学習通信040614
◎「現代の社会主義は……労働者階級の頭のなかでの、それの観念的反映、にほかならない。」と。

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 19世紀後半,資本主義の発展とともに,貧富の格差などさまざまな社会問題が生じてきた。このため20世紀に入ると,国家はできるだけ国民生活に介入せずに国民の自由な活動に任せる,という従来の国家観を修正せざるをえなくなった。そして,国家が積極的に国民生活に介入し,国民の実質的な自由と平等を確保しようとする福祉国家の考えをとるようになったのである。

 また人類は20世紀には,社会主義国家とファシズムという二つの全体主義を経験した。これは一部の権力者が国民生活全般を統制する体制で,国民の自由と権利は著しく制限された。

ファシズムは,20世紀のなかばに国民の支持を失って失脚したが,社会主義はその後も世界に広がった。しかし,社会主義国家の中にはあいつぐ粛正・虐殺や戦争,経済政策の失敗による貧困などによって多くの犠牲者を生んだものもあり,一部を除いて20世紀の終わりには歴史の舞台から退場した。
(市販本 「新しい公民教科書」扶桑社 p54)

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 特定の人間に財力や権力が集中するのを防ぎ、平等な立場と私有財産の否定を主張するのを社会主義と広く規定すれば、すでに、ギリシアのプラトン以来、存在したといえるのである。近代の資本制段階になると、富の偏在はますますひろがっていった。

フラソス革命期に活躍したバブーフやブオナロッティの思想も、私有財産制の否定に基礎をおいていた。産業革命はその格差を急速に拡大し、新しい社会問題を投げかけてきた。資本主義に対する概念用語として、社会主義が使われるようになるのは、この前提が必要である。

 これに応じて生まれたのが、オーウェン、サン・シモン、フーリエ、ヴァイトリンクらによる空想的社会主義である。彼らの一人ずつについてみればかなり相違があるが、総括していうならば、啓蒙主義の系譜をひき、人間の平等を基本に考え、現実の不平等を、私有財産制に起源するとしている。彼らは、資本主義を超越して、私有財産を憎み、ときには貨幣の存在が悪の根源であると推理した。

この考え方によれば、人類は、人間らしい生活をはじめたときから原罪を背負っていることになる──もっとも、彼らは、古い人間社会は共有制で、私有財産制は存在しなかった、と証明するため、空しい努力をはらったのであるが──。

身分も権力も、場合によっては人間形成までも、すべて私有財産から派生するとして、現実の社会を否定したが、人間の所有欲という本能を否定しなければならないので、根本的な解決は不可能である。そのため、多く所有し、富める者は、少なく所有し、貧しき者に、財産を分け与えるのを説いた。

この思想は私有財産制の否定ではなく、それを肯定したうえでの、分配の平等であるにすぎず、自己矛盾であり、いわば、財産所有者であるブルジョアの恩恵的行為にすがるものであり、プロレタリアの論理ではなく、根本的解決とはならない。エンゲルスが彼らを「空想的」とよんだのは、このためである。

 マルクスの学問的成果は、へーゲルの弁証法を唯物的に逆立ちさせた、『ドイツ・イデオロギー』を頂点とする唯物弁証法の確立という哲学面と、現実の社会を対象とし、『資本論』に集約された経済学に大別されるが、もう一つ、現実の社会活動を通じてなされる、革命家の一面──この面では、必ずしも、すぐれた活動家ではない──をもっていた。エンゲルスはマルクスを助け、生活の援助、遺稿の出版まで行なっている。

 マルクスらは、空想的社会主義者と異なり、普遍的な私有財産制ではなく、具体的な資本主義の仕組みに注目した。彼によれば、資本主義は生産過程における余剰生産、すなわち、労働者は自己の労働力を商品化して、資本家に売り、それによって得る賃金以上の生産によって、資本家的利潤を生みだしていることになる。

したがって、資本主義社会では、いくら分配を平等にしても、不平等がつぎからつぎへと生産されてくる。これを打破するには、資本主義社会をくつがえす以外にはないが、そのためには、すべての労働者が結束して、資本家に対決しなければならない。労働者の組織である共産党の必要は、このように説明されるのである。

 一九世紀に入って、産業革命が進むと、多数の労働者を生みだし、それが都市に集中されてくる。階級意識を準備した労働者が組織される前提条件は歴史的に整えられていたのであり、「万国の労働者よ! 団結せよ」とよびかけた共産党宣言が、産業革命がほぼ軌道にのった一八四八年に発せられ、諸革命に果たした労働者のもつ意義が重大になったのも、決して偶然ではない。マルクスの共産主義は、空想的社会主義者が考えた、財産の共有から、生産の共有に変わっていた。

 もちろん、一八四八年当時の共産党の勢力を過大評価することは誤りである。それはまだ、ほんのひとにぎりの者の集まりでしかなかった。けれども、今日からみたとき、その意義は極めて大きかったというべきである。
(衣笠・田村・中村・廣実概説 西洋史」東京創元社 p362-364)

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 では、この見地からすると、現代の社会主義はどういう状況にあるか?

 現存の社会制度は──いまではかなり一般的に認められていることであるが──こんにち支配している階級すなわちブルジョアジーがつくりだした。ブルジョアジーに特有の生産様式──マルクス以来、〈資本主義的生産様式〉という名をつけられている──は、封建制度の地方的また身分的な諸特権とも、人びと相互の人身的なきずなとも、あい容れなかった。

ブルジョアジーは、封建制度を打ち砕き、その廃墟の上に、ブルジョア的な社会体制を、自由競争・居住移転の自由・商品所有者たちの同権およびその他すべてのブルジョア的なすばらしいことどもの行なわれる国を、つくりだした。資本主義的生産様式は、いま自由に展開できるようになった。

ブルジョアジーの指揮のもとでつくりだされた生産力は、蒸気〔カ〕と新しい作業機とが古いマニュフアクチュアを大工業に変えてからは、これまでになかった速さで、また、これまでになかった規模で、発展していった。

しかし、かつてマニュファクチュアとその影響のもとでいっそうの発展をとげた手工業とが、ツンフトの封建的な枷(かせ)と衝突するようになったのと同様に、大工業も、いっそう全面的な発展をとげるにつれて、自分がそのなかに押し込められている資本主義的生産様式の枠と衝突するようになる。

新しい生産力は、それのブルジョア的利用形態ではもう手に負えなくなったのである。そして、生産力と生産様式とのこの衝突は、たとえば〈人間の原罪と神の正義との衝突〉といったような、人間の頭のなかに生まれた衝突ではなくて、諸事実のなかに、客観的に、われわれの外に、この衝突を引き起こした当の人びと自身の意志や行為とは独立に、存在しているのである。

現代の社会主義は、事実としてあるこの衝突の思想的反射、まず第一に、この衝突のもとでじかに苦しんでいる階級すなわち労働者階級の頭のなかでの、それの観念的反映、にほかならない。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p136-137)

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◎社会主義をどう語る。 「新しい公民教科書」は「つくる会」の「公民版」です。社会主義をねじ曲げファシズム≠ニ同列において、子ども達に教えようというのです。

◎民主的活動家=同じ事をしゃべる……と思い込んで、労働学校もいっしょだ、と批評する人がいるが、何を根拠にしているのか聞きたいものだ。労働学校は学ぶところだが。「批評する人」が、どれだけ科学的社会主義に精通しているというのか? 又聞きの焼き直し……では話にならない。