学習通信040610
◎「より豊かに,より人間らしく生きていこうとする」……数学を学ぶ

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1 数学はどんな学問か

@数学の成り立ち

 数学は人類の長い歴史を通じて無数の人々の生活の中からつくり上げられてきました.その最初は多分ものの個数を数えることだったでしょう.1,2と数えたら,3以上はみな「たくさん」としてしまうような未開の時代から,小数や分数などを使いこなす時代まで,気が遠くなるような長い年月が必要でした.つづいて,暦をつくることや時間を測ること,距離や上地の面積を測ることなどの必要から新たな知識が積み重ねられたにちがいありません.

中世にはインド人によるといわれる「Oの発見(発明)」があり,さらには多分商人たちの仕事の必要からマイナスの数が考えだされました.中世の数学は方程式を解くことを中心に発達したといいます.こうして,数学は実生活の必要や社会の必要と直接的に結びついて発展してきました.

やがて大航海時代となり,大きな建造物をつくったり,遠く航海したりするためには,もっともっと高度の数学が求められるようになりました.

そして,17世紀から18世紀にかけてニュートン(イギリス)やライプニッツ(ドイツ),フェルマ(フランス)らによる微積分の創始以後,18世紀の産業革今期をへて生産技術の嵐のような発達の時代がやってきます.

 科学技術の発達のための課題に応えて数学も急速に発達していきますが,その間に「ふつうの市民の日常生活」とは離れてでも,どんどん発達していったことは否めない事実です.

そして,専門に研究されている数学はとりあえず目前の有用性は脇において,数学それ自体としての発展をするまでになっていきました.このような数学を純粋数学というとすれば,それに対する反省が応用数学とよばれた時期もあります.

20世紀も後半になってから,「純粋数学と応用数学」ではなく「数学は一つ」という声も起こり,「数理科学」ということが提唱されたりもしました.そして,今日では,数学は社会的につぎのような特徴をもつようになっています.

@それなしには社会生活の今日の水準を維持できないような,大きな役割を果たすようになっている.

Aあらゆる分野の仕事の中に入り込んで,誰でもがいつ数学を必要とするかわからないようになった.

B21世紀には地球規模の環境問題をはじめ,人類の生存にかかわるような多くの問題が発生している.人々が社会生活の中で適切な判断をし適切な生活行動を選びとっていくためには,かなり高いレベルの数学的な素養が必要になっている.

C専門家が研究する,有用性を直接の目的としてはいないような数学も,ある日突然意外な活用の場面を得たりすることがある.

A数学の特徴

 それでは,数学の学問的な特徴はどのようなものでしょうか.
 それは,抽象的であること,抽象的であることによってかえって広い適用範囲をもっていること,そしてどんなに抽象的に見えても現実世界の中にその根をもっていること,などです.

 数学は抽象的であることが,身近に感じられない大きな理由になっています.ところで,「抽象的」とはどういうことでしょうか?

 たとえば,サッカーの世界選手権大会の決勝戦で,PK合戦になっているとします.サッカーファンのあなたはキッカーやゴールキーパーのようすを一心に見つめていることでしょう.このとき,守備側の別の選手の左手などということには無関心でしょう.

そんなことは「見えていても見ない」のです.この「見えていても見ない」「ありのままに見るのではなく,関心あることだけを抜きだして注目する」ことが「抽象する」ということです.それは日常生活の中で,私たちが意識せずにやっていることです.

 数学が抽象的でむずかしいと受け取られるのは,数学での抽象が日常無意識にやっていることを「意識的に」「徹底的に」やろうとするからなのです.「意識的に」するには努力が必要です.「徹底的に」すれば,日常の常識や実感からはなれる場合も出てきます.

 たとえば「3」という数を考えます.この世界に現実にあるのは「3」そのものではなく,「3人の人」・「3個のリンゴ」・「3リットルの水」……などです.3という数はこれらのさまざまな対象から,人・リンゴ・水……などの具体性,そのものが人・リンゴ・水……であって,ほかのものではないということを示す「質」を捨てさって得られる概念です.数学ではこのように,対象の質的な側面を捨てて量的な側面だけに注目する,という抽象をします.

 また,野球のボールも地球もともに「球である」ととらえますが,野球のボールと地球では大きさも内実もまったくちがいます.しかし数学では「ともに球である」ととらえるのです.このように,対象の内容は捨てて型(形式)だけをとらえようとします.

 このような徹底した抽象のために,数学の主張はいったん現実そのものからは遠いものになるように見えます.その正しさは,すでに確かめられた数学的な事実から,「考えること」によって証明する以外には確かめられません.

証明は「“A”あるいは“Aということはない”の一方だけが成り立つ」「“A”が成り立ち,“AならばB”が成り立てば,“B”が成り立つ」などのいくつかの型(形式論理)に基づいて書き表されます.それで,しばしば数学は論理的であるなどといわれます.

 また,「異なった物事の中に同じ構造(仕組み)を見る」ということも数学の大きな特徴です.異なった物事の中にある共通した構造(仕組み)をそれとして抽象的に研究することによって,その結論はその構造をもつどんな具体的な世界にでも,すべて共通に成り立ちます.つまり,抽象的であることによってかえって広い適用範囲を得るのです.

 数学は抽象的であるということだけを強調してきましたが,数学を学び活用するには反対の側面が重要です.

 数学の内容はどんなに現実世界から遠く見えても,それは現実世界からの抽象です.根は現実世界の中にあるのです.だから,数学を学ぶときには,頭の中に具体的なモデルや実例を思い浮かべることができます.そして「今この計算をしているのは,このモノ・コトをこうすることなのだ」というように解釈することができ,あるいは「このモノ・コトをこうすることは,数学としてこのように表現できるはずだ」などと考えることもできるのです.

 よく「数学は答が一つだ」といわれます.「誰がやっても答が一つだからはっきりしていて好き」という人もいれば,「誰がやっても答が一つだなんて人間的でなくてきらい」という人もいます.しかし数学の一つの主張にも,どんなモデルや実例を思い浮かべて理解しているかによって,いろいろな顔や表情があるのです.

思い浮かべるモデルや実例がちがえば,つぎの展開も変わってきます.数学の内容の関連づけ方やつなげ方は,じつは相対的で自由なものなのです.何が定義で何か性質なのか,何が仮定で何が結論なのか,たえず入れ替わります.さまざまに立場を変えて述べることができます.

 この本では,数学の抽象性を念頭におきながら,それが現実世界からどのように抽象されてくるか,現実世界の中でどのように生きて働くものなのか,に光をあててみようと思います.以下の章を,そういうものとして読んでいただければ幸いです.

2 なぜ数学を学ぶのか

 なぜ数学を学ぶのでしょうか? 大きくいって,

@「有用である・役に立つ」から
A「文化を手にする楽しさやおもしろさ」が味わえるからではないでしょうか.

 数学嫌いの高校生たちがよく,「私の生活にスーガクなんていらないよ.十−×÷だけで十分.xやyだの方程式だの微積分だのって,私にはカンケイない」などといいます.同じ感想をもっている大人たちも多いことでしょう.

 そこでまず「有用である・役に立つ」ということについて考えてみましょう.有用さ,役立つことにもいろいろなレベルがあります.

 第一に,「日常生活に直接役立つ」ことがあるでしょう.数学の中にこういう部分があることは間違いありません.高校生たちが「十−×÷だけでいい」といっているのは,このことをさしているのでしょう.ですが,これには,かなりせまい範囲の数学で十分です.

 第二に,「仕事の上で役立つ」ということがあります.ここでは専門的に数学を活用する仕事をしている人々のことは一応別としましょう.今日では,もっと広い範囲の「仕事」の中に数学が入り込んできています.ですから,仕事について何年もたってから数学的な知識や考え方が必要になってとまどった人々も数多くいることでしょう.

この人々はHow to%Iな「勉強」をして,なんとかその場を乗りきってきた場合が多いのではないでしょうか.さらにまた,今後仕事の中の意外な場面で「数学」に出会う人も多いはずです.

 第三に,「社会的に役立つ」ということがあります.今日の社会は数学なしには維持できないということは間違いない事実です.私たちの生活を支えている諸科学の中に数学は深く入り込んでいて,あれこれの成果の中には数学なしにはあり得なかったものが無数にあります.ここで「役に立って」いるのはかなり高度な数学です.社会的にいえば「誰かが知らなくては困る」数学ではあるが,「私が知らなくてもいい」「すべての人が知らなくてもいい」ものでしょう.

 しかし,21世紀には地球規模の環境問題をはじめ,人類の生存にかか
わるような大きな問題が山積しています.そして,しばしば人々の日常の生活行動の一つ一つがそれらの問題に結びついています.そこで適切な判断をし適切な行動を選びとっていくためには,しっかりした科学的な素養が必要です.

そしてそれはかなり高度な数学を含むことでしょう.どんなレベルと内容の数学であるか,たとえば学校での数学教育の内容としてはまだ具体化されているわけではありませんが,「私が知らなくてもいい」ではすまない状況が生まれてきているのです.

 第四に,第三のこととつながりますが,数学を学ぶことはその人の生き方やものの考え方の傾向(世界観・自然観・社会観・人間観・人生観・……)に影響する,その上台の一部になる,ということがあります.

 二つ例をあげましょう.
 基本的人権の確立を含む近代民主主義は直接には18世紀末のフランス革命の産物ですが,フランス革命の思想的な準備としては,中世までの固定的な自然観を打破する自然科学の大きな発展がありました.その中で決定打ともいえる役割をはたしたのは,ダーウィン(イギリス)の進化学説とニュートン(イギリス)の運動力学でした.

そして,ニュートンカ学が微積分の創出と表裏一体であったことはよく知られています.微積分を中心とする近代の数学は,他の自然科学上のさまざまな成果とあいまって,近代民主主義思想の前提とも土台ともなっているのです.

 夏目漱石には有名な小説「坊ちゃん」があります.漱石にどんな意図があったのかわかりませんが,坊ちゃんの主人公は数学教師ですし名脇役の山嵐も数学の教師です.これに対して,仇役は赤シャツ・たぬき・野だいこを始めみな「文系」人間ばかりです.坊ちゃん・山嵐の「単純」で「頑固」な正義感の根本にあるのは,「白か黒かの中間を許さない二分法」に徹底してこだわる思考方法です.

ところで,「白か黒かの中間を許さない二分法」は排中律とよばれて,数学的な論理の中では欠くことのできない法則です.つまり,坊ちゃんも山嵐もこの意味では「数学の人格化」ともいえます.ところで,排中律は現実世界で「白は白,黒は黒」「正しいことは正しい,間違っていることは間違っている」と主張することにつながります.まったく数学的な素養がなかったならば,こういうこだわりには欠けるかあるいは不足した人格が育つのではないでしょうか?

 このように,さまざまな意味での「有用性」が数学を学ぶ目的と結びついていることは間違いありません

 しかし,なぜ数学を学ぶのかの答は,さまざまなレベルの有用性だけにあるのではありません.

 世の中には,スポーツや音楽を愛好する人々が数多くいます.その人々にとってのスポーツや音楽は心身のリフレッシュのために役立つという効用はあるでしょうが,そのためだけにしているわけではないでしょう.また,生活の糧を得るためにしているのでもありません.逆にかなりの出費をともない,ときにはある程度まで仕事を犠牲にしてでもスポーツや音楽に時間をさくというのは,「好きだから」「楽しいから」というのが最大の理由なのではないでしょうか? およそ文化というものはすべてそうしたものではないでしょうか?

 生活の糧のためではない,その限りではそれがなくても生きていくことはできる.しかしより豊かに,より人間らしく生きていこうとすると,文化的な欲求が生まれてくる.そこに成り立つ世界というものが,人間が生きていることの中にはあります.数学もまた,そのようなものの一つなのです.

 「好きだから」「楽しいから」「知的な好奇心をみたしてくれるから」ということもまた,数学を学ぶ大きな理由になるのです.

 今日の社会では,「……のため」に学ぶという功利的な目的があまりにも大きく,学ぶ楽しさやおもしろさ,知的好奇心の満足といったことは背景に退けられています.加えて「できる・できない」の評価,学校での点数による評価(値踏み)と順位づけが数学を学ぶ目的を大きくゆがめてしまっています.

 この本は功利主義的な考えからは一度自由になり,他者から点数や順位で評価されることなく,ゆっくりと自分の歩く速さで,数学を学びなおす手がかりになるようにと願ってつくられています.
(町田算数数学サークル・増島高敬・石井孝子編著「数学再挑戦」日本評論社 p8-13)

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 なるほど。われわれは、認識の全領域を古来周知の仕方に従って三つの大きな部門に分けることができる。

第一の部門は、生命のない自然を取り扱い多かれ少なかれ数学的に処理することのできる、すべての科学を包括する。

数学・天文学・力学・物理学・化学がそれである。非常に単純な事柄に大げさなことばをあてはめることがだれかさんをたのしませるなら、〈こうした科学の或る種の結論は、永遠の真理であり、究極の決定的真理である〉、と言ってもよろしい。

だからこそ、この諸科学は、精密科学とも名づけられてきたのである。しかし、まだけっしてすべての結論がそうではない。

変量が導入され、そして、その可変性の範囲が無限小と無限大とにまで拡張されるとともに、かつてあれほど道徳堅固であった数学は、堕罪を犯してしまった。数学は知恵のリンゴを味わった。

このリンゴは、数学にこの上なく巨大な成功の生涯を開いたが、また誤謬の生涯をも開いたのである。

すべて数学的なものの絶対的妥当性・くつがえすことのできない証明された確実性という処女状態は、永遠に失われた。論争の国が出現した。

こうして、われわれは、たいていの人たちが微分積分をしているところまでやってきたが、この人たちは、自分のしていることを理解しているからそうしているのではなく、これまでいつも正しい答えが得られたからというまったくの信仰にもとづいてそうしている、というありさまである。

天文学と力学とについては事情はもっと悪いし、物理学と化学とでは、みな、まるでミツバチの群れのまんなかにいるように、仮説にとりまかれている。

これはまたまったくやむをえないことでもあるのである。物理学では分子の運動を、化学では原子からの分子の形成を、それぞれ取り扱う。そして、もし光波の干渉ということがつくり話でなければ、われわれがいつかこうした興味ある事柄を自分の目で見るという見込みは、絶対にないのである。

〈究極の決定的真理〉は、この分野では、時とともにいちじるしくまれになっていく。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p126-127)

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 数学そのものは、変量を取り扱うようになると、弁証法の領域に足を踏み入れる。そして、特徴的なことに、一人の弁証法哲学者デカルトがこの進歩を数学に導き入れたのである。

変量の数学と不変量の数学との関係は、そもそも弁証法的な思考と形而上学的な思考との関係と同じである。

だからと言って、つぎのような事態がなくなるわけではない。

すなわち、大多数の数学者が弁証法をただ数学の領域でしか認めていないし、また、弁証法的な仕方で獲得された方法をいまなお昔ながらの制限された形而上学的な仕方で運用している人が、数学者のあいだにはかなり多いのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p174)

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◎「数学を学ぶことはその人の生き方やものの考え方の傾向(世界観・自然観・社会観・人間観・人生観・……)に影響する,その上台の一部になる」……

「弁証法的な仕方で獲得された方法をいまなお昔ながらの制限された形而上学的な仕方で運用している人が、数学者のあいだにはかなり多い」……。
「土台」になるのです。

◎「数学再挑戦」は私にとって待望の書です。読む進めていくと「一つ一つの数を量と結びつけて場面をつくって考えると、引き算の意味を深く理解することができます。」とある。「意味」がわかるのです。感動です。あなたにも推薦します。