学習通信040601
◎社会主義の創始者たち……@

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サン・シモンの産業主義

 フランス革命のあとに反動の時代がくる。独裁者ナポレオンの登場と失墜、そして一八一五年のブルボソ王政の復古。だがフランス革命の衝撃は一九世紀の思想家たちの意識と行動のなかに生きつづける。「われわれは革命のただなかにある。フランス革命はまだ終わっていない。」一九世紀前半に活躍する革命的思想家たちの合いことばがここにある。

政治革命に実質的・経済的内容をあたえること、政治革命につづく経済革命を遂行すること、これがフランス革命後の思想家たちにあたえられた重大な課題であった。そこに、産業主義の思想をひっさげて登場するアンリ・サン・シモン(一七六〇―一八二五年)の現実的基盤が見いだされる。

 一八一七年の『産業論』のなかでサン・シモンは断言する。「全社会は産業に基礎を置く。産業は社会存在の唯一の保証であり、あらゆる富およびあらゆる繁栄の唯一の源泉である。産業にとって最も好都合な事物の状態は、それゆえ社会にとって最も好都合な唯一の状態である。」富の唯一の源泉を農業に求めた重農主義にさからって、サン・シモンは農・工・商を含む全産業の全面開花を高らかにうたう。産業主義、そこにかれの社会批判の機軸がある。

だからといって、かれは資本主義の賛美者ではない。かれの思想は、一面において資本主義的生産力の増大を容認しながら、半面において資本主義体制を越えたところに未来社会を設定する。そこにかれのユートピアと革命性がみられる。かれは革命後のフランス社会を、産業者階級の立場に身を置きながらするどく批判する。

産業者とは、農・工・商業に従事する国民大衆であり、広義には学者や芸術家もこのなかに含められる。三千万のフランス国民中、二、九五〇万が産業者だとサン・シモンはいう。かれは産業者階級に非生産者階級を対置してこれを批判する。一八一九年に書かれた『組織者』の冒頭にある「サン・シモンの寓話」とよばれる一論は、その痛烈な社会批判によって重罪裁判所召喚の原因となったものであり、かれの思想的立場を鮮明に表現している。

 サン・シモンは、フランスの一流の産業者たちが、ある日、突然いなくなったと仮定してつぎのようにのべる。

 「これらの人々は最も本質的なフランス人であり、最も重要な生産物をあたえる人々であり、国民にとって最も有用な仕事を指導する人々であるから、真にフラソス社会の精華である。かれらはあらゆるフランス人のなかで最も国に有用な人々であり、国に最も多くの光栄をえさせ、国の文明と繁栄とを最も促進する人々である。かれらを失なった暁には、フランス国民は魂のない肉体となるであろう。」

 つぎに一転してサン・シモンは別の仮定にうつる。かれは産業者階級ではなくて、すべての貴族、大臣、高官、聖職者、官吏などを含む二万の名士と、一万人の地代、金利収得者からなる非生産者たちを失なうと仮定する。

「この出来事はたしかにフランス人を悲しませるだろう。けれども国家のうちの最も重要な三万人の名士のこの喪失がかれらにあたえる悲しみは、単に感傷的なものにすぎないだろう。なぜなら、この喪失からは国家にとって何らの政治的損害も生じないだろうからだ。」

 ここでサン・シモンが風刺しているのは、産業者が社会の存続にとって基本的階級だということであり、これに対して、「出生の偶然、へつらい、陰謀またはあまり感心できない行為」によって社会を支配している非生産者階級は、社会の寄生者であり、国民の血を吸うヒルであるということである。このような矛盾、このような人間疎外を生み出している「現在の社会は、真にさか立ちした世界である」とかれは非難する。

かれが批判する有閑階級は、もともとフラソス革命によって打倒されるべきはずのものであった。しかるにフランス革命は、ブルジョワジーの権力を満足させるための暴力と流血に色どられてしまい、真の革命の主体者たるべき産業者階級は、何ら積極的な役割を果たさなかった。ここに革命の不徹底と、それにもとづく封建遺制の存続の原因があるのだとサン・シモンは考える。

それゆえ、「さか立ちした世界」から産業者階級を解放するためには、形式的なフランス革命にかわって実質的な革命が必要である。この革命によって産業者階級は、現実の産業社会において演じている役割に相応する第一の階級、すなわち政治社会の主権者にならなければならない。しかも、その革命はすでに熟している。かれは一一世紀以降より現代にいたるまでの人類の進歩の歴史をあとづけながら、一大革命の接近を予告する。

 かれは、社会発展の原動力を科学と産業に置き、その視角から文明の歴史をくわしく考察したのち、そこにはつぎのような三段階の法則が認められるとする。

すなわち、旧体制としての神学的封建的体制(11−15世紀)、中間的過渡的体制としての形而上学的法律的体制(16─19世紀初め)、そしてこれから開始しようとしている未来体制としての科学的産業的体制がそれである。これはのちにコントがその実証哲学(社会学)の基礎にすえる三段階の法則とまったく同じである。

また、この三段階の法則を、のちにサン・シモンの弟子たちは、組織の時代、危機の時代、組織の時代として図式化した。それゆえ、サン・シモンの位置する現在は危機の時代であり、未来社会は科学と産業、要するに産業者階級の優越する組織の時代であり、また平和と協同の支配する時代でもある。かれはそのような未来社会を純粋産業社会ともよぶ。産業者階級の実質的役割の増大とともに、純粋産業社会に向って一大革命が近づいている。

 一八二二年に、サン・シモンは緊迫感をこめて書く。「一大革命が準備されている。それは勃発に手間どらないだろう。この革命はけっしてさけることも、著しくおくらせることもできない。なぜなら、それは事物の自然から生じたからだ。」

 サン・シモンのいう「一大革命」は、科学と産業の優越する社会への移行を画するものとみるかぎり、歴史上の産業革命を示すものといえよう。しかし、サン・シモンが予想する革命は、単なる経済革命以上のものであり、それは同時に政治や社会の組織変革のみならず、精神構造の変革をも含むものである。この革命の主体は、いうまでもなく産業者階級である。

そして、産業者階級を革命の主体におくことによってサン・シモンは、「自分の腕の労働以外に何らの生存手段を持たない階級の境遇をできるだけ改善」しようと企てる。この目的を達成するために、サン・シモンは革命の原理として産業的平等の原理、管理制度の原理、国際主義の原理および新キリスト教の原理をかかげる。

 産業的平等の原理とは、出生その他あらゆる特権を排除して、各人の能力に応じて仕事があたえられ、仕事に応じて報酬が支払われるという原理である。かかる平等こそ「真の平等」だとサン・シモンは主張する。

ルソーは人権の平等を説き、バブーフは所有の平等を主張したが、サン・シモンは産業的平等によって、基本的にはルソーを受け入れながら、バブーフとは完全に袂を分かつことになる。またサン・シモンは、自由は社会契約の目的ではなくして、各人の科学的産業的能力を支障なく発展させることのなかに存するとのべ、ルソーの政治的原理としての自由ではなくて、社会発展の結果として自由が成立すると主張した。

かれは少年時代に老ルソーをジュネーヴに訪問したともいわれているが、思想的基礎となったのはダランベールであった。

 管理制度の原理とは、国家の本質を権力にではなく、管理制度に求める考え方であって、産業者階級が国家の主権者となることによって、国家の支配者は社会の単なる管理人となり、産業者の利益と意思を代表するだけのものとなる。ルソーの「一般意思」に近い思想がここにみられる。「支配者は社会の管理人にすぎない。かれは社会を被支配者の利益と意志とにしたがって指導しなければならない」とサン・シモンはのべている。

かれの政治組織案によれば、この管理人に相当するものは、産業階級の代表者によって構成される「産業者協議会」である。したがって、権力的支配機構としての国家は消滅し、管理機構としての国家、産業者階級の利益と意思にもとづいて運営される国家だけが残ることになる。サン・シモンのこの主張はきわめて革命的であり、「産業者の自主管理国家」と名づけることもできよう。

 国際主義の原理とは、産業体制の確立には西欧の全人民の協力が必要だとするもので、この考えは、現在のEECの先駆的思想として評価されている。また、産業者の国際的、階級的連帯の主張は、プロレタリアートの国際的団結を説く後年のマルクスにその類似性をみることもできよう。

 新キリスト教の原理とは科学的産業的体制の道徳的基礎をキリスト教的愛の精神にもとめるもので、サン・シモンはこれによって、利己的な現代人の精神構造の変革を企てようとした。

 サン・シモンもまた自由と平等についての独自の見解を根底にしのぼせつつ、産業者階級を疎外する出生の特権からこの階級を解放しようと企てた。かれは産業者の自由な能力の発展を念願し、そのなかで産業的平等を実現し、さらに産業者全体の利益と意思とを代弁する管理国家を構想し、それを国際的規模において実現しようとした。

しかもそのさい、産業者の精神構造の変革をも見のがしはしなかった。このような一大革命が歴史的必然性をもって到来することをかれは予見したのであった。それは一面において、歴史上の産業革命を包含しているかぎりにおいて現実的であり、あるいはブルジョワ的である。しかも半面において、かれの主張が産業革命そのものをストレートに容認するものではないというかぎりにおいて、反ブルジョワ的であり、また一つのユートピアである。かれの弟子たちが社会主義理論の丹精と企業的活動とに分裂する理由もまたこの点にあるといえる。
(坂本慶一著「マルクス主義とユートピア」紀伊国屋新書 p25-31)

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 サン-シモンは、早くもその『ジュネーヴ人の手紙』のなかで、「すべての人間は仕事をしなければならない」、という命題を立てている。この同じ著書のなかで、恐怖政治が無産大衆の支配であったことを、もう知っている。

無産大衆に向かって大声でこう呼びかけている、──「君たちの仲間がフランスを支配していた時代にそこでなにが起こったかを見たまえ。彼らは飢餓を生み出したのだ」、と。

フランス革命をしかし貴族と市民層と無産者とのあいだの階級闘争と解したことは、一八〇二年には、きわめて天才的な発見であった。一八二八年には、彼は、〈政治学は生産にかんする科学である〉、と言明し、また、〈政治学は、経済学にそっくり解消してしまう>と予言している。

ここでは、経済の状況が政治的諸制度の土台であるという認識が、ようやく萌芽として現われているにすぎないが、それでも、人間の政治的統治が物の管理と生産過程の指揮とに変わっていくということが、したがって、ちかごろひどくやかましく言いはやされている〈国家の廃止〉ということが、ここですでにはっきり言明されているのである。

同じく同時代人を越えた卓見をもって、彼は、一八一四年に、連合軍がパリに入城したすぐあとで、さらに一八一五年には百日戦争のあいだに、〈フランスとイギリスとの同盟が、第二次的にはこの両国とドイツとの同盟が、ヨーロッパの繁栄した発展と平和との唯一の保証である〉、と宣言している。一八一五年のフランス人に向かってワーテルローの勝者との同盟を説くのは、確かに、ドイツの教授たちにおしゃべり戦を布告するよりは、少しばかり多く勇気を必要とすることではあった。
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p124-125)

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 現代の社会主義は、その内容からいえば、まず、一方ではいまの社会にゆきわたっている、有産者と無産者、資本家と賃労働者の階級対立の直観から、他方では生産のなかにゆきわたっている無政府状態の直観から生まれた産物である。

しかしその理論的形式から言えば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちがうちたてた諸原則をひきつぎ、さらにおしすすめたものとしてあらわれ、しかもいっそう徹底させたものということになっている。

あらゆる新しい理論がそうであるように、いかに深くその根が物質的な経済的事実のなかにあったにしても、それはまずすでに存在している思想上の素材に結びつかなければならなかった。
(エンゲルス著「空想から科学へ」新日本出版社 p23)

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