学習通信040615
◎雄々しさと、女々しさ……

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親に何ができるのか
前思春期の危うい女心

 女の子の非行が、「男の子化」している。日本女子大学の清永賢二教授の、こんな調査結果がある。清永さんは元科学警察研究所研究官で、非行の研究者だ。

 全国9都市の中学2年生約900人に、非行の体験度を聞いた。1987年と2001年の2回、調査対象の学校を固定して「定点観測」で比べた調査だ。女子だけ取り出すと、「友達を殴ったことがある」が、01年は23・5%。「けんかでけがをさせた」は、同じく8・6%。ともに、87年の倍である。

 「先生を殴ったことがある」(2・9%)は87年の7倍強。「脅かして金品を取り上げる」(31%)に至っては、10倍強も伸びた。

 割合そのものは男子に遠く及ばない。例えば友達を殴ったことがある男子は6割もいる。が、女子の粗暴化の著しさは否定できない。

嫉妬を言葉で晴らす
 もちろん、「殴る」ことと「殺す」ことの間には相当の距離がある。清水教授も、長崎県佐世保市の小学校で6年生の女の子が同級生の御手洗怜美さん(12)を殺害した事件の原因分析については、

 「そもそも14歳以下の少女の事件としては、前例がありません」
 と慎重だ。糸口になりそうなのは、ネットのチャットで、「容姿」などについて、悪口を書かれたとされる点だ。

 「プチ化粧をした原宿の子たちが好例ですが、前思春期は他人の視線が気になり始めます。おまけに、身ぶり手ぶりや表情のないネット上の文字の会話は、先鋭化しやすい。受けるダメージも大きくなります」(清水教授)

 大分県の中学校養護教諭、山田靴さんは数年前、卒業生2人から「学校のネット掲示板で悪口を書かれた」と悩みを打ち明けられた。2人ともしっかりしていて、割に正義感が強い、目立つ子だった。

 「女の子のトラブルの多くは嫉妬がもとになる。男の子より言葉が豊かなので、言葉による復讐に走りやすい」

 山田教諭は「いのちの授業」で「電話よりメールの方が楽しい」という子どもたちに理由を尋ねた。
 「顔が見えないから、安心。気を使わなくていい」
 と、子どもたちは答えた。

 ただ、小学生も普通に携帯電話やパソコンを使いこなす時代、というのはやや大げさだ。千葉県都市部にある小学校の教諭が6年生に聞くと、携帯電話でさえ40人弱の学級で5人しか持っていなかった。

 「まして、ホームページを持つ子やチャットを楽しむ子は稀です。ごく一部の子が深くはまっているという印象です」
 と、この教諭は言う。

 小6を担任する京都市の久保齊教諭(54)は指摘する。
 「チャットをやる子は学級で2、3人。子どもは秘密を持ちたいから教師や親には言いません。パソコン教育と言うけれども、親や教師に気づかれない世界を、お金を出して与えているのです。一方で、
 『子どもはみんなで、地域で育てる』と言う。矛盾しています」
 過去に荒れた学級を立て直した経験から、久保教諭が感じたことがある。

 「学級が荒れ出すと、女の子同士が手をつないで歩くようになる」
 この子に裏切られたら、生きてゆけない。そんな心理を示す「リトマス試験紙」になるという。

内面には介入しない
 一昨年春のクラス替えの日には、「友達とクラスが分かれた。無視される。もう学校に行けない」

 と、女子児童が泣きながら電話をかけてきた。高学年の女子は、友達に無視されることに、何より恐怖を覚える。

 「教室という公の場に、私的な感情を持ち込んではいけない」
 と、久保教諭は教室で教えている。班分けは必ずくじ引きだ。
 各地の教委は、「刃物の管理徹底」などと、またしても対症療法的な通達を現場に流し始めた。だが、「現場」を知る人たちは、別の考えだ。

 「子どもの様子を把握した上で、内面には介入しない」(久保教諭)「『いじめはいけない』と言葉だけで教え込むいじめ解消策が、子どもたちをチャットの世界に逃げ込ませた。子どもは悪いことも経験しながら大人になる。思い切って子どもの『自由』に任せることが必要かもしれない」(清永教授) 編集部 各務滋
(アエラ04614 NO.26 p25)

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「おおしさ」と「めめしさ」

どちらが高等か?

 「やっぱり女性は男性よりおとるということになるのかなあ」とA君がいった。「だって、おおしさといえば美徳だけど、めめしさは美徳じゃないもんな」

 「そうそう、それに力だって男のほうが強いし、脳だって男のほうが大きいというじゃないか」とB君がのりだしてきた。
 それはたしかにそうだ。日本人の脳の重さは、成人男性で平均一三五〇〜一四〇〇グラム、女性で一二〇〇〜一二五〇グラム。男のほうが一五〇グラムほど重い。

 「だけど、そんなこというなら、ゾウのほうが人間よりも力だって強いし、脳も重いんじゃないの?」とC子が反論した。

 これもたしかにそのとおりだ。ゾウの脳の重さは四〇〇〇グラム、マッコウクジラにいたっては九二〇〇グラムもある。だが、体重全体もうんと重いわけで、脳の重さを一とすれば、マッコウクジラの体重は一四〇〇、ゾウは五六〇となる。人間の脳は、マッコウクジラやゾウの脳よりずっと軽いけれども、体重との比率でいえば、反対にきわめて重い。そして、やはり体重との比率でいえば、女性の脳の方が男性の脳よりも少々重い勘定になる。

 「そら、ごらんなさい。女のほうが男よりも高等なのよ」とC子がいった。
 が、そういうことでいうならば、ネズミやテナガザルのほうが、体重にたいする脳の相対的な重さは人間よりも大だから、ネズミやテナガザルのほうが人間よりも高等だということになる。B君の意見もC子の意見も、どちらも残念ながら根拠のある意見とはいえないようだ。

性の区別とは……

 そこで「そもそも性の区別とはなにか」という話になった。
 「それなら、おもしろい話があるよ」と、今度は私がのりだした。
 じつは、『男と女・はじめはじめ物語』(本田睨、ユニコン出版)という子どもむけの科学の本を読んだばかりだったのだ。そこには、性についてのおもしろい話がいっぱいのっていた。

 たとえば「アリマキは、メスだけでも子どもが生める」「ギンブナのなかにも、オスなしで子どもを生めるものがあり、生まれた子どもは全部メスになる」「アンコウのオスは、メスにくらべてたいへん小さく、メスのからだにすいついてくらす」「コビトカバのあかちゃんは、メスのほうがおおく生まれ、しかもそだつとき、オスのほうが死にやすい」等々。
 「ウフフ……」とC子が笑い、B君が口をとがらせた。

 もっとおもしろい話。ソードテールという魚は、若いころは全部メスで、年をとると全部オスになる。キュウセンという魚もそうで、その若いときをアカベラといい、これは全部メスだが、年をとるとアオベラになり、これは全部オスだそうだ。

 つまり、これらの場合には「オスはメスのなれのはて」ということになる。それから、さらにおもしろいのはカキガイの場合で、「カキガイは、えいようがたっぷりあるとメスになり、えいようがたりないとオスになるといわれている」とある。
 「アッハハハ……」とC子がB君のほうを見て、男の子のような声をたてて笑った。

 ところがクロダイは若いときは全部オスで、年をとるとメスにかわるのだそうだ。ホッカイエビやトヤマエビ、ボタンエビなどもそうだという。ここでは「メスはオスのなれのはて」ということになる。
 「エヘヘ……」と今度はB君が、C子のほうをチラッと見た。

女神のおたけび

 話がこみいってきた。ここらでひきかえそう。私が知ってることも、ここどまりだし。

 ただいえることは、性のありかたは生物の種によって千差万別だということ、だから、どちらの性が優位にたつものかということを一般論として議論してみてもはじまらないということだ。それにアンコウの場合などとちがって、人間の場合には、男も女もからだのかっこうに大きなちがいはないし、またなによりも人間は、たんなる生物的存在ではない。

 「そうよ、だから、おおしさ、めめしさなんて社会的につくられた差別用語よ」とC子がいった。
 そうかもしれないな、と思って、念のために『岩波古語辞典』をひらいてみた。すると「ををし〔男男し・雄雄し〕いかにも男らしい。男性的である・しっかりしている」とあり、「めめし〔女女し〕《おおく男について形容する語》まるで女のようだ。未練がましい」とあった。

 なるほど、と思った。「おおしい」も「めめしい」も、ともにこれは、がんらい男についてのことばなのだ。そのかぎり、これは男中心の社会で発生したことばなのだろう。が、それにしても「めめしい」とは、男が男らしくないときにいうことばで、女が女らしくあるときのことをいうのではないということ、これはなかなか意味深いことではあるまいか。

 とすれば、男が男らしくあるときのようなりっぱさを女が示すとき、「おおしい」ということばは女についてもいわれることがあるのではないか、と考えて、ふと思いあたった。ある、ある。『古事記』のなかにでてくるアマテラスとスサノオとの対決のくだりだ。

 女神アマテラスは弟スサノオの来襲のしらせをきいて、全身武装して弓ふりかざし、地を踏んでうってでる。その力に堅い大地も裂けて股までめりこみ、土を沫雪(あわゆき)のように蹴ちらして、おたけびいかめしく、スサノオをまちうけた、とある。「をたけび──雄々しさを誇示すること」とは古語辞典の説明だ。

 ついでながら、この対決ではスサノオが勝つ。その理由がおもしろい。アマテラスの詰問にたいしてスサノオは、「自分はきたない心をもってやってきたのではない」という。そして、証明のためにスサノオがさしだした刀を、アマテラスが三つにへし折って、バリバリとかんで吹きすてると、その息吹きのなかから三柱の女神が生まれる。

 今度はアマテラスの髪にまいた玉かざりの玉をスサノオがかみくだいて吹きすてると、五柱の男神が生まれる。「私のもちものから生まれたのだから、男神たちは私の子。お前のもちものから生まれたのだから、女神たちはお前の子」とアマテラスはいう。そこでスサノオは、「私の心がきよらかだから、私にはしなやかな女が生まれた。私の勝ちだ」と叫ぶのだ。どっちがどっちを生んだのか、こんぐらかってきそうな話だが、それはともかく、女が生まれたことが心の清らかさの証拠、というのがおもしろい。そしてそれを男がいったとされているところが。

男はやさしく

 「じゃあ、女はおおしく、ということになるのかなあ」とA君がいった。 「でもそれは、男っぽく、ということじゃないよね」とB君がいった。 「安心してよ。私はじゅうぶん女っぽいもの。だけどめめしくなんかないわ」とC子がいった。

 「それにしても」とまたA君がいった。「男はおおしく、女もおおしく、というのでいいのかなあ。それじゃ、なんとなくつまらないみたいだけど」「男にとってのおおしさのなかみが問題なんだと思うわ」とC子がいった。

 そこで「男にとってのおおしさのなかみ」に話が集中した。「いかにも男らしい男」の典型として、みんなが期せずして一致したのは寅さんだった。そして、その寅さんの「男らしさ」「おおしさ」の中心にあるものが、本質的なやさしさだということも一致した。

 「男はやさしく、女はおおしく、ということね。そういえば、田中美智子さんも、たしかそんなことをいっていたわ」
 そうだった。ロング・セラーをつづけている『未婚のあなたに』(学習の友社)のなかで「男はやさしさ、女は度胸」と田中さんは書いている。

 「田中美智子さんて、私、大好き」とC子がいった。「女らしくって、しかもおおしいもの」
 男性陣も、この評価には完全に一致した。そして、おたがい、おおいにやさしくあろうということになった。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p53-58)

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◎「「男らしさ」「おおしさ」の中心にあるものが、本質的なやさしさだ」と。

本質的やさしさ……。深めて下さい。