学習通信040609
◎「本を読まないとおしゃべりになる?」……。

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「自分のことば」で語るということ
 「日本語なるほど塾」司会NHKアナウンサー 山根基世

 十数年前、「働く女性向け」の番組を担当した時のことです。女性の社会進出が進み、大学卒業者の就職率をみると、女性の方が男性をほんの少しですが、上回った頃です。性差にとらわれない新しい女性の生き方を探ろうとする番組でした。しかし、番組制作のスタッフは男性が大半で、女性は一握り。

それは今の日本での仕事の仕方から言えば、決して特殊なことではなく、ごく普通のことです。ところがこれは女性の「生き方」を考える番組なのです。どうしてもお互いがそれぞれの、おおげさに言えば「人生観」をぶつけ合わざるをえませんでした。すると他の番組を作る時には気づかなかった男女の立場の違いが浮彫りになりました。「介護」「セクハラ」「夫婦別姓」……どのテーマを話し合っても、男性と女性とでは意見が対立することが多かったのです。

 極端な例を挙げれば「やっぱり本来女性は、仕事なんかしないで家庭を守るべきだよね」という意見の男性も中にはいました。私自身は、女性も仕事をするのが当たり前だと思い、そのように生きてきただけに、そんなことばを聞くと自分の生き方を否定されたような気分になり、つい感情的になったりもしました。しかし、世の中に自分とは全く異なる意見を持つ人がいるのは当然のことなのです。

 数において圧倒的に多い反対意見の人たちと、それでも一緒に、自分の納得できる良い番組を作っていくにはどうすればいいのか。私はこの時、いかに「ことば」が大切かを痛感しました。

 心を合わせて一緒に番組を作るには、相手を「説得」してねじふせるのではなく、相手にもなるほどと「納得」してもらわなければなりません。そのためには、相手の反対意見をきちんと受けとめ、その上で、自分は別の意見を持っていることを、決して感情的にならず、論理的に、しかも相手の心に届くことばで語らなければならないのだと、初めて気づいたのです。

そのためには、日頃から自分の中に、放送とは何か、番組とは何か、私たちは何を伝えるべきなのか、自分はどんな番組を目指しているのか……、そんなことを誰かからの借りもののことばでなく、体験から学んだ「自分のことば」として持っていなければならないのだとも思い知りました。

 だからといって、今、私にその力が備わっているわけではありません。自分のことばを築くのは一朝一タでできることではないのですから。この時ようやく私は「自分のことば」づくりのスタート地点に立ったと言えるのかもしれません。それは、私がもう四十歳を過ぎた頃のことでした。
(「NHK 日本語 なるほど塾」六月号 p2-3)

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 言葉が多い

 日本の言葉は誠に多い。他の国にくらべて多過ぎるようです。多くていいのは知恵とお金ぐらいなもの、言葉なんて、むしろ少い方がかえって文化の向上の面から考えても便利だし、言葉が多いのは国全体の統一がとれないということになるかも知れません。

 英語だって自分を指す言葉、相手を指す言葉は、それぞれ一つか二つ。 地方なまりといわれるものは、どこの国だってたくさんあるだろうけれど。

 日本では自分を指す言葉だけでも数限りなくあります。
「わたし・わたくし・ボク・オレ・ワシ・自分・ウチ」
 地方なまりをとりこんだのが、
「おら・おいどん・おい・うんどう・フテ」
 このごろ下火になったのに
「拙・拙者・わが輩・身共・わちき・わらわ」、大分前に下火になったのに「予・マロ」そして戦後に「朕」。

 拾ってみてもざっとこんな具合。その他にも、地方から都会へ出て来た人が残してゆくものが、がんこにかじりついたように生きていたり。

 東京、大阪を中心にある地方語だって完全な統一はなされていません。そんなことになっているのは、旧い社会制度だった封建社会のなごりが、そのまま現代社会に残されたもの。

 封建社会では庶民に対し笑い≠制約したばかりか、日常の言葉までも制約して階級制を作りだしたのです。

 この階級制度からぬけ出さない限り言葉もまた、そのままの状態を続けるでしょう。

 それが証拠には、武士階級から曲りなりにも資本主義の道へ足をふみ入れ、やがて国会が出来、国会議員が一応選出される形ということになると、「わが輩・拙者・身共」などが次第に姿をひそめる。それでも根強く「予・マロ」などというのは、自身がこの世を去るまで使われていたといいます。

 やがて、太平洋戦争が敗戦に終ると同時に、言葉の上だけでも「朕」も姿を消すことになったのです。

 それなのに、この国ではまだまだやっかいな言葉が生き残っています。正にこれこそ、言葉のオバケ。

 その言葉を聞いただけで、この相手はどんな位置の人か、つまりどんな階級に属する人種なのかが分る、そんな式の敬語という奴です。

「いらせられます」
「いらっしゃいます」
「おいでになります」
「おられます」
「います」
「在宅です」
「いる」
「おるぜ」
「いやがる」等々。

 これらの言葉は正に階級制から生れた言葉で、本当はもうとっくの昔になくなっていなければならない言葉のはずなのです。それが存在するということは、資本主義国の中での民主主義が最もおくれている国だと云っても、間違いではないでしょう。

 東京の山手族といって、わりに豊かな生活の出来る中産階級が住んでいました。今はその勢力は中央線や、世田ケ谷に移りましたが。

 それらの人々が使う言葉の中には江戸の昔の歯切れよい言葉が残されていて、なつかしいと思うのもあります。

「ごめんあそばせ」という言葉が、
「ごめんアッアセ」

となって話される、かくいう私だって、どうもいけません、やはりそれを聞くと、その歯切れのよさに、イカれてしまう。こうやって旧い考えにささえられて、日本語を混乱させたまま今日に至っています。
 私からしてそんなようでは、言葉を語る資格はありそうもないのですが。
 その他、「ザーマス」なんてのも生きている。これはつい近来の新造語の一つ。こんな言葉を勝手に、この人たちは作りあげて、そこいらに住んでいる、庶民とは違うんだという意識を強く打ち出して、高いところにいるつもり。

 日本の民主主義もまだまだ。

 このごろは下町といわれるところ、ここは庶民大衆の住むところのはずなのに、婦人会などで大勢の婦人が集まっているそんな場で、

「うちの主人などは」
なんて言葉が大いに話される。これは一体どうしたことなのでしょう。「主人」というからには、その婦人たちは家来であると宣言しているのです。そしてその集合で話される話の主題は、民主主義についてとか、男女同権についてとか。

 一方で主従の関係を存在させ、一方ではそれをこわすための動きをする。これでは全く目茶目茶でしょう。

 ここではっきり云えることは、どう一人一人がわめいてみても、一人一人がばらばらでは世の中は変らない、言葉もまた変らない。

 多くの婦人が本当に目覚めて統一して、この国の体制を変えない限り、本当の民主主義なぞ出来はしないし、言葉も決して変っては来ないものだといえます。

 人間がこの地球上に生れて、やがて言葉を造り出し、文字を生み出し、そして今、文明を創造する、その上に花咲く高度な文化。それらを動かし前に進めるその元は、やはり言葉なのだと思います。

 言葉をより美しく、より楽しくするために言葉を使って言葉の文明を、言葉の文化を花咲かせようではありませんか。
(大空ヒット著「笑いの話術」新日本出版社 p20-24)

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「わかりやすい」だけの日本語教育には、欠点がある

 現代の日本語教育は、「文章を読む」ということと、「わかりやすい文章を書く」ということに、あまりにも偏りすぎていると、私は思います。

 日本は、文書の国です。役所でも会社でも、「書類の不備」を理由に突っかえされてしまうことがいくらでもあります。昔の日本人にとって、教育とは、「ちゃんとした文章を書けるようになること」でした。国語の授業が「文章を読む」に偏っているのは、「ちゃんとした文章を書くためには、その参考になる文章を知っていなければならない」ということがあるからでしょう。

そして、文章というのは、昔は「むずかしいもの」と相場が決まっていました。「むずかしくなけりや文章じゃない」というへんな考え方が生まれて、その偏向は、第二次世界大戦以後の「民主化」の風潮の中ですこし見直されました。

見直されたのはいいのですが、極端から極端に走るという日本人の悪いくせがあらわれて、そのうちに、「文章というものはわかりやすいものほどいい」になってしまいました。その結果、今の現代国語の教科書は、「わかりやすい文章を書くためにわかりやすい文章を読む」のオンパレードです。

「わかりにくい文章」より「わかりやすい文章」がいいのはもちろんです。でも、そうなったとき問題になるのは、その文章を書いたり読んだりする、人間の中身≠ネのです。

 人間というのは、そんなに単純なものじゃありません。けっこう複雑なものです。その複雑な中身を持った人間が自分のことを書くんだとしたら、そうそういつも「わかりやすくかんたんに」というわけにはいきません。

複雑で、そんなにわかりやすくもない内容を書くんだったら、文章の方だってそれに合わせて、「複雑でわかりやすくない文章」になります。「わかりやすいもの」の方がいいにはきまっていますが、そうそうなんでもわかりやすくすることなんてできないのです。

 「かんたんな内容」を、「わかりにくく複雑で持って回った文章」にされたら困るでしょう。その代表的なのが、国会で政治家が読み上げる文章です。政治家たちは、話しているつもりで、じつは文章を読み上げているだけなのですが、あんなものはもっとわかりやすい表現にしてもらわないと困ります。

「わかりにくいだけで中身がない」では困るのです。十年ほど前の日本には、「言語明晰、意味不明瞭」と言われた総理大臣がいましたが、最悪の日本語とは、そういうものです。

 ところで、一番むずかしいのはなにかというと、「複雑な内容を持ったものをわかりやすく書く」ということです。これほどむずかしいことはありません。内容がわかりにくいものなら、その内容に引きずられて、文章の方だってわかりにくくなってしまいます。

そこを引きずられずに、「ウーン」とうなりながら、他人のために表現をわかりやすくする──文章を書くうえで一番むずかしいことはこれです。「複雑なことをかんたんにわかりやすく書く」というのは、文章を書くうえでの高等テクニックですが、「それができるようになるにはどうすればいいのか?」ということの答は一つです。「むずかしい内容≠こわがらず、″むずかしい内容を持った文章≠ノ慣れる」──これだけです。

 「消化のいいものばかり食べていたら、顎や歯や消化器の発達が遅れて、人間として問題の多い体になる」というのと同じです。古典をふくむ「むずかしい日本語」を国語教育の中から排除して、国語の授業がただ「わかりやすい」を中心にするだけだと、困ったことになるのです。

本を読まないとおしゃべりになる?

 日本に生まれて日本に育った日本人にとって、日本語をしゃべるのは当たり前のことです。読むことだって書くことだって、そうそうむずかしいことじゃありません。ある程度の漢字を知ってしまえば、「もう自分はこれ以上の日本語を習う必要なんかない」と思ってしまいます。「わかりやすい」だけの国語教育は、こういう人間たちに、平気で「もう知っているからいい」と言わせてしまうのですね。

 もう一つ、「今の人たちはあまり本を読まない」ということがあります。本を読まないからといって、そういう人たちが言葉を失って黙っているということはありません。しゃべりまくるテレビの影響もあって、本を読まない人たちは、逆におしゃべりになります。おしゃべりを当たり前にするようになってしまった人たちにとって、本に書いてある文章を読むというのは、かなりまだるっこしい行為なのです。

 「本を読む」というのは、「黙って本を読む」です。その間はおしゃべりを禁止されます。しかも、本を読みなれない人にとって、本を読むというのは、かなり時間がかかるものです。読んで、そのことを自分の頭で理解できるようになるまでにはかなりの時間がかかって、それがめんどくさい。

だから、「そんなの口で言えよ! 」という文句になってしまうのですが。ところでしかし、どうしてそういうことが起こるのかと言えば、それは、国語の時間に「話し言葉の勉強」をしないからです。

成長する人間に「話し方の勉強」は必要だ

 「日本語の乱れ」はよく言われます。この「日本語の乱れ」は、ほとんど「話し言葉の乱れ」です。ひどい日本語を使う人たちは、まず文章なんて書きません。「文章を書け」と言われたら、とても窮屈にかしこまってしまうのが常です。

「文章なんか書きたくないし、文章なんか関係ない」と思っている若い人たちが、自分たちの好き勝手にしゃべる言葉をそのまんま文章にしたら、おそらくはとんでもないものになりますが、なんでそうなるのかと言ったら、国語の時間に「日本語の話し方」を勉強しないからです。

日本語の教育は「読む」と「書く」だけで、「話し方」なんてものはありません。「基本になる話し方」を知らないんですから、話し言葉がいくら乱れたって不思議はありません。

 体に障害がなければ、「読み書きはできるけれども話すことはできない」ということは起こりません。人間の最初は「話す」です。ちゃんと話すことができていたら、その内容をちゃんと書くことだってできます。話はかんたんです。日本の国語教育が「読み書き専門」になっているのは、この前提を踏まえているからです。

小学校に入ってくる子供は、誰だって「しゃべる」ということはできるのですから。ところが、人間というものは、途中で何度も成長して、変わるのです。いつまでも同じではありません。「昨日までのこと」に、「今日」はもうあきている。人間は、いろんなことを経験して、複雑なことになれていく。

だから、おしゃべりだった子供も、いつの間にか寡黙になるし、黙ってばかりいた子も、いつの間にかおしゃべりになっていることがあります。この変化はなんで起こるのでしょう? それは、「話し方」に関係しているんですね。

 おしゃべりだった子供がしゃべらなくなるのは、彼や彼女が″複雑な内容″を抱えてしまったからです。「しゃべりたくないわけじゃないけど、どうしゃべったらいいかわからない」──それで寡黙になる。

おとなしかった子供がいつの間にかおしゃべりになるのは、その逆で、おとなしくしているうちに、「どうしゃべればいいか」という方法をマスターしてしまったからです。成長する人間にとって、「話し方」の勉強だって、やっぱりその時その時で必要なんです。

 「現代のおしゃべり」と「古典」というのは、全然関係ないと思っている人は多いと思います。ところが、そうではないのです。「おしゃべり」とか「話し言葉」なんかとはまったく関係なくて無縁だと思われてる「昔の古典」が、じつは、「現代の言葉」と大きな関係を待っているのです。そういうことを忘れてしまっているから、話し言葉の混乱だって起こる。そんなことだってあるのです。
(橋本治著「これで古典はよくわかる」ちくま文庫 p27-33)

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◎言葉は思想……「一人一人がばらばらでは世の中は変らない、言葉もまた変らない。」と。

学習通信040604 と重ねて深めよう。