学習通信040613
◎「わからない、わからない」の連発……。

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 熊川哲也もそうだった

「納得」に至る道は、くどい道である。なんにも知らない男がセーターを編めるようになるためには、やたらの数の「なにを→どうして」が必要になる。そのプロセスのすべてを、「こうですよ」と図解して教えなければ、身体というものは納得してくれない。つまり、「わかる」へ至るために必要なことは、自分の中に存在して眠っている「わからない」を、すべて掘り起こす作業だということである。

 熊川哲也は、世界的に有名な超一流のバレエダンサーである。以前にたまたまテレビを見ていたら、彼の特集をやっていて、そこに子供時代の彼にバレエを教えていた先生が出て来た。北海道でバレエ教室を主宰する女の先生である。この彼女は、子供の頃の熊川哲也が、やたらと「わからない」を連発していたと証言していた。

新しいプロセスを彼に教えようとすると、まだ中学生の熊川哲也は、「そんなことできねーよ、先生」と言うのだそうである。口で新しいプロセスを教えられても、「できない、わかんない」を連発して、「じゃ、先生やってみてよ」と言うのだそうである。熊川哲也が「できない」と思うことを先生がやって見せると、首をかしげて、「わかんない」がまた始まるんだそうである。

 バレエダンサーとは、身体を動かすのが商売である。だから先生は、「カクカクシカジカのように身体を動かせ」と言う。しかし言われた方の少年熊川哲也には、その「カクカクシカジカ」がわからない。全体としてそのようになるであろう動きの一々に、自分の身体のパーツがどのように対応しうるかが、口で言われただけではわからないのだろう。

だから、実際に先生にやってもらう。目の前に出現した「新しい身体の動き」を見て、「なるほど、カクカクシカジカとはこのようなことか」と理解して、しかし、その動きを自分で再現するとなると、一々の具体的な動きがよくわからない。わからないのは、脳がその動きを概括的に「こうか」と認識しても、その認識が身体各部に対応したものになっていないからだろう。つまり、総論ではわかっても、各論では「わからない」のである。

 「各論」という身体パーツに十分な理解が及ぶまで、「わからない」は連発される。「各論」の一々を「どうやらこういうものか?」と理解して、そしてその後になって、「総論」としての再構築が始まる。「わからない、わからない」を連発していた少年熊川哲也は、身体各部の動きを「どうやらこういうものらしい」と理解すると、家に帰ってそのことを我が身に実現させるためのレッスンに一人で励んでいたのだという。

「前の日にわからない、わからない≠連発して、しかし少年熊川哲也は、翌日にはちゃんとできるようになっていた」と、彼の先生は往時を語っていた。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p102-103)

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 現在、日本は未曾有の構造不況に見舞われ、経済的に追い詰められている人が少なくありません。けれども、国民の大半が中流意識をもっていることからもわかるように、多くの人は物質的な豊かさを享受しながら暮らしています。食べることに汲々とする時代は遠く去り、今や、飽食の時代と言われ、いかに食べないかが問われるご時世になっています。都市のショーウィンドーには世界中の品々が溢れ、ストリートは多様な車で埋め尽くされています。

 もし人間の幸福が物質的な豊かさで量れるのであれば、現在の日本人はまぎれもなく幸福だと言わなければなりません。ところがどうでしょう。私は幸せだと言い切れる人が、今の日本にどれだけいるでしょう。少なくとも、私が長年、セラピーの現場で接してきた範囲では、心底から満足して暮らしている人の数は相対的にまれです。

 ほとんどの人は、何かが違う、どこか物足りない、こんなはずではなかった、なぜかいらいらする、これは本当に自分のしたいことではないといった疎外感を抱きながら暮らしているように思います。

 私はいわゆる団塊の世代ですが、若い頃を振り返ってみると、私自身、いつもある種の違和感に悩まされていたような気がします。

 何をする時にも、「こんなことをしていて、一体何になるんだ」という思いが、まるでよどんだ水溜まりに湧くボウフラのように、どこからともなく湧いてくるのです。友達に誘われて、水泳やスキーに行く時でさえそうでした。だから、何をしていても、心から楽しめたという記憶がほとんどありません。

自分が本当に求めていることは、今、やっていることや、今ある人間関係の中にではなく、今ではない未来のどこかにあるはずだという心性が、知らず知らずのうちに自分の中に培われてしまっていたのです。

 でも、人間とは都合の良いもので、自分の心の未熟さをうまくカムフラージュする考えを、他から借りてきて、ちゃっかり身につけたりするものです。つねに、「今、ここからの脱出願望」に追い立てられていた私は、社会からドロップ・アウトして、あてもなく放浪して歩くヒッピーのライフスタイルに共感し、自らもアメリカと日本を行き来するようになりました。そして、気がつくと、どこにも帰っていくところがなく、社会的な漂流者になって孤独にあえいでいる三十過ぎの自分がいました。

 本当の意味での自分を取り戻す旅がはじまったのはその頃からです。私が心理学やセラピーにかかわるようになったのも、元をただせば、「自分とは何者か」を掘り下げてみたかったからにほかなりません。

 長年、心理学を勉強していて思うのは、自分ほどわからない存在はないということです。にもかかわらず、わかったつもりで行動しなければならない。そこに、自分と取り組むことの難しさがあります。

 自分を生きるというのは、ある意味で、自動車の運転を習うのに似ています。運転の仕方を書いてある教本をいくら丸暗記しても、車を運転できるようにならないことは明白です。車を運転できるようになるには、実際に運転してみなければなりません。

 自分を生かすというのもそれと同じことで、実際に自分を運用することによって、人は自分にできることやできないことを学んでいきます。車と決定的に違うのは、自分というものが、計り知れない可能性をもっているということでしょう。

 自分を上手に運用し、もてる能力を十分に発揮して生きるのは、なかなか容易なことではありません。というのも、人はどうしても自分で自分を妨害するクセをもっているからです。何かに挑戦しようとする度に、どうせ成功しないだろうと思ってしまうクセ……何事も完璧でなければ無意味だと思ってしまうクセ……他人の評価を気にするあまり、演技することに終始してしまうクセ……。

 このような自己妨害のパターンから抜けだすには、まず、自分がどのような妨害パターンをもっているかを自覚しなければなりません。そのためには、日々の生活の中で、その時々に自分のしているごとや感じていることをリアルに自覚する目を養うことが必要です。言い換えれば自分自身を見つめる目を養うことが必要なのです。そのような目を養おうとするときに役立つのが、この講座で紹介しようとしているトランスパーソナル心理学です。
(NHKこころをよむ 菅靖彦著「自由に生きる創造的に生きる@」NHKシリーズ p5-7)

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穴のなかの人について

 深い穴のなかでくらしている人を想像してください。前後左右、見えるのは穴の壁だけです。上を仰げば穴の形をした空か見え、時たまそこを星や月や太陽や雲が横切るのが見えますが、空全体を視野におさめることはできません。穴のなかにとどまっているかぎり、自分をとりまく世界の姿と、そのなかでの自分の位置について、その人が正しい認識をもつことは不可能です。

 いまの社会のなかでの私たちの日常生活は、この穴のなかでの生活に似たところがあるように思えます。私たちが働き生活している場所は、今日の社会のごく一部分です。それは、全社会的な諸関係──政治的・経済的・文化的諸関係──の複雑な網の目のなかにくみこまれているのですが、その全体は私たちの日常生活の視野に直接入ってはこないのです。

 もちろん、時折穴の形をした空を星や月や太陽や雲が横切るように、新聞の第一面を賑わすような諸事件がいやでも私たちの目をとらえ、その背後にあるものを考えさせる、ということはあるのですが、それだけではその正体をつかむことは困難です。目に見えた当座はそれなりに真剣に考えるけれど、しばらくたってそれが視野から消えると──つまり新聞その他がとりあげなくなると──考えることをやめてしまう、というのがふつうです。

 私たちは穴を出て、まわりを見わたさなければなりません。学習とは、自分のせまい直接的経験の穴を出て、広い世界を見わたし、自分がおかれている位置、立場を知ることです。

 念のためつけ加えておきますが、「穴」とか「穴を出る」とかここでいっているのは、もちろん比喩的な意味です。世界をとびまわる商社マンになろう、という話ではありません。

 自分は外国に行く必要を感じないから、外国に行ったことはないし、行きたいとも思わない、と住井すゑさんが書いてらっしやいました。そして−

「私がこんな考え方を持つようになったのは一つきっかけがある。二十歳の頃に読み耽ったミレエの伝記で、それにはミレエ自身の言葉として次のように記されていた。

〈空は、われわれの視野の及ばぬところにまでひろがっている。
野は、大気に浴している。
たとえ狭い小さな土地であっても、眺望は無限の広さを暗示する。
地平線の小さな一角。それはそれでも地球の一角。
絵は、これらが感得できるようにえがかれるべきだ。〉

 私はここに、芸術家ミレエの哲学≠見た気がした。まこと、地平線の小さな一角も、それは地球の一角──。そのように、ここ牛久沼畔の一点も、また地球の一角−いや、地球そのものなのだ。」(牛久沼のほとり、暮らしの手帖社)

 ミレエの哲学、住井すゑさんの哲学をおたがいの哲学ともしたい、と思います。
(高田求著「哲学最入門」学習の友社 p14-15)

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◎「複雑な網の目のなかにくみこまれているのですが、その全体は私たちの日常生活の視野に直接人ってはこない」と。

学ばなければ見えない……。