学習通信040603
◎社会主義の創始者たち……A

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あなたはどう思う?
「負け犬・勝ち犬」論争

■「負け犬」充実しているし不幸じゃない
■「勝ち犬」子はかわいいけど仕事したい

 「負け犬」「勝ち犬」という言葉を聞いたことがありますか? 「未婚、子ナシ、30代以上の女性」を「負け犬」、「既婚子持ち女性」を「勝ち犬」と定義したエッセー集『負け犬の遠吠え』(講談社)が議論を呼んでいます。この言葉の投げかけたものは何だったのでしょうか。<平川由美記者>

 『負け犬の遠吠え』って、どんな本?
 著者の酒井順子さんは37歳、独身のエッセイスト。自らを「負け犬」と呼びます。「人間を勝ち負けに二分することは本当は不可能」と知りながら、「負けました」と「弱さを認めた犬のようにおなかを見せておいた方が、生きやすいのではなかろうか?」と考え、この呼び名を提案しました。

 「負け犬」の生きづらさとは何なのか。
 酒井さんは「生き生きと仕事をして友達がいて、充実した生活をしていても、結婚せず子どもを産んでいないというだけで『女としては幸せでない』と切り捨てる空気が、社会には根強くある」と指摘しています。

 「私はみじめではない、幸せだ!」と叫べば叫ぶほど、「結婚っていいものよ」「やっぱり子どもは、産んだ方がいいんじゃない?」という言葉を引き出してしまうと痛感した酒井さん。「そうですよねぇ」と「負け」を認めて、受け流す方法を体得したのです。

 専業主婦になった学生時代の友人からも、実は「哀れむべき存在」として見られていることに気付いてがく然としたり、真綿で首を絞めるような「差別」をひしひしと感じる日常をユーモアたっぷりに描いています。

 講談社の担当編集者・森山悦子さんは、「これは社会批判の意味合いをこめた本」と言います。
 「女性に『負け犬』というレッテルをはっているのは、ほかでもない社会なんだと告発しています。読者からの反響はほぼ百パーセント共感です。『勝ち犬』の女性からも『心は負け犬』という声も届いています。
 『負け犬』という言葉が誤解されて、女性の間に対立をあおるとしたら、不本意なことです」

 「本を読んで励まされた」という東京都の和子さん(42)は公務員。十分な経済力もあり、最近は結婚の必要性を感じなくなりました。
 「周囲からの微妙な差別を感じるのは自分だけじゃないとわかって心強かったです。『負け犬』の心構えとして、友達を持つ、落ち込んだときの対処法を開発する、体を鍛えるなどのアドバイスにも共感。老後は友人とグループホームで暮らす夢も広がり、腹が据わりました」

 一方、愛媛県の洋子さんは 「『負け犬』という言葉がどうしてもイヤ」と話します。金融機関に勤務する33歳です。
 「私の職場は30代以上の未婚女性が多く『今が一番いいんだろうね』と話してます。嫁しゅうとめで苦労してる話もよく聞きますし。こんな時代に自分の子を持つのも怖い。負けてる実感はありません」

「勝ち犬」と定義される女性はどうか。千葉県の専業主婦・佳奈さん(36)は、システムエンジニアの夫、4歳と1歳の男の子がいます。出産を機に銀行を辞めました。
 「子どもはかわいい。でも子育てって思い通りにいかないし、日々の達成感がないんです。早くても9時、10時にしか帰れない夫の働き方では、私が専業主婦になるしかなかったんですが、常に仕事をしたいと思っています。勝ったなんて全く思えません」

キーワードは自分らしさ
対立でなく女性たちが手をつなぎ

 東京外国語大学で現代社会学を教える千田有紀助教授は「私も『負け犬』」と笑います。35歳。
 「以前はオールドミスなどと陰口をきかれ、ひっそり生きていた存在が議論になるのは、その生き方が現実に増えているし、認められてきている証拠だとも言えます」

 この言葉が話題になる背景を、「貧富の差など階層分化が進んでいる社会の雰囲気にピタッとはまったのではないか」と分析します。確かに今「勝ち犬・負け犬」とは別に、「勝ち組・負け組」という言葉も、もてはやされています。

 ただし、「勝ち組・負け組」が社会的地位や経済力について使われるのに対して、「勝ち犬・負け犬」は単に男性に選ばれたか選ばれなかったかで判断されると、千田助教授は指摘します。
 「さらに女性は既婚の場合でも、どんな男性に選ばれたかによって勝ち妻・負け妻が決まり、子どもの出来によって勝ち母・負け母が決まっていく。自分自身ではない他者の人生によって評価される理不尽さがあります」

 男性はどう見るのか。「家庭を持って一人前という圧力は、男性にもある」と言うのは、『家庭という病巣』(新潮社)の著者でノンフィクションライタ−の豊田正義さんです。

 豊田さんは市民団体「メンズリブ東京」の代表でもあり、男性の多様な生き方が認められる社会を目指して活動しています。
 「男女平等の運動でも『男も家事・育児を』ということだけが強調されがちです。この点について僕らの運動の中でも、家庭を持つことが大前提になっているのではないかと批判が上がっていました。自分らしく生きられる社会であるためには、個人で生きる権利も保障されるべきだと思います」

『生き方を迷ってしまう女たち』(ミネルヴァ書房)の著
者で評論家の武田京子さんは、公的機関の相談員を務めた経験から「どんな立場の女性も生きづらさを抱えている」と話します。
 やり場のない孤独とむなしさを訴える専業主婦、男性に伍(ご)して働き続けても賃金や昇進の差別で壁にぶつかる女性、働く母親は子どもへの負い目にさいなまれ、家事・育児との両立に疲れ切っています。

 「女性たちの苦悩のもとにあるのは、女性の本来の役割は家事・育児・介護など家の中にあるとして『性別役割分業』を強いる社会のあり方だ」と武田さんは言います。

 「昔から良妻賢母などといって、社会の求める女の生き方に会っていれば『勝ち』、はずれていれば『負け』とされる構図がありました」
 「勝ち犬・負け大」と女性を2派に分けて論争する風潮に乗ることは、女性を「女の役割」に閉じ込めようとする者たちを喜ばせるだけなのかもしれません。

 武田さんはこう強調します。
 「私たちのいい人生を手にするためには、女性たちが手をつないで社会を変えるパワーになることこそ大切です」
(しんぶん赤旗「日曜版」 040530)

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空想的社会主義と女性──フーリエ

 古典的市民革命といわれるフランス革命は、資本主義にとって好条件と悪条件の両方をもたらした。すなわち、それは、絶対主義的支配を破壊することにより資本主義への道をきりひらいた反面、小市民階級を広範に成立させることにより資本主義発展の障害をつくりだした。そして、小生産者層の保守的性格、反資本主義的性格を基礎として、王政復古期の反動思想がうまれたことは、すでにのべた。

 ところで、フランス資本主義が成長するには、小生産者の生産様式を変化させること、つまり農業における資本主義化を促進し、農村人口を都会に流出させて工場制工業の労働力にふりむけることが必要なのであって、イギリスでは農業革命、産業革命がなしとげた農業の資本主義化、農民層の分解を、たちおくれたフランスでは、産業資本が意識的に自力でおこなわなければならなかった。

このばあい、かれらの直接の攻撃対象が、小生産者の生産様式をささえている家族制度にむけられたことは当然であった。しかし、小規模経営とその母体としての家族制度にたいする批判は、産業資本家またはそれに上昇していく層からだけでなく、小生産者の分解があきらかになってくると、その階級内部からも発生した。

かれらの目にも、孤立し細分化された経営は、生産力の発展を阻害する要因だとおもわれたし、しかも各経営体はたえず競争関係におかれ、没落の危機にさらされていることはあきらかであった。農業を資本主義化し農村の労働力を都会に吸収するという資本の論理とは別な観点から、経営体としての家族制度が再検討されることになる。

 空想的社会主義は、産業革命前夜のフランスで、直接生産者、すなわち労資へ分解しきっていない階層を基盤として成立した社会批判である。かれらが家族制度を、そしてそれと不可分の女性解放を問題にしたのは、フランスの将来を展望するにはこれらの問題をさけることができなかったからである。保守主義は、性差別に基礎をおく家族制度を擁護したのにたいし、空想的社会主義はそれを批判し、フェミニズムを前面におしだした。

ただ、十八世紀末のイギリスで、ゴドウィンが権威からの人間(男性)解放をもとめて家族まで解体したのとはちがって、フランスの空想的社会主義者たちは、男女を個人として完全に分解するのではなく、あたらしい組織にくみいれながら従来の家族制度の弊害をとりのぞこうとした。

 サン-シモンとフーリエというフランスの二大空想的社会主義者のうち、女性解放の問題に直接とりくんだのはフーリエであった。サン-シモン自身は、かれの弟子たちが情熱をかたむけたこの問題を重視してはいないし、かれの理想社会である新キリスト教の世界でも、ほとんどそれにふれていない。

フーリエは、すでに初期の作品『四運動の理論』(一八〇八年)のなかで、「社会の進歩と各期の転換とは、女性の自由への進歩に比例しておこなわれ、社会秩序の堕落は、女性の自由の減少に比例してなされる。……女性の特権の拡大は、あらゆる社会進歩の一般原則である」といい、女性の解放を社会進歩の必然的方向だと考える。

 フーリエの思想には、十八世紀フランス唯物論にみられる、社会秩序の自然的調和と進歩にたいする、絶対的信頼があった。ルソーのように理性と情念とを対立させ、理性による情念の抑制を説くのではなく、かれは、情念を人間の本性の中心におき、情念の自由な発達こそ社会調和に欠くことのできない要件だと考える。

情念は、一方では生活向上の欲求、生活資料生産の原動力となってあらわれ、他方では男女の愛情、生命を生産する本能として作用する。情念をこのように把握することにより、かれは、生活資料の生産と生命の生産というふたつの行為を統一したものとして理解し、それを分離、対立させる家族制度、男女の不平等を、批判することができた。

 情念には、ニュートンの万有引力に比すべき引力が存在すると、フーリエはいう。情念が法則にしたがって働くばあいには社会の調和と個人の幸福がもたらされるけれども、その作用がさまたげられるばあいには、社会的混乱と人間の不幸が発生することになる。現実社会のなかで情念引力の自由で完全な展開をさまたげているのは、家父長的家族であり、そのうえにたつ小農経営である。

孤立し細分化された農業家族では、社会的分業が成立すればわずかな労働ですむことに、おおくの労働を投下し、各家族の利益は相互に、また全体の利益と、たえず対立し、男性も女性も、愛情ではなく金銭欲による結婚をしいられ、しかもほとんどの女性が、能力に適していない家事労働に、終身従事するように運命づけられている。

 家族を単位とする小農経営の存在が、生産力を阻止し、個人の自由をさまたげ、社会を混乱させる原因だとみるフーリエは、調和ある社会を実現するには、家族制度を廃止し、そのかわりにファランステールとよばれる農業共同社会の建設を主張する。すなわち、農業の資本主義化ではなく、農業の共同化によって小経営の限界を克服しようとする。かれの計算によれば、ファランステールは、各年齢層の男女一六二〇人からなる集団を単位としてつくられる。

それはこの規模が、衣食住という生活必需品の生産にも、教育、文化の機能を果すにも、適正とみられるからである。従来、家族が家族員のために、他の家族や社会全体と対立しながら果してきた機能と、社会が果してきた機能の両方を、構成員相互を対立させないで、この自足的共同社会は果すことになる。

 情念を自由に発展させれば調和が維持されるとかれは考えるのだから、各人は男女を問わず、それぞれの能力、欲求に応じて、生産集団、生活集団に組織される。そこでは、労働は欲望の実現すなわち快楽となり、これまでの社会では対立していた労働と余暇、肉体労働と精神労働、農業生産と工業生産、生活資料の生産と生命の生産の矛盾は、解消される。また、家長権中心の家族制度の下でつくりあげられた一夫一婦制は無意味となり、恋愛や結婚は従来の拘束からときはなされ、女性だけでなく男性も解放される。

 フーリエは天才か狂人かといわれるほど、かれの作品には現実ばなれをした記述がおおい。しかし、人間に非人間的生活を強要しているものが既存の家族制度であり、人間が人間性をとりもどすには、この家族制度を解消し、個々の家族が果してきた役割をになうことのできる、よりおおきな組織をつくるべきだという主張は、人類が長いあいだ解決することのできなかった性差別、人間疎外の、根幹にふれる問題であった。

かれの思想がたとえ「空想的」であったとしても、この問題を提起したという功績だけで、フェミニズムの歴史におけるかれの地位は、ゆらぐことはないであろう。
(水谷珠枝著「女性解放思想の歩み」岩波新書 p129-134)

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 サンーシモンには天才的な〈視野の広さ〉が見つかり、そのおかげで彼の著作には、後代の社会主義者たちの──厳密な意味では〈経済思想〉とは言えない──思想がほとんどすべて萌芽のかたちで含まれているのであるが、これにたいしてフーリエに見いだされるのは、現存の社会状態にたいする──生粋のフランス人ふうの才気にみち、それでいて洞察の深さを少しも失っていない−批判である。

フーリエは、ブルジョアジーの、革命前のその熱狂的な予言者たちの、また、革命後のその打算ずくのおべっか使いどもの、言質をとっている。

ブルジョア世界の物質的および精神的なみじめさを容赦なく暴き出している。

そして、〈ただ理性だけが支配することになる社会〉だの、〈万人を幸福にする文明〉だの、〈人間の限りない完成化能力〉だのという、啓蒙思想家たちのきらめき輝く約束をも、同時代のブルジョア・イデオローグたちの飾りたてた決まり文句をも、このみじめさと突きあわせている。

きわめて仰々しいこの美辞麗句に見あっているものがどこでもこの上なくみじめな現実であることを指摘し、こういう美辞麗句の救いようのない破綻に辛辣な嘲りののしることばを浴びせかけている。

フーリエは、ただ批判者であるだけではない。いつも変わらない快活な性質のおかげで、風刺家であり、しかもすべての時代を通じての最大の風刺家の一人である。

革命の没落とともに花を咲かせた思惑的投機をも、当時のフランスの商業にいきわたっていた小売商根性をも、みごとにまた愉快に描き出している。それにもましてみごとなのは、両性関係のブルジョア的形態とブルジョア社会における女の地位とにたいする彼の批判である。

<一つの与えられた社会では、女の解放の度合いが全般的解放の自然的尺度である〉とは、彼がはじめて言明したことである。フーリエが最もすばらしく目に映るのは、しかし、社会の歴史についてのその見解においてである。

彼は、歴史のこれまでの全経過を四つの発展段階に分けている。未開・野蛮・家父長制・文明がそれであって、この最後のものが、こんにちのいわゆるブルジョァ社会と一致するのである。

そして、こう指摘している、──「文明制度は、野蛮時代が単純なやりかたでふける悪徳の一つ一つを、合成された・あいまいな・表裏のある・偽善的なありかたに高めている」〔『宇宙統一論』〕し、〈文明は、一つの「悪循環」のなかを、すなわち、自分で絶えず新しく生み出しながら克服することのできない諸矛盾のなかを、運動しており、その結果、いつでも、自分が達成しようと思っているもの・あるいは達成しようと思っているように見せかけているものの反対をなしとげてしまう。

そのため、たとえば、「文明においては、貧困は過剰そのものに由来する」〔『産業的・共同社会的新世界』〕〉、と。

フーリエは、ご覧のとおり、自分の同時代人ヘーゲルと同じみごとさで弁証法を駆使している。

同じ弁証法を使って、〈人間の限りない完成化能力〉についてのおしゃべりにたいして、どの歴史段階にもその上昇期があるとともに下降期もあることを強調し、この見かたを人類全体の将来にも適用している。

ちょうどカントが将来における地球の滅亡を自然科学のなかに取り入れたように、フーリエは、将来における人類の滅亡を歴史考察のなかに取り入れたのである。──
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p125-127)

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◎「<一つの与えられた社会では、女の解放の度合いが全般的解放の自然的尺度である〉」と。

負け犬の遠吠え……って。