学習通信040611
◎──偏見をもって見ることを、「色メガネをかけて見る」……と。

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 話の基本は「逆さメガネ」です。逆さメガネをかけると、視野の上下が逆転します。上下が逆転しても、しばらくそのまま訓練していくと、ほぼふつうに行動できるようになります。上下ではなくて、左右を逆転するメガネもあります。

 この特殊なメガネは、そもそも遊び道具ではなく、人間の知覚や認知を調べる実験道具なのです。そういうメガネをかけても、しばらく慣らせばふつうに動けるということは、人間の脳の適応力の大きさを示しています。

 とくに子どもにはそうした柔軟性があります。だから社会が逆さまになっていても、それなりに慣れてしまうのです。逆さまだって、ふつうに行動できるなら、それでもいいじゃないか、という考え方もあるでしょう。だから上下や左右が逆転しても、世の中はいちおう動くわけです。でも、社会が逆さまであったら、子どもはいつも逆さメガネをかけたような状態になっているのです。

 メガネをかけるというのは、うっとうしいものです。そんなものなしに、裸眼で世界がすなおに見えたら、そのほうがいい。なぜならメガネを買う必要も、メガネを手入れする必要もないからです。

 偏見をもって見ることを、「色メガネをかけて見る」と表現することがあります。現代社会の人は「色メガネ」どころか、「逆さメガネ」をかけてるんじゃないか。私はときどきそう思うのです。

 多数の意見だからとか、みんなと同じだからといって、それが当たり前だと思って見ているとしたら、そういう人たちは自分が逆さメガネをかけていることに気がついていないのかもしれません。

 逆さメガネをかけているのは、お前じゃないか。そういわれそうな気もします。どちらがどうかは、どちらが楽か、それで決まるといってもいいと思います。

 私はこの本に書いたように考えるほうが楽ですが、世間の人はそうは思わないかもしれません。世の中は多数決ですから、私もいちおうは多いほうに従ってきました。ただ、いまのままでは具合が悪いんじゃないの、と感じることは、世間の人より少し多かったかもしれません。

 私のように思っているのだけれど、多くの人が反対のことを考えているから、これまで意見がいいにくかったという人もあるかもしれません。この本が、そういう人のお役に立てば幸いです。
(養老孟司著「養老孟司の<逆さメガネ>」PHP新書 p4-6)

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人は世界を理解するために「理論」を必要とする

 社会の生の現実にふれて刺激を受けたあなたが、なぜ道を見失ったように感じるのでしょうか。それは、現実が表面的にみれば、複雑怪奇なもの、混沌としたものだからです。

あれも正論、これも正論?

 たとえば、産業廃棄物処理の現場に行ったとしましょう。そこで産業廃棄物処理の業者と環境を守る運動をしている人に話を聞きます。業者は産廃処理の必要性や環境保全の努力を話すでしょう。他方で環境を守る運動をしている人は、いかに産廃処理施設が危険かを話します。

また、工場見学に行ったとしましょう。工場長は、新鋭設備でいかに生産性があがったか、働く環境がいかに改善されたかを話すでしょう。それに対して現場の慟く人は、生産性向上のためにいかに仕事がきつくなったかを話す。

そこであなたはどうしますか? あれも正論、これも正論だとすれば、あなたは何をどうすればよいかを見いだすことができません。さらにどちらかの立場に立って問題を解決しようとしたとき、あなたは再び迷うでしょう。

現実が提起している諸問題を解決するには、その問題を引き起こし、その問題の解決を阻んでいる複雑な絡まり合った諸要素を解きほぐし、整理することが必要です。ところが、あなたはその複雑な現実に立ち向かうための道具を手にしていないのです。

 これがあなたの迷いの原因です。あなたは社会の生の現実が与える刺激を秩序づけ、整理する「認識の枠組み」を必要としているのです。ここではこの認識の枠組みのことを「理論」と呼びます。

 人間の認識の発達を研究する認知科学でも、人は一定の認識の枠組み、知識の体系をもったときに、よりよく世界を認識できるということがわかってきています。たとえば、言葉のコミュニヶ−ションを考えてみましょう。

あなたは、日本語の発音や語彙、文法的な枠組みなどの知識の体系を身につけているので、他の日本人が話す音声の刺激の束を解きほぐし、整理して、その意味を理解することができます。

あなたがポーランド人が話す音声の意味が理解できないのは、ポーランド語の発音や語彙、文法的な枠組みなどの知識の体系を身につけていないためです。あなたは、ポーランド人が話す音声の刺激の束を解きほぐし、整理する認識の枠組みをもっていないのです。だから、あなたがポーランドに留学しようと思うなら、ポーランド語の発音や語彙、文法的な枠組みなどを系統立てて学ばなければなりません。

 あなたが社会の現実からの刺激の束のなかで自分が何をどうしていけばよいかわからず、思い悩むとしたら、それはあなたがポーランド人が話す言葉を理解できないのと同じことです。あなたは、社会の現実の複雑怪奇な絡まり合いを解きほぐし、整理する「理論」をもっていないか、あるいは既存の「理論」で飽き足らなくなっているか、のどちらかです。ですから、あなたは社会に関する「理論」を系統立てて学ぶことが必要な地点に来ているのです。

「常識」と「理論」

 もう少しくわしく考えてみると、実はあなたはこれまでにも社会的な現実を認識するための「理論」をもっていたはずです。明文化されたもの、意識されたものではないかもしれませんが、あなたはこれまでの家族関係のなかで、あるいは仲間たちとの体験のなかで、あるいはあなたにかかわった大人との関係から、社会的現実を解きほぐし、認識するための「理論」を身につけてきたはずです。

それは、ふつうは「常識」と呼ばれているものです。「日常的な理論」といいかえても良いでしょう。

 しかしあなたの「常識」では、あなたが体験してきた社会の生の現実は解きほぐせなくなっているのではありませんか? たとえば、企業がもうけをあげる存在であることは「常識」です。

しかし、なぜ、どのようにして企業がもうけをあげるのかについて、あなたの「常識」は答えてくれますか? 答えてくれなければ、あるいはその答えに納得がいかなくなっていれば、あなたはこれまでの「常識」、あるいは「日常的な理論」に替わる、新しい、より「科学的な理論」を求めているのです。

それは、太陽が東から昇って西に沈むことを見て太陽が地球の周りを回っているという「常識」(天動説)を身につけていた人類が、より複雑な天体の運動を観察して、それをよりよく理解するために地球こそが太陽の周りを回っているのだという新しい「理論」(地動説)を必要としたのと同じことです。

 人間は社会を理解するための「理論」を歴史的に発展させてきました。あなたは、いよいよその成果を本格的に学ぶべき地点に立っているのです。
(和田寿博・河音琢郎・上瀧真生・麻生潤著「学びの一歩」新日本出版社 p146-149)

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 唯物論的な歴史観〔唯物史観〕は、つぎの命題から出発する。

それは、〈生産が、そして生産のつぎにはその生産物の交換が、すべての社会制度の基礎であり、歴史上に現われるどの社会においても、生産物の分配は、それとともに諸階級または諸身分への社会の区分は、なにがどのように生産されて生産物はどのように交換されるのか、これに応じて決まる〉、という命題である。

この見地からすれば、〈すべての社会的変化と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかに、永遠の真理と正義とについての人間の洞察がますます深まっていくということのうちに、これを探してはならず、生産および交換の様式の変化のうちに探さなければならない〉、ということになる。

〈その時代の哲学のうちにではなく経済のうちに探さなければならない〉、ということである。

〈現在の社会制度は非理性的で不正であり、道理が非理になり善行がわざわいになった〉〔「道理が」以下、ゲーテ『ファウスト』第一部、「書斎」の場でのメフィストーフェレスのせりふ〕という洞察がめざめてくるのは、〈生産方法と交換形態とのうちにひそかに変化が起こって、この変化に、以前の経済的諸条件に合わせてつくられた社会制度がもはや適合しなくなった〉、ということの一つの徴候にすぎない。

このことは、同時に、〈見つかった不都合を取り除くための手段も、やはり、変化した生産関係そのもののうちに−多かれ少なかれ発展したかたちで──存在しているに違いない〉、ということを意味する。

こうした手段は、けっして頭のなかから考えだしてはならず、頭を使って生産の眼前の物質的諸事実のなかに見つけなければならないのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p135-136)

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◎「頭を使って生産の眼前の物質的諸事実のなかに見つけなければならない」と。

◎「日常的な理論」に替わる、新しい、より「科学的な理論」……を労働学校で。