥るばかりです

▼上に対し「はいはい」と従うさまが、「唯々諾々」です。大昔の中国、秦の宰相がこんな意味の言葉を残したそうです。「千人の唯々諾々は、一人の志ある人物の直言におよばない」
(しんぶん赤旗 040429)

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現代のことば  佐伯敬思
自己責任≠ニいうこと

 イラクにおける日本人の人質事件を機に「自己責任」論がさかんである。大学の少人数講義で、人質問題についての学生の感想を聞いたところ、人道的見地からテロリストの要求を呑むべきだとするものは一人もいない。政府はテロリストと取引をして救出をはかるべきだ(実際に「取引」があったのかどうかはわからない)というものと、一切の取引をすべきではなく、仮に人質の命が失われても仕方がない、とするものが半々であった。

 後の意見は『自己責任』を取るべきだ、というものであろうが、この議論を支持するものが多いのである。

 むろん、今回の場合、「自己責任」論がでてくるのは、拘束されたうちの二人が民間人のボランティアであり、他の一人もフリーのカメラ・ジャーナリストであり、自らの意思によってこの危険地帯へはいったからである。その上、彼らが、自衛隊のイラク派遣に反対し、反政府的であったということもあろう。世間からの批判を前に、彼らは、「自己責任」を問われることには違和感をもつと述べた。

 この「自己責任」論は、海外のジヤーナリストには容易に理解できないらしい。もっともなことであろう。確かに、退避勧告のだされた危険地帯へでかけるには、よほどの覚悟と準備が必要であり、彼らの覚悟を問うべきではある。

しかし、いかに反政府的であろうと、彼らの生命が脅かされたときには、政府はそれを保全するための何らかの行動をとらざるをえない。もしも、彼らが殺されたとしよう。その場合にも、これは彼らの「自己責任」だからとうそぶいて、政府はいっさい関与しない、などということがあるだろうか。

 この奇妙な「自己責任」論の沸騰の背後には、九〇年代の経験があった。九〇年代のグローバル市場礼賛や構造改革論においては、しきりに「自己責任」が唱えられたからだ。失業しようが、会社が倒産しようが、もはや政府に助けを求めるべきではなく、あくまで「自己責任」を取るべきだ、というのである。個人こそが「責任」の主体だということだ。

 この記憶と類推によって、今回の事件においても、個人こそが責任の主体だとする「自己責任」論がふきだすようにでてきた。失業したことで自己責任を取らされるものがいるのに、イラクなどへでかけた責任は当然取るべきだ、ということである。

 しかし、本当は、グローバル市場や構造改革においても、やはり個人の生命や財産を守る責任を政府は負っているのである。ところが九〇年代には、グローバル市場や世界市民主義やNGO礼賛の風潮のなかで、国家の意味や役割など吹き飛んでしまったのだった。

場違いな「自己責任論」が海外メディアに奇妙にうつるのは、九〇年代の日本の風潮がいかにも「特異」だったからである。そして、実は、この無謀なボランティアも、世界市民主義や脱国家の風潮にあおられた九〇年代日本の「特異」な状況の産物というべきであろう。(京都大学教授・社会経済学)
(京都新聞 040511)

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イラク人質事件の「自己責任」問題 ──斉藤貴男

銃後の思想≠見る思い

 イラク人質事件をめぐる自己責任論議も、ようやく一息ついたかのように見える。政府部内でも一時の興奮は収まったとされ、風向きが変わったと報じる新聞記事も登場した(「朝日」四月二十二日付など)。

 その通りなら結構だ。が、これだけで終わる問題だとも思えない。国内における一連の騒動は日本社会にとって深刻な予兆、否、すでにこの国をファシズムが覆い尽くしつつある証左だと考える。

 そもそも事件の発生直後から、首相官邸では自己責任論どころか、自作自演説が噴き出していた。小泉首相以下の政府高官らは、人質たち自身だけでなく、必死に救出を求める家族たちをせせら笑い、敵視し、警察庁など治安・諜報機関を総動員してまで、彼らを貶(おとし)める世論誘導に怠りなかったという。

 ブッシュ政権の一の子分、虎の威を借るキツネの帝国主義国としての戦争デビューを邪魔する奴らは許せない本音が丸出しだった。いくつものマスメディアが他愛もなく同調し、犯行グループの声明文は日本人の関与を窺(うかが)わせるうんぬんといった推測を、根拠もなく垂れ流した。

 国家には国民を保護する義務があるなどという言説は、どこまでも幻想でしかない。国家が権力中枢に近くない国民のために何事かをするとすれば、それ以上の利益か効果を期待できる場合に限られる。今回なら米軍に救出作戦を依頼し、人質たちが助かっても助からなくても、ホラ憲法のせいで自衛隊は動けない、在外邦人保護のためにも改憲だというキャンペーンが図られかけた気配があったし、その種の利用法はいずれ再び企てられよう。

 国民の保護など幻想のままで結構と主張したいのではない。ただ、小泉政権とは権力というものの本質を露骨に示してくれた、実にわかりやすい政権なのだと言いたい。

 問題は、にもかかわらず、かくもあからさまな政権に多くの人々が怒りもせず、むしろ一体となって人質やその家族らの誹膀(ひぼう)中傷に走った現実である。貧すれば鈍する。

要は人件費の安い海外への製造拠点の移転が奏功し史上空前の高収益を計上するグローバル企業の繁栄の陰で一方的な犠牲を強いられ、食うために上司や行政や、何であれ強者に媚(こ)び、しがみつく日々の鬱屈(うっくつ)、自己嫌悪を、より弱い立場の人間への差別、蔑(さげす)みで晴らそうとする浅ましい心性。あるいは単に、自らは権力の側にいると勝手に思い込んだ勘違いの産物か。

 とすれば今回、犯行グループの要請に従い自衛隊を撤退させてほしいと望んだ人質家族らの政府に従順でない態度が僧まれた割には非国民≠フ形容が用いられず、自己責任が強調された事実は興味深い。それはただ言葉の古さ新しさの問題だけではなく、今日の社会を支配し、善良な人々をやたら攻撃的かつ強権的に変質させてしまっている企業の論理を、そのまま反映していた。

 ところで権力寄りのマスメディアに属する人々の言動に、人質たちへのジェラシーを感じているのは私だけではないはずだ。会社や国家に庇護(ひご)されずに戦場まで出張って行った度胸はカッコよく、うらやましい。

これぞすべてのジャーナリストに共通するに違いない思いを、とはいえ日ごろは一段も二段も格下の存在と見なしてきたフリーライターのごときに認めたくない気分を正当化するためにも、自己責任の四文字は好都合だったのではないか。同業の私自身が彼らには強いジェラシーを覚えているぐらいだから、よくわかる気がする。

 それやこれや、時代のこのような空気を、歴史家たちはファシズムと形容してきたのではなかったか。先の戦争当時とも酷似した銃後の思想≠フ蔓延(まんえん)を、私たちは今、目の当たりにしているのである。

 もっとも批判する側も批判する側で、イラク侵略の当事者であるコリン・パウエル米国務長官の発言まで引き合いに出したがる姿勢はいかがなものか。いかに人質たちの生き方が評価されているからといっても、反戦運動まで虎の威を借るキツネの国のそれらしくなってしまっては恥ずかしい。お互い、権威に寄りかかるのはもうやめにして、自分の言葉で語ろうではないか。個人一人ひとりの、人としての矜持(きょうじ)、たしなみが問われているのだ。(ジャーナリスト)
(しんぶん赤旗 040503)

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◎「今日の社会を支配し、善良な人々をやたら攻撃的かつ強権的に変質させてしまっている企業の論理をそのまま反映して」と。

◎「負け犬・勝ち犬」論争も「企業の論理」の反映ではないかと。