学習通信040608
◎新しく労働組合の書記長に就任した友人へ……

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──やはり、長期不況のせいでしょうか。

熊沢 日本ではこうした問題の原因がいつも「不況だから」 「政治が悪い」のどちらかにされてしまう。これは労使関係の問題であり、労働組合や労働者の生きざまの問題であるという意識そのものが衰退している。労働条件はひどいが、その改善の道筋として労使関係や労働組合が浮かばない。「景気をよくしろ」か「政府が何とかしろ」かではあまりにも情けない。私は経営者を非難するより、むしろ組合に言いたい。

 例えば、よく希望退職募集の最後に退職勧奨や退職強要でいじめが起きます。ひどい配転やまったく仕事をさせない事例から、隔離部屋に入れるケースまである。そういうことを全部「不況のせいだ」とか「政治が悪い」とか言うのは、いいかげん以外の何ものでもありません。労働組合がなっていない。私は小泉政策はすべてごまかしだと思いますが、彼のためにサービス残業が多くなったりいじめが起こったりしているわけじゃない。そんなのは労働組合の責任です。

──略──

──労働組合が「なっていない」のはなぜですか。

熊沢 今、日本の企業社会では、経営者の論理を内面化している正社員の一群がいます。精鋭会社人間です。能力主義、成果主義的な競争と選別を肯定している人たち。彼らを媒介にして企業別組合のリーダーが、経営者とだいたい共通の思想・文化を持つようになったことが一番大きい。経営者、精鋭、ユニオンリーダーの三者がだいたい共通の支配的な企業文化を形成し、企業内のオピニオンリーダーになっている。

ユニオンリーダーも、ノンエリートたちではなく、総じて精鋭の仲間なのです。事実、大手企業のユニオンリーダーはだいたい比較的若手のエリートから選抜されて、企業社会の中で、企業から労働組合に「出向」していると考えればよい。この出向は片道切符じゃなくて、戻ってくる。戻ってきて出世する。いま大企業のユニオンリーダーはいわゆる一流大学出です。

 この三者によって労使関係が決められる。彼らの考えは、一口で言えば、経営の危機には「ぱっとしない人」を排除するということです。だから、例えば、会社がリストラ計画を発表しても、組合がやるのは、退職割増金をいくらか積み増しさせる程度のことです。それが済めば、計画通りの削減を進める。あなたは能力や成果が劣っているから、会社には必要ない、と。

能力や成果において不十分な人は排除しても仕方がないとオピニオンリーダーの三者は合意しているので、何も起こらない。今では公共部門の職場でも事態はあまり変わらないでしょう。

上部機関ほど危機を意識

──組合が頼りにされなくなりますね。

熊沢 こうしたありようでは、労働組合はますます細っていく。労働組合を必要とする人は増えているのに、労働組合を必要と感じない人が組合を動かしているわけですから。労働運動は危機です。日本はすでに先進国の中でもきわだった組合運動の不毛地帯です。
(月刊:論座四月号 熊沢誠甲南大学経済学部教授インタビュー「情けないぞ! 労働組合」p218-221)

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 豊かさに夢中になった日本人

 それらの記憶を持つ日本人が、乞食王子の物語のように、突如としてこんどは未曾有の栄華と豊かさの中にいるのである。日本人の多くがモノとカネの豊かさに夢中になるのも、無理からぬことなのかもしれない。

 エコノミック・アニマルと言われたり、金をためることだけを人生や社会の唯一の目的にしている、と笑われたりしても、戦前の貧しさや戦争中の飢えを知る者にとっては、窮乏は恐怖である。そして、そんな経験を持つ祖父母や親に育てられたのが、現役の世代であるから、モノとカネにしがみつき、すべてを金銭で評価する時代精神から脱却することは、なおまだむずかしいのかもしれない。

 戦後四十年のあいだに、勤勉な国民性によって、よくぞここまで豊かになったことよ、と政治家も財界も自画自讃する。

 たしかに敗戦の廃墟から、生きることに向かって国民がたちあがったとき、国民の胸の中には「忠君愛国」の精神主義や「天皇の絶対的権威」にひっぱりまわされるのは、もうコリゴリ、という思いがあったにちがいない。命にとっては、哲学よりも、モノとカネが大事であることは、敗戦国民の、体験から生じた必然的合意であった。

 なぜなら精神主義による判断は、しばしば独善的な誤ちに向かって暴走するが、モノとカネをいくら作り出したか、という金銭的価値判断は、理屈ぬきに、誰の目にも合理的な客観性を持っているからである。そしてもちろん、貧しさにとって、モノとカネは、健康と幸せのための不可欠の条件でもあった。

 戦力の放棄、財閥の解体、農地改革、労働組合の合法化による経済の民主化が、経済の高成長の原動力になったことは、言うまでもない。そこでは、民主化と経済成長は、表裏の関係にあった。

 そしていまでは、「経済大国」という言葉をきかない日はないほどになった。しかし、カネとモノをひけらかして金持ちぶりを自慢しつづけるということの中に、じつはそれしか自慢するものがない社会の貧しさを、私たちは自覚せざるをえなくなっているのではないだろうか。日本人は、すべてを経済に特化するために、他のすべてを捨ててきたからである。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p5-7)

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見えない建設こそ行政の本旨

 日本国中が安保闘争に揺れた一九六〇(昭和三五)年の正月、蜷川は府民に、「『目に見えない建設』をすすめよう」とよびかけた。

「河川を改修し、砂防をやり、道路の改良を大いに進め、産業、経済、教育、民生、治安維持など、私たちの暮らしのために、いろいろの施設をし、『目に見える建設』も大いにやってゆかねばなりませんが、この建設の効果が本当に住民の方々に直接およぶようにするためには、経済、社会、文化の目に見えない人間の諸関係を調節し、また自治体をより一層に住民のものにするという、いわば『目に見えない建設』をしっかりやってゆかねばならないのです。これこそ『行政』の本旨であるといわねばならないのです。

 どうも世間ではこうした目に見えない建設を高く買わないようですが、年月が経てば、その地域社会の進歩と暮らしの増進によって明らかになってくるでありましょう。したがって村でも町でも、ただ目先きのことや目に見えるものだけにとらわれずに、いい自治体をつくることにみんなして協力し、努力したいものです。」(『年頭あいさつ集』)

 蜷川のいう「見える建設」「見えない建設」は、自民党議員から「言葉の魔術師」と恐れられただけあって、彼独得の巧みないいまわしであるが、その「建設」にかかる費用から分類すれば、投資的経費と消費的経費と表現することもできよう。

 蜷川が、「地方自治体は住民の暮らしを守る組織である」と規定し、そのために「地方住民が自主的に自分の暮らしを考える」、つまり自治意識を高めることの必要性をくりかえし述べてきたことは、すでに見たとおりだが、この二つの建設はそれぞれ別個に存在するのではなく、きわめて密接なつながりのあるものとして考えられている。

 自治意識の高揚は、住民の自覚だけによってできることではなく、労働の場を保障する施策とともに、住民の生活の場においては学校、労働セツルメント、体育館、資料館、図書館などという施設が不可欠であり、この二つの場を包むものとして、道路、交通、ダム、流通機構等の整備が必要となるわけであった。

 つまり、蜷川にとって、「見える建設」は「見えない建設」のにない手でなければならなかった。研究者のあいだで「民力培養型公共投資」(『戦後における京都府政の歩み』)と名づけられている蜷川の地方財政の運営は、やがて京都府民の中に、自治意識のつよさ、民主主義的自覚のつよさを、確実に育てていった。

 のちに数多くの革新自治体が生まれるが、どの首長も、住民の自治意識の高揚を追求する点で、蜷川の右に出ることはできなかった。
 それは、なぜだったのだろうか。

 「われわれのところに、立派な三六階のビルを建てたら、それはよく見えるけれども、われわれの精神のなかにほんとうに民主主義を植えつけるということは、もっとも大きな建設であります。それを進めないかぎり、地方の自治体はいつも三割自治≠ホかりでなく、自治意識の低い自治体として苦しまなければならない」ことを、

蜷川は学問としてだけでなく、一〇年にわたる自らの知事体験をとおして、誰よりも深く自覚していたからであった。
(細野武男・吉村康著「蜷川虎三の生涯」三省堂 p177-179)

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 敗戦は、日本の政治思想にも法意識にも、大転換をもたらした。その転換のもっとも大きなもの、基礎的なものは、国家が勤労大衆をそれとして承認したということである。

なるほど、戦時中は国民総動員、勤労報国などのキャッチフレーズでもって、軍閥・ファシズム政権は、国民を産業報国会に組織したのではあるが、それは、「国家即ち天皇」に滅私奉公すべき民草(たみぐさ)・臣下の組織であった。

働らかざる支配階級に対する国民の多数者である勤労大衆の存在を、ファシズム政権は、観念的に(それが実在しているのにかかわらず)否定して、東条大将も高級官僚や大会社の重役も、それぞれ職域奉公しているという教説によって、国民大衆を迷惑しごくな戦争にかりたて、搾取を強行した。勤労者が、独自の立場で集まることをおそれ、人民が集まればただちに「不穏(ふおん)分子」と疑い検挙した。

しかし、戦後は、極貧状態におかれていた勤労大衆の存在を誰しもみとめないわけにはゆかなかった。彼らこそが日本国民の実体であり、少数の戦争犯罪者や戦争協力者におさえられて戦争にかりたてられてはいたけれども、内心では平和を愛好していた人々であるという認識が、ものの考え方の基礎になったのである。

 このような平和愛好的な勤労大衆の本当の意思を反映した政治こそ、公共の福祉を実現し、平和主義を遂行する政治であり、それが民主的な正しい政治だという思想が、うたがいないものとして戦後の日本を支配した。

このような思想は、当然に、勤労大衆こそ、彼らの意思を社会に表明すべきであり、かかる表現の自由は根源的なものであって、国家はこの自由を尊重することによってはじめて、統治の正当性を主張できるのだという考え方をふくむものであった。勤労大衆の表現の自由は、もとより言論・出版の自由でなければならないし、また集会の自由、デモ行進の自由でもなければならない。

 かかる勤労大衆の表現活動は、いかに政府に対して批判的であり、政府の政策に反対を主張して行われるものであっても、そのような批判や反対の起りうることこそが、民主政治の基礎だとせられた。だから、勤労大衆が集会をひらき、結社を結び、示威行進をおこなうということは民主的社会ののぞましい常態なのであって、治安の問題と無縁のことでなければならなかった。

いかに多数の勤労者が集っても、治安に危険をおよぼす可能性という観点からながめるべきではなく、むしろ国民の多数者の意見というものをそこにみいだして、それを汲みとるように努力するのが、政治家のつとめと考えるべきであった。このように勤労大衆の集会や団体を治安政策の対象から排除したということは注目すべきである。

 メーデーは、だから、もはや警官の取締りの対象となるべきでなく、勤労大衆の意思が高い調子で表明せられる年一回の行事であり、政治家はメーデーのスローガンに耳をかたむけることによって、民の声をきくチャンスをもつことができる行事であった。それは民主政治の祭典なのであった。終戦後数年は、皇居前広場でメーデーの集会がもよおされた。

千代田の森の緑を背景に、赤旗の波にかこまれながら、われるような拍手をうけて、日本共産党の首領徳田球一氏が挨拶したところに、戦後日本を象徴するシーンをみることができた。革命政党に革命の必要をうったえる自由を承認することも、民主政治の要請であったのである。

 勤労大衆が集団的に意思を表現する自由をもつということが、政治の基本原理となったということが、戦後日本の民主主義を支える支柱であった。そしてかかる条件こそが、労働者の権利を保障する労働法制の存立条件にほかならない。

勤労大衆の中核たる労働者組織の存在とその社会的活動が、民主的社会において積極的な価値──社会正義・生存権・合理的秩序・公共の福祉──を実現するということの基本的な承認こそ、労働法の生命なのである。

労働法の改悪には労働組合は関心をよせるのは当然だが、労働法のなりたつ基礎を確保しておくことに、もっと注意をはらわなければならない。治安立法反対を強調すると、組合の政治的偏向のようにみられやすいが、労働運動が治安立法の対象となってしまえば労働法だって枯(こ)死させられてしまうのである。

治安立法から団結を守ることは、労働法の土台を確保し、労働者の権利を守るための第一義の道であることをみうしなってはならぬ。

労働者集団が治安立法のくさりから解放されるかぎりで、労働法はなりたつのである。
(沼田稲次郎著「運動のなかの労働法」労働旬報社 p4-7)

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◎「勤労大衆の中核たる労働者組織の存在とその社会的活動が、民主的社会において積極的な価値──を実現するということの基本的な承認こそ、労働法の生命なのである」と。

戦後の日本にとって労働組合が果たした役割の大きさ……そして現在も未来も……。