学習通信040606
◎「幻想と期待」に支配されていないだろうか。

■━━━━━

女性が元気になった 井上大臣が不適切発言

 井上喜一有事法制担当相は四日午前の記者会見で、長崎県佐世保市で小六女児が同級生に首を切られ死亡した事件について「まあ、元気な女性が多くなってきたということですかな。総じて、どこの社会もそうでないかな」と述べた。

 井上氏は加害者が女児だったことに関し「従来の考え方をある意味で多少覆すことじゃないか。男がむちゃしたのはあったかも分からないが、女の子はこういうのは初めてじゃないか」と指摘。その上で「最近は男、女の差がなくなってきたんだね」と述べた。

 細田博之官房長官はこの後の記者会見で、井上氏の発言について「真意が分からない。男性か女性かはあまり本質的な議論であるとは思わない」と述べ、不適切な発言だったとの認識を表明した。
(京都新聞 夕刊 040604)

■━━━━━

 結婚のはなしをするのに、離婚のはなしからはじめるのはおかしなはなしですが、最近、離婚がふえる傾向にあるので、まず、それから考えてみたいと思います。

 最近の離婚の特徴は、一年未満に別れる夫婦が非常に多いことです。同棲という事実婚を加えれば、もっと多くなるでしょう。アメリカは四組に一つ、日本は九組に一つのカプルが離婚するといわれています。アメリカは世界第一の離婚国ですが、一年未満となると日本の方が多いのです。家庭裁判所の調停傾向をみますと、女性側の申出が圧倒的に多いようです。現状では、離婚すれば、おおむね女性が損をするにもかかわらず、妻が家庭を捨てようとするのは、どうしてなのでしょうか。

 夫婦の幸福度測定の調査表──アメリカのターマン博士の方式を牛島義友氏が日本に適用したもの──をみますと、アメリカでは、妻の幸福度が下るときは夫も下り、妻が上るときは夫も上る。多少のでこぼこやすれちがいがあっても、この表の線グラフは一応同じような波をうって、上下しながら流れています。

 日本の夫婦は、結婚当初は妻の幸福度は非常に高いのに、まもなく下りはじめます。夫の幸福度はその反対に、結婚後上っていきます。線グラフであらわされたこの調査表の曲線は結婚二年目ごろに、妻と夫の幸福度の線が交差してしまいます。夫は上り妻は下るわけです。

 夫は「結婚って、いいものだな!」とぬくぬくと悦にいっているかたわらで、妻は結婚生活に失望し「結婚は人生の墓場なり」と暗い気持におちこんでいるのです。これでは、結婚一年前後の離婚が多くなるのも想像がつきます。

 では、どうしてこうも、日本の若い夫と妻の心はすれちがうのでしょうか。それは男女の育ち方のちがいから出発しているようです。

 男性は生れおちるとすぐから、人間としてではなく、「男」としての教育がはじめられます。男の子は強いもの、泣くんじゃないよ、心を大きくもって、小さなことにくよくよするな、「男のくせに、男のくせに」とはげまされたり、脅迫されたり、「作られた男」になることを強制されます。

 こうして育てられた男性は、悲しいときに泣くこともできず、苦しいときにつらいともいえない。小心よくよくとしながらも、いつも肩ひじ張って、いわゆる「男らしく」生きようとします。そういうポーズをとらないと「男らしく」ないといわれるからです。だから男性は「顔で笑って心で泣いて」という生き方をせざるをえないわけです。

 女性もまた、生れたときから人間としてではなく、「女」としての教育をされます。素直でやさしく忍耐強いことが、女性にとって何よりの美徳です。なまじっか勉強ができて、かしこかったりすると、生意気で男に従わず、夫を批判するようになっては、けっきょく、女の不幸、「男は度胸、女は愛きょう」といわれるように、男女は、ともに人間としてではなく、「作られた男」は指導者で、「作られた女」はそれについていくものとして育てられていきます。

 社会でも、家庭でも指導者であるべき男性というものは、あくまでも「すぐれたもの」でなければならないと、男性自身も女性も教えこまれます。その結果、女性は男性に大きな幻想と期待をもつようになります。

 男性は視野が広く、決断力があり、実行力、実践力にとみ、指導力あり、抱よう力あり、理解力あり、そのうえ力もちで心はやさしい、まるで桃太郎が、そのままおとなになったような男性がいる、と女性は幼いときから夢をもたされます。だから恋人や婚約者ができると、きまったように、「私のえらんだ人をみて下さい。この人に、だまってついていけば、わたしはしあわせ」とばかりに、眼前にあらわれ現実の男性を、夢にみた理想の男性と錯覚するわけです。

 男性は、といえば、女性をだますつもりではなく、小さいときから身についた「男らしく」あらねばならないという、この生き方を貫きとおそうとします。「男らしく、男らしく」と力んでいるうちに、女性から「ついていきます」「ひっぱって下さい」といわれたりすればまんざらではないだけでなく、まことにその力がおのれにあるかのように男性自身も錯覚します。

 このお互の錯覚が、結婚してから、裸の人間同志としての生活がはじまると、錯覚でなくなるところに、誤解が生じ、トラブルがおこるのです。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社-1972- p73-76)

■━━━━━

家庭における男女平等

 今年〔一九九四年〕は国連の定めた国際家族年である。さまざまな有意義な催しや出版物が見られるが、なかには福祉・医療・教育などに関して、「高齢化社会」論などのように、家族の自助努力を強調して、あたかも家族の重要性を言っているようだが、実は財政負担を減らそうという意図のうかがえる政府・財界筋の論調などには警戒を要するところである。

 国際家族年は国際婦人年から国際児童年とか国際障害者年、国際青年年などの締めくくりとしての意味をもつものであり、家族員個々人の人権を重んじるとか、家族内での男女平等推進という理念が中心となるべきものである。

 ところが日本の政府は、「人間の社会で家族ほど大事なものはありません」(内閣官房長官)というだけで、本気で家族の問題を考えているとは思えない対応の鈍さである。厚生省や労働省などが若干の取り組みをみせ、「子育てと就労の両立支援」などを言っているが、他方でその厚生省が公的保育制度の否定につながりかねない「改革」をやろうとしているのだから、家族の支援をまじめに考えているとは到底思われない。

 また「男女の家族的責任を有する労働者の機会均等及び均等待遇に関する条約」(ILO一五六号条約)の批准についても、取り組みは遅々たるもので、国内の関係する法令の検討をやっと始めたばかりである。このような日本の政府の対応の遅れと日本の社会の後進性について厳しい目を向けていかねばならないだろう。

 ところで今年は、男女同権を明確にした日本国憲法が施行されてから四十七年たったわけだが、社会全般においても家庭内においても、まだまだ真の男女同権にはほど遠いと言わねばならない。近年では女性の職場進出がすすみ、「男女雇用機会均等法」が出来たりしているが、まだまだ不十分と言わねばならない。

賃金差別は依然としてなくならず、職場における昇進昇格において女性は露骨に遅れさせられる現実がある。最近、住友系大企業の大阪本社で働く女性たちが国連に働きかけ、労働省に調停を申請し、また裁判を提起した行動がマスコミなどに取り上げられ大きな反響を呼び起こしているが、運動の前進を期待したい。

 同時に家庭内における男女平等、家事分担の平等などの面での立ち遅れにも強い関心を待つ必要があろう。

 家事を分担する夫はまだ少数派であり、家事・育児・病人看護、老人介護などの負担が妻に重くのしかかっている現状を改める必要があるのは言うまでもない。この問題についてさまざまな議論がなされているが、いくらかの混乱もあると思われる。

 まず第一に、男性の意識の変革が必要であるのは当然だが、男性の意識を変えるにはどうすればよいかが問題である。男性が女性を差別している、男が悪いという構え方ではうまくいかないだろうと思われる。現代の男性の多くは、少なくとも主観的には女性を差別しているとは思っていない。小学校以来、男女共学で育ち、優秀な女性の同級生を知っているから、女性は劣った存在だなどと思っている男性はまずいない。いるとしたらよっぽどの変わり者だといえよう。

 しかし女性が劣位に置かれているのは厳然たる事実である。したがって、この不平等を作り出しているのは、男性個々人の意識の問題であるよりは、根本的には社会の構造の問題であることを見抜く必要がありはしないか。

 そして第二には、そのような社会構造は偶然に出来たものではなく、歴史的に形成されたもので、歴史的根拠をもったものだという点が重要だと思われる。

 かつて平塚らいてふが「原始、女性は太陽であった」と言ったように、原始共同体のなかで女性たちは中心的な役割を果たしていた。それが階級社会にはいって、父系中心の家父長制社会となり、公的仕事は男性が担い、家事・育児などは私的な仕事とみなされて女性のものとされることになった。「女性の世界史的敗北」(エンゲルス)といわれる事態である。こうして女性は劣位に置かれるようになった。

男性は「妻子を養わねばならぬ」という義務感と一体化した形で、男性優位の意識を持たされる。

 資本主義社会になり、女性も家庭から出て労働者として働くことが多くなり、特に戦後の高度成長期以後は女性が賃労働に従事することは普通のことになった。しかし、それはパートなどの低賃金労働者として期待されているのであり、日本資本主義はこのような男女差別を維持し続けている。同時に男性の労働者は過労死がおこるほどの超過密労働を強いられており、家事を分担しようにも疲れ果てている実情である。

 このような社会の構造が男女不平等を生み出し、それを維持し続けている原因だと思われる。そうだとすれば過労死をなくする課題は、職場における女性差別をなくする課題と一つに結びついているし、それだけでなく、家事の平等な分担を実現する課題とも結びついているというべきであろう。

まさに女性の解放なしには男性の解放もありえない。女性の解放は男性とたたかうことによってすすむのではなく、すべての搾取と抑圧の根源である社会構造と、男女協力してたたかうことによって実現するというべきであろう。

 ただし日本の後進性を体現していて、「どこの女と寝ようとおれの勝手だ」と放言するような男性政治家などとは徹底的にたたかうしかないと思うのだが。
(鰺坂真著「現代哲学の課題」新日本出版社 p25-28)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「井上大臣が不適切発言」……「不平等を作り出しているのは、男性個々人の意識の問題であるよりは、根本的には社会」の問題である。大臣とはそういう位置にいる。