学習通信040602
◎人間が育つということH……

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 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。人間はある土地にほかの土地の産物をつくらせたり、ある木にほかの木の実をならせたりする。風土、環境、季節をごちゃまぜにする。犬、馬、奴隷をかたわにする。

すべてのものをひっくりかえし、すべてのものの形を変える。人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない。

 しかし、そういうことがなければ、すべてはもっと悪くなるのであって、わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。

偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。自然はたまたま道のまんなかに生えた小さな木のように、通行人に踏みつけられ、あらゆる方向に折り曲げられて、まもなく枯れてしまうだろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p23)


 自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずはない。わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間としての生活をするように自然は命じている。

生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。わたしの手を離れるとき、かれは、たしかに、役人でも軍人でも僧侶でもないだろう。かれはなによりもまず人間だろう。

人間がそうなければならぬあらゆるものに、かれは必要に応じて、ほかのすべての人と同じようになることができるだろう。

いくら運命の神がかれの場所を変えても、やっぱりかれは自分の地位にとどまっているだろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p31)

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小学校による殺人事件
「小学校が現場」初めて
 昨年までの15年間、未遂含め8件

 警察庁によると、昨年までの十五年間に起きた小学生による殺人事件は既遂四件、未遂四件の計八件。うち福岡と大分両県で起きた二件は、今回の長崎県佐世保市の事件と同様、同級生を刃物で刺した事件(ともに未遂)。しかし小学校が現場となった事件はない。

 最近の小学生による主な殺人事件(未遂も含む)は、五年生(10)が泣きやまない生後三ヵ月のおいに腹を立て、ひもで首をしめ殺害(二〇〇二年、岩手県)▽刃物で自殺を図った六年生(11)が母親に見つかり、とがめられたことから母親を刺殺(二〇〇一年、兵庫県)に▽六年生(11)が同級生の男児を殺害しようと包丁で刺し、負傷させた(同、福岡県)▽二年生(8)がマンションから消火器を落とし、通行中の三年生の女児(9)の頭に当て、死亡させた(九五年、大阪府)──など。

 十四歳未満の触法少年全体でみると、殺人事件(未遂を含む)で補導された人数は一九六〇年代初めごろまでは年平均七人程度だったが、最近十五年間の平均は約一・九人。二〇〇一年は十人で一時的に増加したが、〇二年と昨年はそれぞれ三人(うち未遂一人)ずつで、急増の兆しがあるわけではない。

 殺人に強盗、放火などを加えた凶悪犯での補導人数も最近十五年間はほぼ百人台で推移。ピークだった六〇年代初めの六百人─七百人台から大きく減っているが、昨年は二百十二人で、前年の百四十四人から増えた。ほとんどは放火で、昨年も全体の八割近くを占めた。

●識者コメント

家庭か学校に見落としか
 元中学・高校教員で法政大教授(臨床教育学)の尾木直樹氏の話

 女の子は小学五、六年で思春期に入り、心が不安定になる。友達とのトラブルはどこの小学校でも起きていて、暴力的ないざこざは珍しいことではない。ただ、小学生は、中学、高校生のようにトラブルを内に秘めるのでなく、表に出してしまうことが多く、その結果、周囲が気づき、大事には至らないことが多い。今回は加害女児の家庭か学校に何らかの見落としがあった可能性もある。

問題解決には冷静な分析を
 作家で精神科医のなだいなだ氏の話

 最も大切なのは二人の間にどういう問題があったかで、その解明には時間がかかる。こうしたショッキングな事件が起こると周囲の大人が動揺したまま、すぐに小学校や子ども全体に規制をかけようとしがちだ。しかし、そうした拙速な動きはむしろ子どもの自由を奪うだけで、「何か起こったのか」という冷静な分析なしには、問題を解決することにはならない。

(日経新聞 040602)

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加害少年は厳罰化せよ?

 次の科白が典型である。
 「まず親の責任。マスコミの報道の仕方にも問題がある。犯罪者の親を映していない。引きずり出すべきだ。親、担任、校長先生、全部前に出てくるべきだ。こんなことをしたらえらいことになると自覚させるため、犯罪を犯した子どもの親は全部引きずり出すべきだ。親は市中引き回しの上、打ち首にすればいいんだよ」

 これは、政府の青少年推進本部副本部長(本部長は小泉首相)の鴻池担当相(当時)の言葉である。長崎の幼稚園児(四歳)が、誘拐殺害された事件(二〇〇三年七月)で逮捕されたのが、刑事罰を問えない一二歳の少年だったことを受けて、厳しい罰則の必要性を強調したものである。

 むろん、このような社会的リンチ≠ニもとれる氏の発言には、厳しい批判も出た。しかし、氏のように少年とその親に対して厳罰を求める考え方は、社会全体から根強い支持を受けている点を見ておかなくてはなるまい。「こんなことをしたらえらいことになる」という恐怖心を子どもたちに植えつければ、少年犯罪の抑止に役立つとする考えはかなり広範に存在する。

 果たして、このような厳罰化は本当に犯罪の抑止力としての効果があるのだろうか。

 ▼厳罰化の効力は?
 答えは否である。なぜなら、二〇〇一年に改正少年法が施行されてからも、依然として少年たちによる凶悪事件は増加傾向にある。

 厳罰化を進めたアメリカにおいても、年間の凶悪事件は一万五〇〇〇件を超えている。このことからも、厳罰化の効果には疑問が残る。

 それどころか、処罰対象年齢を引き下げれば下げるほど、子どもは未発達な成長段階にある。だからこそ、大人と同じレベルでは自己責任を問うことができない、という根本的矛盾にぶつからざるを得ない。うっかりすれば、小学生や幼稚園児まで大人と対等な処罰を加えなければならない羽目に陥る。

 国際的な観点に立っても、子どもの権利条約にいう「子どもの最善の利益」を擁護する精神にも抵触しかねない。

 最近の殺人少年犯は、自己肯定心情が極端に低い。多くの場合、自分を見限っている。例えば昨年の一一月に大阪で起きた女子高校生(一六)と大学生(一九)による、双方の一家殺傷事件のように、二人は、半ば心中行為として殺人に及んでいる。

 自尊感情もないわけだから、恐怖心もなく、自制心も効かない。これでは、どんなに厳罰化を進めても、何の抑制力にもならない。もし、厳罰化の効果を期待できるとすれば、自転車窃盗など軽微な少年犯罪に対してであろう。

 少年犯罪は、愛情不足からくる子どもたちの自己肯定心情の弱さや、発達不全が及ぼす精神的な不安定さのSOSとして受けとめるべきではないだろうか。

 自分が、どんなに大きな問題をかかえていても、家族や教師など身近な大人からたっぷり愛されているのだという実感こそ、犯罪の抑制に必要なのである。

被害にあわぬように監視?

 一方、犯罪の被害者に対して、大人たちはどのように対応しているのだろうか。

 拉致被害事件の続発の中で、防止策については、今や車両盗難防止や徘徊するお年寄りの捜索のために開発・商品化された、全地球測位システム(GPS)や携帯型防犯ブザーまで利用しようとする自治体が現れている。これは、犯罪被害から守るためとは言え、子どもたちの行動を監視し、管理しようとする発想であり、方法である。

 しかし、これらの方法や装置で果たして被害は防げるのだろうか。例えば、防犯のための監視カメラの設置は、効果を上げるのは最初だけ。犯人たちはすぐに学習し、すり抜け方を工夫するためにやがて効力をなくす。これと同じように防犯ブザーやGPS頼みでは、問題の本質的な解決には程遠い。むしろ、子どもたちの大人や社会への不信感を増大させ、自分が管理されることに慣れてしまい、人権感覚を希薄化させかねない。長い目で見ると、子どもの命は守れても、その精神を蝕むことになりかねない。

 ▼加・被害双方の対応に見られる特徴
 これら加害少年には厳罰を、被害少女には監視をという考え方には、共通項がある。

 その一つは、子どもの人権の尊重、成長の可能性への信頼が極めて弱いということである。

 二つ目は、子どもを大人と対等の二一世紀の日本を築くパートナーとして認めていないことである。常に大人の下位に子どもをおいてとらえている。三つ目は、子どもの意見を聞き、子どもの目線に立って事件を丁寧に把握し、分析しようとしていないことである。

 ▼大人と子どもの関係不全
 これらの中から浮き彫りになってきたのは、子どもは大人が守り、育てるもの≠ニいう、これまではあまりにも自明のことと思われてさた視点が大きく揺らいでいることである。子育てや子どもの問題は社会全体で責任を負うべき大切な課題であるという共通認識が、まだまだ確立していないことを示している。

 換言すると、大人は子どもを守るという原則的な関係性そのものがまだ揺らいでいる。
(月刊:世界二月号 尾木直樹「子どもを育てられているか」p134-136)

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冷酷な親たち

■「怒らせた」と包丁で長女に

 松江署は一日、会社員の長女(21)に左小指を切り落とさせたとして、傷害の疑いて父親の松江市大庭町、無職原田隆義容疑者(四八)を逮捕した。

 長女は「ミスしたと食べ物をもらえなかったり、暴行を受けたこともあった。指を切れと言われた」と話し、同署は数年前から虐待されていた可能性があるとみて原田容疑者を追及、妻からも事情を聴く。

 調べでは、原田容疑者は三月十六日夜、自宅で長女に「自分を怒らせた。約束だ。指を切り落とせ」と、自分の指を包丁で切断させた疑い。

 妻が直後に長女を病院へ連れて行き指の縫合は成功した。長女は自分で包丁を取ってきていたが、同署は抵抗できない状況にあり傷害罪に問えると判断した。原田容疑者は容疑を認めているという。

■「早く登校を」口論、自殺図る

 一日午前六時ごろ。大阪府守口市の民家で、この家に往む大阪市内の私立高校二年の長女(16)と母親(38)が親子げんかになり、母親が刃物で長女を刺した。長女は病院に運ばれたが重体。母親も自分で手首を切り自殺を図って重体になり、病院で手当てを受けている。守口署は無理心中を図った疑いもあるとみて、母親の回復を待って殺人未遂容疑で事情を聴く。

 調べでは、母親が「早く学校に行きなさい」と長女をしかるなどして、二人は口論。

 刃渡り約十五aの出刃包丁で長女の背中や腕など九ヵ所を刺した後、手首を切り、倒れていたという。包丁は浴槽内で見つかった。

 母親は会社員の夫(38)と五月に離婚し、間もなく家を出ることになっていた。夫は午前六時前に出勤していた。刺された長女が通報したらしい。
(京都新聞夕刊 040601)

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◎小学同級生刺殺事件……。人として育つことをもっともっと。「心の教育」の声があがっている。「心のノート」の出番だと言いたいのか。

人として育つことがいまこそ求められている。