学習通信040605
◎社会主義の創始者たち……B

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 一八二四年暮アメリカに渡って煩倒したニュー・ハァモニイの共産村建設に失敗して二八年帰国したオーエンは、自らの思想が漸く労働者に浸透しはじめたのを知った。

 既に彼の渡米前の二一年にG・D・H・コールが「明確な社会的使命を体現した全国最初のもの」と評価する「協同経済組合(The Co-operative and Economical Society)」と称する

「一集団」がジョージ・ミューディの指導で印刷職人によって結成された。ミューディは最初のオーエナイト(オーエン主義者)と云われ、近代協同組合の出発をここに見出す見解がある。

 この組合の規約前文からの引用によって、この組合の性格をみてみよう。
 「本組合の終局目的はニュ・ラナァックのミスター・オウエンによって計画されたプランに基づき、農業・工業・交易を結合してひとつの一致と相互協同の村を建設するにある。

 その当面の目的は適当な建物をいくつか入手することである。そのなかでミスター・オウエンのプラソからひきだしうる諸利益のできるだけ多くをエンジョイされよう、首都における彼らの従前からの職業に現にたずさわりつつある人びとによって。

本組合の最初の目的──それは最も容易に達成しうるから──は、食物、衣料品、その他の日常必需品を卸値で購入するためのひとつの基金をつくること、そして(組合員が互に近隣に住んでいる所では)彼らの住居の、また彼らの子供たちの監督、トレーニング、教育の配慮のための協同化の施設を作るにある。組合はまた、できるだけ早く、仕事のない組合員に生産的な仕事を与え、病気や老年組合員およびその家族へ給与するよう提案する。」

 ここに、オーエン型コミュニティからのコ・オパラティブヘの明らかな転換を見出すことができる。

 この組合は機関誌『エコノミスト』(1821年1月〜22年1月、週刊)を発刊、「オーエンによって考案された新社会制度と現在の雇用を継続しつつ労働階級の諸条件を改善するための組合案との説明」の手段とした。

 ミューディはオーエンの思想に共鳴し、労働者階級、実はその知識層にそれを浸透させようとした。彼のアジテーションの内容はオーエンのものであったが、しかしそれは明らかに労働者階級の立場にひきよせられている。

彼は、資本は一般に信じられているような生産の源泉ないし力ではなく、それは労働の産物、人間の「協働」の結果にすぎず、労働こそが真の生産力であり、労働は資本なしにつづけられるが、資本は労働なしに自己増殖の力をもたないとオーエンをこえて力説し、労働者階級は資本の援助なしに自らの力でオーエンの示す「一致と協同の村」をつくりうると訴えた。実際またその資金も協同での調達を考えた。

 この組合が実際にまず着手を試みたのは家計の協同化であった。オーエソが「コミュニティ」について説く原理、具体的概要および細目を彼らはとりあえず日常の継続的な生活の場のそれとして読みこみ、適用し、実現しようとした。

 既述の「一解明」はウエッブ夫人をしてオーエンを「消費組合の精神的な父」と評価せしめることになったが、それ自体は「商業制度」に対する鋭い批判のうえであくまで「コミュニティ」の協同性に基づく人間性と合理性の「希望」をうたっているのだが、労働者階級の知識層には「商業制度」のもとにあっての「コ・オパラテーブ」による抵抗の原理として読みこみうるものをもっていたのである。

しかし、オーエンはコミニティ、コロニーづくりに熱中して、協同組合に深い関心は示さなかったといわれる。ここにオーエナイトとオーエンを区別する太い一線があった。「労働者階級オーエニズム」とあえて云われる所以であろう。こうして、彼の説く協同の力、協同の利益は、とりあえず労働者による日常生活への適用において、「その場をもった」(ユートピアの原語ウ・トボスは場をもたないの意)のである。

しかし、これは必然的な移行である。企業家オーエンが洞察し、啓蒙してやまなかった思想の原点は結合労働力の生産力、「組織された多数の力」(マルクス)であり、それを示唆された担い手たちがその自らの社会的な「唯一の力」を膚で感じ心を動かし、さしあたり自らの場で実現しようと協同することは自然である。

端的に立場の転換である。オーエンの協同思想の不滅の歴史性の根拠はここにある。「コミュニティ」はその原点「コ・オパラティブ」に現実化され、労働運動の波のなかで「コミュニズム」への発展する必然性を担っていたのである。

 さて、この「協同経済組合」はきわめて短命に終った。(組合員の大部分は「財産家と個人の自由業者」であったと云われる。階級的純化の未熟、およびオーエン思想の特徴の一端をうかがえよう。)しかし、このあと「ロンドン協同組合」(一八二四年設立。その機関誌「協同組合雑誌」一八二七年十一月号に「社会主義者」の言葉がはじめて使われたという。マックス・ベア前掲書、第二分冊四七ページ参照)。その後、急速な発展をみせ、一八三〇年十月四百組合に達したという。
(坂寄俊雄編「生活協同組合と現代社会」法律文化社 p111-114)

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 社会主義 産業革命前期の土地社会主義思想は、囲込みによって創出された農村プロレタリアヘの配慮に発するものであったが、産業革命後期、工場プロレタリアに対する配慮から、「最大多数の最大幸福」という功利主義倫理に立脚する社会主義思想が展開された。大企業家ロバート=オーウェンの思想がそれであった。オーウェンはナポレオン戦争後の不況期に、

 「機械はすべての人の生活水準を高めるためでなく、少数の個人の貪慾の充足のために働いた。
 救貧法あるいは移民策はその根本的改革方法ではない。真実の救済策は、消費を拡大して消費と生産とを適合的に再調整することである。その再調整は生産と分配とが結合された場合にのみ、すなわち社会主義においてのみ実行される。」

と、述べて、新しい生産力が万人の福祉のために、社会的に管理されねばならないと主張した。かれは社会的改造の手段としての政治的方法に信頼せず、ストライキや階級闘争を否定し、労働階級の団結と協同主義的生産組合による生産と分配の社会化、すなわち協同組合主義的社会主義を唱導した。

 一八二四年かれは私財を投じて、アメリカに広大な土地を購入し、約九〇〇人の同志とともにここに移住し、「新調和平等村」を建設して、社会主義社会の建設を実験した。しかしこの試みは内部分裂によって失敗に終った。

帰国後オーウェンは、その信奉する労働価値説に立脚し、貨幣制度を排除して労働を交換価値とするところの国民平等労働交換所を開設した。これもまた失敗に終ったが、労働階級の経済生活改善のため、資本家に対する啓蒙運動を続行し、他方労働組合・協同組合の発達のため、労働階級を指導し、また政府・議会に社会立法の制定を勧告した。こうしてオーウェンはその後の社会思想と労働運動の発達に多大の影響を及ぼした。

 一八六一年アメリカの南北戦争がイギリスヘの綿花輸入を困難にし、イギリスの繊維工業を停頓(ていとん)させ、これが他の工業にも影響して多数の失業者が排出された。資本家は安価な労働力をヨーロッパ大陸から迎えようとした。

ここにイギリス労働階級はその国際的利害関係を痛感し、かれらが中心となって、大陸諸国の労働階級に呼びかけ、一八六四年労働階級の国際的政治団体いわゆる第一インターナショナル(正式には国際労働者協会)を結成した。マルクスが依嘱されて「共産党宣言」(一八四八年)張りの創立宣言と会規約を起草した。

この宣言と規約は、プロレタリアの階級組織・プロレタリアの政権掌握、ブルジョアジー支配の転覆、賃労働の廃止、生産手段の社会化を強調したものであったが、第一インターナショナルは進歩的自由主義や民族主義者、自由主義団体から共産主義団体に至るまで多種多様なものを包含し、全く統一的団体ではなかった。

しかしそれがマルクス主義化されるにしたがって、イギリス労働階級はこれを離れ、第一インターナショナル=イギリス支部もしばらく存続した後解散されるに至った。イギリス流の社会主義が強力に台頭し、社会主義政党が創立されるのは一八八〇年代である。
(大野真弓編「イギリス史」山川出版社 p229-231)

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 フランスで革命の嵐が全土を吹き荒れていたあいだに、イギリスでは、もっと静かな・それでいて力づよさの点で少しも劣らない変革が進行していた。

蒸気〔カ〕と新しい作業機とが、マニュファクチュアを近代的大工業に変え、それによって、ブルジョア社会の基礎全体に革命的変革をもたらした。

マニュファクチュア時代ののろのろした発展の歩みは、生産の真の疾風怒濤時代に変わった。

絶えずスピードを上げながら、大資本家たちと無産のプロレタリアートとへの社会の区分けが進行した。

そして、この両者のあいだでは、以前の安定した中産身分に代わって、いまでは、手工業者と小売商人との一定しない大群が、つまり、住民のうちの最も変動の激しい部分が、不安定な生活を営んでいたのである。

この新しい生産様式は、まだようやくその上昇期にはいったばかりであった。それはまだ、正常な──当時の事情のもとではただ一つ可能な──生産様式であった。

しかし、その当時すでに、とんでもない社会的な不都合を生み出していた。すなわち、故郷を失った住民が大都市のこの上なく劣悪な住居に詰め込まれたこと──しきたり・家父長制的従属・家族という伝来のきずながすべてほどけたこと──とくに女たち・子どもたちの過重な労働がぞっとするほどの規模にまでなったこと──突然まったく新しい境遇へ投げ込まれた労働する階級が大垣に道義の退廃におちいったこと、以上である。

そこへ、〔一八〇〇年に〕二九歳の一工場主が改革者として登場してきた。崇高なまでに子どもらしい単純な性格の男で、同時に、まれに見る天成の人間指導者であった。

ロバート・オウエンは、〈人間の性格は、一方では生まれつきの体質の、他方ではこの人間をその一生のあいだ・ことに発育期にとりまく状況の、産物である〉という、唯物論的啓蒙思想家たちの学説を身につけていた。彼と同じ身分のたいていの人びとは、産業革命を、どさくさにまぎれてうまく立ち回ってすばやく金持ちになるのに好都合な混乱ないし混沌、としか見ていなかった。

彼は、産業革命を、自分のお気に入りの命題を応用しそれによって混沌のなかへ秩序をもたらすチャンス、と見なした。すでにマンチェスターで或る工場の五〇〇人あまりの労働者の支配人としてそれをやってみて、成功していた。

一八〇〇年から一八二九年まで、スコットランドはニュー・ラナークの大紡績工場を、支配人兼出資者として、同じ精神で、ただ前よりも大きな行動の自由をもって、管理し、ヨーロッパ中に名声をとどろかせる成功を収めた。

はじめはごく雑多な・圧倒的大部分はひどく堕落した分子で構成されていて・しだいにふえて一五〇〇人にもなった住民を、完全な模範的な集団居住地に変えた。そこでは、泥酔も警察も刑事裁判官も訴訟ざたも救貧制度も慈善の必要も、知られていないことだったのである。

しかも、こうした成果は、〈人びとをもっと人間にふさわしい状態へ移し、とりわけ、成長中の世代を注意ぶかく教育させる〉という、ただそれだけのことによって得られたのであった。彼は、幼稚園の発案者で、ここではじめてそれを開設した。子どもたちは二歳から幼稚園にかよい、そこで非常にたのしくすごしたので、家につれかえるのに骨が折れるほどであった。

彼の競争者たちが一日に一三時間から一四時間までも操業したのに、ニュー・ラナークでは、労働は一〇時間半にすぎなかった。綿花恐慌のために四ヵ月も休業を余儀なくされたとき、休業中の労働者に賃金の全額が引き続き支払われた。それでもこの企業は、その価値を二倍以上にふやし、最後までその所有者たちのために多額の利益をあげたのである。

 こうしたすべてのことにオウエンは満足しなかった。彼が自分の労働者たちにつくってやった生活は、彼の目から見れば、まだとうてい人間にふさわしいものではなかった。「この人たちは、私の奴隷であった」。彼がこの人たちに与えた比較的によい状態も、性格と知力との全面的また合理的な発展をゆるすというのにはまだほど遠く、まして自由な生命活動の展開など、思いもよらないことであった。

「それでも、この二五〇〇人のうちの労働する部分は、まだ半世紀にもならない以前に六〇万人の人口がつくりだせたのと同じだけの現実の富を、社会のために生産した。私は自問した、──二五〇〇人が消費した富と、六〇万人が消費したはずの富との差額は、どうなったのか?」と。その答えは明白であった。この差額は、その企業の所有者たちに、投下資本の五%の利子と、そのうえなお三〇万ポンド・スターリング(六〇〇万マルク)以上の利得とをもたらすのに使われたのである。そして、ニュー・ラナークについて言えることは、なおのこと、イギリスのすべての工場について言えた。「もし機械のおかげでつくりだされたこの新しい富がなかったなら、ナポレオンを倒して社会の貴族的原理を維持するための戦争は、やりぬくことができなかったであろうに。それでも、この新しい威力は、労働する階級の創造物だったのである」。

だから、その果実もこの階級のものであった。新しい巨大な生産力は、これまでは個々人を富ませ大衆を隷似させることにしか役だたなかったが、オウエンにとっては、社会改革の基礎を提供するものであり、万人の共有財産としてもっぱら万人の共同の福祉のために働くことにきめられていたのである。

 こうした純実務的な仕方で、いわば商人的計算の果実として、オウエンの共産主義は生まれた。それは、実践的なものに向けられた同じ性格を一貫して保っている。

こうして、オウエンは、一八二三年、アイルランドの困窮を共産主義的集団居住地によって取り除くことを提案し、建設費・年経費・収益見込みについての完備した計算書をこれに添えた。

こうして、彼の最終的な将来計画のなかでは、細目の技術的な仕上げがたいへんな専門的知識で行なわれていたので、オウエンの社会改革の方法がひとたび容認されれば、細目の仕組みにたいしては、専門家の立場から見てさえ、ほとんど文句のつけようがないくらいであった。

 共産主義へのこの前進は、オウエンの生涯における転回点であった。ただの博愛主義者として行動していたあいだは、彼はただ富と喝采と名誉と名声とだけを得ていた。ヨーロッパで最も人気のある男であった。彼と同じ身分の者ばかりでなく、政治家も王侯も、彼の言うことに傾聴して賛成した。

しかし、彼がその共産主義理論をたずさえて現われると、局面は一変した。三つの大きな障碍(しょうがい)が、なによりも、社会改革へ通じる道を閉ざしているように彼には思われた。私的所有と宗教と現在の婚姻形態とがそれである。こうしたものを攻撃すればどういう目にあうかを、彼は承知していた。

すなわち、公式の社会からの総追放と、自分の社会的地位全体の喪失とである。しかし、彼は、それを意に介することなく、この三者を仮借なく攻撃した。そして、彼が予想したとおりのことが起こった。公式の社会から放逐され、新聞からは黙殺され、全財産をなげうって行なったアメリカでの共産主義の実験が失敗したために貧乏になったのである。

彼は、じかに労働者階級に声をかけ、そのなかでなお三〇年も活動し続けた。イギリスで労働者の利益のために行なわれたすべての社会運動・実現したすべての真の進歩は、〈オウエン〉という名前と結びついている。

彼は、たとえば、一八ー九年に、五年間の奮闘ののち、工場における女たちと子どもたちとの労働を制限する最初の法律を通過させた。たとえば、全イギリスの労働組合が合同して単一の大労働組合連合を結成した最初の大会の議長をつとめた。

たとえば、完全な共産主義的社会制度へ向かう過渡の措置として、一方では、協同組合(消費協同組合と生産協同組合と)を設立した。これは、それ以来、少なくとも、〈商人も工場主も非常に不必要な人間だ〉という実践的な証明を提供してきているのである。

他方では、労働市場を、すなわち、労働時間を単位とした労働紙幣を使って労働生産物を交換するための施設を、設立した。この施設は、どうしても失敗するほかはないものではあったが、ずっと後年のプルードンの交換銀行をそっくり先回りして実行したものであって、これと違っていたのはただ、それがすべての社会的害悪にたいする万能薬とされるのではなくて、はるかに徹底的な社会改造につながる第一歩にすぎないとされていた、という点だけである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p127-131)

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◎〈人間の性格は、一方では生まれつきの体質の、他方ではこの人間をその一生のあいだ・ことに発育期にとりまく状況の、産物である〉〈人びとをもっと人間にふさわしい状態へ移し、とりわけ、成長中の世代を注意ぶかく教育させる〉……。「この人たちは、私の奴隷であった」と。

二九歳の一工場主が改革者として──崇高なまでに子どもらしい単純な性格の男──まれに見る天成の人間指導者──。ロバート・オウエン