学習通信040604
◎資本論学習は「これだけ覚えればもう安心」……ではありません。

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 「わかりやすい顔」をしているものがわかりやすいわけではない
 人間は、「量」で事態を把握するものである。つまり、「わかるべきこと」がいっぱいあると、「そんなにたくさん知らなくちゃならないのかよ……」と思って、身を固くしてしまうということである。だから、「わかりやすいもの」は、その「わかりやすさ」にふさわしいくらいの「お手頃感」を、「量」でも示さなければならない。

「わかりやすさ」をアピールする本が、いかにもそれらしく「薄い」のは、そのためである。世間には「わかりやすいもの」が溢れて、それらはみんな、「いかにもわかりやすそうな顔」をしているのである。

 しかし、「いかにもわかりやすそうな顔」をしているものが、本当に「わかりやすい」のかどうかはわからない。時としてそれは、生徒を逃がさないための、教える側の手技きだったりもするからである。

 「わかる」とは納得することである
 「わかる」とは、順を追って理解して行くことである。そうすることによって、学ぶ側に「納得」が起こる。「わかる」とは「納得すること」なのだから、「わかって行くプロセス」とは、「我が身を納得させる時間」に等しい。すべてのものが、初心者に対して「基礎を確実にマスターする」を要求するのは、そのためである。

 そして、初心者にとってなにが一番いやかと言えば、「基礎を確実にマスターする」の間のチンタラした時間である。「それをマスターして、さっさとカッコいいものになりたい」と思う人間にとって、「基礎を確実にマスターする時間」は、カッコいいところがなにもなくて、おもしろくもなく、下手すれば「ぶざまな自分」にも直面してしまう、「いやな時間」でしかないのである。

 「基礎を確実にマスターする」をしたくない人間は、だから、「なにかをマスターする」ということ自体から手を引いてしまう。「そんな面倒なことに手を出す必要なんてない」と思えばいいのである。ところがしかし、事が「はやりもの」になってしまうと別である。必ず流行に乗って、「先生、なんとか一つ手っ取り早く」と言う人間は出てくるのである。

 「めんどくさいことはしたくない。しかし、流行の波には乗り遅れたくない」と思う人間はいくらでもいて、そんな人間のために案出される方法が、「これだけ覚えればもう安心」という種類の促成ノウハウである。

 こちらは、「順を追って理解する」を生徒に要求しない。「手っ取り早くこれだけ覚えればいい」である。覚える量は「これだけ」だから、いかにも少ない。その量の少なさが、「ああ簡単だ」という錯覚を生むのである。

 促成ノウハウが要求するのは、「理解」ではなく、「暗記」である。「時間をかけて我が身に刻む」ではない。「さっさと脳に記憶させる」なのである。脳が「わかった」と思えば、もう「知っている」ということにはなる。脳が勝手に考える仮想現実の中でだけ「達成」は起こって、当人は「もう理解した」と思う──だから、それ以上の面倒は不要なのである。

 暗記して、そして、それはただ暗記しただけなのだから、身体への記憶としては残らない。時がたてば忘れられる。もちろん、その時にはもう「流行」が去っているのだから、「それを覚えている必要」もなくなっている。「一時的に必要だから、一時的に暗記した」──それですべてを通して行けば、すべてが「その場しのぎ」になって、結局はなんにも残らない。「さっさと覚えてさっさと忘れる」──促成ノウハウとはそんなものである。

「暗記」は無意味な忍耐である
 もちろん、この私は無意味な暗記が嫌いである。なぜ嫌いかと言えば、私が脳味噌で生きる人間ではなく、身体で生きることを本分とする人間だからである。

 暗記とはなにか? 暗記とは、身体にとって「無意味な忍耐」なのである。

 暗記するのは脳である。脳の方は、それを暗記することに「意味がある」と思って暗記をする。しかし、暗記とは、一時的に思考を停止して、「暗記」という忍耐を脳が受け入れることなのである。私はそのように解釈する。

 脳の方では、その苦痛=暗記に「意味がある」と思う。しかし、脳以外の身体にとって、それは「無意味なこと」である。思考停止になっている暗記の間、身体は放ったらかしにされる。放ったらかしにされた身体は、「またなんかつまんないことを、脳はやってやがんな」と思う。

そして、「つまんね!」というようなサボタージュ信号を脳に送ってしまう。だからこそ、暗記は退屈でつまらない。すぐに飽きるのである──そう思うのが正しい身体のあり方で、暗記を苦痛としない、促成ノウハウが好きな人は、自分の身体性に無間心な人なのである。

 私が暗記を「無意味」と思うのは、その間、本来だったら「納得する」という方向へ進んでいるはずの身体が、置き去りにされているからである。「身体を活用しない」という点において、暗記は「無意味な学習」なのである。

脳は、「これだけ暗記すればすむ」と勝手な勘違いをしているが、身体は、「俺達を納得させてくれよ!」と叫んでいる。私がやたらの数の絵を「セーターの本」で描いたのもそのためで、私は、「脳に届く暗記」ではなく、「身体に屈く納得」を目指したのである。

──略──

 効率のよさは効率の悪さに通じる
 もちろん、熊川哲也のすごさは、「次の日にはできるようになっていた」ではない。自分の理解の届かないところを確実に発見して、それに対して「わからない」を明確に確認していたこと──「わからないの掘り起こし」である。

 「わかるべきこととはいかなることか」を知るのは、「至るべきゴールの認識」である。それがわかれば、後は努力だけである。それがわかれば、一日でもできる。一日でできなければ二日、ニ日でだめなら三日。三日でも四日でも、「至るべきゴール」がどのようなものかを、明確かつ具体的に把握してしまえば、努力の結果は「達成」へと至る。

しかし逆に、いかに努力をしようとも、「自分のなすべきことがどのようなことで、そのために自分のわかるべきことはどのようなことか」を理解していない人は、自分の努力を空回りさせるだけになる。「努力を空回りさせたくない」と思う人間だけが、「わからない」の掘り起こしをするのである。

 「わからない」を口にしたくない人間は、見栄っ張りの体裁屋である。「他人がやり、自分もやらなければいけないことなら、そんなにむずかしいことではないのだろう」と勘違いしてしまう。だから、「わからない」を探さない。それを探すのは「できない自分」を探すことになって、「できる」とは反対方向へ進行ことだと考えてしまう。

しかし、「できる」とは「できないの克服」なのである。「克服すべきこと」の数と内実を明確に知った方が、よりよい達成は訪れる──その達成までの時間は、ある程度以上必要ではあろうけれど。

 しかし、「わからない」を探さずに「わかる」ばかりを探したがる人に、その達成は訪れない。自分が「わかる」と思うことだけをテキトーに拾い集めて、いかにも「それらしい」と思えるものを作り上げる──つまりその達成は、「似て非なるものへ至る達成」なのだ。

 「わかる」とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。普通の場合、「わかる」の数は「わからない」の数よりもずっと少ない。だから「暗記」という促成ノウハウも生まれる。

数少ない「わかる」で再構成をする方が、数多い「わからない」を掻き集めて再構成するよりもずっと手っ取り早いからである。手っ取り早くできて、しかしその達成は低い──あるいは、達成へ至らない。

「急がば回れ」というのは、いかにも事の本質を衝いた言葉で、「効率のよさ」と「効率の悪さ」は、実のところイコールでもあるようなものなのである。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p98-105)

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 ところで読書は、最近、昔ほど重視されないようだ。ラジオ、とくにテレビは、かつて活字が果たしていた機能を肩代わりしようとしている。テレビのニュースは目に訴えるし、ラジオは仕事をしながらも聞けて便利である。しかし、これらの新しいマス・メディアは、私たちが物事を深く理解するという点で、はたして本当に役立っているかといえば、大いに疑問である。

 いまの私たちは、世界について昔より多くを知ることができるようになっている。それは恵まれている。深く理解するために、多く知ることが絶対に必要であるなら、それも結構だろう。だが一から十まで知らなくても物事を理解することはできる。情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。

 こういうことになったのはなぜか。──理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。現代の頭脳はその粋を集めて、情報や意見の知的パッケージを作るという大発明をなしとげた。この知的パッケージを、私たちは、テレビ、ラジオ、雑誌から受けとっている。

そこには気のきいた言い回し、選びぬかれた統計、資料などがすべて整えられていて、私たちはいながらにして「自分の判断を下す」ことができる。だがこの知的パッケージがよくできすぎていて、自分の判断を下す手間まで省いてくれるので、読者や視聴者はまったく頭を使わなくてもすんでしまう。

カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。

 積極的読書
 読書技術をみがいてすぐれた読書家になるための方法、規則について、以下に述べていくことにしたい。それらの規則は活字になったものすべてにあてはめることができる。本だけではなく、新聞、雑誌、パンフレット、論文、広告文も例外ではない。

 「読む」という行為には、いついかなる場合でも、ある程度、積極性が必要である。完全に受け身の読書などありえない。読むということは、程度の差こそあれ、ともかく積極的な行為だが、積極性の高い読書ほど、良い読書だということをとくに指摘したい。読書活動が複雑で多岐にわたり、読書にはらう努力が大きければ大きいほど、良い読み手である。自分自身と書物に対し意欲的であればあるほど、よい読み手と言える。

 書くこと、話すことは積極的な活動だが、読むこと、聞くことはまったく受動的だと思っている人が少なくない。書き手や話し手は努力しなければならないが、読み手や聞き手は何もしなくてもよいと思われている。相手から積極的に送られてくる情報をただ受けとればよいと考えるところが、まちがいである。情報を受けとるということは、遺産がころがりこんだり、判決を言い渡されるのとは、わけが違う。読み手や聞き手は、むしろ野球のキャッチャーに似た役割をもっている。

 ボールをキャッチするということも、投げたり打ったりするのと同様、りっぱに一つの行為である。ボールに動きを与えるピッチャーや打者は「送り手」であり、その動きを受けとめるキャッチャーや野手は「受け手」である。

だが、どちらも積極的な活動であることに変わりはない。もし、しいて受け身のものがあるとしたら、それはボールである。ボールは、自分以外の誰かによって投げられ、キャッチされ、打たれる。自分で動くことはできない。投げること、キャッチすることは積極的な動きである。

同じように、書くこと、読むことも、自らが動くことである。この場合の本や記事が、ちょうど受け身のボールにあたり、書き手はボールに動きを与え、読み手はその動きを止めるはたらきをする。

 この比喩をもう一歩進めてみると、ボールをキャッチするためには、速球だろうと変化球だろうと、巧みに捕える技術が必要だ。これと同じで「読む」場合も、あらゆる種類の情報をできるだけ巧みに捕えられる技術がなければならない。

 ピッチャーとキャッチャーはぴったり息が合っていなくてはうまくいかないが、書き手と読み手の関係も同じである。書き手の伝えたいと思っていたことが、読み手のミットにすっぽりとおさまったとき、はじめてコミュニケーションが成立する。熟練した書き手と熟練した読み手の呼吸なら、ぴったり合うのである。

 一口に書き手といってもさまざまである。コントロールの見事な書き手なら、伝えるべき内容がよくわかっていて、相手に確実にそれを伝えることができる。暴投する書き手よりも、こういう書き手の方が読者としてキャッチしやすいにきまっている。

 ここで一つだけ、この野球の比喩があてはまらない点がある。ボールは単一の物体である。だから完全にキャッチできるか、できないかというだけだが、本はボールのように単純な物体ではないから、「キャッチする」といっても、その受けとめかたはさまざまである。書き手の意図がほんのわずかしか理解できない読み手もいれば、完全に理解する読み手もいる。どの程度うまくキャッチできるか? それは読み手の積極性と熟練度によってきまるであろう。

 読書の目的−知識のための読書と理解のための読書
 いま、一冊の本を前にした、ひとりの読み手を想像してみよう。読書が成功するかどうかは、書き手が伝えようとしていることを、読み手がどこまで理解できるかにかかっている。

 本を読み終えたとき、著者が述べていることがすっかり理解できているかどうかが問題である。わかったと思っても、ただ、情報を得ただけで、本当の理解にまでは深まっていないこともあるだろう。内容が十分に深く理解できたとき、はじめて著者と読者の精神は出会ったと言える。

 本の内容が読み手に完全には理解できない場合もある。つまり、読み終えて「わからないところもある」ということだけははっきりしたときである。その本には自分の理解を越える何かがあり、その何かがわかれば理解は深まるのに、ということに気づくのである。

 そこで、誰かほかの人から説明を求めるとか、あるいは理解するのをあきらめるか、それは自由である。だが、それでは読者はその本にふさわしい「読みかた」をしているとは言えない。

 自分の理解を越えた本を読むときこそ、読み手はいっさい外からの助けに頼らず、書かれた文字だけを手がかりに、その本に取り組まねばならない。読み手が積極的に本にはたらきかけて「浅い理解からより深い理解へ」と、読み手自身を引き上げていくのである。

これはきわめて高度な熟練した読みかたである。読み手の理解力が試されるような本にふさわしい読みかたである。高度の読者を相手に書かれた難解な本こそ、このような積極的な読みかたが必要であり、また、そのような読みかたに値する。

 読書には、情報を得るための読書と理解を深めるための読書とがある。目的の違う二種類の読書は、はじめからはっきり区別して考える必要がある。目的が二つあるのだから、読みかたにも当然二通りあってよいはずである。

 一つは新聞、雑誌のようなものを読む場合で、こういうものは読み手の読書力や理解力に応じて、すぐに内容が理解できる。だが、この種のものは、情報の量をふやしてくれるだけで理解を深めるには役立たない。

 もう一つは、前に読んで完全に理解できなかったものに、いま一度挑戦する場合である。つまり、自分の理解を上まわる本を読みなおすことによって、読み手は理解を深めていくのである。

 理解を深めるための読書は、どういう場合に必要となるのだろうか。それは、はじめから読み手と書き手の「理解の深さに差がある」場合である。このとき書き手には読み手よりも深い理解と洞察があり、それを読み手に読みやすい形で伝えなくてはならない。

また、読み手の側もこの差をある程度克服しなくてはならない。完全には無理だろうが、書き手とのギャップを縮めることができれば、書き手と読み手のコミュニケーションが成立する。

 ところで、事実は情報の量をふやすものだが、洞察は理解を深めるのに役立つ。だが、この二つは、いつでもはっきり区別できるとは限らない。単に事実を列挙するだけでも、ある程度理解を深めることはできるだろう。もっとも、ここで問題にしているのは、本当に理解を深めるための読書技術である。そういう読書技術が身につけば、情報を得るための読書の問題もたいてい片づいてしまうのである。

 そのほかに、娯楽のための読書も考えられるが、ここではそれについてはふれない。それはもっとも負担の軽い読書であり、努力しなくても、字さえ読めれば誰にでもできるからである。それには読書のための規則など、とくにいらない。

 「読む」ことは「学ぶ」ことである−「教わること」と「発見すること」との違い
 知識を得るのも、わからなかったことがわかるようになるのも、「学ぶ」ことには違いない。しかし、同じ「学ぶ」と言っても、この二つの「学び」には大きな違いがある。

 知識を得るためなら、単に事実を知るだけでよい。「教わる」ということは、なぜそういうことになるのか、他の事実との関係や共通点や相違点について、さらに詳しく知ることである。

 この違いは、何かを記憶することと、それが説明できることとの違いを考えてみればよくわかる。著者が述べていたことを思い出せれば、何かを学んだことにはなる。だが、記憶するだけに終わったのでは、それは単に知識を得たにすぎない。著者の述べていることだけではなく、その意図や理由を理解してはじめて、何かを教えられたことになる。

 広く浅く読むことと、よく読むことを混同しないために、「教わること」と「発見すること」の違いについて考えてみよう。これは読書だけでなく、広く教育全般にもかかわる問題である。

 教育学では、「教えられて」学ぶことと、「発見して」学ぶことは、ふつう区別して考える。「教わること」は、話し手や書き手から学ぶことである。しかし、人に教えてもらわなくても知識を得ることはできる。それには自分で「発見」しなくてはならない。他力本願ではなく、自分で研究し、調査し、熟考して学んでいく過程が必要である。

 教師がいる場合といない場合と、つまり、「教わる」のと「発見する」のとでは、学びかたが対照的である。だが、どちらの場合も、学ぶのは学ぶ人自身であることには変わりはない。「発見すること」が積極的であり、「教わること」が消極的だと考えるのは誤りである。そもそも受け身の読書があり得ないのと同様に、まったく受け身の学習などあり得ない。

 「教わること」を「助けをかりた発見」とでも言いかえれば、この二つの学びかたの違いがもっとはっきりするだろう。心理学者の学習理論や教授理論を持ち出すまでもなく、教師はあくまで補助的な役割しか果たせない。その意味では、教えるという技術には、きわめて特殊な性格がある。教師は手助けはするが、学ぶのは学習者自身である。この点で、教師と学生の関係は医者と患者の関係によく似ている。

 「教わること」と「発見すること」の違いは、主として何から学ぶかにある。「教わること」、すなわち「教師の助けをかりた発見」では、学習者は送られてくる情報にはたらきかけ、文字を読み話を聞いて学ぶ。ここで読むことと聞くこととは密接な関係があるということを注意したい。

多少の違いはあるが、読むことと聞くことは、情報を受けとる同じ技術と言ってよい。それは「教わる」技術である。しかし、教師の助けをまったくかりずに学ぶときには、学習者は話し手や聞き手ではなく、自然や外界に対してはたらきかける。

 「読む」ということをもう少し広い意味で考えれば、次のように言うこともできよう。すなわち、「発見すること」は自然や外界を読みとる技術であり、「教わること」は本を読む技術、ないし話し手から学ぶ技術である。

 ところで、「発見」によって学ぶ過程にも、「教わって」学ぶ過程にも、頭を使って考えることが必要である。読んだり聞いたりしているあいだも、思考することが要求される。

 読むこと、聞くことには思考を必要としないから楽だと思っている人が多い。単に情報や娯楽のために読む場合は、それでもよいかもしれない。しかし、それでは積極的読書とは言えない。「発見」や理解のために読むときには積極的姿勢が必要である。考えることをなおざりにして積極的読書をすることはのぞめない。

 考えることは学ぶことの一部にすぎない。ものを学びとるには感覚や想像力をはたらかさなくてはならない。観察力や記憶力も必要だし、目に見えないものは想像力で補わなければならない。「発見」の過程ではこのような精神活動が重視されるのに、読むこと、聞くことによって「教わる」場合には、とかくそれが過小評価されるきらいがある。詩を書く人には想像力が必要なのに、その読み手には必要ないと考える。

だが、実は読書技術には、「手助けなしの発見」のために必要な技術が、すべて含まれているのである。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、そして分析や思考によって鍛えられた知性、これらすべてが要求される。というのも、理解を深めるような読書は、本という教師がついていても、本質的には「手助けのない発見」と変わらないからである。

 教師のいる場合、いない場合
 読むこと、聞くことは、言ってみれば教師から直接学ぶことだと考えてきたが、ある程度はたしかにそう言える。どちらも「教わる」ための二つの方法であり、読み手や聞き手は「教わる」ための技術を身につけることが大切である。

講義を聞くのは、多くの点で本を読むことに似ているし、詩の朗読に耳を傾けることはこれを読むのと変わらない。したがって、ここに述べる読書の規則の多くは、そのまま聞くことにも十分適用できるが、ここで「読む」ことの方に重点をおくには、それなりの理由がある。聞くことは目の前の教師から学ぶことだが、読むことは姿の見えない教師から学ぶことだからである。

 目の前にいる教師なら質問に答えてくれるし、答えが納得できなければ、問いなおすこともできる。わざわざ自分の頭で考えなくてもすむ。だが、本が相手となると話は別で、読み手自身が問いに答えなくてはならない。その意味では本というものは自然や外界に似ている。本に向かっていくら問いかけてみても、読み手が考え、分析した限りでしか、答えは返ってこないのである。

 だからといって、目の前の教師が問いに答えてくれれば何もしなくてよい、ということではない。単に事実をたしかめるだけが目的ではなく、説明を求めたいのなら、教師の言うことをまず理解しなくてはならない。それでも教師がいれば理解を助けてもらうこともできようが、本を読むときは、本に書いてある言葉しか手がかりはない。

 学生時代には誰でも、教師の手ほどきで難解な本に取り組むものである。だが、自分の読みたいものを読むときや、学校を出てから教養を身につけようとすれば、たよるものは教師のいない読書だけである。だからこそ、一生のあいだずっと学びつづけ、「発見」しつづけるには、いかにして書物を最良の師とするか、それを心得ることが大切なのである。この本は、何よりもまず、そのために書かれたものである。
(M.J.アドラー C.V.ドーレン著「本読む本」講談社学術文庫 p14-25)
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◎21世紀の京都中央労働学校は 学びごたえ主義≠フ一端です。

感想メール≠煬竓y的読み方ではかけません。

科学的社会主義の古典を学ぶとは。